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洛陽発見の三角縁神獸鏡(西川寿勝先生)

つどい330号
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大阪府教育委員会 文化財保護課副主査 西川寿勝先生
洛陽発見の三角縁神獸鏡

最近、魏の都があった洛陽で三角縁神獣鏡がみつかったとする論文が発表されました。大変話題となっています(※一 文末に掲載の田中勝氏による抄訳を参照されたい)。論文は王趁意氏による「洛?三角縁神獣鏡笠松紋神獣鏡初探」で、『中原文物』二〇一四年六期(一二月号)河南省博物館 に掲載されました。王氏は洛陽周辺の鏡を集成して紹介した『中原蔵鏡聚英』を刊行するなど、鏡の研究者です。さらなる論文も用意しているとのことです。
紹介された鏡は直径一八・三センチメートル、外縁がそそり立つ三角縁で外区に鋸歯紋帯・複線波紋帯・鋸歯紋帯をもち、内区には四神四獣を刻むという、典型的な三角縁神獣鏡の要素を示します。銘文は「吾作明竟(鏡)真大好 上有聖人東王父西王
母 師(獅)子辟邪口銜巨 位至公卿 子孫壽」です。
ただし、発掘調査でみつかった鏡ではなく、「近期在洛陽発現」と記されるのみで、遺構や共伴遺物などの情報はありません。その後の王氏の談話によると、この鏡は二〇〇九年以前、白馬寺の油村に住む農民が掘り当てたそうです。白馬寺は漢魏洛陽城(都城)のすぐ西側の寺院です。
わたしが二〇年ほど前に訪れた時、白馬寺周辺は一面麦畑で、都城の西側城壁がところどころ残る状況でした。漢・魏の大型墓があるのは都城の北側の?山(ぼうざん)周辺で、後漢皇帝陵の伝承地が点在します。白馬寺周辺でも中小墓の発見・調査例がいくつかあり、古墓群が埋もれている可能性はあると思います。例えば、白馬寺近辺で直径四九メートルの墳丘と前面に三か所の祀堂をもつ後漢末の古墓が発見されています。全長二〇メートル以上で三室構造の磚室(せんしつ)が判明し、激しく盗掘されていましたが玉衣や渡金金具などが残されていました。
しかし、出土地が特定できないのであれば、日本の三角縁神獣鏡を模した偽物とも疑いたくなります。また、同笵鏡も見つかっていません。
かつて、三角縁神獣鏡はほとんど同時期に作成され、型式差が認められないと思われていました。現在では五段階の区分が認められ、継続的に製作されたと考えられています。
今回の鏡は外縁の厚みや内区図像の特徴、乳と乳座の形状から第Ⅱ段階に位置づけられ、型式的には逸脱する要素がありません。
最大の違和感として、銘帯が太く、銘文の一字一字が大きいことです。三国時代までの鏡の中では異例の大きさです。これに連動して櫛歯紋帯が欠落しています。後漢鏡の系譜としては、銘帯の外側の櫛歯紋帯が欠落することは極めてまれで、そういう意味では、できの悪い偽物とも見えてしまいます。
ただし、三角縁神獣鏡の系譜では、銘帯に小乳や方格を配したり、唐草紋を刻むなど、通常の後漢鏡の系譜にはあり得ない多様性が数多く認められます。なるだけ多様性をもたせて大量につくろうとした結果、図像構成などの約束事を逸脱、同笵鏡が数多くある異端の鏡群となりました。そうすると、今回の鏡にある銘帯が太く、櫛歯紋帯が省略されている約束事の逸脱は三角縁神獣鏡群の許容範囲だと思えるのです。
