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蛍池の遺跡②

 豊中歴史同好会の例会が毎月開催されているルシオーレビルは、阪急電車蛍池駅の西側にありますが、この辺りには古墳時代から江戸時代にわたる遺跡があります。

 この地点での発掘調査結果について、豊中歴史同好会の会報『つどい』第156号(2001.5.1.)には次の2つの講演録が掲載されています。

(1)市本芳三氏「麻田藩陣屋跡の発掘調査成果について」
(2)合田幸美氏「五世紀の大型建物遺構について」

 いずれも豊中市が誇るべき文化財についての記録と考えます。

 ここには、(2)の合田幸美氏の講演録を再録します。

 再録に当たっては、著者の合田幸美氏のご了解を得て、基本的には原文通りとしましたが、図面等についてはホームページ上での公開を念頭において必要最小限の修正を加えました。
 なお、著者の肩書きについては、講演をされた時点の肩書きのままとしてあります。

              五世紀の大型建物遺構について

                     大阪府文化財調査研究センター 合田幸美

1.蛍池東遺跡の大型建物

 蛍池東遺跡は、蛍池駅の北西、阪急宝塚線と豊中市立第十八中学校の間に位置し、南北250メートル、東西150メートルの範囲にひろがります。

 1992年から1993年にかけて、大阪モノレールの建設に伴い発掘調査をおこなったところ、5世紀前半の大型建物、5世紀中頃の竪穴住居群、6世紀の竪穴住居と掘立柱建物、8世紀の掘立柱建物がみつかり、蛍池周辺の古墳時代から奈良時代の集落の変遷を明らかにすることができました。

 今回はとくに、この蛍池の地が重要な役割を果たしていたことを示す、日本最大級の建物遺構である五世紀前半の大型建物についてお話いたします。

 大型建物は、遺跡の北半の段丘上でももっとも高い部分に位置します。
 現在でもモノレールの側道を蛍池駅から北に向かって歩きますと、モノレールの橋脚の P89 から P90 のあたりが一番高くなり、そこからまた北に向かって降っていきますが、大型建物はまさしくこの P89 から P90 にかけての位置でみつかりました。

 この場所は、現在は家々が建ち並びあまり眺望がききませんが、古墳時代には酉に猪名川を見おろし、猪名川河口から南にかけては大阪湾岸と、南北にのびる上町台地を展望できたと考えられ、水運の掌握には非常に適した場所といえます。


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 大型建物は、建物1~3の3棟がみつかりました。3棟とも第十八中学校側におちる段丘崖に沿つて主軸をもち、地形にそくした配置がなされています。

 また、建物2と3の北東辺および建物1と2の北西辺はそろうことから、計画的な配置がなされたと考えられます。

 また、1993年以降に建物1から南西約40メートルの地点でなされた豊中市教育委員会の調査で、建物3と主軸を同じくする大型建物がみつかっていることから、大型建物は最多十~十二棟が建ち並んでいた可能性があります。

 建物1と3は桁行五間、梁間五間で棟持柱を2本もつ総柱建物です。
 側柱の掘形は長方形から方形であり一辺80~90センチメートル、深さ50~60センチメートル、柱材の直径は30センチメートルです。
 内部の柱の掘形は方形であり一辺40センチメートル前後、探さ10~20センチメートル、柱材の直径は20センチメートルです。

 建物1と3を比べますと、建物1の平面形が桁行11.0~11.2メートル、梁間9.15~9.4メートルの長方形であるのに対し、建物3の平面形は桁行11.08~11.3メートル、梁間10.25~10.30メートルと建物1に比べ方形に近く、その分面積が大きいことがわかります。

 また、桁行の側柱が建物1は長方形、建物3は方形で、形とともに大きさも異なります。
 棟持柱の位置も建物1では側柱から1間内側の柱列より柱1本分外側に出るのに対し、建物3では側柱から1間内側の柱列と同列に並ぶ点で異なります。

 平面形が方形で、構造上建物1に比べ不安定であつたと考えられる建物3では、建物の隅にあたる側柱の堀形が、階段状のものや礫を含む基盤層を掘り残すもの、埋土に礫を入れるものがあり、荷重のかかる柱を支えるため、さまざまな工夫がなされたようです。

 建物2は5間×1間を検出したのみで全貌はわかりません。
 内部の柱は撹乱により明確なものはみつかっていません。

 建物の廃絶後に柱の掘形に入れられた土器や建物の廃絶後にひろがる竪穴住居出土土器から、建物1~3は五世紀中頃には廃絶したことが明らかであり、建物1~3が存続していた年代は五世紀前半と考えられます。

