宇治市の史跡を訪ねる
宇治上神社(世界遺産)
2月の現地見学は宇治市の宇治上神社・宇治神社から二子塚古墳にかけての史跡を訪ねました。解説はいつものように、中司先生にお願いしています。なお、宇治二子山古墳は山上にあり見学が難しいので、今回は割愛しました。参加者は35名でした。
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宇治川の南にある平等院鳳凰堂です。2年前に大修理が完了し、とてもきれいになっていました。
宇治橋の東詰めから宇治上神社に向かう道に入ると、すぐ左に橋寺放生院があります。橋の守り寺として、秦河勝が建立したそうです。ここに有名な「宇治橋断碑」があります。
「宇治橋断碑」は冬期は公開されていないので、橋寺の前での説明になりました。
中央上のほうに見える屋根が碑の覆屋です。
「宇治橋断碑」は天平時代に作られたもので宇治橋が架けられたいきさつを六朝風の銘文で刻んだ石碑で重文です。江戸時代の寛政3年に、山門前で上部3分の1の断石が埋まっているのが発見されました。下の部分を補い、現在の姿に復元されたものです。鎌倉時代に編纂された歴史書「帝王編年記」に原文が残されていたようです。
群馬県の「多胡碑」、宮城県の「多賀城碑」とともに、日本三古碑に数えられています。
またふり神社と読みます。平将門の平定に向かい、恩賞を得られなかった藤原忠文の怨霊を鎮魂する神社といわれています。
宇治上神社の鳥居のところで神職さんと巫女さんに出迎えていただきました。実は豊中歴史同好会のお迎えではなく、婚礼のお迎えでした。
宇治上神社は江戸時代までは宇治神社と一体でした。合わせて式内宇治神社です。今は世界遺産です。応神天皇の皇子の菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)の命が住んだ離宮桐原日桁宮の跡と伝えられています。宇治上神社は宇治の稚郎子尊のほかに父の応神天皇と兄の仁徳天皇を祀っています。本殿は平安時代後期の建立で、神社建築としては現存最古。拝殿は鎌倉時代前期の建立で、寝殿造の遺構といわれています。ともに国宝です。
宇治神社の本殿は、宇治上神社よりやや新しく、鎌倉時代後期の建立で重要文化財です。但し、神社の由緒書きには鎌倉初期と書いてあります。
菟道稚郎子尊の墓、通称宇治墓です。
明治時代にここにあった盛土を中心に前方後円墳に作り上げたようで本当の菟道稚郎子尊の墓はどこかというと良く分らないそうです。
ここで、二子山古墳や、菟道稚郎子の母はだれかということで詳しい解説を聞きました。尊の出自については前段の『つどい』の現見記をご覧ください。
二子山古墳は後ろに見える低い方の山の上にあります。二子山古墳は時期や出土品はよいのだが規模が小さすぎるようです。これから行く五ケ庄二子塚古墳は大きさは十分だが時期が新しすぎるとのことでした。
宇治川はもともと宇治橋のすぐ下流で巨椋池に注いでいましたが伏見城をつくときに大規模な工事をして、宇治川を伏見のほうまで導いたようです。図を見ると、伏見や中書島の付近まで巨椋池が広がっていたことがわかります。この太閤堤と槇嶋堤で宇治川の下流域を作り、小倉堤を築いて大和街道を通したようです。400年以上前に大規模な工事をしたもんだと思います。
岡本廃寺です。
小さな公園に説明板と石が置いてあります。7世紀後半築造の法隆寺西院方式の寺です。塔の礎石と書いてありますが、とても礎石には見えません。周りは新興住宅地となっています。周辺にはかつて古墳群もあり岡屋の津想定地もあることから岡屋公の創建にかかわる寺のようです。
瓦塚古墳は昔の陸軍省火薬製造所、現在の京都大学職員官舎の南の田んぼの中にあります。直径30m2段築成の円墳です。主体部が2段重ねで存在し、豪華な出土品があることから、円墳ではなく、帆立貝形とみるべきかもしれないとの話でした。
私有地で、墳丘上は畑なので、皆さんには墳丘に上らないようにお願いしました。
瓦塚から旧陸軍省の用地、いまは京大宇治キャンパス・幼稚園・自衛隊補給基地の東側を大う回し五ケ庄二子塚古墳に向かいました。
五ケ庄二子塚古墳は全長112mの大型古墳です。しかしながら大正時代に京阪宇治線の土取りのため後円部を大きく破壊され主体部があったところは基盤しか残されていません。
最後に二子塚前方部前で記念撮影。さらに、二子塚の東側を回ろうかという話も出ましたたが、皆さんお疲れの様子だったので、やめて駅に直行しました。
おつかれさまでした。
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