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継体大王崩御後の倭国政権(坪井恒彦先生)

つどい332号
和歌山大学講師(非常勤)・元読売新聞大阪本社編集委員
坪井恒彦 先生

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はじめに  六六〇年の百済滅亡後、倭国の朝廷に仕えることになった亡命百済人が『日本書紀』修史局の求めで撰述したとされる百済三書の一つが『百済本記』である。したがって朝廷への迎合的な潤色が認められるものの、『日本書紀』の継体・欽明大王の各条に引用され、六世紀前半の加耶滅亡をめぐる倭国と百済の関係などを伝える。『書紀』は継体大王の没年を、「或る本に云はく(継体)天皇二十八年(五三四)」としながらも、本文では『百済本記』を根拠に「二十五年(五三一)」説を採る。さらに『書紀』は、その『本記』引用を続けてこの年に「又聞く、日本の天皇及び太子・皇子、倶に崩薨(かむさ)りましぬといえり」と、異常な事態を記し、続く安閑大王の即位を五三四年として間に異例の三年の空位を置く。その二年後に宣化大王が皇位に就き、五四〇年になって欽明大王が継承したとする。 一、「両朝並立」説は成り立つのか ところが、『書紀』より古い伝えを残す『元興寺伽藍縁起』は仏教が伝来した戊午年(五三八)を欽明の「御世七歳次戊午年十二月」とし、これに従えば欽明元年は壬子年(五三二)で、継体が亡くなった翌年となり、当時は即位翌年を元年としたので空位は存在しなくなる。また『記』『紀』とは異なる系統の古い所伝を含む『上宮聖徳法王帝説』も仏教公伝を欽明の戊午年とする。ただし、安閑・宣化の即位の問題が残される。 これらを合理的に解釈しようとしたのが喜田貞吉氏の、継体の没後、欽明と安閑・宣化の王統が並び立ったとする「両朝並立」説である。これを継承した林屋辰三郎氏によって戦後、「継体・欽明朝内乱」説が唱えられる。大伴・物部氏に支持された安閑・宣化体制に対して欽明を擁立し即位させようとした蘇我氏によって引き起こされたのが五三一年の「辛亥の変」であり、『百済本記』の天皇や太子、皇子が相次いで亡くなるというクーデターを思わせる記述にも反映されているという。これについて山尾幸久氏は、欽明即位を五三一年と断定した上で『書紀』編纂の当初、「五三四年に継体が亡くなって安閑が即位し、五三六年に宣化が、五四〇年に欽明が即位」という年立てが出来ていたものの、『百済本記』によって継体没年を三年さかのぼらせたために矛盾が生じたとされる。そして、六世紀最大の反乱「磐井の乱」も本来五三〇年だったのに五二七年に書き換えられたとする。つまり、「磐井の乱」が主因となって排除された継体と後継者であった尾張系の皇子・勾大兄(安閑)に代わって欽明が即位したとみる。  この説を改めて考えるには、林屋氏が前提とした「大伴金村によって擁立された」という継体の王位継承の背景にまで遡って確かめ直す必要があるのではないか。継体は息長氏や三尾氏などの出自集団をバックに大伴金村に擁立されたと言われる。とくに、塚口義信先生は、継体が越前または近江から大和に向かって来たものの、反対勢力に阻止されて樟葉や筒城・弟国を転々とした背後には息長氏とくに山城南部の息長一族との密接な関係があったことを精緻に立証されている。ただ、そのような歴史的背景と、一般に広く想定されている「継体は地方豪族から身を起こして大和に攻め上り、それまでの王統から大王位を簒奪した」という王朝交代説とは切り離して考えてみたい。「もし彼が簒奪者で、新王朝の開祖であるならば、彼の出身母体である息長氏が大王家に取って代わっていなければならないはず」という熊谷公男氏の指摘もあるが、継体の擁立に最も積極的だったのは当時、軍事・外交の最高責任者だった大伴金村だったことに注意しなければならない。 