雄略朝~継体朝における九州とヤマト政権(宇野慎敏先生)
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一.はじめに
これまで九州の雄略朝~継体朝に関しての研究は、継体天皇二十一年の筑紫君磐井の乱を中心に行なわれていた感がある。乱以前の九州諸豪族の動向や乱後の糟屋屯倉の献上、そして安閑天皇二年の屯倉の設置による中・北部九州の諸豪族の変化などについて論究したものが多い(小田一九七九)。
概ね乱以前と乱後ということで、乱以前は雄略朝から継体朝前半、乱後は継体朝後半以降を取り扱っている。このため、筑紫君磐井が没し、石人石馬の衰退から装飾古墳の盛行という変化過程で理解されているのは周知のことである。
本稿では、五世紀後半代と六世紀前半代を比較し、雄略朝から継体天皇の転換点に中・北部九州で、どのような変化が起きたのか、あるいは諸勢力の動向にどのような変化・画期が見られるのかを検討した後、そういった変化や画期の背景にどのようなことが考えられるのかを検討することにしたい。
二.集落の動向から見た変化と画期
博多湾沿岸の糸島平野から早良平野、そして福岡平野の三つの平野に現在一三〇余の集落遺跡が知られている。石井陽子氏は、このうちの一二八遺跡の集落跡の動向を調べた。それによると糸島平野の集落遺跡は弥生時代初期後半から古墳時代終末期までを通じて遺跡の数において緩やかな変化が見られると指摘する。それに比して早良平野と福岡平野は、弥生時代後期後半から古墳時代前期前半に急激に集落数が増えるとする。その背景には全体的に人口が増加し、同時に集落が分岐したと考えられるとする。それは博多湾沿岸では、朝鮮半島や畿内、瀬戸内、山陰から多量の搬入土器が見られ、これらは交流の成果で人の動きも盛んになったことによるものとし、西新町遺跡など朝鮮半島からの後住者の可能性も指摘している。その後急激に集落数は減少し、古墳時代中期中頃に最も少なくなり、大画期が見られるとしている。その背景には、集落数と竪穴住居数がともに減少することから大規模な集落へと集約する動きではなく、全体的な人口減少が想定されるとする。その後、集落数は古墳時代中期中頃を底値として、古墳時代終期中頃のピークへ集落数の増加が見られる。それは集落数、竪穴住居数ともに著しい増加を示し、増えた集落のほとんどが小規模で短期継続型であるとしている(石井二〇〇九)。
その背景に五世紀後半に父系直系的家族が出現し、傍系親族が直系親族に従属することになり、世代をへるごとにその度合いを増していくという田中良之氏の研究がある(田中良之一九九五)。六世紀後半にかけての集落数と竪穴住居数の増加は、まさに傍系親族の分節化、独立を示していると考えている(石井二〇〇九)。このように石井氏は博多湾沿岸の集落の変化には、背景に全体的な人口の増加や母系から父系化への分節化があると考えている。
筆者は、福岡平野の東側、玄界灘に面する宗像・遠賀川下流域の集落の動向と、筑後甘木や小郡市内の集落の動向を検討した。
福岡平野のすぐ東側に所在する福間・津屋崎地域の集落は、福岡平野と同じ弥生時代終末期から古墳時代前期前半頃にかけて増加し、五世紀前半から中頃に減少する傾向が見られた。
遠賀川下流域の水巻町・遠賀町・岡垣町の三つの地域では集落数が少なく、福岡平野と比較できないかもしれないが、おおよその傾向では、水巻町では福岡平野と同様に古墳時代中期中頃に最も少なくなる傾向がみられるものの、遠賀町では弥生時代後期後半から古墳時代前期、中期前半頃にかけてほとんど無く、五世紀後半の中期後半から集落数の増加が見られる。宗像に近い岡垣町では古墳時代前期から中・後期にかけて徐々に集落数が増える傾向が見られる。筑後の甘木では、古墳時代前期後半~初期前半頃まで、ほとんど集落は見られない。小郡市内では概ね福岡平野と同じ傾向が見られることがわかった。
このように四つの地域を見ていくと、人口の増加や減少は各々の地域毎に異なることがわかる。それは地域毎によって人口の増減の程度が異なったり、あるいは時期が少しずつ異なっていると考えられる。また父系への転換も地域によってその度合いが異なっていたことも考えられる。
