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安倍文殊院・メスリ山古墳周辺の史跡を訪ねる

奈良県桜井市にある初期ヤマト政権の大王墓級の古墳として著名なメスリ山古墳をはじめ、安倍文殊院(西古墳・東古墳)および周辺の安倍寺跡、谷首古墳、上之宮遺跡、艸墓古墳などを見学しました。解説は中司先生です。

桜井駅前10:30出発→若櫻神社→土舞台→安倍文殊院(西古墳・東古墳)
→安倍史跡公園(安倍寺跡):昼食 →谷首古墳→コロコロ山古墳(移設)
→メスリ山古墳(墳頂)→上之宮遺跡→艸墓古墳→近鉄桜井駅16時頃解散
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今回のルートは

桜井駅を出発し、若櫻神社、土舞台、安倍文殊院、安倍寺跡、谷首古墳、コロコロ山古墳、メスリ山古墳、上之宮遺跡、艸墓古墳を回って、桜井駅に戻るコースです。今回の目玉は大王墓級の前期古墳であるメスリ山古墳です。

メスリ山古墳以外の古墳は6世紀末から7世紀初め頃の横穴式石室を持つ古墳ばかりです。

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最初は式内若桜神社です。

見かけはぱっとしませんが、奥に式内社2坐の本殿が並んでいます。

東側はもともとの若櫻神社で若桜部朝臣や安倍朝臣の祖である伊波我加利命(いわがかりのみことを祀っています。西側には名神大社の高屋安倍神社です。元は文殊院の東にあったものが江戸時代に山崩れに会い、こちらに遷座したものです。大彦命も祀られています。

22若桜神社は履中天皇の稚櫻宮跡だといわれています。磐余池で舟遊びをしているときに季節外れの桜の花びらが落ちてきて、それで宮の名前を稚櫻宮とした言う伝説があります。それにちなんで桜を植えた桜の井というものも一応あります。中司先生は、磐余池に近い池内の稚櫻神社のほうが、稚櫻宮ではないかというご意見でした。

当日はソメイヨシノはまだちらほらでしたが、しっかり咲いている種類もあり、春らしい一日でした。

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若桜神社から少し南に下り、桜井小学校の手前で西側の丘に登りました。ここには、南北朝時代や戦国時代にあった安倍山城跡(あべやまじょうあと)と聖徳太子が建てたという、土舞台の跡があります。日本最初の演劇研究所といわれています。遺構は何も残っておらず、息を切らして登った先が、説明板だけだったのでやや不評でした。

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安倍文殊院です。日本三文殊の一つです。他の二つは天橋立の智恩寺の「切戸(きれと)の文殊」、またの名を「九世戸(くせと)の文殊」山形県高畠町の大聖寺の「亀岡の文殊」です。

境内には安倍の晴明が修行したという場所もあり晴明堂も建てられています。写真は天文観測の地です。

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文殊院境内では、最初に文殊院東古墳を見学しました。こちらは西古墳ほど有名ではありません。中に井戸が掘ってあることから別名閼伽井。信仰の場であり、中には入れません。

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文殊院西古墳です。大化5年になくなった安倍倉梯麻呂またの名内麻呂の墓とみてほぼ間違いないとのことです。磨き上げた花崗岩の切石を積んだ両袖式の横穴式石室です。

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飛鳥の岩屋山古墳の石室もきれいですが、こちらは一段と美しく感じます。

天井は薄いかまぼこ状に彫りこまれています。一部漆喰も残っています。

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浮御堂を背景に記念撮影。

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安倍寺跡は文殊院の南西にあります。建立の時期は山田寺と同時期で、法隆寺方式。ただし、金堂と塔の間隔が大変広くなっています。講堂の位置については未確認のようです。平安時代末の東大寺要録によると、安倍寺は崇敬(すうけい)寺のことで、安倍の倉梯麻呂建立と伝えています。鎌倉時代に今の文殊院の位置に移転したようです。

広い境内で昼食としました。座る場所は基壇の部分しかありません。

史跡公園の北西に安倍寺瓦窯が保存されています。

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花をバックに記念撮影。花は後ろに隠れています。

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安倍文殊院の南方に谷首古墳が有ります。

35m×38mの方墳で墳丘の西半分には神社が鎮座しています。

入り口の天井石が半分落ちています。

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中に潜り込むと、石室は巨大です。玄室の高さ4mあります。安倍氏の族長の墓だろうということです。