二、入り婿による倭国王権の正統性の継承 『書紀』に記された「皇子のいない武烈天皇が亡くなった後、大伴金村大連が応神天皇五世の孫・男大迹王(継体)を越から迎えた」とする内容はそのまま信用できない。しかし、継体朝で大連として政治を主導した金村は、『書紀』によると、安閑・宣化朝においても「任那」の救援を指導したり、屯倉の設定を進めたりして政権を支え続ける。やがて金村は蘇我稲目の台頭で、五四〇年に失脚するものの、六世紀を通じて倭国政権の中枢は雄略朝以来の大和の伝統的な有力氏族たちで占められ、新興の蘇我氏らもそれに連なる勢力であった。むしろ、ここで注目されるのは、継体が履中大王系の仁賢大王の娘に当たる手白香皇女と婚姻した事実であろう。この既存の大王家への入り婿によって継体は倭国の大王となり得たし、応神・仁徳・履中の王朝の血統を女系によって引き継ぐことになったといえる。 ただし、大王家と直接の血脈を持たない継体にとって皇妃に迎えた尾張連草香の娘・目子媛との間の皇子たち(後の安閑・宣化)の立場は微妙であった。結局、彼らもまた、父・継体と同様、仁賢の皇女たちとの婚姻を選んで大王家とつながらざるを得ず、それぞれ春日山田皇女、橘仲皇女の入り婿になることによって皇位に就くことができた。ここに成立した大王家の「入り婿・女系の系譜」にこそ、継体没後の大王位継承をめぐる内乱騒ぎにも受け取られかねない政変が起きる元凶が潜んでいたのではないか。安閑・宣化兄弟は五三〇年代にそれぞれ七十~七十三歳で亡くなったとされるので継体が即位した五〇七年にはいずれも四十歳を超えていたとみられる。それに対し、欽明は継体が即位後に結ばれた手白香皇女との間に生まれており、兄たちとは四十歳以上隔たっていたことになる。 安閑・宣化と、親子以上ほども年齢差があった欽明のそれぞれを支える勢力が生まれ、派閥抗争が展開されたことは容易に想定できる。継体を擁立した大伴金村は、継体の息子である安閑・宣化の後見役のような立場だったと考えられる。彼らを大王家の入り婿にするため、それまでの実績をバックに強引に働きかけたのではないか。一方、五三五年の宣化即位に際していきなり大臣に任じられ、突如として政治の表舞台に登場してくるのが蘇我稲目である。その裏には金村との政治的な駆け引きがあったかもしれないが、稲目は堅塩媛と小姉君という二人の娘を欽明に嫁がせ、安閑・宣化=大伴と欽明=蘇我の確執・対立が一層激しくなっていく。欽明が新興の蘇我氏陣営に取り込まれていったのに対し、それに危機感を抱いた旧来の氏族たちが安閑・宣化の大伴氏側に就いたことも考えられる。宣化后の橘仲皇女は雄略の皇女・春日大娘を母とする手白香の同母妹で、安閑后の春日山田皇女は春日和珥日爪の娘・糠君娘を母とする違いはあったが、母系はいずれも春日和珥氏系でつながっており、伝統的な氏族同士として大伴氏を支えたのではないか。 三、六世紀前半における王統の考古学的な検証 この安閑・宣化が入り婿の形で倭国の王権とつながっている事実を、白石太一郎氏 は、その王陵の状況から考古学的にも裏付けられると指摘する。『書紀』によると、安閑の「河内舊市高屋丘陵(現・高屋築山古墳=大阪府羽曳野市古市)」には「皇后春日山田皇女」が、宣化の「大倭国身狭桃花鳥坂上陵(現・鳥屋ミサンザイ古墳=奈良県橿原市鳥屋町)」には「皇后橘皇女」が、それぞれ当時の倭人の間の習俗に反して合葬されている。白石氏は「それはむしろ春日山田皇女の墓に安閑が、橘仲皇女の墓に宣化が合葬されたものというべき」とみる。確かに高屋築山古墳を「春日山田皇女陵」と想定すれば、同じ古市古墳群内のすぐ北方に父親の仁賢陵(埴生坂本陵)が位置することとも符合する。また、鳥屋ミサンザイ古墳を「橘仲皇女陵」とすれば、大伴氏や橘仲皇女の母方・和珥氏らが担った倭国王権とも縁のある大和の身狭の地に埋葬しようとしたこともうなずける。身狭は、欽明十七年(五五六)に蘇我氏が屯倉経営で周辺に本拠を移すまで、垂仁朝に倭彦命が身狭桃花鳥坂に葬られたという伝承を持つなど、倭国王権の伝統的な墓域だったとも考えられるからだ。 