ただそうした理由だけではなく、他の要因についても次に検討していくことにする。
三.北部九州の首長系譜からみた三つの類型
北部九州における首長系譜を見ていくと、五世紀代を通じて継続していた首長系譜が断絶するものと、そのまま六世紀代に入っても継続して首長墓が営まれる地域、そして五世紀代には首長墓が築かれなかったが六世紀代に入って新たに首長墓が築かれ継続して首長墓が営まれる地域の三つのパターンが想定される。
まず、五世紀代に継続して営まれていた首長系譜が六世紀代に入って築かれなくなる地域について検討することにする。
A.首長系譜の断絶
六世紀代に入って首長墓が築かれなくなる地域は、西国東と玖珠、日田の三地域を除いた豊前南部から豊後地域である。現在の大分県全地域に近い範囲である。
こうした六世紀以降に首長墓が築かれなくなった理由を田中裕介氏は、「広域盟主墓は豊後外?」ということで「前方後円墳の築造停止を伴うひとつの政治的変動があった事をしめしている」と指摘する(田中裕介二〇一〇)。
田中裕介氏は明言されてはいないが、おそらく「広域盟主」とはヤマト政権を指しているのではないかと思われる。それは国東半島は入津原(にゅうずばる)丸山古墳(七七メートル)や真玉大塚古墳(一〇〇メートル)などが築かれる西国東地域と、御塔山古墳(八〇メートル)が築かれる東国東地域の2つに分かれる。東国東は五世紀前半の御塔山古墳以降は、首長墓は築かれなくなる。
西国東は六世紀代に入って墳丘規模が縮小するものの野内古墳(五〇メートル)、猫石丸山古墳(六五メートル)が築かれる。墳丘規模は、五世紀後半の真玉大塚古墳に比べれば約半分の規模になるものの、他地域の首長墓と比肩するほどの墳丘規模を有する。
また日田、玖珠は筑後川の中・上流域にあたり、豊後と言えども交通路から言えば筑後川から有明海に出た方が交通の便が良いところである。玖珠は四世紀前半頃の全長二〇メートルの小型前方後円墳の瀬戸1号墳が見られるもののそれ以降は首長墓は築かれない。全長四八メートルの亀都起(きつき)古墳が六世紀前半~中頃に突如首長墓が築かれる地域である。日田は古墳時代前・中頃を通じてこれまでのところ主な首長墓は見られない。全長六五メートルの朝日天神山2号墳が六世紀前半頃に突如築かれ、次に全長三四メートルの朝日1号墳が築かれる。
このように豊前南部の中津平野から宇佐平野、そして西国東を除いて東国東から南の竹田・緒方・三重といった大野川中・上流域まで五世紀後半代以降、首長墓が築かれていない。西国東は真玉大塚古墳から淡輪系埴輪が見つかっており(清水二〇一一二〇〇五)、紀氏との関わりが想定される。また玖珠・日田は、日田の朝日天神山古墳から須恵器大型平底壺が出土しており、遠賀川上流域の次郎太郎古墳群との関わりが考えられる(下村二〇〇五)。また石枕も遠賀川中・上流域との関わりが想定される(吉田二〇〇五)。また出土した三輪玉は沖ノ島7号遺跡などからも出土している。そういったことから朝日天神山古墳群の首長層はヤマト王権との関わりが推定され、ヤマト王権と密接な関わりをもち、遠賀川中・上流域の首長層とも密接な関係をもつ首長層であったことが推定される(若杉二〇〇五)。このように日田の首長層は、ヤマト王権との関わりを密接にし、沖ノ島や遠賀川中・上流域の首長層との関わりも考えられる新興の首長層の存在が想定される。
こうしたことから豊後内においても畿内やヤマト王権との密接な関わりをもつ首長層が所在する地域は、六世紀代に入ってもなお首長墓を築いていることがわかる。したがって、東国東から大野川中・上流域までの六世紀代に首長墓を築き得なかったのは、田中裕介氏が指摘するように「広域盟主」すなわちヤマト王権に深く組み込まれた地域であるのか、それとも反対にヤマト王権との関わりを全くもち得なかったことが考えられる。
