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5・6世紀の播磨と於奚・袁奚伝承(中久保辰夫先生)

つどい337号

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一.はじめに 『播磨国風土記』について
『風土記』とは、西暦七一三年(和銅六年)五月、中央政府より作成・提出が各国に命じられた地誌である。その内容として求められたものは、郡や里、山河原野等の地名由来、土地の肥沃度や物産内容、古老らの伝承等であり、八世紀初頭における地域認識を垣間見ることができる。現在、播磨に加え、常陸、出雲、豊後、肥前の『風土記』が伝わっている。
『播磨国風土記』には、明石(あかし)、賀古(かこ)、印南(いなみ)、飾磨(しかま)、揖保(いいぼ)、赤穂(あかほ)、讃(さ)容(よ)、宍禾(しさわ)、神崎(かんざき)、託賀(たか)、賀(か)毛(も)、美嚢(みなぎ)の合計十二郡に関する情報が収載された。ただし、唯一の写本である「三条西本」では冒頭から明石郡の部分、赤穂郡の箇所が散逸し、情報が欠落している。
一八五二年に国学者の谷森善臣が写本を作成して以降、『播磨国風土記』は広く知られるようになり、井上通泰、秋本吉郎による研究をはじめとする厚い研究史とともに近年では坂江渉、古市晃による地域に根ざした実証的な研究がなされている(坂江二〇〇七、古市二〇一四)。その成果をもとに基礎的な情報をいま一度まとめると、『播磨国風土記』は播磨国大目(おおさかん)(四等官)の楽浪(さざなみの)河内(かわち)が編纂責任者であることが有力視されており、中央政府の命を受けた間もない時期に作成されたと考えられている。さらに正式に朝廷へ提出されたものではなく、播磨国庁に集められた未完成の草稿本であったと考証されており、播磨各地の実態を探る上ですこぶる重要な情報を収載している。
 一方、考古学は古墳や寺院、集落跡の発掘調査から、必ずしも記録に記されない地域の有力者像を明らかとしたのみならず、食住をはじめとする生活や日常/非日常になされた儀礼の痕跡、集落の動態や地域を越えた交易が果たした役割を物語ってきた。製作や消費の時期が記されていないことが多い考古資料の年代決定は、新資料の発見や編年研究の進展によって変動する可能性があるものの、現在、詳細に時期を絞り込んで推定することができる。それゆえに『風土記』が編まれる時期をさかのぼって、古墳の築造時期、寺院の創建年代、集落の消長といった検討が可能となった。
 古文献と考古資料の双方には利点があり、言うまでもないことながら、資料的な限界がある。考古学の場合、開発行為によって発掘調査がなされることが多く、『風土記』が記す主要な伝承地ばかりが調査の対象となっておらず、パズルになぞらえるならば、どうしてもピースが欠けている。しかしながら、それぞれの弱点を補いつつ、歴史像を復元できる地域は限られており、播磨はこの意味において格好のフィールドである。考古学の立場に立てば、学問上の有効性が試される場であるとも言えよう。
 本発表では、『播磨国風土記』のなかでも美嚢郡という小地域を題材として、於奚・袁奚伝承について、その実態解明に挑んでみたい。

