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考古学からみた継体朝前後の葛城 とヤマト政権(藤田和尊先生)

つどい324号
御所市教育委員会文化財課課長藤田和尊様
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つどい248号  294号
つどい242号以降は本ブログにて掲載されています(号数をクリックしてください)。
それ以前の論文は『つどい300号記念CD』に収録されています。詳しくは豊中歴史同好会までお問い合わせください。
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以下検索用テキスト
(引用はリンクするか出典を明記ください)
一.はじめに
 今年度の共通テーマは「継体朝前後」ということで、そのシリーズの先鋒を務めさせて頂きますこと大変光栄に存じます。葛城では、塚口義信先生によって大きく発展せしめられた葛城氏と葛城地域に関する文献史学上の成果と、近年の古墳時代に関する考古学上の調査・研究の成果が大変うまくリンクしはじめており、このことから具体的な古墳や遺跡を有機的に絡めつつ、この時代をイメージすることが可能になってきた、ということが理由の一つではないかと推測致しているところです。
二.葛城本宗家の盛衰と葛城県の成立
 当該地における継体朝の前史としては、葛城氏の盛衰とその衰退後のかつらぎのあがた葛城県の設置に言及しないわけに行かないが、このことについては既に本会においても発表させて頂いている(「五世紀のヤマト政権と葛城」『つどい』第二四八号、二〇一一年、http://toyoreki.way-nifty.com/blog/2011/11/post-6b30.htmlなど)ので、ここでは概要を記しておく。
 葛城氏の祖としての葛城襲津彦は、『日本書紀』では神功紀、応神紀、仁徳紀において活動の知られる人物で、『書紀』神功六二年条所引の『百済記』にも登場することから実在を確認できる最古の人物とみられている。白石太一郎氏によりその墓として室宮山古墳の可能性が指摘されて以来すでに半世紀が過ぎようとしているが、その後の発掘調査などによってもこれを支持する材料のみが蓄積されており、まず、間違いないとみてよいだろう。
 室宮山古墳(図1)は墳長二三八メートルと破格の規模を誇る。佐紀盾列古墳群のコナベ古墳の墳長を上回り、五世紀前葉にあっては奈良県内最大の規模である。長持形石棺の存在は著名であるが、ネコ塚古墳という陪冢を伴っており、陪冢に多量の武器・武具の集積が認められることも重要で、これは百舌鳥・古市古墳群に顕著にみられる、陪冢被葬者に職掌を委ねた武器・武具集中管理体制が、室宮山古墳の被葬者の下でも行われていたことを示す(藤田二〇〇六)ものである。こうした政治システムを想定可能な古墳は、奈良県下においては本墳と佐紀盾列古墳群のみであることからしても、考古学的にも葛城氏がいかに政権に近かったかを伺うことができる。
 この南葛城にあった玉田宿禰系葛城氏(葛城本宗家)はその後、円大臣の記事にみられるごとく誅せられて一気に衰退するが、この間の事情は南葛城における大形古墳の消長ともよく合致する。南葛城最後の大形前方後円墳は五世紀後葉の掖上鑵子塚古墳(わきがみかんすづかこふん)(図2)である。前方部は通常の前方後円墳に比して明らかに短く、規制の対象になった感があり、壕もこの時期の大形古墳としては稀なことに同一水面では巡らない。なにより奈良盆地からわざわざ見えないように押し込められているかの立地は特異でさえあり、悲劇的な最期を遂げる円大臣の奥津城に相応しい(藤田二〇〇三)といえる。また、両者の間の時期に位置づけられる玉田宿禰や「名欠」の人物の奥津城の候補としては、旧新庄町域の火振山古墳(ひふりやまやまこふん)や屋敷山古墳(やしきやまこふん)を挙げることができる。
