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パネルディスカッション 応神・仁徳天皇の実在性を巡って

2013年10月12日(土) エトレ豊中ステップホール
豊中歴史同好会創立25周年記念シンポジウム
パネルディスカッション 応神・仁徳天皇の実在性を巡って
【司会】
堺女子短期大学名誉学長・名誉教授 塚口義信先生
【パネリスト】
京都橘大学教授       一ノ瀬和夫先生
大阪府教育委員会     西川寿勝先生
堺女子短期大学准教授  水谷千秋先生
【会場参加】
元芦屋市教育委員会    森岡秀人先生
北九州市芸術文化振興財団 宇野慎敏先生
『古代の海』編集長     中村修先生

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塚口
昨年の春ごろだったと記憶しておりますけれども、豊中歴史同好会の方から、書店に行くと、応神天皇とか仁徳天皇とかいった天皇は架空の人物だというような本が良く出ておりますが、先生はどういうふうに思われますか、こういう質問を頂戴いたしました。実は古代史の学界でも、応神は架空の人物だとおっしゃる研究者が結構おられます。架空だとすると、当然墓も無いわけでございまして、考古学のほうにも大きな問題になってまいります。今回の「応神・仁徳天皇の実在性をめぐって」というのは、あくまでも歴史学のほうのテーマで、考古学の〝物〟を中心とした研究からは、なかなか言いにくいということがあるかと思います。しかし、四世紀代から五世紀代という時代になりますと、考古学を抜きにして歴史を語ることはできませんので、今日、考古学の先生方お二人に登場していただいたわけでございます。なお、先生方のお名前を言います時に、何々さんといってもいいのですけども、直木孝次郎先生をはじめ、非常に長いお付き合いを通じてご教示いただいている先生方に対して「何々さん」とは言いにくいし、そうかといって、一部の方だけに「さん」というのもいかがなものかと思いますので、本日は全員に「先生」を付けさせていただこうと思います。ご了承ください。
はじめに、ヤマト政権、畿内政権、河内王朝とかいった言葉は、どのような意味で使っておられるのか、必ずしも明らかではありませんので、先生方に、このような質問をしたいと思います。四世紀代から五世紀代にかけての日本列島の中にはたくさんの政治集団があったと思いますが、その中で、最も大きくて勢力のあった政治集団をどのような名称で呼んでおられるか、これをまずお聞きしたいと思います。一瀬先生いかがでしょうか。
一瀬
私は畿内政権です。
塚口
畿内政権、はい。西川先生はいかがでしょうか。
西川
私は考古学の立場で考えます。王墓を抽出して復元してゆけば、主体は王ですね。王権です。今日、ヤマト政権と塚口先生はおっしゃられました。それは、大大和(だいやまと)政権と呼びかえられる気がします。大阪の大にも通じる広域を強調する意味です。そういうふうにも思っています。
塚口
はい、水谷先生いかがでしょうか。
水谷
私が十二、三年前に書きました学位論文の題名は「継体天皇と古代の王権」でありまして、その中に書きました論文の題名の中には、「継体天皇と大和政権」というのがありました。そこでは大和は漢字を使ったのです。漢字を使うべきか、カタカナで行くべきか。ほかに畿内政権という言い方もありますが、畿内の制度が出来たのは大化の改新のあとだから、それ以前に畿内を使うのはおかしいとおっしゃる方もおられますし。ヤマトを漢字で書くか、カタカナで書くか、難しいところです。私はたまたま漢字で書いたのですが、正直に申しますと、字面の好みのようなものもありましてですね、カタカナで書くよりは漢字で書くほうが重々しくて良いような感じもしたのです。その辺、趣味の問題もあるのかもしれません。以上のようなことです。
塚口
はい、有難うございます。そのいわゆるヤマト政権の基盤となっていた地域についてはどうでしょうか。畿内政権と呼ぶ場合には、すぐわかるわけですけれども。他の呼び方の場合は、どのように考えておられるのでしょうか。政権の基盤となっていた地域、抑えていた地域ですね。西川先生はどのように考えておられますか。
西川
私は政権拠点が大和に始まって、ずっと続いたと思っています。ただし、大阪の海岸部や平野部も重要で、ご講演で塚口先生が言われた副都という機能も時期によってあったと思います。そうすると、ときには政権拠点が複数あるという考え方です。つらいことに、私は大阪府の教育委員会だから、大阪を出て、越境して、奈良県まで掘りに行けないわけです。王宮や拠点が奈良県にあると、掘る機会がなくなってしまうなあ、と考えております。
塚口
一瀬先生はいかがですか。
一瀬
私の京都橘大学で学長をやっていた田端泰子先生が、私が畿内政権と書いた図書を渡したら、初めて聞いたとおっしゃっていましたが。基本、政権というか、河内・大和というのは弥生時代から基本形として、まず核としてあって、その周囲に摂津、山城、紀伊とあって、どういうふうに携えるかだけの問題かなと私は思っています。宮も基本的には、今の天皇さんでいったら一つしかないような形になると思うのですけど。伝承を見ていても、あちこち行ったところがぜんぶ宮かも知れません。別に大和にこだわらなくても構わないじゃないかと。あとで、塚口先生がおっしゃった応神の宮の話なんかも出てくるかもしれないのですが、その宮の分布範囲そのものが畿内政権のセーフティエリアと見て良いのじゃあないかと思ったりしています。
塚口
はい、有難うございました。これは、考古学のお話になってきますけれども、いわゆる大王墓とみられる古墳について、一番古いところから言えばどのようになるか、一瀬、西川先生が考えておられるところをもう一度、教えていただけますでしょうか。
一瀬
先ほどの王権という言い方もそうなのですけど、王というのが一体何を指しているのかというのが、まだ議論の余地があるかなと思います。王権とか、大王とか、本当は「おおきみ」と読まないといけないのでしょうけど。王と書いていても「おおきみ」と読まなきゃあアカンとか田中琢さんなんかおっしゃっていますけど。稲荷山の鉄剣でかなり確実視されて、王という言葉は使われていたのだという変な自信が付いたので、王権とかいう話に転がっているだけだと思うのです。まあ、王では無いかもしれないですけども、三〇〇メートルという長さの古墳を造るというのはすごいハードルでして、世界的にみても、やはり三〇〇メートルを超えてくるというのは、エジプトのピラミッドクラスとか、メキシコのティオティワカンとか中国、秦始皇帝陵とかすごく限られてきてて、そういう大きさを日本列島の場合は、奈良県桜井市にある箸墓古墳以降は平気で造っていて、打ち止めが欽明天皇の墓かなと思われる橿原丸山古墳になるのかなということですね。それから確実に言えるのが、三〇〇メートルを超えているのが、私にとってみたら王墓と確実に言えることになるかなと思います。
