滋賀県栗東市の史跡を訪ねる
1.日時 2016年(平成28年)4月23日(土)
2.ルート
JR手原駅前10時40分頃出発
JR手原駅→(手原遺跡・旧東海道交差部)
→椿山古墳→総合運動公園(昼食)
→地山古墳→岡遺跡(栗太郡衙跡)→下戸山古墳
→小槻大社・小槻大社古墳群→和田古墳群(*)
→JR手原駅16時半ころ解散
3.費用
会員は100円、会員外は600円。交通費は各自ご負担
見学ルート
見学記『つどい』341号記事は最後に掲載しています。
手原駅は東海道線草津駅起点の草津線にあります。幸い、東海道線の栗東駅に行ってしまった人はいませんでした。たぶん、いなかったと思います。
栗東市役所の南にある椿山古墳です。全長98m、5世紀初頭の築造だということです。この墳丘の頂上で、椿山古墳に加え消滅した大塚越古墳、新開1,2号、狐塚3号墳の解説をしていただきました。斜面の上で数十分間話を聞いているとさすがに疲れました。別のところでお願いすればよかったと反省しています。 総合運動公園で昼食をとりました。天気が良すぎて、日影を探すのに苦労しました。公園の出口に狐塚遺跡の碑が立っています。遺跡の範囲は結構広いようです。 運動公園を出て北に向かうと、手原稲荷と草津宿の間の旧東海道に突き当たります。左上の写真がシーボルトがおとずれた善性寺ぜんしょうじです。ここの住職と植物学の話をしたそうです。 まっすぐ行くと天井川となっている金勝川のものすごく高い堤防に突き当たります。 中世以前はまっすぐ栗太郡衙のほうに向かっていたのではないかと思います。江戸時代からは金勝川(こんぜがわ)の高い堤防に沿って、街道が湾曲しています。写真では風情があるように見えますが、実際は交通量が多く歩くには注意が必要です。 先ほどの天井川の内側にある地山古墳です。全長約90mの帆立貝形古墳ですが、前方部は田んぼの中に埋まっており円墳にしか見えません。周濠も田んぼの中に埋まっているそうです。 地山古墳の前です。そろそろマムシの季節なので、皆古墳から離れ気味に立っています。
岡村城址の近くにある岡遺跡です。7世紀後半から郡衙の前身である評衙があったとみられています。栗太郡衙としての最盛期は8世紀で、8世紀末から9世紀末にかけて縮小していったようです。
現社殿は1519年に建立されたもの。一間社としては大きいしきれいです。今回の参加者には小槻大社の氏子さんまでおられ話が盛り上がりました。
最後に見学した和田古墳群です。6世紀中葉から7世紀前半頃までの9基の横穴式石室をもつ円墳から成り立っています。数年前から出土品文化財センターが非公開となっており、当日は休日でもあったので、塀の外から眺める覚悟をしていきました。幸い門の鍵が開いており、すぐそばで見ることができました。
手原駅の駅前に「手原遺跡」があります。白鳳時代から平安時代初期にかけての遺構や鎌倉時代にかけての掘立柱建物のあとが検出されています。古代の中心地のひとつであったようです。
もう少し南に行くと手原稲荷があります。神社の北を東西に走る道が旧東海道です。ここから一里西には有名な草津宿があります。今回、草津宿まで歩こうかと一時は考えましたが、歩行距離が数キロ伸びそうなのでやめました。
稲荷神社の前には、江戸時代に有名になった栗田八景をうたった七言絶句の一つ「手原行人」の句碑があります。また手孕み伝説にちなむと思われる手のひら型ベンチもあります。
墳丘の上からは三上山はくっきりと見えます。
岡遺跡に行く途中に岡村城址の説明板が立っています。足利尊氏に属した宇野氏の城です。当時はここで東海道の監視をしていたようです。今の地形から見ると、ここを東海道が通っていたとは、信じられません。
名神高速の南の墓地の中に下戸山古墳が有ります。4世紀後半の直径55mの円墳です。
ここで北谷11号墳の解説もしていただきました。もっとも、この位置からでは北谷11号墳のあった位置は見えませんでした。その代り、蕨がたくさんあったようで、古墳より蕨という人が何人かいました。
小槻大社古墳群の説明板は立派だが、見るべきほどのものは無かったようです。
手原駅に戻ってきました。皆さん疲労困憊の様子でしたが、一時間に二本しかない電車にちょうど間に合いました。
本日の歩行距離は、3月よりやや長く7.8Kmでした。