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継体大王の大和入りを考える(西川寿勝先生)

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はじめに
『日本書紀』は男大迹天皇(以下、ヲオド王・継体天皇)が河内の樟葉で即位し、山背の筒城・弟国と宮を移動しながら、即位二〇年にして、大和の磐余玉穂宮に至ることを記します。
二〇〇七年は継体天皇が即位してちょうど一五〇〇年の節目ということで様々な催しがありました。講演・シンポジウムが盛んに行われました。
概して、この頃の話題は、継体天皇は本当に応神天皇五世孫であるのか、出生や養育などの出自が検討されたように思います。わたしも考古学成果を紹介する講演・シンポジウムに招かれまして、その一部は『継体天皇二つの陵墓、四つの王宮』という本になりました。
わたしは宮を四つも移動したこと、即位二〇年目にして大和に宮を置いたことが他の天皇と比較して、きわめて異例だと思っています。継体天皇がなかなか大和で治世できなかった理由を検討しました。
これについて、大王に抵抗する大和の豪族勢力があったと、古くから考えられていました。現在は、大和の反対勢力とは具体的に誰なのか、議論になっています。
さらに、継体天皇即位前後の動向については新たな論争になりつつあるようです。ひとつは、二〇一〇年に、府立近つ飛鳥博物館で「継体大王の時代」という特別展が開催され、それにあわせて、白石太一郎館長が武烈天皇や顕宗天皇の陵墓、さらにはその実在性について示されました。武烈天皇の実在性や陵墓の問題は、それ以前に塚口義信先生が意見を出しておられ、これに対抗する形となったわけです。
さらに、昨年(二〇一三年)一〇月の古代学研究会で八尾市の米田敏幸先生が両天皇の陵墓について、さらに違った案を提示され、論文にもなりました。しかし、一月の同研究会で、奈良県立橿原考古学研究所の坂靖先生がそれを否定する見解を述べられています。
それで、今年の四月に、塚口先生の司会で、わたしと水谷千秋先生、それに米田先生が加わり、講演とシンポジウムが行われました。わたしも遅ればせながら自身の意見を提示したのです。こういう状況なので、現在は、武烈天皇が非常に注目されているわけです。塚口先生は今月末にも日本書紀研究会でこの話題について、研究発表される予定になっていますし、わたしも来年の一月に天満で、二月に枚方で、武烈天皇の講演を聞いていただく予定になっています。
そうしますと、今回の講演でも、武烈天皇の論争をお話ししたかったわけです。しかし、そのまえに継体天皇時代の反対勢力の動向について、ぜひ私の意見を知っておいていただきたく、申し訳ありませんが、武烈天皇の話題は次の機会を与えていただきたく思います。

一 継体天皇に対立する大和の勢力
継体天皇がなかなか大和に宮を置けなかった理由として、反対する勢力の研究が数多く示されています。おもに文献史学の先生によるもので、大要を説明します。
まず、一九五〇年代に直木孝次郎先生が反対勢力は物部氏と大伴氏で、ヲオド王は長い遍歴のあいだに実力を蓄え、風を望んで大和入りした、と記します。そのいきさつは神武天皇東征伝承がモデルといいます。
林屋辰三郎先生は反対勢力を蘇我氏と表明します。林屋先生は、蘇我氏が履中天皇時代や雄略天皇時代にすでに国政に参加していたという『日本書紀』の記述を評価します。ヲオド王を擁立した大伴氏に対抗する勢力がいつまでも倭彦王の擁立に執着したため、たやすく大和入りできなかったとの分析です。
岡田精司先生は反対勢力を平群氏と説き、二〇年に渡って抗争が繰り広げられたと考えます。武烈天皇の在位中、大伴氏・和珥氏がヲオド王を擁立し、物部氏は途中で武烈側からヲオド王側に寝返って、平群氏は滅亡するという構図です。大和では二〇年に渡る内乱があったと推定する説です。