葛城本宗家滅亡後の南葛城については、神功五年紀の襲津彦が新羅の草羅城(さわらのさし)を抜き連れ帰った俘人(とりこ)を桑原(くははら)・佐糜(さび)・高宮(たかみや)・忍海(おしぬみ)に住まわせたとの記事と推古三二年紀および皇極元年紀の蘇我馬子および蝦夷による専横の記事を対比させて、葛城県成立の契機を葛城本宗家滅亡とする塚口先生の達識(塚口一九八四)がある。最大級の群集墳である巨勢山古墳群についても、政権に仕えた原初的官僚層のために設けられた墓域へと移行すると理解しうることからも、塚口説が動じることはないであろう。
三.継体天皇の擁立と巨勢氏
 第二五代武烈天皇には子が無かったため、大臣許勢おひと男人は現在の福井県坂井市三国町(『古事記』では近江とする)にいたおほど男大迹王を天皇に迎えることを大連大伴金村、大連物部麁鹿火(あらかび)とともに画策した。男大迹王は第一五代応神天皇の五世孫で、翌年には第二六代継体天皇となるが、『古事記』では「自近淡海國 令上座而合於手白香命 授奉天下也」とあるように、第二四代仁賢天皇の娘の手白香皇女を娶らせることによって皇位の正当性を保たせようとしている(塚口一九八四)。
 巨勢(許勢)氏は巨勢谷を本貫地とし、この継体天皇の擁立に関わって六世紀に入って急速に勢力を伸ばす。文献上の巨勢氏の台頭と合致するように、考古学上でも六世紀に入ると巨勢谷に大形墳あるいは大形の横穴式石室を内部主体として採用する古墳が顕著となる。墳長六五メートルの前方後円墳、市尾墓山古墳(いちおはかやまこふん)(図3)(国史跡)を六世紀前葉に活躍した上記の許勢男人の墓とする説も有力である。ただ、巨勢男人に関しては不在説も存在する。それは続日本紀の天平勝宝三年二月条の雀部朝臣真人等の奏言に、巨勢と雀部は元は同祖であるが、天武天皇の八色姓のときに雀部姓を賜り、巨勢男人は本来は雀部に連なる人物であるとして訂正を求め、時の大納言であった巨勢朝臣なてまろ奈弖麻呂もこれを認めた、などの記事によるものである。しかし、天武朝に本来の系譜が定まったとはいえども、その後に成立した記紀においては巨勢男人として認識されているわけで、これはむしろ奈良時代の人々の出自や系譜に対する独特な価値観および雀部氏自身の発言力の高まりによる結果と捉えておきたい。
さてその後、巨勢谷では、六世紀中葉までには樋野権現堂古墳(ひのごんげんどうこふん)(県史跡)、市尾宮塚古墳(いちおみやづかこふん)(附 国史跡)が、六世紀後葉までにはいないど稲宿しんぐうやま新宮山古墳(県史跡)が、六世紀末葉から七世紀初頭にかけてはみどろ水泥南古墳(国史跡)、水泥北古墳(国史跡)が相次いで築造される。いずれも巨勢氏の盟主の墓である。
 巨勢氏の氏寺としては巨勢寺がある。一九八七年から一九九〇年にかけて周辺の発掘調査が実施され、講堂とその左右に伸びる回廊や築地がみつかり、その伽藍配置は左に塔、右に金堂、両者の背後に講堂を配する、法隆寺式であることが判明した。また、この調査では階段式登窯の瓦窯、梵鐘鋳造施設なども検出された。出土した瓦などから七世紀中頃の創建で平安時代末には廃寺となることがわかった。
 巨勢臣徳太(とこだ)は巨勢寺創建に関わった人物とみられ、大化改新の端緒となった乙巳の変(六四五)に貢献し、四年後には左大臣となる。巨勢寺の初出文献はそれよりもかなり遅く、『日本書紀』天武天皇の朱鳥元年(六八六)八月条に、天皇の病気平癒の祈願のため食封二百戸を賜ったとある。
 その後の巨勢氏であるが、先述の巨勢朝臣奈弖麻呂は天平勝宝元年(七四九)に大納言に昇り詰めている。このほか中納言、少納言となった人物も多く、例えば巨勢朝臣野足(のたり)は弘仁三年(八一二)には陸奥出羽按察使(交戦目的の場合は征夷大将軍となる)に就き、同時に中納言に昇進している。このように巨勢氏は飛鳥・白鳳、奈良、平安時代(前期)を通じても高級官僚を輩出する、息の長い名門貴族となった、という事ができるだろう。
四.蘇我氏の葛城への進出