また、欽明の王陵については、現在宮内庁が『書紀』などにある欽明の「檜隈坂合陵」として平田梅山古墳(奈良県明日香村平田、墳丘長一四〇メートル)を治定するが、その規模などから当時の大王陵とは考えにくい。この古墳は元来「檜隈陵」と呼ばれ、欽明の皇妃で後に欽明陵に改葬されることになる堅塩媛の当初の墓ではないかとの説も注目される。堅塩媛の墓が「檜隈陵」とすれば、欽明陵は『書紀』の推古二十年条などで「檜隈大陵」と呼ばれ、平田梅山古墳の北七百メートルに位置する墳丘長三一八メートルの巨大な前方後円墳・見瀬(五条野)丸山古墳が有力視される。全長二八・四メートルの全国最大の横穴式石室には欽明と堅塩媛が葬られたと思わせる2基の大型石棺も確認されている。 一方、大王家とは直接縁戚関係を持たなかった安閑の陵墓候補については近年、全国第五位の規模を誇る河内大塚山古墳(大阪府松原市西大塚~羽曳野市南恵我之荘、墳丘長三三五メートル)をめぐる論議が注目される。古市古墳群からやや離れた西方で、真の雄略陵の可能性が指摘される岡ミサンザイ古墳(藤井寺市岡、墳丘長二三八メートル、宮内庁は仲哀陵に治定)の西北西二キロに位置し、六世紀中ごろの築造と考えられる。ここも陵墓参考地のため調査は出来ないものの、宮内庁の実測図や限定公開された際の研究者たちの調査によって、前方部が不自然に低く、盾形の周濠も極めて浅い特異性が確認された。また、当時としてはまだ存在するはずの埴輪や葺石が見当たらないなどから大王陵として築造されながら未完成に終わったのではないかとする説が一部で提起されている。このうち、十河良和氏は河内大塚山古墳から南西五キロ余りに位置し、六世紀第2四半期~後半に埴輪・須恵器を生産した日置荘西町窯跡(堺市東区日置荘西町)との関連に注目する。 十河氏は、日置荘西町窯跡で生産された埴輪の系譜や時期などから、この工人集団は真の継体陵とされる今城塚古墳(高槻市郡家新町、墳丘長一九〇メートル)への膨大な埴輪供給を担った全国最大規模の埴輪生産遺跡・新池窯(高槻市上土室)から移動したと推定する。日置荘西町窯跡は新池窯跡から南に三六キロの位置にある。そして、日置荘西町窯跡で作られた大王陵にふさわしい大型埴輪の供給予定先は当時としては河内大塚山古墳しか考えられないと指摘する。十河氏は、この古墳は継体大王の跡を継ぐことになっていた安閑のために生前から寿墓として築造されたものの、「辛亥の変」で死亡したために急遽、皇后陵として築造された現安閑陵(高屋築山古墳)に葬られたのであろうと推測を重ねる。この指摘には岸本直文氏も、大王陵と大妃(皇后・正妃)陵のバランスを継体、欽明などの場合とも比較し、また大妃が合葬されている異例さも考慮して現安閑陵が本来、皇后・春日山田皇女の陵墓であった可能性が高いとされる。このような考古学研究者からの大王陵などの被葬者をめぐる大胆な仮説には一部に慎重さを求める声もあるが、森浩一氏が生前、この学問が国民に支持され、発展させていくためにも積極的に展開して議論を深めるべきだと主張されていた重みが想起される。 四、「辛亥の変」の真相とその後の地方支配 それでは冒頭の掲げた「辛亥の変」の実態、安閑・宣化朝と欽明朝の並立説はどのように考えればよいのだろうか。継体の没年が『百済本記』と『書紀』の「或本云」の間で異なる問題に対しては紀年に三年の差がある二種の「百済王暦」が存在したことに原因を求める考え方が三品彰英氏らによって示されている。しかし、当時の暦の知識などに精通していたはずの『書紀』の編纂者たちが二種の王暦を理解せずに、両説を併記したとは考えにくい。ここで、既述の山尾氏の仮説を改めて検証したい。山尾氏は、磐井の乱を地方豪族が中央政権に反抗したというような段階ではなく、ツクシ政権の盟主が倭王(ヤマト王権)の命令に従わず、独立して新羅と結ぼうとした王権を揺るがす大問題だったとみる。それを通説より三年後の五三〇年から翌年にかけての出来事と考えると、大加耶連盟諸国から対新羅戦の援軍を求められたヤマトが出そうとした軍隊を磐井が阻止した。