水谷千秋先生は内乱説を否定し、葛城氏と推定します。葛城氏は五世紀後半に力を弱めるのですが、完全に没落しておらず、前王朝と深い関係があったため、ヲオド王擁立の大伴氏・和珥氏・物部氏・中臣氏・茨田氏などと対立したといいます。最終的に葛城氏は衰退し、葛城北部がヲオド王の所領となっていくのですが、継体天皇は比較的平和裡に大和に入ったと推定します。
大橋信弥先生は王権の分裂構造を推定します。雄略天皇崩御後、顕宗・仁賢天皇を播磨から迎えて擁立する一派と、継体天皇を近江から迎えて擁立する一派があり、王統が分裂したというものです。この対立は仁賢天皇の娘の手白香媛を継体天皇に嫁がせることで、二朝は妥協されていくというものです。
その他にも、いろいろな説があるのですが、まるで邪馬台国論争同様、文献史料の精査だけではこの問題は結論付けできない状況だとわかります。
わたしはこの時代の考古学資料を中心に以上の先生方とは別の案を提示しています。それは、継体天皇が大和入りできなかったのではなく、大和に入らず長年に渡って大和を封鎖していたのではないかという案です。とくに水系による物流の遮断が重要で、「水上封鎖」という言葉で呼んでいます。
今回はその説明をします。

二 継体天皇時代の二つの奇妙な現象
高槻市教育委員会は真の継体天皇陵とされる今城塚古墳を十一年にわたって発掘・整備してきました。その結果、大王墓の構造・埴輪群像・三種類の石棺などが明らかにされました。
わたしは様々な考古学成果のなかでも、古墳内から造営段階の時期を位置づける土器(須恵器)が発見されたことが極めて重要だ、と思っています。発見された須恵器は府内の泉北丘陵で調査された陶邑窯出土資料をもとにした編年に対比され、その時期はMT一五(陶器山一五号窯出土土器)型式からTK一〇(高蔵寺一〇号窯出土土器)型式でした。細かく見れば、今城塚古墳造営中の埴輪工房で使われていた土器がMT一五型式、古墳が完成し、造り出しや埴輪祭祀場が完成し、祭祀に使われた土器には次段階のTK一〇型式が少し含まれるというものです。つまり、MT一五型式の段階の土器が使われていた時代こそ継体天皇の活動期、つまり継体天皇時代ということです。
これまで、前方後円墳集成事業で古墳が一〇期区分の編年で区分けされていました。今城塚古墳は8期の指標とされてきました。しかし、前述の発見土器より、古墳は9期まで降ることが確定しました。したがって、継体天皇時代は9期の前方後円墳がつくられていた時代だったと訂正されたのです。そして、継体天皇時代とは『日本書紀』の干支より、おおよそ五〇〇年代初めから五三〇年頃と推定されているのです。
さて、発見土器の型式から導かれた継体天皇時代の集落が、第二京阪自動車道の建設や北河内地区の大規模開発に伴う発掘調査によって、つぎつぎと明らかにされました。寝屋川市讃良郡条里遺跡・四條畷市蔀屋北遺跡などは馬飼集団に関わる集落です。馬具や馬の埋葬土壙、馬の飼育に欠かせない塩を生産した製塩土器が大量に発見されたこと、百済に由来する韓式系土器などが含まれることなどの特徴があります。
ところが、細かく観察すると、MT一五型式の古墳群の消長や須恵器の流通に、不可思議な点があるのです。一つ目の奇妙な現象です。わたしは陶邑窯跡群の陶器山地区の調査や土器の整理に一〇年以上たずさわりました。そこで、須恵器の流通・集積・選別を行なってきた集落の実態を調査しました。しかし、大量に発見された須恵器のなかに、MT一五型式の須恵器や遺構はまったくなかったのです。
そもそも、MT一五窯自体も発掘調査されておらず、標式の資料はMT一~二〇におよぶ窯推定地の下部にあるため池から採集された土器片でした。大阪府が調査・整理した十万箱におよぶ資料にMT一五型式の資料は極めて少なく、二六〇〇点に及ぶ標識資料とされる重要文化財指定資料にもほとんどありません。
要するに、陶邑窯跡群では四〇〇年頃より八〇〇年代の長きに渡って、一〇〇〇基ほどの窯が大規模に連綿と操業していたにもかかわらず、継体天皇時代にあたるMT一五型式の段階のみ、窯の操業が著しく減少するのです。