二.於奚・袁奚伝承について
 『播磨国風土記』のなかで、美嚢郡(みなぎのこおり)は現在の行政区分でいう兵庫県三木市、神戸市北区淡河(おうご)に該当し、兄弟である於奚(おけ)(意奚、億計、のちの仁賢大王)・袁奚(をけ)王子(弘計、のちの顕宗大王)を中心に記述がなされている(本稿では、『播磨国風土記』沖森卓也・佐藤信・矢嶋泉編著、山川出版社の表記に基づく)。類似した記述は、『日本書紀』清寧二年十一月条にもみえることから、この伝承は中央政権の皇統認識とも連関している。
於奚・袁奚二王子は、雄略大王、清寧大王に続いて即位し、順に顕宗大王、仁賢大王となり、即位に際しては兄弟で皇位を譲り合ったという美談が伝えられている。仁賢大王の後は武烈大王が、その後には、政治的な変動を伴って継体大王が擁立されて即位する。実のところ、顕宗、仁賢大王は在位期間や実在性について疑問を挟む余地も少なくないが、その治世は五世紀末頃と推測されている。
ごく簡単に『風土記』に記された内容を時系列で示すと、次のようにまとめることができる。
1.於奚・袁奚王子の父(『風土記』は市辺天皇命と記す)、近江国で殺害される。
2.於奚・袁奚王子、日下部連(くさかべのむらじ)意(お)美(み)に連れられ、志染里の石室に身を隠す。
3.日下部連意美自殺。二王子、身分を隠し、志染村首伊(しじみのむらのおびとい)等(と)尾(み)(『日本書紀』では縮(しじ)見(みの)屯倉首(みやけのおびと)忍海(おしぬみ)部造(べのみやつこ)細目(ほそめ))に仕える。
4. 首伊等尾の新室完成祝宴時に、二王子、身分を明かす。
5.祝宴出席者の針間国山門領に仕える山部連(やまべのむらじ)少楯(おだて)、中央に報告
6.二王子が中央に迎えられる。
 こうした伝承については、それぞれに興味深い点を含むものの、先に結論を言えば、『風土記』の伝承を史実として明確に示す考古資料は未だ得られていないか、追認するには難しい状況にある。
 また、この二王子は『播磨国風土記』賀毛郡の条に記された根日女(ねひめ)との悲恋談にも登場する。根日女の墓は玉丘古墳であると『風土記』は記すが、玉丘古墳は四世紀末から五世紀初頭に築造された古墳であり、これも年代的には問題がある。

三 於奚・袁奚伝承を考古資料から考える
 於奚・袁奚伝承が伝わる美嚢郡について現在の考古資料を検討してみよう。
美嚢郡の郡名由来は、履中大王(大兄伊射報和気命)が志染(しじみ)里(さと)の許曽社(こそのもり)(場所不明)に到着した際に、当地の水流の美しさを称えたためとされている。美嚢郡は、志染里(三木市志染町一帯、神戸市北区淡河の範囲)、高野(たかの)里(三木市別所町付近)、枚(ひら)野(の)里(久留美村から三木)、吉(よ)川(かは)里(旧口吉川・中吉川・奥吉川村)の四つの里があり、高野里、枚野里の比定については、近世以降の地域区分を基礎に『美嚢郡史』や『三木市史』で右のように比定されているが、地形的には疑問もあり、再検討の余地がある。
美嚢郡にみられる考古資料の実態は、高野里における初期群集墳である高木古墳群、古墳時代後期後半から終末期にかけて大型横穴式石室を築いた正法寺古墳群、枚野里における集落と有機的な関係を示す年ノ神古墳群・遺跡など、『風土記』に負けず劣らずの情報を伝えてくれる。しかしながら、『風土記』が記された八世紀をさかのぼる時期の有力古墳や寺院の痕跡、集落は、その多くが『播磨国風土記』美嚢郡条にあらわれない。八世紀段階には、郡衙がおかれた蓋然性が高い志染里が地域内の中心となり、高野里・枚野里の郡内での存在感が相対的に下がったと考えられる。それゆえ風土記には志染里の記述が中心となり、八世紀初頭における郡内の地域間関係が『風土記』に反映している蓋然性が高い。
 そのうえで、志染里を中心に於奚・袁奚伝承と関連する考古資料を検討してみたい(図1)。
 まず、『風土記』に記された「志染村首伊等尾の新室」、『書紀』にみえる「縮(しじ)見(み)屯倉」といった記載を吟味するために、集落遺跡の動向からみてみよう。こうした記述との関連を想起させる現象としては、当地域において五世紀に集落遺跡が増加することがあげられる。カマドを有する集落が普及し、志染里の山中にも、渡来系集団の足跡が認められる淡河中村遺跡が存在するなど、この地域の再開発がなされたと考えられる。
 他方、現在、「縮見屯倉」の候補地は、①志染中中谷遺跡(三木市志染町)と②勝雄遺跡(神戸市北区淡河町)が推測されている。二王子の伝承地は、現在の志染町一帯にまとまっていることから、志染中中谷遺跡が最有力であろう。志染中中谷遺跡は実態が不鮮明なところが多いが、奈良時代に属する井戸状の石組、溝状遺構が確認され、漆付着土器、墨書土器、唐草文軒平瓦が出土した。しかし、二集落遺跡ともに飛鳥・奈良時代を中心にするものであり、五世紀後葉に大型集落が存在した可能性は低い。
 古墳の築造動向はどうだろうか。五世紀代では枚野里・年の神6号墳(五世紀前葉)、高野里・高木古墳群(五世紀初頭~後葉)、明石郡となるが五世紀後半の西神ニュータウン第87地点遺跡など、中央政権から下賜されたとみて大過ない帯金式甲冑を有する初期群集墳があり、中央政権との関係は確実に捉えることはできる。しかしながら、こうした副葬品を有する古墳群は、伝承地となる志染里には現在のところ確認できず、里内にある吉田住吉山古墳群は突出した内容をもつものではない。
 むしろ、『日本書紀』にみえる「縮見屯倉首忍海部造細目」との関連性では、古墳時
代後期の古墳が注目される。志染里に存在する窟屋1号墳より出土した鉄釘型式は、金田善敬氏の分類によるⅩ類に該当し、大和盆地南西部の鍛冶工房で製作される型式である(金田一九九六・二〇〇二、池田編二〇〇九)。副葬されていた金銅製単鳳環頭大刀柄頭の存在も考え合わせると、窟屋1号墳の被葬者が縮見屯倉の管理者や村首(むらのおびと)の候補となる。
 しかし、この窟屋1号墳は六世紀後半の古墳であり、『風土記』や『書紀』の記載とは年代的な乖離がある。
したがって、於奚・袁奚二王子の伝承は、五世紀後半代の史実を如実に反映したものであるとはいい難い。むしろ、断片的な考古資料を重ねあわせて理解することが許されるのであれば、五世紀における地域開発、六世紀後半の葛城地域との政治的関係といった記憶が集積されて、八世紀初頭段階に伝承が構成されたと考えた方が整合的である。