西川
私のレジュメに王墓を抽出して一覧にしています(第2図)。全長が二〇〇メートル越えの古墳が全国で三十六基です。一九〇メートルまでを入れると全国に四十二基です。驚いたことに時期によって粗密が激しく、半数近くが四世紀の後半から五世紀初頭までの間に造られています。この時期は王墓造営ラッシュ、造営競争状態なのです。こういう中で一歩二歩抜きんでてくる王が、履中陵古墳と造山古墳の被葬者です。さらに、それを越えた王は、五世紀に応神陵古墳・仁徳陵古墳を完成させました。五世紀になると造営ラッシュは終わるのですが、結果的に、かなり無理して古墳を造り続けたと思います。王が生まれてから死ぬまでの間に親の墓を造る、あるいは自分の墓を造る時間的な限界です。四〇〇メートルを超えてしまうと、一世代では造れなくなるのではないだろうか、と思います。だから、百舌鳥・古市の古墳群は大きな古墳がたくさんある立派な古墳群ですけれども、五世紀の政権としては、こんなはずじゃあなかった、墓造りばっかりにエネルギーを費やしすぎた、みたいな後悔もある、と思っています。
さて、塚口先生のご質問を受けてきましたが、司会ばかりでは何もお話いただけないかもしれないので、私の方から逆に質問をしてよろしいでしょうか。
塚口
はい、どうぞ。
西川
塚口先生のご講演で示された継体天皇五世孫等を含めた系図(第3図、第4図)について、非常に重要なお話がありました。応神天皇は入り婿で、ナカツヒメの家にお婿さんに入ったのだと。それでホムタワケとは、元々どういう名前だったのかわからないけれども、ホムダノマワカオウの系譜を継いで、ホムタワケと呼ばれるようになったということでした。そうすると、佐紀古墳群西群に連なる神功皇后陵古墳などの勢力にまじって、ホムタワケはお墓を造らなかったようです。ホムタワケが実在するとしたら、そのお墓は誉田(こんだ)の御廟山(応神陵古墳)ということでしょうか。
塚口
今日は、私、司会をさせていただいておりますが、私の聞きたいことを聞こうかなと思ってたのですけども(笑)。
実はですね、継体天皇あたりでも、仁賢皇女の手白香皇女に入り婿の形で入っていた可能性が大きいと、私は思っています。そして、それと同じことが四世紀の末葉前後にも行われていると考えています。そういう視点からこの系図を見ると、すべてがうまくいくのじゃないかと、勝手に思っています。
この河内の政治集団は非常に大きい集団であって、これが応神の勢力を支えているというふうに思っているわけです。そうすると、応神はどこからやってきたのかという問題が出てきますね。従来、この点で意見が分かれ、いろいろな説が出されているわけです。実は大陸からやってきた騎馬民族の末裔ではないかとか、あるいは井上光貞先生のように九州からやってきたのではないかとか、あるいは西都原古墳群の近くからやってきたのではないかとか、いろいろな説があるわけです。私は三十年ほど前から、
それは山城南部ではないかという説を出しています。日子坐王系譜というキャプションのついている系図がございます(次頁第5図)。私はこれを、非常に大事にしております。ただ、この系譜に出てくる人物が実在か架空かというのはよく分かりませんので、ここでは横において考えてみます。また、こういった系譜は後代によく改変されています。例えば、この中に世代の違う婚姻関係がありますが、このいわゆる異世代婚なんかはかなりあやしいと思っています。他に、名前などでも、後代に架上されたと思われる名前があることも指摘されています。しかし、そういう視点ではなくて、このホムダワケノミコトの系譜を伝えた集団はどこにいた集団であったのか、という視点からこの系譜を眺めていきますと、彼の母の父系の出自系譜は、明らかに山城南部の集団と深い関わりを持っているということが分かると思います。迦邇米雷王(かにめいかずちのおう)は相楽郡蟹(かに)幡(はた)郷(ごう)、現在の蟹満寺のある地域ですね。高材比売(たかきひめ)の高材というのは、江戸時代の高木村で、現在の京田辺市の同志社女子大学の近くですね。その上の山代之(やましろの)大筒木(おおつつき)真(ま)若(わか)王(おう)は、文字通り山城の綴喜ですね。私は、この父系の系譜はやはり重視しなければいけないと考えています。この系譜は後代に捏造されたものだとおっしゃる方が少なくありませんが、後代的な要素があるから後代のねつ造だというのも極端な話で、とうてい従うわけには参りません。この系譜は、応神の母の父系は山城南部の集団なのだ、といっているわけで、それはおそらく史実であると考えてよいということです。実は神功皇后(息長帯比売)の息長も、私は古代の山城南部に息長という地名があって、それと関係があると思っています。だから神功皇后は、山城南部と深い関わりがあった狭城盾列に葬られたと『記』『紀』に伝えられているわけです。そのような目でこの系譜を見ると、大変面白い、私はこのような考え方をしています。
ところが応神の母の母系はその始祖が新羅の国王の子の天之(あめの)日(ひ)矛(ぼこ)と伝えられているように、渡来系の一族です。しかも応神はヤマト政権(畿内政権)の中枢勢力であった佐紀政権の反体制派に属し、武力によって王権を獲得した人物でしたから、河内に拠点を置くヤマト王権(ヤマト政権)の伝統的な大首長と手を組む必要があった。こういうことではなかったかと考えています。応神の奥津城はやはり誉田御廟山古墳が第一候補で、津堂城山古墳はホムダノマワカ王の名で語られているような、河内政権の始祖的な大首長がその被葬者であるとみるのがよいのではないでしょうか。
ついでにホムダの地名が問題になっていましたけれども、私が調べた範囲では、京都の石清水八幡宮寺関係の一二三一年(寛喜三)の文書に出てきますね。中世文書に出てくるのです。だからホムダという地名は、古代からあった非常に古い地名ではないかと思います。これで、答えになっていますかね。
西川
どうも有難うございます。古市古墳群はホムダノマワカオウの系譜に関連すると、一瀬先生のご講演にありました。ホムタ一族の中の始祖的な王が津堂城山古墳に葬られ、そのあとずっと古市、あるいは百舌鳥などに、その子孫たちの墓が造られていくというご講演だったと思います。