この現象について、もともとMT一五型式は形態変化の過渡的様相で、操業期間が短かったという意見がありました。しかし、今回発掘された北河内での集落遺跡の存続期間などによって、MT一五型式はある程度の時期幅と生産量が実証されます。MT一五型式が他型式同様の時期幅と流通範囲をもって展開するなら、陶邑窯以外での操業・供給を想定すべきなのです。
その答えとして、豊中市桜井谷の須恵器窯の調査が進み、継体天皇時代の須恵器はどうも泉北丘陵の陶邑ではなく、千里丘陵で作られ、流通していた実態がつかめつつあります。それにしても、どうしてこの時期に限って、土器の流通が変わってしまうのでしょうか。
もう一つ、奇妙な現象があります。大和・河内の古墳群の消長を観察すると、これまた継体天皇時代にあたる8期末から9期の巨大古墳が見当らたないのです。なかでも、佐紀盾列古墳群・百舌鳥古墳群は、7期で古墳造営が終了します。厳密には8期にも古墳造営は続くのですが、小規模古墳が数基のみといった激減です。古市古墳群・馬見古墳群においても、9期の巨大古墳はなく、造営される古墳は小さくなります。
ただし、前方後円墳編年においても、各時期が均等な時間幅だったとは理解されておらず、9期のみ非常に短い期間だったと考えれば8期から10期に巨大古墳づくりが継承されたという図式が成り立ちます。しかし、8期後半の羽曳野市仲哀陵古墳(岡ミサンザイ古墳・全長二四二メートル)を雄略天皇の陵墓と推定すれば、9期後半に継体天皇の今城塚古墳(全長一九〇メートル)が完成するまで、半世紀近くの時期幅が見積もれます。
仲哀陵古墳(岡ミサンザイ古墳)を雄略天皇の陵墓と仮定し、継体天皇時代まで造営が続いたとすれば、巨大古墳造営は間断なかった可能性も否定できません。しかし、この古墳の場合、当初に完成した墳丘の埴輪と、最後に形成される外堤の埴輪に型式差がないこともわかっており、巨大古墳がそんなに長い時間をかけて完成したとは思えません。
さらに、河内・大和で8期末から9期に

巨大古墳の造営が少ない現象に対し、地方では陸続と巨大古墳の造営が続けられていることも奇妙です。例えば、筑紫では八女市八女古墳群に代表でき、磐井墓とされる岩戸山古墳(全長一三二メートル)があり、MT一五型式の須恵器が発見されています。出雲では松江市山代・大庭古墳群に代表でき、武蔵では行田市埼玉古墳群に代表できます。埼玉古墳群は「辛亥(しんがい)年(ねん)」銘鉄剣が発見された稲荷山古墳から創始され、次代の丸墓山古墳・二子山古墳などの造営時期にあたります。
また、今城塚古墳(全長一九〇メートル)と同規格ないし、古墳設計に関連が指摘できる豪族墓も多く、出土遺物からも8~9期を確認できます。名古屋市断夫山古墳(全長一五〇メートル)・味美二子山古墳(全長九五メートル)・大須二子塚古墳(全長一三八メートル)、宇治市二子塚古墳(全長一一〇メートル)などです。さらに、紀州では紀氏の首長墓と考えられる和歌山市大谷古墳・井辺八幡山古墳などがあり、岩橋千塚古墳群の造営も盛期を迎えます。
ただし、大和にまったく古墳が造られなくなるわけではありません。オオヤマト古墳群に、手(た)白(しら)香(か)皇女(こうじょ)墓と推定される天理市西山塚古墳(全長一一〇メートル)があり、和珥?姫(わにはえひめ)の本拠とされる天理市萱生(かよう)古墳群でも全長一〇〇メートル前後の古墳に視野を広げれば、8~9期にかけて6基も造営が継続するのです。
継体天皇時代は河内・大和で顕著だった全長二〇〇メートル超えの巨大古墳造営が断絶し、地域首長の古墳と大差なくなります。この現象について、考古学研究では中期古墳から後期古墳への移行として捉えられる場合があります。すなわち、大和・河内では古墳規模や外表施設への執着から、巨大横穴式石室を主体部に導入し、前方後円墳の祭祀を変質させていったことが巨大古墳を終焉させたとするのです。
また、四〇〇年代までの古墳造営は突出した有力者の事業でした。五〇〇年代以降は、渡来人も増え、より低層階級まで古墳造営が可能となり、群集墳が爆発的に増加しました。造墓傾向が一変する時代の変革ばかりが注目されているのです。