さらに、今回の鏡の銘は「吾作明竟」で始まり、「吾作」系鏡群であることがわかります。「吾作」系鏡群は第Ⅰ段階から第Ⅴ段階まで、長期にわたって多様な三角縁神獣鏡があります。神獣はつり上がった眼に鼻筋が通る点、神像は渦巻き状の冠をかぶり、服のヒダが密に刻まれる点などの作風の特徴が指摘されています。これらは今回の鏡にピッタリ当てはまります。
ちなみに、神像のひざ下の台の表現や、つり上がった眼で鼻筋が通り、巨と呼ばれる棒をかむ怪獣は対置式神獣鏡や同向式神獣鏡にはありません。環状乳神獣鏡の図像表現の影響と考えます。そして、三角縁神獣鏡中で環状乳神獣鏡の構成を取り入れたものは唯一「吾作」系に限られるのです。
大きな共通点は銘にもあります。本来の後漢鏡で「上有仙人不知老」とされる字句を、「吾作」系三角縁神獣鏡の中には「古有聖人東王父」と刻むものがあります。今回の鏡は「上有聖人東王父西王母」と刻みます。また、「有」字の第一画をカギ形にする癖、「獅子」・「辟邪」・「壽」字の略し方などが共通します。
新たな三角縁神獣鏡としても、三国時代の遺構に伴う確証がないので、後の時代に踏み返された鏡かどうか、検討する必要もあります。写真を視るかぎり、銅質や鋳上がりはよく、銘や図像の線刻は非常に鋭利で鮮明です。対して、外区の複線波紋や圏線が太くなります。これは外区を平滑に研ぎ出し(キサゲ処理)、丁寧に研磨したことを示します。踏み返し鏡は研ぎだされた鏡から型をとるので、研ぎ出しの簡略が多く、さらに研ぎ出して紋様が潰れる部分が多々見受けられるのです。その他、踏み返し鏡によく見られる鈕座のつぶれや鋳肌のザラツキなどが今回の鏡にみられず、後の時代のコピー鏡とは思えません。
今回の鏡の正体はいずれ明らかになるでしょう。真偽がいずれにせよ、三角縁神獣鏡の分布は列島にかたより、この趨勢は変わらないでしょう。つまり、製作工房がみつかったのではなく、製作地が列島か、半島か、洛陽かを確定する決定打にはならないことです。
最後に、今回の鏡が与える影響についての私見です。わたしは第Ⅰ段階の三角縁神獣鏡や関連鏡群に「景初三年」・「正始元年」・「景初四年」銘があることから、『魏志』倭人伝の「銅鏡百枚」と考えています。第Ⅱ段階は狗奴国と交戦を報告し黄幢を渡された正始四~六年(二四三~二四五)の朝貢時、第Ⅲ段階は台与による泰始二年(二六六)の朝貢時などと推定します。正史に鏡の下賜が記載されないことから、帯方郡までの遣使でもその地で下賜されたと考えます。
実際、古墳から複数の三角縁神獣鏡が発見された場合、第Ⅰ段階のみはありません。もっとも古い奈良県黒塚古墳・大阪府安満宮山古墳・兵庫県西求女塚古墳では、第Ⅰと第Ⅱ段階の鏡が混在し、二四五年以降、二六六年までに古墳が成立して、副葬が始まると考えます。理化学分析(放射性炭素法)から推定された年代観と、奇しくも合致します。
今回発見の鏡は第Ⅱ段階の構成でありながら、図像の隙間を粒々で埋める点や銘文が大きな字で刻まれる点など、第Ⅲ段階の鏡によくみられる要素も含まれます。そうすると、第Ⅱと第Ⅲ段階で下賜された鏡群の間に作られた過渡的鏡かもしれません。つまり、倭国に下賜されなかった時期の製作です。このような分析が製作地論争の決着に一石を投じることを期待します。

※一 王趁意氏の論文抄訳。
田中勝氏が作成し、読みやすいように西川寿勝が句読点を調整し、用語を加筆・修正した。

