蛍池の遺跡①
豊中歴史同好会の例会が毎月開催されているルシオーレビルは、阪急電車蛍池駅の西側にありますが、この辺りには古墳時代から江戸時代にわたる遺跡があります。
この地点での発掘調査結果について、豊中歴史同好会の会報『つどい』第156号(2001.5.1.)には次の2つの講演録が掲載されています。
(1)市本芳三氏「麻田藩陣屋跡の発掘調査成果について」
(2)合田幸美氏「五世紀の大型建物遺構について」
いずれも豊中市が誇るべき文化財についての記録と考えます。
ここには、(1)の市本芳三氏の講演録を再録します。
再録に当たっては、著者の市本芳三氏のご了解を得て、基本的には原文通りとしましたが、図面等についてはホームページ上での公開を念頭において必要最小限の修正を加えました。なお、著者の肩書きについては、講演をされた時点の肩書きのままとしてあります。
麻田藩陣屋跡の発掘調査成果について
大阪府文化財調査研究センタ一 市本芳三
(財)大阪府文化財調査研究センターは、蛍池駅西地区の再開発事業に伴い、平成11年11月より発掘調査を行っており、現在も調査を進めています。
1.麻田藩陣屋跡の立地
~重要な街道を取り込む~
陣屋跡北方には、西国街道が東西に走り、南北に能勢街道が走っています。陣屋はこの能勢街道を陣屋内に取り込んで、交通の要衝としておさえていたことがわかります。
地形的にみれば、段丘の縁辺に位置し、陣屋の西側と南側が段丘崖になつています。
自然地形をうまく、活かしているようです。
2.麻田藩と青木氏
~江戸初期より明治の廃藩置県まで14代続く~
麻田藩は初代青木一重に始まり、14代にわたって江戸初期より幕末まで続いた1万石の小藩です。外様ながら領地替えもなく継続したことは非常に稀なことです。
一重は美濃の生まれで、今川氏・徳川氏に仕え、その後、豊臣秀吉・秀頗に仕えていました。豊臣方として大坂冬の陣で奮戦し、翌年には徳川との和議の使者として駿府に行くことになります。 しかし、帰路、京都にて拘束され、大坂夏の陣には参戦することなく、豊臣氏は滅びてしまいました。
徳川の敵方である青木氏は本来ならば、豊臣氏と同様に滅ぼされることになるはずですが、「以前は家康に仕えていた」「夏の陣に参戦していない」ことが功を成したのでしょうか、外様ながら、再び徳川氏に仕え、麻田の地を賜ることとなりました。
以降、元和年間(一六一五~)から始まり、二代重兼の頃の一七世紀半ばには整えられたようです。
淺田班主青木氏の年表
『文化財ニュース豊中』No5 S61.10.4豊中市教育委員会を参考
3.絵図と発擬調査でみつかった遺構(溝・井戸・ごみ穴)
~絵図のまま?~
陣屋を描いた絵図は江戸時代のものが1枚、明治初頭のものが2枚残っています。
絵図によると陣屋の全体の形は逆L字形をしており、北・東・南辺に外堀が巡っています。
西辺は段丘崖になっており、自然地形を利用しています。
北門から南門にかけて中折れのある道路が陣屋中央を貫き、陣屋中央には藩主邸がおかれ、北辺と東辺には重臣の屋敷が並んでいます。
この蛍池公民館は藩主邸の庭園にあたるようです。
今回の調査地は東側に連なる重臣の屋敷地にあたります。
図2の絵図には屋敷地ごとに「表○間○尺」、「裏○間○尺」とあり、間口の幅が詳細に記されています。
発掘する前にこの数字を手掛かりに現在の地図と重ねると、どのあたりに屋敷地境が検出されるか、見当をつけることができました。
また、この作業をすることにより、現在の宅地の境や道路が陣屋の時代からそのまま、踏襲されていることもわかりました。
絵図には外堀、塀、門、建物、鳥居、社などが描かれていますが、このすべてが発掘によって発見されたわけではありません。
廃藩置県後、田畑や宅地となり、大きな改変を受けています。
この当時の建物は直径30センチメートル程の石の上に柱を建てたものなので、なかなか、その痕跡を見つけることは困難です。地面に掘り窪めたものだけが、みつかります。
屋敷境は溝あるいは柵としてみつかり、溝には石列や丸太が伴っています。
門構えはみつかつていませんが、青木別邸の火の見櫓の基礎部分と思われる大きな石列が検出されました。
その他に、石組・素掘の井戸、ゴミ穴、便所として使われた大甕などがみつかりました。土師器の小皿が六枚重なつた状態で小さな穴から出土しており、地鎮を行ったと考えられます。
外堀は現水路と重なっており、ちょうど現在の歩道の下にあたるようです。
宮本邸部分の堀は調査区内だったので、外堀の屈曲部分を明らかにすることができました。この地点はモノレール建設時の発掘調査においても、すでに外堀が確認されておりました。
外堀の幅は約1間(1.8メートル)あり、内側には土塁があつたようです。絵図にも外堀内側には薄く色の付いた帯が描かれています。土塁には水抜き用の石で作られた暗渠が伴っていました。
森本邸にあたるところでは、絵図に描かれていない大溝が陣屋の地割りとは、ずれた方向で伸びていることがわかりました。幅約2メートル、深さ1.5メートルを測り、断面Ⅴ字形を呈しています。絵図に描かれた陣屋の形ではない時期があつたようです。
4.発掘でみつかった遺物(瓦・器・土製品・貝)
~当時の生活を復原する重要な証拠品~
井戸やゴミ穴から沢山の遺物が出土しました。江戸時代を通して、17世紀から19世紀まで、青木氏14代の生活品をみることができます。
麻田藩初期の17世紀のものはあまり多く出土していません。
時代が新しくなるにつれて生活の道具の種類が増えていったようです。
皿・碗・そば猪口・擂鉢・甕・壷・花瓶・徳利・水鉢・溲瓶・急須・灯明具・化粧道具・水滴・漆器椀・箸など多くあり、いろいろな産地のものがあります。中には一度割れた皿を継いで修理しているものもありました。
器ばかりではなく、貝殻も出土しています。
シジミ・ハマグリ・アカガイ・サザエなど色々な貝を食べていたようです。
5.さいごに
今回の調査地は陣屋絵図から東辺に並ぶ重臣邸の九邸部分にあたることが想定でき、発掘調査においては、屋敷境溝・外堀が確認され、絵図と発掘調査結果が整合性をもつことが明らかになりました。
また、屋敷境は現在の地割りと重なつており、江戸時代の地割りが現代まで踏襲されていることもわかりました。
遺物では、青木氏の裏紋である「洲浜」紋をもつ瓦が分家家老青木邸から出土した、他当時の生活を窺う多量の陶磁器が出土し、貴重な資料を得ることができました。
【参考文献】
(1)『麻田陣屋跡』(財)大阪府文化財センター調査報告書 第81集 (財)大阪府文化財センター 2002.9.
更新日:
2010.05.14
2016.02.12 nifty @homepage 閉鎖に伴い本ブログに移行