 建物の上部構造については、奈良女子大学の上野邦一氏に遺構からの復原をお願いしました。
 上野氏によると、側柱だけで建物の荷重を支えることは困難と考えられるため、側柱が建物の枠組を決め立ち上げ、内部の柱が桁を支える構造が考えられるそうです。

 屋根は入母屋、寄棟、切妻屋根が考えられますが、寄棟、切妻屋根は構造上無理があり、入母屋屋根とする案が有力だということです。

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 では、このような大型建物群を誰が造り管理したのでしょうか。

 年代的にも重複し、同じ猪名川流域を望む桜塚古墳群の被葬者が最も有力な候補としてあげられます。一方、日本書紀(雄略12年)に天皇が木工闘鶏御田(猪名部御田というは誤り)に命じて楼閣を造るという記述があり注意されますが、年代的に整合性を欠き、地域も不明瞭であるため、参考として考えおくにとどめたほうが良いと考えられます。


2.大阪湾岸の大型建物 ―法円坂遺跡と鳴滝遺跡―

 蛍池東遺跡と同じような大型建物がみつかった遺跡には、上町台地のほぼ先端に位置する大阪市法円坂遺跡、紀ノ川をさかのぼった地点に位置する和歌山県鳴滝遺跡があり、大阪湾岸沿いの北・中・南の3地点に大型建物群が存在したといえます。

 大阪市法円坂遺跡では、16棟の建物がみつかり、入母屋屋根に復原されています。
 一方、和歌山県鳴滝遺跡では、7棟の建物がみつかり、切妻屋根に復原されています。

 建物規模を比較すると、和歌山県鳴滝遺跡は60~80平方メートル、大阪市法円坂遺跡は平均93平方メートル、蛍池東遺跡は103~115平方メートルと、蛍池東遺跡の大型建物が非常に大きいことがわかります。

 3遺跡に共通することは、大阪湾をとりまく交通の要衝の地に立地していることです。
 これら大型建物が建てられた五世紀は、船形埴輪にみられるように、船による海上輸送が物資運搬の主翼を担った時代です。
 逆に五世紀とは、こうした船による運搬に適した場所に巨大な倉庫を設け、物資を管理する必要性があつた年代ともいえます


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3.5世紀という時代

 では、こうした巨大な倉庫が設けられた5世紀とはどのような時代なのでしょうか。
 5世紀は倭の五王の時代としてよく語られます。

 広開土王碑文にみられるように、倭は4世紀末から朝鮮半島への進出を果たし、百済、新羅を破りますが、その後高句麗との戦いに敗れます。
 しかし、東アジアにおける国際的地位を高めるため、倭の五王は東晋、宋へと朝貢し朝鮮半島におけるその位置づけをアピールします。

 このような倭の五王への権力の集中は、古市古墳群および百舌鳥古墳群の大型前方後円墳にその大きさをみることができます。
 また、この時期、朝鮮半島の動乱にともない、多くの技術者が海を越え倭に流入したことが、須恵器、甲胃、馬具などの遺物からうかがえます。

 蛍池東遺跡の大型建物も、厳密な設計、これに基づく材料の調達、綿密な施工管理が適格な技術者を擁して組織的になされないと、その構築は困難と考えられる建物であり、こうしたすぐれた技術をもつ渡来系の人々によって構築されたと考えられます。

 蛍池束遺跡、法円坂遺跡、鳴滝遺跡でみられる大型建物群は、5世紀に限ってみられる遺構であり、古市古墳群および百舌鳥古墳群の大型前方後円墳と同じく王権のピーク時の所産と考えられます。

 蛍池周辺では大型建物の廃絶後は竃をもつ竪穴住居がひろがるなど、多くの渡来系の人々が流入する五世紀の動きを如実に示す考古資料にめぐまれた地域です。最大級の規模をほこる大型建物は五世紀におけるこの地の先進性、重要性を示す資料として非常に価値が高いと考えられます。


【参考文献】
(1)『豊中市所在 宮の前遺跡・蛍池東遺跡 蛍池遺跡・蛍池西遺跡
1992・1993年度発掘調査報告書 ―大阪モノレール蛍池東線・西線建設に伴う発掘調査―』1994.3.31.(財)大阪文化財センター
(2)植木久「豪族居館と建物構造」『季刊考古学』第36号 1991.8.1. 雄山閣

最終更新日
2010.05.14
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2016.02.12 nifty @homepage 閉鎖に伴い本ブログに移行

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