しかし、竹田地域の首長系譜は、四世紀前半~中頃の全長五三メートルの七ツ森C号墳から四世紀後半代の全長四九メートルの七ツ森B号墳が前方後円墳で、次の五世紀初頭~前半の七ツ森A号墳は径二〇メートルの円墳、五世紀前半~中頃の小塚古墳は径二五メートルの円墳で、首長墓は築かれなくなるが、五世紀末~六世紀初頭に比定される竹田・扇森山横穴墓からは横矧板鋲留短甲が一領出土している。このことからも五世紀後半以降首長系譜が断絶した地域は、ヤマト王権との関わりを全くもち得なかったのではなく、反対にヤマト王権内の身分秩序に深く組み込まれたことによって前方後円墳の首長墓が築かれなくなったのではないかと推測される。
B.首長系譜の継続
ア.一大首長系譜の継続
五世紀から六世紀にかけて引き続き首長系譜が継続して営まれる地域は、筑後川中流域の浮羽地域である。西流して有明海に注ぐ筑後川の筑後平野の最奥部に位置する。この最奥部から山がせまり山間部になったのち、次に開けるのが先ほどの首長系譜が断絶する日田盆地である。
筑後川流域は、下流域は依然大雨時の氾濫原にあたり集落・古墳の数は少ない。中流域に入ると北岸に「太宰府・二日市・御笠川上流域」・「宝満川上流・筑紫・三国丘」・「夜須・三輪」・「朝倉」の各地域に五?六世紀にかけて前方後円墳が点在するものの継続して築造されることはない。五?六世紀に継続して築造される地域は筑後平野最奥部の「浮羽地域」である。
五世紀の北部九州で甲冑の出土が三つの地域で大半を占める。それは、豊前北部、宗像とこの浮羽である。北部九州出土甲冑の約三分の一の四〇領余がこの浮羽に集中している。最も多いのが全長八〇メートルの月岡古墳である。この古墳から眉庇付胄、短甲八領八鉢、鏡四面、鉄刀七振、鉄剣二六振など、武器・甲冑が大量に出土している。次の塚堂古墳からも衝角付胄や短甲四領を出土しており、代々軍事拠点として中心的な役割を果たしていたと考えられる。
六世紀前半の全長七四メートルの日岡古墳は盗掘のため副葬品は知られていないが、石室の内面に装飾が施され、筑後川流域を象徴する多重同心円文が見られる。『日本書紀』景行天皇十八年に「的邑(いくはのむら)」、『豊後国風土記』に「生(いく)葉(は)」の地名があり、軍事氏族として知られる「的臣」の存在が想定される。五世紀前半の全長九六メートルの法正寺古墳から六世紀末の全長一〇三メートルの田主丸大塚古墳まで七基の前方後円墳が継続的に築造され、しかも月岡古墳や塚堂古墳からは大量の武器・甲冑が出土し、日岡古墳の石室には「的臣」を想定させる「的(まと)(まと)」を描いた多重同心円文が施文されることから、軍事的役割を果たす氏族であったことは想像に難くない。また月岡古墳には畿内型の長持形石棺が埋置されていることからも、ヤマト王権と強いつながりを想定することができる。
もう一つ五世紀後半から六世紀にかけて首長系譜が継続する地域がある。それは肥前の「養(や)父(ふ)基(き)肄(い)」地域である。五世紀後半の全長六五メートルの岡寺古墳から全長六〇メートルの庚申堂塚古墳、全長八三メートルの剣塚古墳、そして六世紀後半の径四〇メートルの大型円墳の田代太田古墳まで継続する。田代太田古墳の石室内には日岡古墳に描かれた多重同心円文が描かれており、被葬者は軍事的氏族の可能性が高い。
このように五?六世紀にかけて継続する首長系譜が存在し、被葬者は軍事氏族の可能性が高く、ヤマト王権は朝鮮半島出兵をにらんで筑後川中流域に軍事的拠点を設置したため首長系譜が継続したことが考えられる。
イ.一大首長系譜の継続と周辺中小首長層の再編成
先に見た「一大首長系譜の継続」は、全長八〇?一〇〇メートルの有力首長墓が五?六世紀にかけて継続している地域の例を示した。次に全長八〇?一〇〇メートルの有力首長墓が継続し、その周辺の中小首長層が新たに出現する地域がある。
まず豊前北部の京都(みやこ)平野があげられる。京都平野の北側を東流する長峡川(ながおがわ)上流域では、五世紀末前後に全長四〇メートルの寺田川古墳が築かれ、その後全長八〇メートルの八雷(はちらい)古墳、全長九〇メートルの庄屋塚古墳、一辺四〇メートルの橘塚方墳へと七世紀初頭前後まで継続して有力首長墓が築かれる。先に見た筑後川流域では、有力首長墓が築かれた周辺地域では、前方後円墳は激滅する傾向にある。これに反して京都平野では五世紀代には有力首長墓がほとんど見られなかったが、六世紀代に入って今川流域や小波瀬川流域など各流域毎に二〇?三〇メートル前後の中小有力首長墓が数多く築かれるようになる。このことは中心的役割を果たす長峡川流域の有力首長層を中心として周辺中小地域の首長層が有力首長層を介して六世紀代に新たにヤマト王権に組み込まれたことを物語っている。すなわち長峡川流域の有力首長層を中心に周辺中小地域首長層が再編成されたもので、ヤマト王権―有力首長層―中小首長層のピラミッド型階層秩序がこの京都平野に形成されたことを示している。