一瀬
ホムダノマワカとナカツヒメがいたホムダという土地はどこなんでしょうか。
塚口
河内でホムダというと、応神天皇陵古墳のあるあのあたり以外ないですね。誉田(こんだ)八幡宮や、誉田中学校のあるあたりですね。しかし古代のホムダはもっと広い地域だったのではないでしょうか。
西川
『古事記』と『日本書紀』本文には記されていない応神天皇から五世孫の継体天皇までの系譜(人名)も重要です。『上宮記』逸文には五世孫までの名前が明確に記されて、系譜の信ぴょう性などが評価されています(第3図参照)。ところで、その応神天皇からの五世孫たちが、ずっと百舌鳥・古市古墳群にお墓を造って伝承が残ったのであれば、どの古墳に該当するのか気になるところです。ところが、継体天皇は、三島の今城塚古墳が陵墓と推測されています。そうすると、この系譜は百舌鳥・古市古墳群の集団の系譜と一線を画しているのかということです。そう考えていると、この八月にたいへん興味深い本が刊行されました。水谷先生の『継体天皇と朝鮮半島の謎』です。そのなかで水谷先生は、応神天皇五世孫の皇子墓を推定されています。これがすべて、琵琶湖周辺の地図の中に入ってくるのです。例えば、高島市の田中王塚古墳、これは継体天皇のお父さんの墓という推定です。応神天皇五世孫の系譜などについて、水谷先生にお話してもらうことはできませんでしょうか。
塚口
どうぞ。なんせ、継体というテーマで水谷先生は博士号をもらっておられますからね、どうぞ、遠慮せんとしゃべってください。
水谷
いや、自分の本のことを言われているとは思ってなかったもので。今日のテーマは応神・仁徳ですから、別の機会に詳しくお話しできたらと思いますけれども。
継体天皇が応神天皇の五世の孫であるとするならば、いま塚口先生がお話になりましたように、応神天皇が山城南部から出てきた人ということ、そして、山城南部に、先ほどもおっしゃいましたように、息長帯比売、息長一族も山城南部に、いたらしい。そして、日子坐王系譜の中に日子坐王の子供として山代之大筒木真若王いう名前が見えますけれども、筒木いいますと筒城宮、継体天皇の宮もあったところでもありますし。応神天皇も、そして五代目にあたると思われる継体天皇も、この山城南部に関わりがあったというような点でも共通するように思います。そんなところで、応神天皇・仁徳天皇に話題を戻したらと思うのですけど。
塚口
それでは、話題を元に戻しまして、古市古墳群で最も早く築かれた大古墳は津堂城山古墳だと思いますが、そこで改めて伺いたいのですけれども、一瀬先生は被葬者をどのようなイメージでとらえておられますか。
一瀬
さっきのパターンからいきますと、ホムダノマワカでいいんじゃあないでしょうか。
塚口
有難うございます。つまり大王墓ではないと。
一瀬
ありえない。
塚口
ありえないと。津堂城山古墳は大王墓か大王墓ではないのか、ということが良く話題にのぼりますよね。西川先生どのようにお考えでしょうか。
西川
一瀬先生の被葬者論を初めてお聞きできました。今日は面白い話が聞けました。
一瀬
広瀬和雄さんにはしょっちゅう話しています。
西川
具体的にイメージされていたのですね。一瀬先生が府立近つ飛鳥博物館におられたとき、津堂城山古墳の復元展示コーナーに水鳥形埴輪がありまして、本物の水際のように、水を張って展示されていたのです。今はエポキシ樹脂で水のような状況を作っています。閉館時間になると、博物館は電気が消えて、そこで水の入れ替えのお手伝いをしました。そそり立つような水鳥埴輪が、真っ黒い色で、非常に不気味だった思い出があるのです。『日本書紀』仲哀天皇の条の中に書かれているとおりです。白鳥を越の国から貰って来るのだけど、焼いたら黒鳥だと揶揄される物語です。本当に、埴輪は黒鳥ですよ。真っ黒けの鳥です。そういうものが津堂城山古墳に飾られていたのです。仲哀天皇条の伝承では、白鳥をかわいがって、お父さんの魂が白鳥になったということを顕彰したものです。まさに、津堂城山古墳というのは、仲哀天皇のモデルになった人物のお墓に間違いないと、私は昔から思っているわけです。しかしながら、仲哀天皇は実在しないのでしょうか、どうなのでしょう。
塚口
水谷先生いかがですか。仲哀天皇の実在性についての質問が出ました。
水谷
塚口先生はどんなふうにお考えですか。
塚口
(笑)わたくしはですね、『古事記』『日本書紀』の仲哀天皇にかかわる記事は、かなり怪しいと思っています。でも、仲哀のタラシナカツヒコという名前は怪しいけれども、仲哀的な大王はいたのではないかと思っています。但し、仲哀とか成務の『記』『紀』の記事には非常に怪しいところがあるので、簡単には信用できないなあ、やはり、史料批判をもっともっとしなければいけないなあと、このように思っています。最近は関西大学で教えておられる若井敏明先生などは、実在とみていいのではないかと考えておられるようです。ところが古代史学界では依然として架空だという人が多いですね。難しいですね。天皇の実在性については、いまやっと応神までさかのぼることができるようになったいうところでしょうか。
西川
なるほど。有難うございます。
塚口
応神が、やっと架空ではない可能性が強くなってきた、というところですよね。
西川
もう少し、関連する案をしゃべってよろしいですか。
塚口
どうぞ。
西川
ホムダノマワカオウについての私の案です。レジュメに応神陵古墳と仁徳陵古墳の測量図をあげました(第6図)。応神陵古墳のすぐ東側(図では左側)に二ツ塚古墳があります。応神陵古墳の東側の造出しの所に抱きかかえるように二ツ塚古墳があり、現在は立ち入ることができません。もともと、応神陵古墳を造営する前から二つ塚古墳があって、それを壊さずに、濠の形まで残るように配慮して造営されたのです。生前に親密な関係があったから、こういうふうに残されたと思うのです。実際には、小さな古墳に見えるのですが、全長は一〇〇メートル以上の結構立派な古墳です。つまり、ホムタワケとホムダノマワカオウの関係を示すと思うのです。
仁徳陵古墳の場合、北側の堤に二つの円墳がくっつくようにあります。茶山古墳と大安寺山古墳です。径約六十メートルの大きな円墳です。ただし、両者はもともと円墳ではなく、帆立貝式古墳で、前方部のみを壊して濠にしているようなのです。最近、詳細なレーザー測量図が公開されて、細かく見ると、なんとなく前方部の痕跡が見えるのです。そうしますと、仁徳陵古墳の場合は取り込んだ古墳を一部壊してしまう選地です。というか、もう少しお墓を南にずらしたら、二つの古墳を壊さずに済むわけですが配慮されていないのです。応神陵古墳と二ツ塚古墳は他者からみてもわかるような配置です。ホムタの名前を継承したような親密性だと思うのです。