しかし、奇妙さを引き立たせることとして、10期になると巨大古墳・大型古墳の造営が再び復活することです。大和最大の前方後円墳、見瀬丸山古墳(全長三二〇メートル)は10期に造営されています。河内にも同規模の河内大塚山古墳が出現します。つまり、中期から後期への古墳の変容は巨大古墳造営を終焉させた理由ではないのです。
わたしは河内・大和に巨大古墳が断絶する現象がとりもなおさず、百舌鳥・古市・佐紀・馬見などにあった伝統的造墓集団と労働力の解体を示すと読み説いています。

三 継体天皇の大和水上封鎖説
『日本書紀』による継体天皇の大和入りまで長期間に及ぶ対立関係があったとすれば、前節に示した考古学資料による継体天皇時代の須恵器流通の沈滞・伝統的造墓集団と労働力の解体による巨大古墳造営の断絶も関係するのではないでしょうか。わたしは、継体天皇が反対勢力によって、長年にわたって大和入りを阻止され、宮を転々としたのではなく、大和を封鎖する形で反対勢力と対峙していたと考えるのです。
この間、大和への物流は停滞し、国家管理の陶邑窯群では須恵器の生産が縮小し、大和・河内では巨大古墳を担ってきた造墓集団も縮小・解体してしまうのです。その実態は大和に通じる河川や交通路の封鎖という言葉で説明できるのです。
水上封鎖とは、陸上における関所に対し、海域や水系などの交通路に立ちはだかって、交易・運輸・通行の是非を選別、または賦課(ふか)して自由をうばう状況です。対して、包囲戦・籠城戦などは武力によって移動を完全に遮断し、短期に物質的・精神的な困窮へと導く戦争状態です。水上封鎖は支配権や治安維持を明瞭にするもので戦闘状態ではなく、長期にわたって効力をえるものです。
古代におけるこのような封鎖事例はよくわかっていないのですが、中世・近世では多くの例があります。現代でも核査察受け入れや紛争介入をめぐって、国連加盟国などがイランや北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)やロシアへの貿易を厳しく制限しています。ただし、戦争状態ではありません。
わが国では戦国時代、信長が本願寺勢力を水上封鎖で崩壊させました。これは一〇年にも及ぶ緩やかな封鎖で、城を囲んで兵糧攻めさせたものではありません。都市民が集い、経済的・宗教的に結束していた寺内町を緩やかにとりかこむことによって、物流や人の移動を沈滞させ、長期的に反対する勢力を氷解させようというものです。信長による長年の水上封鎖によって、ついに本願寺の蓮如は鷺の森に移動、大坂本願寺が開城しました。
幕末の黒船来航の騒乱も有名です。ペリーは幕府の鎖国に対し、軍艦で江戸を攻撃して解決するつもりはありませんでした。浦賀に停泊し、執拗に下田の開港をせまったため、幕臣間で激論となったのです。下田は伊豆半島の先端にあり、上方と江戸を結ぶ航路上に位置します。ここを軍艦で水上封鎖すれば、上方の物流は沼津・清水までとなるのです。ここから江戸まで陸路を使うとしても箱根の山塊を越えなければならず、物資輸送は大きく阻害されます。
さて、盆地にある大和の場合、大和川水系・淀川水系を封鎖すれば、物流は大きく滞ります。それが長期に及べば相当な圧力です。継体天皇が宮を転々としたという記述は移動を繰り返したのではなく、淀川沿いの物流について、樟葉・筒木・弟国で水路・陸路の封鎖拠点を行き来しながら、大和をにらんでいたのではないでしょうか。
大和川水系については河口にあたる北河内地域に河内馬飼集団がいました。四〇〇年代後半から五〇〇年代中頃にかけて、広域に集落を発展させます。寝屋川から四條畷の諸遺跡の発掘調査によって準構造船の部材を利用した井戸枠がいくつもみつかっており、馬のみならず、河内湖の沿岸を船で盛んに往来する実態もわかってきました。
加えて、継体天皇が北河内の茨田連娘の関姫、東海の尾張連娘の目(めの)子(こ)媛(ひめ)など、大和の東西に勢力をもつ複数の豪族と婚姻を通してむすびついた理由は、大和への東西からの陸路にも影響をあたえたと考えられます。また、継体天皇自身の出身母体である近江や越前などとも連携し、大和入りせずに大和に継体天皇の絶大な権力を誇示できたのです。