この京都平野と同様の再編成が行われた地域は宗像地域である。勝浦・奴山・須多田の三地域に順々に五〇?九〇メートル前後の有力首長墓が築かれ、これらの三地域を中心に釣川上流域や周辺地域で六世紀代に入って新たに二〇?四〇メートルの中小首長墓が築かれる。この宗像地域も京都平野と同様にヤマト王権―有力首長層―中小首長層の階層秩序が形成されたものと思われる。京都平野は、五世紀代には中小古墳に甲冑の副葬が多くみられ、周防灘沿岸部の稲童古墳群を中心に軍事集団が組織されていたことが想定される(行橋市教育委員会二〇〇五)。
宗像地域も全長九七メートルの勝浦峯ノ畑古墳からは多量の武器・甲冑が副葬されており、武人的性格の被葬者を想定することができる。そして宗像、豊前北部両地域の中小首長層は六世紀に入ってから築かれていることから、継体朝に新たに編成された軍事組織が想定されていることになる。
先の的臣と想定される筑後川流域では、河内政権から引き継ぎ欽明朝まで有力首長墓が築かれ、周辺の中小首長層はあまり見られない。これとは異なり豊前北部や宗像地域では、五世紀代にも有力首長墓が築造されるものの六世紀代に入って周辺地域で中小有力首長墓が築かれるようになる。このことは筑後川流域では河内政権の時から継続的な軍事組織が編成され、豊前北部や宗像地域では五世紀代に軍事組織が編成されているものの六世紀代に入って中小を含む新たな軍事組織が再編成されたことを裏付ける。
すなわち北部九州では筑後・豊前北部・宗像で五世紀代に軍事組織が編成されたものの六世紀代に入って継体朝に豊前北部・宗像の二つの地域のみ中小首長層を含む新たな軍事組織が再編成されたと言えよう。
C.新興勢力の出現とその背景
次に乱後の北部九州の状況について検討していきたい。先に六世紀初頭?前半頃に新たに出現する中小首長墓を見てきたが、次に六世紀前半?中頃にこれまでとは異なり規模が急激に大型化する地域や、これまであまり首長墓が築かれなかった地域に新たに首長墓が出現する地域などが北部九州の諸所に見られるようになる。
まず糸島地域の「泊・元岡・桑原」地域に全長四九メートルの元岡石ヶ原古墳が築かれる。これは小田富士雄氏が指摘されるように『正倉院文書(しょうそういんもんじょ)』の筑前国嶋郡(しまのこおり)川辺里(かわべのさと)の「肥君猪手(ひのきみのいて)」に関わるものと考えられる(小田一九九七)。
次に早良平野・粕屋地域の「蒲田・粕屋・篠栗」の全長七五メートルの鶴見塚古墳には、以前に石屋形状のものがあったと伝えられている。もう一つ福岡平野の「博多・那珂・井尻・諸岡・板付」地域の全長七五メートルの東光寺剣塚古墳にも石(いし)屋形(やかた)が築かれている。宗像の桜京古墳には石室内に彩色の装飾と石屋形が築かれている。
以上のように北部九州の諸所に肥後の古墳文化の影響が窺われ、『正倉院文書』の筑前国嶋郡の戸籍にみる「肥君(火君)」の影響が考えられる。『日本書紀』などにも「筑紫火君」の名が見え、「筑紫君」と「火君」の婚姻関係が結ばれたことによるものと推測され、こうした婚姻関係を元に北部九州に肥後の葬送儀礼の一部が進出してきたものと考えられる。すなわち筑紫君磐井の乱後の北部九州は、ヤマト王権だけでなく、火君の影響も進出し、複雑な様相を呈したと思われる。
四.九州における雄略朝?継体朝にみる変化と画期の歴史的背景
最後にまとめにかえて、先にみた変化と画期についての歴史的背景について私見を述べてみたい。
川西宏幸氏の同型鏡の分布を見ると、九州では肥後七面、筑後一面、筑前五面、豊前四面で合わせて一七面見つかっている。このうち肥後の七面のうち四面は江田船山古墳で、筑前の五面のうち三面は沖ノ島21号遺跡、山ノ神古墳、勝浦で各一面である。豊前は馬ヶ岳・京都二面、番塚古墳一面となり、何れもほぼ京都平野である。