四 記憶の集積としての『風土記』
 図2は、美嚢郡の里別に遺跡の動態と『風土記』の伝承事項を検討したものである。発掘調査の成果は、例えば水稲農耕の定着以降、弥生時代から古代まで集落が連綿と続くものではなく、集落跡の場所や性格は変動することを明らかとしてきた。同様に古墳にあらわれる地域内の勢力関係もまた、中央の政治動向等と密接に連関し、盛衰を示すことが判明している。こうした考古学上の研究成果は、地域社会を、時代をさかのぼって記載する『播磨国風土記』について、新たな分析視座を提供するものである。考古資料の実態を付き合わせて検討する作業は、『風土記』記述の際に取捨選択されたもの、記述された事象の形成過程を考える上で有効な手がかりとなるのである。
 四世紀代の有力集落や古墳であっても、『風土記』の記事を書く八世紀初頭の段階では、すでに埋没しているものもあれば、すでに古墳という認識が亡くなってしまった、つまり時の流れから切り離されて遺跡となったものがある。こうした考古資料は、不可視的な存在であるがゆえに、地域社会の記憶から漏れ落ち、記載の対象とはならない可能性が高い。一方で、窟屋のような希少な自然景観、あるいは古墳など可視的で記憶されやすい記念物は、語り継がれて地域歴史認識の一部となるものもあったと考える。
 於奚・袁奚伝承についても、断片的かつ重層的な記憶の集積が、可視的な記念物と結びつき、『播磨国風土記』に収載されることとなったと捉えることもできるのではないだろうか。

参考文献
池田征弘編二〇〇九 『窟屋1号墳』 兵庫県教育委員会
金田善敬一九九六 「古墳時代後期における鍛冶集団の動向―大和地方を中心に―」『考古学研究』第43巻第2号 考古学研究会
金田善敬二〇〇二 「岡山市根岸古墳出土の二種類の鉄釘」『環瀬戸内海の考古学』平井勝氏追悼論文集 古代吉備研究会
是川 長・岸本雅敏ほか一九七〇 『三木市史』 兵庫県三木市
坂江 渉二〇〇七 『風土記からみる古代の播磨』 神戸新聞総合出版センター
古市 晃二〇一四 「古代播磨の地域社会構造」『歴史評論』七七〇 歴史科学協議会
三木市教育委員会二〇〇一 『三木市遺跡分布地図』

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