塚口
有難うございます。二ツ塚は誉田御廟山古墳(応神陵古墳)の設計図をゆがめている。ということは、誉田御廟山古墳を造る時に、この古墳は非常に大切にされていたということで、これは間違いないと私も思っています。
西川
そうです。しかも、最近公開されたレーザー測量図によって、二ツ塚古墳は、応神陵古墳の一段階ぐらい前の古墳と思われていたものが、前方部があまり開かない古い形態だと見直されつつあります。もしかすると、津堂城山古墳より古くさかのぼるかもしれないと、期待しています。そうしますと、どうしてあの場所に、最初に造営されたのか、問題です。私は石川を挟んで、対岸の玉手山古墳群を築いた集団を意識していると考えます。玉手山古墳群に関わる族長が石川を挟んで、古市に二ツ塚古墳を造ったのです。そういうこともホムタの地名を継承させる要素の一つかもしれません。
塚口
まあ、私の立場から申しますと、応神は四世紀末に起こった戦争に勝ちぬいて、即位した大王です。その応神が入り婿の形で入っていった政治集団の首長の墓が、二ツ塚じゃあ、ちょっと小さすぎる、やはりそれは津堂城山でなければならないと思います。だから、この誉田御廟山と二ツ塚の関係は、これとはまた別に考えるべき問題ではないかと思っています。もう少し、よろしいでしょうか。
これは文献上の問題なのですけども、井上光貞先生が『日本書紀』に引用されている『百済記』の沙至比跪(さちひく)は葛城襲津彦であり、その活動年代は『日本書紀』の紀年を一二〇年下げた四世紀後半であろうという、非常に明快な議論を展開されましたね。ところがその後、これは一二〇年、すなわち干支二運ではなくて、干支三運、つまり一八〇年下げるべきではないかという説が出て、これが非常に有力な説として定着しています。ただ、最近は、いや、やっぱり一二〇年でいいのではないかという論文もたくさん出ています。もし一二〇年ではなくて、三運、つまり一八〇年下げてやると、襲津彦は雄略天皇のころに亡くなったことになってくるわけです。私も、いくつかの理由により、一八〇年ではなく、一二〇年でよいと考えていますが、そうすると襲津彦のお墓の第一候補はやはり御所市の室宮山古墳でいいと思っています。この点、考古学の方では、答えにくいとは思うのですけれども、葛城襲津彦の墓についてはどのように思っておられるのか、お考えを教えてください。西川、一瀬先生、いかがですか。
西川
室宮山古墳からはかつて「安羅国」などと呼ばれた咸安(ハマン)産の陶質土器が出土しています。年代的には初期須恵器と同じ頃でしょうか。五世紀初頭と思います。そうすると、位置的にも、古墳の規模も、年代も、襲津彦墓で問題は無いと思ってます。ただし、襲津彦の伝承では、新羅との関わりなども記されています。この辺りはちょっと葛城地域の発掘成果とうまくあいません。葛城の集団は、南郷遺跡群と呼ばれている、鉄製品を作ったり、木工製品を作ったり、あるいは鹿角製品を作る工房が見つかっています。そういう工房跡には渡来系土器が多く含まれるのですが、伽耶系の土器に対し、百済系の土器が目立って多い状況です。今日の私の講演では、伽耶の土器のことを中心に説明させてもらいました。
奈良県で五世紀を研究されている坂靖先生は、もともと仲が良かった伽耶の人達だけを連れてくるのではなく、半島の優秀な技術者を選択的に引き抜いてきたらしい、と踏み込んで推測されています。襲津彦墓と直接関係はないですけど、葛城の発掘成果からそういう議論がされているようです。
塚口
有難うございます。一瀬先生はいかがですか。
一瀬
基本、襲津彦の時期と室大墓(室宮山)の時期は合わないので、どうしたものかと思っています。室大墓がもっと古くないといけないのですが、それに対応するような大きな墓が葛城では見当たらないので、葛城にこだわらず、葛城地域以外で探してもいいのじゃあないかと私は思うのですけど。
塚口
年代が合わないとは? 室宮山の年代はどのぐらいにお考えですか。
一瀬
室大墓は仲津姫陵と同じような年代になってしまいます。
塚口
四世紀代に入る?
一瀬
五世紀に入ってしまいます。
塚口
はじめ?
一瀬
はい。
塚口
では、いいのじゃないですかね。襲津彦は大体、四世紀後半から五世紀初めということで。
一瀬
襲津彦は、全体のイメージからすると佐紀西群のイメージですよね。
塚口
佐紀西群と河内政権の初めぐらいですよね。応神ともかかわっていますので。
一瀬
そこまで古くはならないです。室大墓は。
塚口
五世紀初めぐらいですよね。
一瀬
ただ、もうすぐ後に履中陵が出来ちゃいます。その時期だと。
塚口
僕なんかは、襲津彦の年代は四世紀後半から五世紀の初め前後と、こう論文では書いているのです。なかなかむずかしい問題ですね。水谷先生はどうですか。葛城襲津彦の活動年代は。
水谷
いや、大体おんなじくらいだと考えていますけど。四世紀末から五世紀初めですね。
塚口
そうですね。五世紀の後半には下らない?干支三運下げたらそうなりますが。
水谷
それは無いですね。
塚口
その辺は、しかし古代史の一つの論争点になっていることは事実でございます。
そこでですね、森岡先生、埴輪による編年、須恵器による編年と実年代の関係を森岡理論ではどのように考えておられるのか、それをちょっとご披露願えませんでしょうか。
森岡
なかなか難しい問題です。話が須恵器とか埴輪になっているので、横道にそれるかもしれませんが。今日の話よりもう少し古いところで言いますと、西晋の二六六年前後、文献的には定点になりますけれど、それ以後四一三年くらいの間、考古学は別として、古代史は空白の四世紀とか、あるいは外交記事の極端に見られない世紀なのですね。私の実年代観で言いますと、そこに典型的な布留式土器の躍動している年代がある。そして、五世紀初頭とか四世紀末にはですね、陶質土器が基本的に入ってきて、タタキの土器で成形するⅤ様式、庄内式、布留式というような展開は、急激に、国内的には閉鎖的に動いている世界が四世紀から五世紀初頭になる。それを崩すように土器分布としては継続的に大陸からの影響を受けているという編年観をもっています。それは実年代としても庄内から布留への転向からいうと、三世紀の二六〇年代前後が一つの定点になると考えています。そこの上に須恵器の出現なんかを考えています。例えば、佐紀の政権とか王権の話が出ましたけれども、その年代というのは土器からみると、平城宮朝集殿下層の、名前忘れましたけれども、SD六〇三〇ですかね。