そこで継体とその後継者とされていた勾大兄(安閑)を排除する「辛亥の政変」が起こり、即位した欽明の鎮圧軍によって磐井は殺される。しかし、この間、五三二年までにヤマトが鉄資源をはじめ先進文化・文物導入の拠点だった加耶南部諸国を新羅に占領されてしまう。 この仮説は、五世紀前半に最盛期を迎えた各地の地域政権が解体に向かい、磐井の乱平定後に「中央と地方」の関係が初めて成立し、ヤマト王権による国土統一(国家形成)が行われたという結論につながる。確かに継体没後の倭国における重要な政治基盤の改革として安閑紀に多く見られる屯倉の設置と国造の登場記事はそれらを裏付けているようだ。倭国の中央政権が地方に置いた政治拠点としての屯倉と旧来の在地首長がその政権に服属して誕生した国造との間には密接な関係があるとみられる。屯倉の出現は、『日本書紀』でこそ垂仁朝などにまでさかのぼってしまうが、歴史的事実としては安閑紀に先立つ継体二十二年、磐井の乱後に息子の筑紫君葛子が献上した「糟屋屯倉」が最古例ではないかとされる。磐井の乱をきっかけに地方支配の基盤強化に乗り出した中央政権は、まず葛子を初代の筑紫国造に任じ、屯倉の献上を命じたとも考えられる。 山尾氏によれば、「継体と勾大兄の排除」が『百済本記』の伝える「天皇及び太子(皇子)の相次ぐ死亡」ということになるが、これはかつて井上光貞氏が指摘されたように「継体の死と同時に安閑が皇位から外された」状態を指しているとも考えられる。欽明即位前紀に宣化が亡くなった時、「自分は年若く政事にも通じないので春日山田皇女(故安閑の皇后)に即位を請うた」という所伝が登場する。これは憶測に過ぎないが、安閑が排除された後にも、当時まだ二十歳過ぎだったと考えられる欽明が安閑の弟ですでに六十代に達していた宣化に一時的に即位を請い、実現させていた可能性もあるのではないか。井上氏によれば、大化前代の王位継承は兄弟、または大兄(天皇の長子)によって行われたが、最初の大兄が勾大兄だったとされる。大兄による継承は、地方出身ながら即位した継体が考案した仕組みだったとみられる。その勾大兄が皇位に就くことを前提に進められていた河内大塚山古墳の造営がこの政変で中断されてしまったのではないか。 このように考えれば、「辛亥の変」は必ずしも軍事的なクーデターを思わせる内乱などを指しているとも限らない。それは結局、倭国王権を支える、それも大和地域内での皇位継承をめぐる政治的な抗争、大きな政変であった可能性が高いのではないか。継体没後、地方支配の基盤強化の流れを加速させて倭国政権の中央集権体制をさらに確固としたものにしようという画策がその背景にあったのだろう。これが「倭国」という古代国家が形成される六世紀の具体像と見ることもできよう。そのような体制作りにも伝統的な大和の中央氏族の結束は欠かせなかったし、それは継体が王位の簒奪ではなく、ヤマト王権への入り婿として政権を引き継いだからこそ可能だったと思われる。        (二〇一五年二月) 参考文献 ① 塚口義信「継体天皇と遷宮の謎」、山尾幸久「継体朝の終末と磐井の乱」(以上『継体大王とその時代』 和泉書院 二〇〇〇年 所収) ② 和田萃『大系日本の歴史②――古墳の時代』(小学館 一九九二年) ③ 和田萃『ヤマト国家の成立――雄略朝と継体朝の政権』(文英堂 二〇一〇年) ④ 白石太一郎「考古学からみた継体朝の成立」、田中俊明「継体大王時代の対外関係」(以上『継体大王の時代――百舌鳥・古市古墳群の終焉と新時代の幕開け』 大阪府立近つ飛鳥博物館 二〇一〇年 所収) ⑤ 鈴木靖民(編)『日本の時代史2 倭国と東アジア』(吉川弘文館 二〇〇二年) ⑥ 熊谷公男『日本の歴史第3巻 大王から天皇へ』(講談社 二〇〇一年) ⑦ 井上光貞『日本の歴史1 神話から歴史へ』(中央公論社 一九七三年)

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