実際、継体天皇時代の北摂・山背・近江などでは、尾張系埴輪と呼ばれる特徴的な須恵器製作技術を取り入れた円筒埴輪を飾る古墳が散見されます。これらは継体天皇を介して、大和を除く地域首長が連携を強めた傍証でしょう。先に示した今城塚古墳と設計企画を等しくする名古屋市断夫山古墳・味美二子山古墳などの大型古墳がこの時期に造営されることとも整合するのです。
大和川下流域の事情を付け加えます。仮に、難波堀江が継体天皇時代に成立していたならば、その掌握こそ、大和への物流を制御する要点でしょう。堀江は開削によって誰でも自由・安全に往来できるようになったのではありません。堀江の管理者に迎合する必要があるのです。その意味において、欽明十三年に物部氏がわざわざ堀江に蘇我氏から奪った仏像を捨てさせたことは示唆的です。物部氏は王権から託された堀江の通行権を蘇我氏(崇仏派)に制限することを示したと思います。このことが両氏の対立を決定づけ、戦争に発展します。蘇我氏は物部氏の難波館奪取から戦闘を開始します。しかし、難波堀江の通行権が蘇我氏に掌握された時代も長くは続きませんでした。大化改新がおこります。今度は蘇我氏から中大兄皇子らが堀江の通行権を奪い返し、天皇自らが難波遷都に至るのです。

四 水上封鎖、二つの論証
『日本書紀』による継体天皇の大和入りまでの歳月、考古学資料による五〇〇年代前半の須恵器流通の沈滞と巨大古墳造営の断絶について、継体天皇による水上封鎖を理由としても、それを論証できなければ、単なる推論に過ぎません。
みなさんに納得していただく二つの論拠を示したいと思います。ひとつは『記』『紀』に水上封鎖の記述があるかどうかです。もう一つは発掘調査などによって水上封鎖の痕跡がみつかるかどうかです。もちろん、この二つが完璧なら、仮説とする以前の問題で、議論の余地はないのでしょうが。
まず、古代における水上封鎖の記述は『日本書紀』に四ヶ所あります。ひとつは雄略天皇十三年の播磨国御井(みい)隈(くま)のアヤシノオマロ(文石小麻呂)の伝承です。オマロは「道路の通行を妨げたり、ものをかすめたりした。また、商人の船を差し止めて、品物を奪ったりした。にもかかわらず、法にそむいて税を納めなかった」と記します。その結果、兵士百名が派遣され、家を囲まれ焼け死にます。播磨の御井隈がどこなのかは確定していません。街道の往来や船舶による交易を遮断して通行料などを取ったのに税を納めなかったというのです。瀬戸内海と大阪湾を結ぶ明石海峡付近で西街道と航路を封鎖したのでしょう。
同様の事例として、神功皇后が新羅から凱旋するとき、カゴサカ王とオシクマ王が「天皇のために陵墓をつくる真似をして、船団を明石から淡路にわたし、石を運ばせた。そして、人毎に武器を取らせた」という伝承です。これは明石海峡を封鎖して、神功皇后を迎え撃ったという物語です。明石海峡から淡路島を望む段丘には三〇〇年代後半の造営とされる全長一九五メートルの五色塚古墳が造営されています。古墳を覆う大量の葺石は淡路島北端の岩屋の海岸からもたらされたことがわかっており、古代からこの海峡をさかんに往来したことがうかがえます。
三つ目は斉明天皇四年(六五八)の有間皇子謀反計画に関する記事です。白浜温泉に行幸中の斉明天皇に対し、有馬皇子は具体的に語ります。「まず、飛鳥の宮室に火を放って、五百人で一日両夜進軍し、田辺の牟婁津(むろのつ)に迎え撃ち、いそぎ水軍で淡路国をさえぎりましょう。そうすれば斉明天皇は牢屋に閉じ込められたようになって、謀反が容易になるでしょう」という記事です。陸路を白浜西方の田辺湾牟婁津で遮断し、海路は水軍で紀淡海峡を遮断すれば封鎖できるという提案です。実際には封鎖戦が実行されることなく計画が発覚、皇子は処刑されました。
四つ目は継体天皇が磐余玉穂宮に移った翌年におこる磐井の反乱記事です。『記』『紀』や『風土記』逸文にも反乱伝承が記載されており、反乱は動かしがたい史実でしょう。なかでも『日本書紀』は反乱のいきさつから鎮圧後の処遇までを具体的に記します。奈良時代の編纂時に、唐の『芸文類聚』などを手本に潤色・加筆された部分もあるのですが、大伴氏の先祖の功績におよぶ記事を含むことから、出所は大伴氏の家伝という説があります。