あの辺の土器がスタートの一つのいい資料だと思います。そのなかで布留式が展開していくのですね。大和(おおやまと)古墳群とか柳本古墳群とか纒向の古墳群から佐紀の王権、政権がある場所には新しく佐紀の遺跡というのが遺跡群として存在すると。纒向遺跡群の衰退あるいは柳本遺跡群の衰退と関係しながらですね、北部に居住域とか工房域とかが動いているという判断をしています。その編年観に立ちますと、東北地方の土器なんかは纏向遺跡に入ってこないのですね。三世紀あるいは四世紀初頭までは。私の理解では、纏向遺跡は駿河あたりまでの交流関係で東日本では成立しています。ところが佐紀の遺跡群の段階になりますと、報告されている土器の中には東北地方の土器が入ってくるし、関東地方の中に入る土器が影響を受けて入ってきますので、東北・関東との交流から見ますと、佐紀の四世紀の姿というのは土器からみる限り、かなり広い地域が、東日本でもより大枠の所を巻き込んでヤマト政権が動いている気がします。そういう枠組みとは別に、塚口先生がおっしゃったような、近畿的な動きというのはもっと早くからスタートしてて、三世紀の近江系の受口段階の土器がありますけどね。受口のあるやつとか。タタキの三世紀の初頭まであります後期の土器なんかは皆さんは別物に考えますけども、近畿の基盤ではですね、中枢勢力が無いだけで、近畿全体は土器様式では共通なのですよ。甕が違うだけで、高杯も壺も器台も基本的には一緒なのです。その基盤の中にトップがいない世界が三世紀から四世紀とずーっと継続的にあって、今日の話の空白の四世紀を経て五世紀に入ってくる段階で、ようやく近畿圏外に重要な場所がエリア以上に点的にも進んできますから。日本海沿岸とか、播磨とか、そういうところに入ってきて、エリアというよりか重要拠点がですね。順番に形成されていって、やがて布留式土器なんかもですね、畿内から払拭される。例えば、吉備の甕形土器、吉備型甕や讃岐型の甕、近江型の甕など、近江も布留式土器をずっと使わないのですが、払拭する時期なのですね。讃岐もそうなのですけど、その辺の動きがちょうど今日言っておられた、河内への古墳群の進出が、奈良北部と重複するように始まる段階にうまく瀬戸内海沿岸部の土器の変化になってきますので、そういう意味でも土器と須恵器は私の理解ではそうふうに流れていると思います。今日のお話の中にどれだけ役に立つことを言ってるか全然分からないのですが。
そこに埴輪を載せるということになりますと、たくさんの図は出てこないのでうまくいかないのですけど。考古学協会の理事の関係で、いままで六古墳(陵墓)の中に入っていますので、そこで実見した埴輪から言いますと、応神というか誉田御廟山ですね。中堤の埴輪を見ましたけどね。その埴輪なんかは今日の話によく合う、四〇〇年ぐらい、まあ十年二十年とか、その辺の埴輪を見てるのかなと自分で思っていますので。一瀬さんの編年とは少し違うのかもしれませんが、わりと文献年代と誉田御廟山というのは、まあ私は、年代が合うという意味で実在のような感じで埴輪を見てるのですけどね。
特に誉田御廟山の場合、谷の一番際の、一番悪い、見たときに西の方に急激に落ちるところに築造されているのですけどね。水源を抑えるという意味では、あそこの谷奥の場所が最優先で立地が決まってるのじゃあないかなと思います。谷の面する西側に寄って造りすぎて、入った時の印象が悪いかもしれませんがね。しかし、中から北を見上げますと、明らかに、河内の平野を全部望むところに誉田御廟山が存在するという印象を持ちます。立地に規制されて造りづらいけど、立地最優先型じゃあないかなというふうに思います。そこで応神の時期と合致するので、存在を認めたいというか、そこに応神と誉田御廟山は結ばれるというふうに考えています。それは逆に皆さんが異論があるのじゃあないかと思います。
塚口
有難うございます。いいご指摘を頂戴しました。だいたいこの四世紀の後半から五世紀の前半ですね、今日は主に畿内の話をいたしましたが、北九州はどんな感じになっていますか。これ、宇野先生お願いします。すみませんけれども、特徴的なことを教えてください。
宇野
九州で四世紀後半から五世紀全般ぐらいにかけて、私は三つの画期があると思っています。第一の画期は四世紀半ば以降、後半代です。前方部が短くなる佐紀陵山(日葉酢媛命陵)タイプの墳丘が流行りだします。例えば下関市の仁馬山(じんまやま)古墳。宗像市の東郷高塚古墳、宇土市の向野田(むこうのだ)古墳。そういったあたりで、北部九州から、熊本肥後あたりまでの中・北部九州中心に前方部が短くなる前方後円墳が出てきます。それが出現してこないのは、豊後、大分県の南部から日向、そして南九州は前方部の長い柄鏡式タイプが造られています。そういった四世紀後半代で中・北部九州では佐紀政権との関係が見られるのではないでしょうか。それがまず第一の画期です。
第二の画期は四世紀末から五世紀の初めぐらいに玄界灘沿岸あたりに、八〇メートルから九〇メートルぐらいの前方後円墳で、初期横穴式石室が出てきます。四世紀末、五世紀初頭前後に渡来系の影響が見られはじめ、初期の横穴式石室が構築されるということで、大きな画期が、北部九州に見られます。
それから第三の画期は、五世紀前半に、今度は北部九州に代わって南九州の日向や鹿児島県の東部の志布志湾沿岸で、九州で最も大きな前方後円墳が出現します。九州の前方後円墳で大きいのは、四世紀初頭前後の石塚山古墳が一三〇メートル、それから御所山(ごしょやま)古墳が一三四メートル、それから六世紀に筑紫君磐井が葬られたと言われている岩戸山古墳が一三六メートルと、大体一三〇メートルから一四〇メートルぐらいが限界なのですけれども、南九州では五世紀前 半の男狭穂塚古墳、女狭穂塚古墳という九州最大規模である一七〇メートルぐらいの古墳が出現します。それから志布志湾で唐仁大塚が一五六メートル、横瀬大塚は一五〇メートルというように北部九州よりも大きい前方後円墳が築かれるというように、畿内政権とのつながりが深くなってくる。これは仁徳天皇の妃になった髪長媛は日向の出身ですから、そういった関係で急激に畿内政権と緊密な関係なるのじゃあないかなと思っています。
ですから四世紀後半代に佐紀政権と関係が密になり、前方部の短い前方後円墳が出てくる。そして五世紀前半に畿内政権とつながりの強い日向が出てくる。そうすると佐紀政権と仁徳期の間の四世紀末から五世紀初めの画期というのはどの段階だろうかということになりますと、やはり応神天皇の段階に一つの画期があるのではないかということで、河内政権の出現とともに中・北部九州の諸勢力が、かなり影響を受けていると考えております。