 平成一四年二月に條ウル神古墳(じょううるかみこふん)で巨大な横穴式石室の存在が明らかになった。後述するように、六世紀後葉段階の横穴式石室としては最大級であったこととともに遺存状態の良い家形石棺もまた最大級であったことから大きな話題となり、現地説明会とその前後で一万人以上が訪れることとなった。マスコミでは盛んに被葬者論争が展開され、蘇我氏説と巨勢氏説が有力なものとして残った。
 ここではまず、蘇我氏説が唱えられた背景として、蘇我氏の葛城への進出について概観しておく。
『日本書紀』推古天皇三二年十月条に蘇我馬子が人を遣わし、天皇に対して、葛城県は元は自分の本拠であり自分は葛城と名乗っていたので、返して欲しいと要求する場面がある。これは葛城氏とともに蘇我氏も武内宿禰を共通の祖とする擬制的同族関係を根拠にした主張(塚口一九八四)とみられており、天皇はそれでは将来、馬子が不忠の臣と呼ばれるようになりますよ、とたしなめて断っている。
 しかし『日本書紀』皇極天皇元年条では蘇我蝦夷がついに葛城高宮に祖廟を建て、しかも天皇にしか許されていない八?(やつら)の舞(八人×八列=六四人の舞)をなし、さらに天皇をないがしろにする唄まで作ったとある。ちなみに高宮は先述の神功五年紀のそ
れと合致する。
考古学上では南郷ハカナベ古墳(なんごうはかなべこふん)(図4)やドンドかいと垣内五号墳(図5)の存在が注目される。南郷ハカナベ古墳の場合には二重のからぼり隍を有し、ドンド垣内五号墳の場合には基壇状の施設を有するなど若干の違いはあるが、共に一辺二〇メートル弱の方墳で、
張石を墳丘と隍の両斜面に施す点でミニ石舞台古墳とも称せられた。いうまでもなく石舞台古墳は蘇我馬子の墓との説が定着している。高宮とこれらの古墳の所在地は、金剛山、葛城山の東麓に相当している。蘇我氏の葛城への進出状況の一端を示すものと評価できよう。
五.條ウル神古墳の被葬者像
 本墳については既に、大正五年(一九一六)刊行の『奈良縣史蹟勝地調査會第三回報告書』に、当時の奈良縣技手の西崎辰之助によって「條ノ古墳」として報告されていたが、周辺地形の改変が著しく、その石室の所在どころか有無さえも判然としなくなっていた。
西崎報告によれば、そこには東向きに開口する巨大な横穴式石室と家形石棺が存在するとされていたが、報告された規模があまりに大きいこと、また、後述するように石棺の形状がやや特異であること、墳丘は二〇〇メートルを超える規模の前方後円墳とされていることなど、にわかには信じがたい内容であったことから、この西崎報告については疑念を免れなかった。
 平成一三年度の範囲確認調査は、このように疑念を呈せられてきた本墳の石室の所在と残存状況について確認し、石室の実測図を作成することを主たる目的として実施した。結果的に、石室、石棺については西崎報告の記述がほぼ正確であったことが判明している。
現状で奥壁は四段、側壁は五段積みを原則とするが、目地は通らない箇所が多い。巨石間の隙間は人頭大以下の石材を後から挿入して埋めている。奥壁各段は単石化が進行しつつあり、袖石は大形で単石を志向するものの直接に天井石を支えるまでには至っていない。
 羨道部での現状の幅は一・七メートル、高さ一・八メートルで、長さは八・五メートルまで確認できている。つまり石室の長さは一五・六メートル以上となる。なお、羨道の前端はやや開き気味である。この石室規模は表1の通り、明日香村の石舞台古墳に匹敵するものと言える。
 石棺は玄室のやや奥壁寄りの石室主軸上に同じく東西に主軸をとって安置されている。二上山で産出する白色凝灰岩を用いた刳抜式家形石棺である。棺蓋は縄掛突起を含む長さ二七八センチメートル、含まない長さ二七〇センチメートル、幅一四七センチメートル、高さ五三センチメートルで、縄掛突起はそれぞれの小口の一つづつを合わせて計八個あり、側面の縄掛突起を三つずつ有する点で異例の刳抜式家形石棺と言える。
 棺身外法の長さは二七〇センチメートル、幅は一四七センチメートルで、高さは東側の主軸上で掘削したごく小規模な確認孔によって九八センチメートル程度であることが判明している。内法は長さ二一五センチメートル、幅一〇四センチメートル、高さ六八センチメートルから七二センチメートルで、奥壁側のレベルが僅かに高い。この石棺の規模は表2の通り、見瀬丸山古墳前棺に匹敵する最大級のものである。