近年、中国で笠松紋をもつ三角縁神獣鏡が一面発見された。この鏡は直径一八・三センチメートル、厚さ〇・五センチメートル、半円鈕で円座、そそり立つ三角縁、高肉彫りの神像と獣形が求心式に配列される。銘文は典型的な東漢代の隷書体で、字句は完備しており、民間工房で書き写されたものではなく、官営工房で書写を任務とする少府の工人が製作したものである。
笠松紋とは日本の学界で三角縁神獣鏡研究の学術用語である。日本で出土する古墳時代の鏡で、外縁の断面が三角形を呈する神獣鏡の紋様に類似したものがある。松の枝葉に形がよく似た一種の装飾紋様である(1)。本論は最近洛陽で発見された一面の笠松紋のある三角縁神獣鏡から推察し、関連する研究者に問題提起するものである。
この鏡は、直径一八・三センチメートル、厚さ〇・五センチメートル、半円鈕で円座、そそり立つ三角縁、神像と獣形は求心式に配置する。紋様は高肉彫りに線刻を加え、画像や工芸にある神像と獣形を刻む(図一)。普遍的な漢鏡と異なり、西王母と東王公が乳を挟んで相対する区画に配置する構成である。この鏡は主神の西王母と東王公とに、それぞれ一つの瑞獣を伴わせ、乳を挟むように両側に配置する。その様式は日本の「吾作」銘三角縁四神四獣鏡(図二)と、基本的に同じである(2)。
この鏡は四つの乳を中心として、鏡背の主紋様を四区画に分け、それぞれの区画に紋様を彫刻する。
鏡にある銘帯の「寿吾」の内側にある高肉彫りの二神は、左側が西王母で、頭に双髻(そうげい)冠を飾り、方形の簪をさし、方形の顔に大きな耳、横長の眉、楕円形の大きな瞳、高い鼻筋、V字形の襟をもつ袍衣を着る。C字形の座上に正座し、両肩からは複線の羽が生える。右側の神像は頭に三山冠を戴き、東王公である。V字形の襟をもつ袍衣を着、襟の外側にはフリルがある。くっきりとした眉、大きな瞳・高い鼻で、C字形の座上に正座する。東王公も両肩から複線の羽が生える。
この一組の神像と相対する位置に「西王母」の銘があり、その内側には乳を挟んで両側に神像がある。相対する二組の神像は基本的に類似するが、最大の相違点は、一、主神の西王母と東王公の二神像は左右それぞれ異なる位置にあり、二、西王母と東王公のC形の座の下に三連の珠点がある組と、ない組がある、ことがあげられる。
「真大好」の銘の内側にある乳の両側それぞれに獣形が彫られる。方形の顔に大きい耳、開いた口に厚い唇、丸い瞳に横長の眉、豊かな鳩胸に肥えた腿をもつ。二つの獣形はそれぞれL字形に折れた矩紋を銜える。
乳の右側の獣形の頭部には枝分かれした獣角がはえ、角の先には珠点がある。左側の獣形の頭部の角は、隙間が狭く表現されていない。二獣の間の乳には笠松紋が取り付く。節を刻んだ短い柄があり、柄の上に一段の笠松がある。先端は皿状の宝頂である(図三)。
「口銜巨」の銘の内側にある乳の両側にもそれぞれ獣形が彫られる。形は「真大好」銘の内側にある二獣と類似する。ただし、この二獣には、?(たてがみ)があり、耳は無く、角もない。二獣間の乳にも、笠松紋が取り付く。節を刻む短い柄で、柄の上には二段の笠松を刻む(図四)。
ここで重要な指摘として、この鏡には乳に取り付く短い直線的な柄を持つ、一段の笠松紋と二段の笠松があり、柄には竹節が刻まれることである。この笠松紋の意匠は、私たちがよく知っている日本の三角縁神獣鏡の笠松紋の意匠と細部までことごとく一致することである。読者は日本の三角縁四神二獣鏡にある一段・二段に重なる笠松紋を参照し(図五)、見比べて同意してほしい(3)。
内区主紋様の外側には一周する段があり、その斜面に鋸歯紋帯、さらに段の外側には幅広の銘帯がある。