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メスリ山古墳の横にあるコロコロ山古墳です。すぐ近くからこの地に移築されたものです。

柵があり鍵がついていたので入れないと思ったら、扉があき入れました。壁を見てると違和感はなかったのですが、天井を見たらコンクリート製でした。

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本日の目玉のメスリ山古墳です。4世紀中葉から後半代の前期古墳で、全長224m、後円部3段、前方部2段の前方後円墳です。白石太一郎先生は桜井茶臼山古墳とともに大王の墓と言っておられます。

塚口義信先生はこれと違い、被葬者は桜井茶臼山古墳がオオビコ命

メスリ山古墳はオオビコの命の子の建沼河別命(タケヌナカハワケノミコト)であるとした。

その理由は築造時期、副葬品の武人的性質とともにオオビコの命の末裔である阿倍氏勢力基盤がある地域に所在すること。特にメスリ山のある高田という地名は安倍氏の比賣(ひめ)「高田媛」ともつながるなどです。

中司先生も、大王であれば、前方部も三段築成であるべきと言っておられます。

以上のことは塚口先生の本に載っています。

なお、近々塚口先生の一般向け書籍が出版される予定です。そのなかにもメスリ山古墳や桜井茶臼山古墳のことが書いてあるようですから、ご期待ください。

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メスリ山古墳は後円部の石室及び上部の方形区画が非常に有名です。この絵のように、方形の基壇があり周囲を巨大な埴輪が取り囲んでいたそうです。石室は竪穴式石室で三角縁神獣鏡などの鏡や刀剣、石製品があり、東側に副葬品専用の副室が設けられているのが特異です。副室には多数の武器、農工具などが埋葬されていました。

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以前の現地見学では墳丘の下から見学でしたが、今回は後円部の上まで登りました。登りは急な傾斜で皆さん苦労されたと思います。下りは南の神社のほうにおりました。写真の、解説を聞いている位置は後円部の上、石室の東側、副室のあたりです。右手のくぼんだ場所は主室の部分です。天井石が見えます。

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後円部の方形区画にあった埴輪はいずれも巨大です。もっとも大きいものは胴の径が90cmで高さが2.4mです。本当は横にジャイアント馬場の写真を並べたかったのですが、著作権の問題を生じるといけないので、私の写真を貼り付けました。

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メスリ山古墳から出土した遺物の一部です。主室からは三角縁神獣鏡や内行花文鏡の破片、椅子形ほかの石製品が、副室からは玉杖、無数の銅鏃や刀剣などの武器、農工具が出土しています。たしかに四道将軍の墓とするとふさわしい感じがします。

この中で椅子状の石製品は京都国立博物館にあったものとメスリ山出土の破片が接合できたということで話題になったようです。また、すべて鉄でできた弓矢は、常陸の国風土記に記載はあるが、現物が出土したのは唯一とのことです。

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上之宮遺跡です。6世紀末葉には宮殿となっていたようです。聖徳太子が斑鳩に移る前の宮殿といわれています。広い遺跡ですが、復元された苑池遺構を除いて、すべて住宅地となっています。説明板の絵を見ると宮殿というにはつつましい感じがします。これが復元された苑池遺構です。

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民家の裏、溝の縁をつま先立ちで歩いていくと、急に目の前が開け艸墓古墳が現れます。

こんなに広かったかなと感じました。昔は平らなところがなかったような気もしたが

世紀第3四半期頃の方墳です。

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はば2.8mの玄室に身の部分で1.5mの幅をもつ家形石棺が置かれています。羨道の幅は2mなのでどのようにして入れたのか議論があるそうです。石室は巨石で作られていて、接合点に三角の石をはめ込み、漆喰が充填してあります。

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16時前、予定時間きっかりとJR桜井駅の南口につきました。本日の地図上の距離は6.5Km私の万歩計は1万1千歩。距離は短かったが、皆さんかなりお疲れの様子。やはり土舞台はパスすべきだったかもしれません。

 

いずれにしてもお疲れ様でした。

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