塚口
有難うございます。畿内の様子とかなり連動していると考えていいわけですね。それじゃあ同じ質問を、急に振って申し訳ございませんが、出雲から来ていただいている仁木先生、出雲の四、五世紀の様子を教えてください。
仁木
皆さん出雲というのがどういうところかぱっと浮かばない方もおられると思いますので、今日のお話に関連付けて話したいと思います。白石太一郎先生作成の編年図がございますけど、先ほど塚口先生がご講演の中で桝山古墳(倭彦命墓)というのをお話しされていました。この編年表にも載っておりますけれど、塚口先生は、一応五世紀前半くらいに桝山古墳が出てるのではないかと言っておられました。実は出雲もでも、この桝山古墳ほどの大きさではないのですけど、全国ランクで言いますと六位くらい、六五メートル級の大型方墳が作られます。その大型方墳が作られる時期というのが、いま島根県のほうで古墳の検討をしていまして一瀬先生にも埴輪を見ていただいたのですけど、出雲の大型方墳の出現時期がこの誉田御廟山古墳の築造段階に相当しているのではないかと。さらにその廟所(びょうしょ)古墳というのが六五メートルなのですけど、次に石屋古墳という四二メートルの大型方墳がございます。その時期がこの大仙古墳(仁徳天皇陵)の築造時期とほぼ重なってきます。先ほどから西川さんが、陪冢というのがあるとおっしゃいました。大きな古墳の周りに計画的に方墳や円墳、帆立貝形古墳が造られます。そういう大王墓に付随するような陪冢というのが、大王と出雲の豪族の関係を考える上で、重要ではないかと。今回の応神・仁徳の実在とも絡んでくる話なので、私は大変興味深く拝聴しております。
塚口
有難うございます。
一瀬
先ほどの年代の考え方の誤差というのが、文献と考古学というか、文献と古
墳の在り方ですごく違っていまして、おととし、私の大学で、白石太一郎先生に
喋っていただいたときにも、指を折りながら大王の名前を当てはめていかれたのですが、古墳がありすぎて被葬者が足りない。文献の方が人材不足という話になってしまって、私は今日ここで全部決めたかったのに決められなかったと言って帰られました。
先ほどの微妙な年代差、室大墓の年代はレジュメの編年図をご覧ください(第9図)。一番古い感じで応神陵を位置づけるとすると四世紀末まで入ってくる可能性があって、昔から白石先生と都出先生には宮内庁に治定される応神、誉田御廟山が四世紀末にならないかと今でもさんざん言われている節があるのですけど、そこまでさかのぼりそうになさそうです。今一番無難かと私が考えている年代観でいけば、古市古墳群で四世紀末という時間帯は津堂城山から仲津姫陵の間になってきます。次に墓山というのがあるのですが、墓山がほぼ堺にある百舌鳥古墳群の履中陵(上石津ミサンザイ)に相当します。三番がようやく誉田御廟山の応神陵なのです。みなさんがさっきから言ってた応神陵というのは、大王墓かどうかはともかくとして、津堂城山、仲津姫陵、墓山、応神陵といった四基の二〇〇メートル以上の墓ですね、百舌鳥の履中陵を入れると五基もある二〇〇メートル以上の墓が結局応神陵という文献年代で言う築造年代に、含まれてしまいます。その四つもしくは五つの古墳とも応神陵だという話をしてしまえば、年代合わせでうまく収まるということになるのかなと思います。応神被葬者群?そんなわけはないでしょう。これらのうち、先ほどの同世代の室大墓とも同じようなことですけど、どうしても室大墓を襲津彦にするのであれば、併行年代的にいけば、墓山ぐらいが、古くても仲津姫陵くらいが襲津彦年代になります。応神陵候補五基の後ろの方四世紀後半を襲津彦のイメージにするのであれば、室大墓の被葬者は次世代になります、だから、文献の方が人材不足なので、実在する古墳の方も困ってしまうということになります。
塚口
有難うございます。被葬者を推定するのはなかなか難しいですね。なんとでも言える部分があるものですから。次に中村先生、四世紀末から五世紀初め前後の畿内の様子をどのように考えておられるのか、お話願えませんでしょうか。
中村
四世紀の中ごろ、お墓が三輪山周辺から佐紀西群に移って、それから河内に移るという話が有りましたけれども、私もそう思っていまして、その時に四世紀後半にお墓が佐紀西群に移った時の生産基盤が南山城にあるというのも、私もそう思っています。だからその時代を考えるときに現在の奈良県と京都府の県境だとか、大和と山城の昔の国境だとか、古墳時代ですからそんなのは全部取っ払って、もう地形だけ見て考えたら、奈良盆地と南山城と河内とそれらは一つの所として考えてみたら、結局奈良盆地、南山城、河内と生産基盤が順番に移動してると。そういう目で例えばヲホド、継体ですね、ヲホド大王の宮が樟葉から筒城に移って弟国に移って、更に奈良盆地に移ってというのも、そういう目で見たら、別に何ら不思議なことでもなくて、宮を移しながら、僕は宮っていうのは、大王の住居だと思っているのですよ。大王の住居でそのまま政治をやると。大王が住居を移した時に、その大王を支える各氏族もその大王の住んでるそばに自分の出張所というか、別宅をその周りのそばに設けると。その別宅が、今でいう行政機関になる。大王を支持した氏族の出先の家が現在でいう役所になっていくと。そういうイメージでいるわけです。それで、そういう目で王墓なんかが動いているのを見ていたら、結局動きながら各氏族を自分の支持勢力に組織していくというふうに思っています。だから、あまり大和だ、山城だ、河内だというのは、概念は取っ払ったらいいのじゃないかなというふうに思っています。
塚口
有難うございます。中村先生は今おっしゃったような内容の論文をいくつか書いておられて、これが実は、京都府立大学でしたか、博士論文の一部になっているということです。ありがとうございました。
時間もだいぶ迫ってきましたので、会場におられる複数の方々から頂戴しているご質問を取り上げたいと思います。レジュメの三一頁を開けていただきたいと思います。右側に荊木美行先生がお作りになった崩年干支等の表が入っていますね(第2表)。これは非常に便利のいい表でございまして、みなさんよくお使いになっておられます。問題なのは、『古事記』の崩年干支でございまして、歴史学の研究者はあまりこれを使いません。今日の西川先生の講演の中でもよく言っておられました、なぜ使わないのかという、その理由ですけれども、これらが信じられるという保証が得られないからです。だから、これを信じて論じるということはしない、と言っておられる方が多いわけです。なぜ、信じられるという保証がないのかと言いますと、一つは『日本書紀』に書かれている天皇の崩年の年月日と合わないという問題があります。