『日本書紀』は乱の発端について、「磐井が肥前・肥後・豊前・豊後などをおさえ、職務を果たせぬ様にし、外は海路を遮断し、高句麗・百済・新羅・任那などの国が貢物を運ぶ船をあざむき奪い、内は任那に遣わされた毛野臣の軍をさえぎり、毛野臣に無礼なことを言いたてた」といいました。この状況はすなわち、水上封鎖です。
わたしは磐井が任那派遣軍などに積極的な戦闘を挑んだのではなく、消極的な妨害を繰り返したことに注目します。むしろ、戦端は継体天皇の追討軍によってひらかれ、負けた磐井の行為は後になって反乱と呼ばれたのです。『古事記』継体天皇段も追討の理由を「磐井が天皇の命に従わないで無礼なことが多かった」と記します。
『日本書紀』は足止めされた任那派遣軍の毛野臣に対し、磐井が「今、お前は朝廷の使者になっているが、昔はいっしょに肩や肘をすり合わせて同じ釜の飯を食った仲だ。使者になったからといって、お前に俺を従わせることなどできるものかと言った」と記します。当事者間の会話で、具体に過ぎます。しかし、この記事は評価され、近江の毛野と筑紫の磐井などの地方豪族が天皇に仕官する場合を認める研究が多数あります。
例えば、井上光貞先生は「遠征軍は国造を単位として編成されることが多く、九州でもこのように諸国造が出征と戦士の徴発をうけもった」とし、毛野臣と磐井の会話の文意について、徴発の拒否と説きます。
この文意は本当に徴発の拒否でしょうか。仕官という同じ釜の飯を食べた濃い間柄、親しい仲だからお前(毛野)に俺(磐井)は従ってやる(説得される)、であればよい話です。しかし、従わせることができないのですから理由があるはずです。すなわち、一緒に肩や肘をすり合わせた仕官自体が大和での軍事行動、つまり継体天皇の水上封鎖だったからではないでしょうか。要するに、「これまで継体天皇が率先してやっていた大和への水上封鎖を棚に上げて、自分達が封鎖されたことに対し、説得することなどできるものか」と解釈するのです。磐井は継体天皇が大和に移った直後に反抗します。偶然ではないでしょう。その結果、軍勢を率いながら毛野臣は前進をはばまれ、外征は中止になります。一年後、別の追討将軍が進軍し、戦闘というかたちで水上封鎖は解消されるのです。これがのちに反乱と呼ばれた真相だったのです。
以上、『日本書紀』に記された四つの諸例によって、水上封鎖が古代に遡ることがお分かり頂けたと思います。そして、四例目の磐井反乱記事は継体天皇が同様の行為をしていたことを示唆する記事を含むのです。
次に、水上封鎖の痕跡です。封鎖地点の一つは天皇が即位した河内の樟葉と推定します。この地は淀川が男山丘陵を迂回して大阪に注ぎ込み、川幅が狭く、流れが急なところです。しかも、南方に急峻な山麓がせまり、河内と山背の境をなす地域です。
かつては樟葉に北摂と河内を結ぶ渡しが設けられ、交通の要衝でした。『日本書紀』欽明一四年(五五三)には「天皇が樟勾宮(くすのまがりやのみや)に行幸され、王(おう)辰(しん)爾(に)を遣わし、船の税を記録させた」とあります。王氏は船司(ふねのつかさ)となり、姓を賜って船史と名乗り、後に船連の祖先となります。樟勾宮は明らかでなく、船税の徴収がどこにあったか推測の域を出ませんが、和田萃先生は樟葉周辺と推測しています。
そして、枚方市教育委員会は二〇〇七年より三カ年計画で枚方市楠葉の発掘調査を広域に実施し、重要な遺構を検出しました。結論的には継体天皇時代の遺構ではありませんが、水上封鎖の実態が突如現れました。
一八五四年、大阪湾天保山沖にロシア軍艦が来航したことをうけ、幕府は軍艦が淀川を遡上して、京都の天皇に圧力をかけることを恐れ、淀川河岸に砲台を備えて航路の封鎖を計画します。その設置場所が淀川河岸でもっとも水上封鎖の適地と予想した樟葉だったのです。
設置された楠(くず)葉(は)台場(だいば)は淀川下流に向けて大砲を設置、稜堡式(りょうほうしき)城塞(じょうさい)による防塁を築くものです。その内側に京街道が通り、関所の機能も兼ね備えます。対岸の島本町側にも高浜(たかはま)台場(だいば)が設けられ、河川を通る船や街道の往来を規制しました。