 石棺の蓋は北西のコーナーでようやく人が入れる程度にまでずらされており、既に棺内は盗掘を受けているものの、大量の朱にまみれた状態で遺物はなお棺内に残存している。これは棺蓋を除いた後の調査によるほうが望ましいと判断したので、取り上げるのを控えた。また、棺蓋上には冠や沓
とみられる金銅板の破片やおびただしい数のガラス小玉が散在していた。盗掘時に遺物を仮置きした結果とみられる。そのほかの出土遺物は、このたびの調査の性格上わずかであるが、開口部の攪乱土から出土した須恵器片や墳丘の流出土から出土した埴輪片などがある。須恵器片にはTK209型式の杯身があるが、追葬に伴うものであると考えられる。埴輪は川西Ⅴ期のもので、量が比較的多いことから、墳丘にも巡らさていた可能性が高い。
 なお、墳形と規模については、周辺部も含めた地形の改変が著しく、現状では確定が困難であるが、平成二五年度実施の範囲確認調査による限りでは、南西面する七〇メートル級の前方後円墳である可能性が高いと考えている。今年度も引き続き範囲確認調査を実施する。
築造の時期については、石室・石棺の型式からTK43型式併行期(六世紀後葉)の築造とみられる。
 被葬者像については、近接する條池南古墳(じょういけみなみこふん)(巨勢山六四〇号墳)で石枕造付式家形石棺の存在が知られており、この特殊な造作が巨勢谷に所在する樋野権現堂古墳と共通することや、図8に示すように、水泥南古墳(みどろみなみ)と水泥北古墳を除く、巨勢谷の古墳の平面形等と條ウル神古墳のそれが相似形を呈することなどから、巨勢氏の盟主をあてるのが妥当である。また、図9では巨勢谷に所在する古墳の築造期、さらには初葬棺・追葬棺の時期と、『日本書紀』の天皇の紀年記事に登場する巨勢氏関係の人物を対比させている(河上邦彦一九九五の挿図に加工)。一見して分かる通り、條ウル神古墳の時期には複数の人物が存在するために特定は難しいが、巨勢臣猿や巨勢臣比良夫は有力な被葬者候補となるであろう。わずかに先行するとみられる古墳として、稲宿新宮山古墳(いないどしんぐうやまこふん)が存在することにも留意しておく必要がある。
 そして條ウル神古墳の所在する箇所は、最南端とはいえ奈良盆地内であることは重要である。つまり巨勢氏も蘇我氏と同様にこの時期、葛城県の一角に進出した、とみられる。そして巨勢氏もまた、葛城氏や蘇我氏と同様に武内宿禰を共通の祖としていることに気付かされるのである。
六.おわりに
 蘇我氏が教科書に登場するほど有名なのは、蘇我本宗家が馬子以来、天皇家をないがしろにする行為を重ねた末に、蝦夷と入鹿が乙巳の変(六四五)で劇的な最期を遂げることによるが、それとともに、この事件が大化改新、近江令の公布、さらには藤原氏の台頭などといった、多くのエポックの端緒となるからである。
 継体天皇の擁立により急激に勢力を伸ばしたとみられる巨勢氏であるが、蘇我氏のような派手さはない。しかし、だからこそ巨勢氏は、最大級の横穴式石室、條ウル神古墳を築造するまでに成長した後も没落することなく、続く飛鳥・白鳳、奈良、平安時代(前期)を通じても高級官僚を輩出する、息の長い名門貴族となった、ということができるであろう。
参考文献
河上邦彦『後・終末期古墳の研究』、一九九五年、雄山閣
塚口義信「葛城県と蘇我氏」『続日本紀研究』第二三一・二三二号、一九八四年のち『ヤマト王権の謎をとく』、学生社、一九九三年所収
藤田和尊「明日香・南葛城の古墳」『新近畿日本叢書 大和の考古学 第二巻 大和の古墳Ⅰ』、二〇〇三年、人文書院
藤田和尊『古墳時代の王権と軍事』、二〇〇六年、学生社
※このほか報告書等については、紙数の都合により出典の詳細を割愛した。ご海容願いたい。

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