ご承知の通り、『日本書紀』というのは、二つの暦によって何年何月何日という暦日が設定されています。一つは元嘉暦(げんかれき)という暦でございまして、これは倭の五王の時代、倭王が中国の南朝、宋からもらった暦です。五世紀代の倭の五王は南朝の皇帝の冊封体制下に入っておりましたから、当然のことながら暦をもらっていたわけです。冊封体制下に入ること、すなわち冊書(皇帝の命令書の一種)をもって封爵を授けられることを「正朔(せいさく)を奉ず」とも申しておりました。正朔というのは正月の一日の日という意味で、暦のことです。『日本書紀』の雄略天皇以降はこの元嘉暦に基づいて設定されているのではないかという見解が有力です。それより以前、すなわち初代神武天皇から安康天皇までの暦日は、儀(ぎ)鳳暦(ほうれき)という暦に基づいているのではないかと言われています。この儀鳳暦というのは、元嘉暦よりもずっと後の六六五年に中国で作られた暦でありまして、大体天武天皇のころ、七世紀後半に日本に入ってきました。中国では麟德暦(りんとくれき)と呼ばれていた暦だと一般に言われています。中国の儀鳳年間に日本に入ってきたものですから、日本では儀鳳暦というふうに称されたのであろうと言われています。 そして次の持統女帝の時代から、前から使われていた元嘉暦と新しく入った儀鳳暦の二つが使われ始めたと言われています。丁度持統朝あたりから旧暦の元嘉暦から儀鳳暦への切り替えが行われたのですね。急に切り替えたら皆戸惑いますから、あくまでも儀鳳暦が基本ですが、両方の暦が使われていたわけです。だから『日本書紀』で儀鳳暦に基づいて年月日が設定されている雄略以前は、ほとんど架空で、信じられない、ということになるわけです。ただ、きょう水谷先生がおっしゃられたように、『日本書紀』の編纂者が『百済記』などの百済系資料に基づいて干支を書いているところは、かなり信憑性が高い、だが、他は簡単には信じられない、ということになるわけです。もっとも、元嘉暦が使われている雄略紀以降でも、疑わしい年月日はたくさんあって、史料批判が必要です。
『日本書紀』はそのような書物ですが、それと『古事記』の崩年干支を比べてみてください。『古事記』に崩年干支があるのはまず十代目の崇神です。『日本書紀』では辛(かのと)卯(う)に亡くなっていますが、『古事記』では戊(つちのえ)寅(とら)です。合いません。次に、十三代目の成務をみると、乙卯(きのとう)ですね。なお、『古事記』に崩年干支があるから実在だとおっしゃる方がいます。これを初めて言われたのは水野祐先生だと思いますが、なぜ崩年干支があるから実在で、無いから架空だというようなことが言えるのか、私はいまだにこの考え方が良く分かりません。十三代の成務は『日本書紀』では庚(かのえ)午(うま)。合いません。仲哀、応神、仁徳、履中、反正、允恭、雄略、継体、これらもすべて合いません。ご承知の方も多いと思いますけれども、継体の場合、『日本書紀』の編者は非常に信憑性が高いと言われている百済系資料の『百済本記』に基づいて書いていると、「継体紀」の末尾に記しています。しかし、『古事記』とは合いません。で、やっと安閑に至って、乙卯(きのとう)が合うのですが、しかし、月と日が合わない。そして次は敏達。合わないですねえ。
用明、崇峻、推古は、年と月が合っています。しかし、日が合わない。普通でしたら、『古事記』の崇神の崩年干支が信じられるというのなら、継体とか雄略あたりの『古事記』の崩年も信じられるとしなければ、論理に一貫性が無いですね。崇神だけ信じられるというのはちょっと苦しいのではないかというのが、大方の古代史の研究者の意見なのです。そうすると、この『古事記』の崩年干支はどこから来たものか。問題ですねえ。そこで、『魏志』の裴松之(はいしょうし)の注に引用されている『魏略』の記事から推測して、一年を二年と勘定していたのではないかとか、あるいはそのために享年が一六八歳や一五三歳になったりしたのではないかとか、いったようなことがよく言われています。昭和四十五年ころのことですが、日本書紀研究会で横田健一先生としゃべっておりましたとき、『古事記』ではすべての天皇が十五日までに亡くなっていることが話題になり、大昔は十五日までしかなかったのか、といったようなことを笑談いたしましたが、結局、よくわからない、ということに落ち着いたのを覚えています。まあ、そういう状況ですので、この崇神の崩年干支だけを信じるというのは、やっぱりいいとこ取りになってしまうということで、ほとんどの研究者はとらないわけなのですね。でも惜しいですね。そこで、西川先生、先生はどういうふうに考えられますか。
西川
考古学の成果と年輪年代測定法などの成果によると、ちょうど応神陵古墳の造営途中が西暦四〇〇年ぐらいということです。たまたま、応神天皇が亡くなった崩年干支の甲(きのえ)午(うま)を三九四年とすれば、ぴったり合いますよ、という玉虫色の話です。
ところで、先ほども塚口先生からご説明があった儀鳳暦と元嘉暦など、中国から暦法を貰ってこないと、倭人は年月を数えることができなかったのか、もともとカレンダーを持っていなかったのか、という問題があります。かなり荒い推測になってしまいますが、古代人は何らかの年月の数え方、あるいは月日の数え方を知っていたのだろうと思っています。その一つに、ご説明のあった『魏志』倭人伝関係史料があります。これは、『魏志』倭人伝のもととなる『魏略』裴松之注という逸文にあり、倭人のことを「その俗、正歳四節を知らず、ただ春耕秋収を記して年紀となす」と記すくだりです。『晋書』倭人伝にも同様の記事があり、「人の多くは百歳あるいは八九十歳の長寿である」と加えます。つまり、二倍暦だったと思うのです。春から秋までで一年、秋から次の春までで一年です。そうすると倭人はみな長寿となるのです。同じように、『古事記』崩年干支は、一日から十五日までの間しか日が記されません。これも、お月様で日を数えると十五夜までだからでしょうか。そういう数え方があったかもしれないのです。