この分布を見ると豊前は京都平野の豊前北部、勝浦は宗像、筑後と、先にみた軍事集団が編成されていた地域と重なることが指摘できる。このことは、五世紀代は豊前北部・宗像・筑後の三地域を中心に軍事集団が組織されていたことが裏付けられ、ヤマト王権は武器・甲冑のみならず同型鏡の下賜を介して豊前北部・宗像・筑後・肥後地域に軍事集団を組織していたことが想定される。そしてこれらの有力首長層は有力首長墓を継続して築いていたと思われる。
六世紀代に入って新たに中小首長層を含んで再編成されたことを述べたが、この六世紀代の中小首長層の再編成に金銅製品が下賜された可能性がある。
広帯二山式冠は佐賀県唐津市の島田塚古墳、垂飾付耳飾も同島田塚古墳に副葬され、この他唐津市の玉島古墳や福岡県春日市の日拝塚古墳に山梔子形垂飾付耳飾が副葬されている。飾(しょく)履(り)は宗像市の牟田尻古墳群の山田古墳から出土し、出土古墳は明らかではないが京都平野の伝行橋市大字竹並からも出土するなど、中小前方後円墳や円墳などから多く出土する傾向がある。こうした傾向は、有力首長層を中心として中小首長層を再編成していく過程で下賜された可能性が高い。ただし、ヤマト王権から直接下賜されたことも考えられるが、有力首長層を介して下賜された可能性もある。
北部九州でのこのような中小有力首長層に下賜された金銅製品は、玄界灘を臨む佐賀県唐津市や、博多湾を臨む日拝塚古墳、玄界灘を臨む宗像市周辺、周防灘を臨む京都平野など五世紀代に軍事組織を編成した豊前北部や宗像とさらに海を臨む周辺地域まで広がった地域の中小首長層に下賜されていたことが窺える。
このように六世紀代のヤマト王権は、北部九州の筑紫君や筑紫肥君などの有力首長層とともにその周辺の中小首長層にまで金
銅製装身具を媒介して軍事組織を再編成していったことが推測される。
ただ、このように地方の首長層だけでなく、井上義也氏が指摘するように有力首長墓や屯倉が設置された中小首長墓から断続ナデ技法の円筒埴輪をもつ大型円墳や前方後円墳がみられることは、ヤマト王権直属の首長層の存在も想定することができる。
このように五世紀の緊迫した朝鮮半島情勢をにらみ、北部九州には豊前北部・宗像・筑後といった地域を中心に軍事組織が編成され、六世紀に入ってさらに中小首長層を含んだ組織に再編成されていったことが窺われる。
参考文献
石井陽子 二〇〇九 「博多湾沿岸地域における古墳時代の集落動態」『九州考古学』第84号
井上義也 二〇〇四 「断続ナデ技法円筒埴輪をもつ古墳の性格」『福岡大学考古学論集』小田富士雄先生退職記念
宇野愼敏 二〇〇三 『九州古墳時代の研究』学生社
宇野愼敏 二〇〇九 「多重同心円文の出現と展開」『地域の考古学』佐田茂先生佐賀大学退任記念論文集
小田富士雄 一九七九 『九州考古学研究 古墳時代編』小田富士雄著作集2 学生社
同 一九九七 「筑前国志麻(嶋)郡の古墳文化 ―福岡市元岡所在古墳群の歴史的評価―」『古文化談叢』第39集
川西宏幸 二〇〇四 『同型鏡とワカタケル―古墳時代国家論の再構築―』同成社
清水宗昭 二〇一一 「国東半島における首長墳の変遷」『古文化談叢』第65集(4)
下村 智 二〇〇五 「1.大型平底壺」『朝日天神山古墳群』日田市埋蔵文化財調査報告書 第60集
田中裕介 二〇一〇 「東九州における首長墓の変遷と性格」『九州における首長墓系譜の再検討』 第13回九州前方後円墳研究会 鹿児島大会
田中良之 一九九五 『古墳時代親族構造の研究』柏書房
日田市教育委員会 二〇〇五 『朝日天神山古墳群』日田市埋蔵文化財報告書 第60集
吉田和彦 二〇〇五 「3.石枕」『朝日天神山古墳群』日田市埋蔵文化財調査報告書 第60集
行橋市教育委員会 二〇〇五 『稲童古墳群』行橋市文化財調査報告書 第32集
若杉竜太 二〇〇五 「2.三輪玉」『朝日天神山古墳群』日田市埋蔵文化財調査報告書 第60集
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