銘帯は三個の珠点から始まる。銘文は「吾作明竟真大好、上有聖人東王父、西王母、獅子辟邪口銜巨、位至公卿子孫寿」である。銘文は典型的な東漢の隷書体で、字は大きくて優れ、整然としている。筆致は力強く勢いがあって、脱字や簡略した字もなく、語句も完全に整う。民間工房で書き写されたものではなく、官営工房で書写を任務とする少府の工人が手がけたものである。
もっとも特徴的な点は、銘文の軸線を一定させるため、銘帯の中央にケガキ線をめぐらせていることにある。ケガキ線は一周する間にかすれて消えるところもあるが、高度な工芸技術を保っており、当該鏡を設計制作する過程で少しもなおざりにしない、精密さを求める工匠の精神がうかがえる(図六)。
銘帯の外側には幅広の外区がある。外区紋様は複線波紋帯が一周し、それを挟んで内外に鋸歯紋帯がある。さらに、外縁部はそそり立つ三角縁で、おおよその角度は七八度である(図七)。
この鏡の紋様は精密で、高肉彫りの工芸的価値も高い。神像は五体の表現がきめ細かく精緻で、顔の表情には威厳がある。獣形は躍動的で、風格もよく、工芸的価値が高く、均整が保たれ、精密に細かく、形骸化していない。尚方官営工房の鏡の特徴を極める。
ひろく日本の三角縁神獣鏡の研究者に知られていることだが、笠松紋は日本の三角縁神獣鏡に限定的で、また普遍的な紋様である。最も時代を象徴する意義のある紋様装飾で、この紋様装飾が百余年前から日本の三角縁神獣鏡研究に現れ、命名され、今に至るまで解明できず、神秘性につつまれてきた。数代にわたる日本の考古学界の巨頭や専門学者(二十世紀末の中国の学者も含めて)が、精神を尽くして熟慮し、年月を費やして研究を深めていったが、今日に至るまで、わずかな成果を除いて、解明は困難を極め、笠(傘)松形の命名以外に、その内在する文化について、少しも道理ある解釈ができなかった。王仲殊先生の数次の論文では、日本の三角縁神獣鏡にある「最も普遍的に存在する‘笠松形’の紋様は、中国のいくつかの画像鏡に見られる旄(はた)が進展・変化したものとされるが、その独特の様式はどの中国鏡にも見られない」と指摘される(4)。中国では過去に全く出土したことがない、笠松紋のある日本の三角縁神獣鏡が発見されたことにより、極めて重要な学術的価値を提言できるのである。
この鏡の三角縁には深い錆びがこびりつき、鏡面にも褐色錆びが散る。わずかな錆のない所を通して、鏡面の銀光を写すことが出来る。これは典型的な黄河中流域で出土する銅器の錆び具合の特徴である。神獣鏡といっても、紋様装飾の点から、神像と獣形の表現、工芸的風格、出土の特徴、とりわけ銘文の書体の各要素、これらを総合的に見ると、同時期の呉の領(国)域に分布する神獣鏡とはたいへん相違している。このため、私はこの鏡が三国時代の魏の鏡だと認識し、製作の上限は三国時代より早めることはできず、製作の下限は西晋時代より遅くすることもできない。この鏡が発見されて以来、洛陽で保管されてきたのである。
私はかつて、日本の三角縁神獣鏡の鏡群の範囲を調べ、この鏡の分類を思い至った。また、今後の研究をさらに詳細にして、記述表現の便宜をはかるため、この鏡は暫定的に「洛陽三角縁笠松紋神獣鏡」と命名し、一般には略称として、洛陽三角縁笠松鏡とする。