こういう発想の転換は私たち考古学でかなり多くの経験をしています。例えば水田の発掘法は最近までなかったのです。しかし、大阪府に水田遺構が見つからないはずがない、と疑って疑って、ある調査で、たまたま発見されたのです。広域に薄く薄く削ったら、田んぼの畦畔が見えてきて、足跡が見えてきて、水田が掘れるようになったのです。無い無いと思って切り捨ててしまうのではなく、有る有る、どこかに手がかりが有ると思って拾って行くと、案外見えてくることがあるわけです。例えば、古墳の埋葬施設の発掘法もそうでした。埋葬施設というのは、古墳を造っている途中に埋められるのだから、古墳を蒲鉾のように切っていかないと主体部は見つけられないと長い間思われていたのです。ところが、古墳の一番頂上を丁寧に丁寧に削っていきますと、墓穴の輪郭が出てくることが分かってきたのです。今日、豊中大塚古墳の発掘成果の説明がありました。きれいに粘土槨が検出できた、ということでした。古墳墳上で、墓穴の輪郭を丹念に探していく発掘法が確立したからです。そういう取り組みが、文献史学でもできるのかどうかです。あるいは考古学成果なども併せて、別の方法で史料批判や信ぴょう性を検討できるのかどうかですね。
塚口
有難うございます。倭人は中国のどのような暦を使っていたのかという皆様方から頂戴したご質問について、もう少しお話をさせていただきます。倭人は中国の冊封体制下に入るとその王朝の暦を使います。まず景初暦です。三国時代は魏に遣使していましたから、景初暦を使っています。この景初暦は西晋の泰始元年(二六五)に泰初(始)暦と改称され、さらに永初元年(四二〇)に永初暦と改称されます。これらはみんな同じものです。したがって景初暦は景初元年(二三七)から宋の元嘉二十一年(四四四)までの二〇八年間用いられていたことになります。元嘉暦より以前に倭人が中国の暦を使っていたとすれば、それは景初暦であった可能性が大きいことになります。稲荷山の鉄剣銘は雄略天皇の時代ですから、元嘉暦を使っています。もしも、それ以前に中国の暦を使っておったとすれば、それは景初暦なのです。
でも、西川先生がおっしゃっているように、日本でも倭人たちは一年の周期を知っていたはずです。月とか太陽の運行によりましてね。なんせ、田んぼを耕しているわけですから、自然暦があったはずです。それが具体的にどのようなものであったのか、やっぱり考えないといけませんよね。いわゆる『古事記』の崩年干支はこの問題と関係している可能性がありますからね。ただし、今はここまでしか言えません。だから『古事記』の崩年干支を根拠として使うにはまだ早すぎます。
西川
この議論は非常に古くからあります。江戸時代の本居宣長は「天地おのずからの暦」というのが古来にあって、日本独特の数え方をしていたのだ、といいました。それから、一九五〇年代になって、水野祐先生が『古事記』崩年干支を取り上げました。水野先生は『古事記』に註として崩年干支を書きいれたのは太安万侶自身だ、と論文で明言しています。太安万侶は『日本書紀』編纂時には本当の暦日を記せなかった。神武東征を非常に古い時代にさかのぼらせたので、いろいろな操作をしてしまった。それで、完全に出来上がっている『古事記』に本当の暦を注釈として書いたのだ、というのです。そういった発想も精緻に検証していくことが必要かもしれませんね。
塚口
そうですね。これは、もう考えないというのじゃあなくて、なぜこういう崩年干支があるのかということをやはり考えていかねばならんですね。これ、解明したら、博士論文になりますよ。ちなみに、西暦は、私たちはいまグレゴリオ暦を使っております。このグレゴリオ暦というのは太陽暦でありますけれども、ちょうど一五八二年、信長が本能寺で殺された年に作られました。ローマ教皇のグレゴリウス十三世が今まであったユリウス暦を改めて作ったのです。ユリウス暦というのはかの有名なクレオパトラの相手役であったジュリウス・シーザーです。カエサルです。暦というのは外国に行くと、全然違うものが使われていたりしますよね。イスラムではまた違った暦が使われているし、別の地域に行くとまた違っていたりします。だから、日本固有の暦があっても不思議ではないと思いますけども、これが良く分からない。もう時間が来ましたね。このシンポジウムを聴いてくださっている皆様方も、ぜひ研究していただいて、博士の学位を取っていただきたいなあと思います。
最後に一言だけ、応神は実在か架空か。仁徳は、実在か架空か。西川先生いかがですか。
西川
私は、歴然と王墓があることを評価します。応神天皇陵もあって伝承も残されています。仁徳天皇陵もあって、伝承もあるわけです。『古事記』『日本書紀』の記述が史実とは限らないけれど、そういう伝承のモデルになった人物があったはずです。古墳の大きさを考えれば王がいたことも確かです。したがって、応神天皇のモデルは実在し、応神陵古墳に葬られていると考えます。
塚口
はい、ありがとうございます。水谷先生は?
水谷
特に否定する根拠は十分ではないというふうに思います。
塚口
はい。一瀬先生。
一瀬
ちょっと長くなってもいいですか。『日本書紀』の地溝の開発記事をまとめたものがありましてね。応神の時に開発しているのが、塚口先生が紹介された、畝傍の近くに宮があればというのに関連してる大和中心の開発の説話になってきます。この種の開発説話は仁徳の方では一気に大和から河内に移ってます。茨田とか。その中に感玖(こむく)大溝というのがあって、都出比呂志先生は、大水川(おおずいがわ)の川を迂回させて応神陵を無理やり作っている、この川の曲げ方というのが、この大溝の記事に関連するのと違うかという話もされてます。
つまり、どちらかというと、この説話群は河内と大和に応神と仁徳の記事を分けている。仁徳の記事の河内の部分では、両方河内に葬られたとするならば、応神と仁徳がミックスされたような記事になってるかもしれないということになります。あくまでもイメージの世界ですが、応神は大和と河内にまたがり、それに相当する考古学的な証拠からするとすごい幅を持っていそうで、年代も広いものです。それに比べて仁徳は古市大溝の伝承とかをちょっと切り落としていくと、仁徳陵古墳を造っている同じ短い時間帯で、考古学的事象と仁徳伝承になっている記事と合致するのが多いなあという感じがします。説話の世代が比較的に共通している。その記事の差というのが応神と仁徳の実在性の記事の差というか、おおげさに分かりやすくたとえるなら、応神伝承にまつわる被葬者は何十人もいて、仁徳は二、三人にしぼられるのかなという気が私はします。
塚口
有難うございました。まだまだお聞きしたいことがたくさんあるのですが、時間が来てしまいました。これはひとえに私の話が長すぎたことが原因です。どうかお許しいただきたいと思います。それでは、みなさん、長時間有難うございました。失礼いたします。(拍手)

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