発見された楠葉台場は砲台のみならず、防塁・石積み・関門跡などに及ぶ大規模な水・陸からの封鎖施設で、残されていた絵図や地籍図とも合致しました。もちろん、これをもって継体天皇時代を復元することは出来ませんが、樟葉が淀川水系を分断する軍事上の適地になりえることが考古学的にも明らかにされたのです。
ちなみに、幕末に設置された砲台は、古代に水上封鎖の伝承が残る地点にことごとく設置されています。明石海峡の舞子・松帆、紀淡海峡の加太・友ヶ島・由良、関門海峡の門司・前田などです。そのうち、舞子台場は発掘調査によって、共通する石垣・稜堡式城塞の構造が解明されています。また、関門海峡では実際に黒船の進行妨害や砲撃事件もおこっていますね。

五 紀ノ川と「癸未年」銘鏡
大和の水上封鎖について、淀川の適地に宮を構えて監視し、大和川の下流域に河内馬飼集団が本拠をおいて監視していたことを説きました。陸路についても、街道要衝の豪族との婚姻が大和を挟み込むようにありました。
もうひとつ、大和に通じる交通路に紀ノ川水系があります。紀ノ川は上流の奈良県で吉野川と呼ばれ、渓谷を蛇行する急流です。大和へは峠越えがあり、物流は困難ですが、水上封鎖でこの水系のみ見逃されるはずはないでしょう。それを裏付ける資料が紀ノ川中流域から発見されています。国宝「癸(き)未(び)年(ねん)」銘鏡です。
この鏡は隅田八幡宮に江戸時代より伝わ

り、付近の古墳出土とされます。問題の鏡
の紀年についてはこれまで数多くの研究があります。癸未年を四四三年とすれば、銘文の「男弟王」は兄の反正天皇即位時の弟王のヲサアズマ(後の允恭天皇)、妃の忍坂大中姫の本拠である「忍坂宮」にいたということです。一方、五〇三年とすれば男弟王を「ヲオド王」と読ませ、継体天皇となるのです。母方息長氏本拠地とされる「忍坂宮」にいたという解釈です。しかし、五〇三年説は継体天皇の即位四年前にあたり、近江に発見される以前に大和に居たことは『日本書紀』の記載と矛盾を生じるのです。
ところが、この鏡の紋様から四四三年説は成り立たないことが確実視されるようになってきました。鏡は背面中央に西王母・東王父を刻んだ紋様があり、神人歌舞画像鏡と呼ばれます。そして、この紋様は中国鏡を手本にうつしとったことが確認できています。手本にされた中国鏡は大阪府郡川西塚古墳・京都府トヅカ古墳・福井県西塚古墳など、七つの古墳から発見されています。七面は同型鏡と呼ばれる同形・同大のコピー鏡です。ひとつの原形に粘土を押し当て、いくつもの鋳型を作ることによって製作された特異な鏡です。このようなコピー鏡は他の原形の鏡を含め、日本と韓国に一六種類一〇七面発見されています。
「癸未年」銘鏡にはこのようなコピー鏡の一つを忠実に模倣した紋様が刻まれています。ただし、紋様を鋳型にそのまま写し描いたため、製品は手本と図像が左右逆転しています。図像の配列を目分量にしたため、いくつかの図像が描き切れず、省略されています。このような失敗があるものの、図像そのものは姿かたちを忠実に写し、手本の鏡を確定できるのです。
さて、手本となった七面のコピー鏡がいつ鋳造されたかによって、「癸未年」銘鏡の紀年を限定することが可能です。結論的に七面の鏡は大半がMT一五型式かその直前の型式(TK四七型式)の土器とともに発見されているのです。さらに、手本の鏡のみに限らず、先に示した一六種一〇七面のコピー鏡で出土古墳の年代がわかるものはすべてTK四七型式以降の古墳出土であることが確かめられました。反正天皇の四四三年頃まで遡らないのです。
唯一、伝仁徳天皇陵出土とされ、ボストン美術館蔵のコピー鏡がありました。これをもって鏡も巨大古墳最盛期・あるいは倭の五王時代のものと評価し、允恭天皇時代である四四三年に手本となったコピー鏡の存在が説かれてきました。しかし、この鏡と同時にアメリカに持ち出された大刀や三環鈴はMT一五型式の古墳からよく発見されるものであることが確かめられ、仁徳天皇陵出土の確証も不確かなことから、コピー鏡の鋳造時期を四〇〇年代中頃まで引き上げる根拠は失われたのです。