この鏡は日本の学界が認定している日本の三角縁神獣鏡の六大必要条件を参照すると(5)、直径の標準が二〇センチメートル以上であることを一・七センチメートルほど下回ることを除けば、その他の五項の条件をすべて備えている。そればかりではなく、二つの笠松紋を多く備えているのである。日本の三角縁神獣鏡の定説に従うと、私はまだ、この鏡だけでは時期尚早なことが判っている。中国で探し出した一面の日本の三角縁神獣鏡は、日本の考古学界の百年の夢であり、洛陽三角縁笠松鏡は夢の鏡に十分であろうか?(6)
今後、私は日本の三角縁神獣鏡と関連し、継続して洛陽三角縁笠松鏡の分布範囲が、魏鏡になるかどうか、その銘文の文字の特徴、神像・獣形の紋様装飾の特徴、当該鏡の金属組成の特徴を調べたい。最も重要なことは、すでに膨大な出土量となる五〇〇余面の日本の三角縁神獣鏡に対して、洛陽三角縁笠松鏡の歴史、学術的属性の問題をどう位置付けられるのか、一つずつ探索し、論証していきたい。
洛陽三角縁笠松鏡が中国国内で発見されたことは、日本の三角縁神獣鏡の千年来の謎を解明するうえで、重大な突破口である。この鏡は日本の三角縁神獣鏡の謎を解く一つの鍵であり、他の日本の三角縁神獣鏡の研究を推し進める連環ともなるだろう。

参考文献
(1)椿井大塚山古墳出土三四号鏡 奈良県立橿原考古学研究所他『大古墳展』東京新聞 大塚工藝社 二〇〇〇
(2)黒塚古墳出土一九号鏡 奈良県立橿原考古学研究所他『大古墳展』東京新聞 大塚工藝社 二〇〇〇
(3)真土大塚古墳出土鏡 樋口隆康『三角縁神獣鏡綜鑑』図版一八―三二 学生社二〇〇〇
(4)王仲殊「日本三角縁神獣鏡総論」『考古』一九八四―五
(5)中国文献で参照されたいのは、王仲殊訳の『日本三角縁神獣鏡綜論』一九八四「日本の考古学で、‘三角縁神獣鏡’の範囲は、縁の断面が三角形を呈している神獣鏡を指すのみでなく、必ず以下の各種の備えていないといけない。①多くは直径が二〇センチメートルを越える大型鏡である。②鏡の外区に鋸歯紋帯に挟まれた複線波紋帯がある。③内区の周囲に一周する銘帯、あるいは紋様帯があり、後者は獣紋帯・唐草紋帯・複線波紋帯、あるいは半円方格帯となる。④内区主紋様は四個ないしは六個の‘乳’で均一に区画され、その間に神像と獣形とが配置される。⑤図紋の配置は求心式と同向式の両種がある。⑥銘帯内の銘文は各種の形式がある(略)」。
(5)日本文献で参照されたいのは、樋口隆康『古鏡』新潮社 一九七九
(6)車崎正彦はその論文の末尾に学者の身でありながら大変情緒的に述べている。「(論文)に少なからず未だ論及していない点があるけれども、私はかえって日本の三角縁神獣鏡が中国で出土する日が来ることを夢見て筆を擱く。」車崎正彦「国産ないし舶載」『古墳研究最前線』一九九九 

抄訳者田中勝氏談
「現代中国語に堪能でも無く、三角縁神獣鏡に関しても十分な知識を擁していないために、直訳調で生硬な訳文である上に、誤訳も多々有ると思いますが、ある程度は王趁意氏の新発見の〈洛陽三角縁神獣鏡〉の紹介文の内容を伝達できたかと考えます。優秀な訳文が出されるまでのつなぎとしてお読み下さい」。

※二 本論は、西川寿勝「洛陽発見の三角縁神獣鏡」『古代史の海』七九号 二〇一五年三月二十日刊行
西川寿勝「邪馬台国研究にあたって」『邪馬台国新聞』創刊号 全国邪馬台国連絡協議会 二〇一五年四月二七日刊行
西川寿勝「唐古・鍵遺跡が語る邪馬台国」『邪馬台国』洋泉社 二〇一五年五月二五日刊行
等に掲載されたものに加筆修正したものです。

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