手本となったコピー鏡は四〇〇年代中頃にさかのぼるものはなく、大半が五〇〇年前後に副葬が始まるもので、それを手本とした「癸未年」銘鏡の製作年代も四〇〇年代中頃をさかのぼる可能性がきわめて低いことがわかります。つまり、五〇三年と考えざるを得ないのです。
この場合、「癸未年」銘鏡の銘文にある「斯(し)麻(ま)」は嶋王(武寧王)を示し、嶋王の即位年に鋳造された鏡ということです。実際、武寧王陵からは王と王妃それぞれの柩にこの種のコピー鏡が副葬されていました。
以上をふまえ、その銘は「癸未年(五〇三)八月十日の大王年、ヲオド王が忍(おっ)坂(さかの)宮(みや)にいるとき、嶋王(武寧王)が(同盟者某の)長寿を念じて、河内の費(あ)直(たい)と穢(え)人(ひと)の今(こ)州(す)利(り)の二人を遣わせて、白銅二百貫をとって、この鏡をつくった」と解釈します。
『日本書紀』はヲオド王がたまたま河内馬飼首を知っていて、即位の説得に応じる物語を描きます。しかし、「癸未年」銘鏡は、継体天皇が即位前に半島の王と通じていたこと、そもそも大和に住んでいて、紀ノ川中流域の有力者とも関係していたことを示すのです。

六 継体天皇擁立に関する歴史的背景
先に示した蔀屋北遺跡など、中・北河内地域の集落遺跡では四〇〇年代後半から段階的に渡来のあった痕跡を示す百済系土器などが発見されています。馬飼集団に限らず、金工・鍛造・陶芸などの技術集団が河内に渡来した痕跡も発見されています。
『日本書紀』は倭国から見た半島諸国の情勢を詳しく記します。倭国への貢物や多くの外交記事は百済や伽耶諸国の存亡をかけた国家戦略を示すものです。そのなかで、渡来人のみ自由に行き来していたとは考えにくく、河内馬飼集団などの渡来は倭国に技術移転して馬匹を肥やし、高句麗や新羅に対抗できる後ろ盾を望んだ百済の国家戦略のように思えます。小さな船にわざわざ馬を乗せて河内にやってきた渡来人に百済の困窮が垣間見られるのです。百済の戦略に同調したヲオド王は、嶋王(武寧王)からも支援を受けて天皇に擁立されました。それを記念する鏡が伝わっているのです。
『日本書紀』欽明天皇十四年条は六月に、百済へ遣使して良馬二匹や武器・武具を下賜する記事があります。そして、八月に百済使者がやって来て「諸国(百済や任那諸国)ははなはだ弓馬が乏しい。古来より、天皇から受けとって強敵を防いできた。天慈をもって多くの弓馬を贈ってほしい」と嘆願するのです。倭国に武器・武具とともに種馬を贈り、高句麗や新羅に対抗する兵力を派遣してもらう百済の要請は五世紀から続いていたと思います。
その他、継体天皇時代に盛行する古墳副葬品の分布状況も見逃せません。捩り環頭大刀・広帯二山式冠帽・鈴付き腕輪・三環鈴・鈴鏡などを副葬する古墳は継体天皇時代が中心で、その分布域は継体天皇の勢力範囲である大和をとりまく様相なのです。捩り環頭大刀の場合、継体天皇時代以降になって、分布が大和に集中するようになります。これらの副葬品は政治的つながりを示す威信財として評価でき、発見されている資料が当時流通していたもののごく一部であることを考慮しても、史料による継体天皇の勢力範囲や動向を裏付ける物的証拠となりえるのです。
このような継体新政権の懐柔に対し、百済にかたよった半島への介入政策に反対する勢力がいたこともありえるでしょう。国政を二分する事態だったと思います。
わたしは継体天皇と武烈天皇が並立し、反対勢力の中心だったという意見です。
擁立された継体天皇は半島外交の手腕によって真価が問われたのです。『日本書紀』継体天皇条の大半は半島での戦略を描写します。ところが、その結末は決して継体天皇の思い描くものではありません。『日本書紀』による継体天皇崩御の翌年(五三二)、死守に腐心してきた金官加羅国はついに新羅に併呑されました。その後は、百済に対し任那四県の割譲から半島撤兵へと動いていくのです。

※[付記]本稿は二〇一四年一二月一三日の豊中歴史同好会例会の講演発表から成文したものです。

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