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5世紀の政治拠点は河内か大和か(西川寿勝先生)

つどい317号
豊中歴史同好会創立25周年記念シンポジウウム
講演2 5世紀の政治拠点は河内か大和か
大阪府教育委員会 西川寿勝 先生

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漢字変換の制限により文字化けする場合があります。一 世界遺産登録への取り組み 現在、大阪府では百舌鳥・古市古墳群の世界遺産登録にむけて様々な取り組みをしております。国際シンポジウムも二回行われました。少し、動きを示しますと、二〇〇七年に百舌鳥・古市古墳群の世界遺産登録を計画しまして、大阪府が関係する堺市・藤井寺市・羽曳野市と連携して、国に働きかけをしました。翌年、文化庁がそれを認めたことをうけ、登録の準備委員会として有識者会議を設置しました。二〇〇九年には、合同推進府市会議を設置して、関係市と活動を始めました。そして、二〇一〇年に、国内ではユネスコ世界遺産暫定リストに記載していただくことが出来ました。 今年の六月、ユネスコに認めてもらうための推薦書を提出、国の承認を得ました。今後、古墳群やその周辺の環境整備、世界遺産のあるまちづくり、地域のみなさんへの周知・協力を進める予定です。これらを核にしながら、世界遺産登録は最短で二年後の二〇一五年に可否決定していただこうと思っています。 ただし、それまでに諮問機関であるイコモスの審査や現地調査があります。問題点の指摘がたくさんあると思います。実際に古墳群をどう活用していくのか、国内外にどう発信していくのかなどです。古墳の周辺は都市化が進んでいますし、地価も高く、広域に買い上げて公園にすることなどできません。近隣住民の生活とどう共存していくかですね。さらに、主要な巨大古墳は陵墓となっています。天皇の個人財産であり、祖先祭祀の場として受け継がれてきました。陵墓は一般に立ち入りすることも調査することも許されていません。これについても、どう共存するのか、今後の管理を含め、検討しなければなりません。  そういう意味ではいろいろな問題があるわけです。国の特別史跡である大坂城でモトクロスを実施してはどうかというような主張があります。これまでの数多くの世界遺産登録活動で、国に推薦書を提出するとき、県知事が出向かなかったことはたった一度もありませんでしたが、今回大阪府知事は出向きませんでした。そういうことが積み重なると、職員のモチベーションも下がってしまいます。  九月になって、文化庁は長崎の教会群とキリスト教関連遺産を推薦する動きを見せたのですが、国は一七日に軍艦島・八幡製鉄所などの九州・山口近代化産業遺産群を推薦案件に決定しました。百舌鳥・古市古墳群は外れたわけです。この間に、仁徳陵古墳を電飾で飾ればよいなどとの発言があったりして、堺市が反発し、大阪府と市の共同事業を取りやめ、市独自で百舌鳥古墳群だけを推薦したいという動きを見せるなど、翻弄されている状況です。 さて、今日のお話しは、世界遺産としての大王墓の学問的な位置づけです。ただ、古くて大きな墓というだけでは価値が伝わりません。ところが、世界一大きな墓である仁徳陵古墳も応神陵古墳も本当は誰のお墓で、どんな人物像だったのかは確定していないわけです。研究の途中です。ここにも大きな問題があります。  考古学者は大王墓とよんで、巨大古墳の動向から王権の分析を試みます。ところが、研究者のなかには『古事記』『日本書紀』(以下、『記』『紀』)にある古い時代の天皇の実在を認めない意見もあります。 史料研究と考古学研究のかい離では、古代国家の成立が七世紀か、五世紀か、三世紀かという七五三論争が顕著です。考古学者は前方後円墳・布留式土器・三角縁神獣鏡などが広域に拡散する現象をもって、列島に国としてのまとまりができたと考え、その時期を三世紀とします。 これに対し、『記』『紀』に依拠した研究では、五世紀後半以降に吉備・筑紫・毛野などが平定され、徐々に王権の版図が拡大し、考古学者が提示する倭王権の版図に重なる時期は七世紀の律令体制になる頃とする見解が有力です。五世紀までは、例えば、大和盆地の西半分に葛城氏がいて、王権は大和すら領域に出来ていないというのです。 こう着する議論に対し、五世紀王権の研究に新展開がみられ、話題になっています。ひとつは直木孝次郎先生による河内政権に関する最新の論文です。九四歳になられた直木先生はこれまでの河内政権論の批判に答える形で自説を補強し、河内政権の期間を短く修正し、姿勢を明快にしました。 もうひとつは、後でご講演いただく塚口義信先生による応神天皇の実在性をまとめた五世紀のヤマト政権の研究です。塚口先生は応神天皇を新たな政権の始祖的存在と位置づけ、神武天皇東征伝承などを手がかりに、王宮や政権拠点を大和盆地の畝傍山・磐余地域と難波の上町台地北辺部から淀川下流域にかけての地域に推定する論を以前より提示してこられました。  今回のわたしの話は、史学研究をけん引されてこられた両先生の成果に導かれながら、考古学の立場ではどのようなことがいえるのか、ご紹介させていただきます。 二 五世紀王権をめぐる考古学研究  先に整理しますと、直木先生と塚口先生はともに四世紀末ないし五世紀初頭に「河内政権」が成立したと論じておられます。ただし、お二人の見解には基本的にかなりの違いがあります。直木先生は従来の「王朝交替論」に近い考え方で、大和を基盤としていた「大和政権」が、新たに台頭してきた別系の政治勢力によって打倒され、それが河内を基盤とする「河内政権」だと論じておられます。  これに対し、塚口先生は「ヤマト政権」を畿内の連合政権と捉えます。そして、連合政権の中枢部を構成し、政権の運営を担当していた(政権を主導していた)集団が、主に佐紀地域に最高首長の奥津城を築いていた集団(佐紀政権)から、主に河内の百舌鳥・古市に最高首長の奥津城を築いた政治集団(河内政権)に交替したと説いておられます。  したがって、ヤマト政権が四世紀末に河内の政治勢力によって打倒されたわけではなく、もともと大和と河内を含む連合政権の内部で、政権を主導するグループが交替したと見ておられるわけです。だから、塚口先生のお考えでは「河内王権」「河内王朝」などは存在しないということになります。  このような両先生の見解に対し、考古学研究では、いずれかといえば、塚口先生のお考えに近い意見が目立ちます。まず、大半の考古学者は四世紀までのヤマト王権が五世紀に新たな王権の出現によって倒されたのではない、と考えます。ですから五世紀に神武天皇東征伝承のもととなる移動があったことにも否定的です。 ところが、王権の拠点は大和から河内に移るだろうという直木先生の説には多くの支持する意見があります。わたしはその拠点が河内ではなく大和だろうと思っています。少数派でしょう。  まず、四世紀までのヤマト王権が五世紀王権に倒されていない、という考古学的根拠を紹介します。四世紀の前期古墳と五世紀の中期古墳とが継承的か、断絶的かの問題です。確かに、五世紀になると、突如として百舌鳥・古市古墳群が形成されます。ところが、いずれも前期前方後円墳を継承する前方後円墳が中心です。また、副葬品も武器・武具が目立つようになるのですが、これは古墳時代前期後半から徐々に増加していくことがわかってきました。四世紀と五世紀で副葬品の内容がガラっと入れ替わることはないのです。百舌鳥・古市古墳群でも前期古墳以来の鏡の副葬が多少は見られますし、山背の久津川車塚古墳や、大和の円照寺墓山古墳(一号墳)など、五世紀になっても三角縁神獣鏡を副葬する古墳さえあります。  もう少し細かく見ると、オオヤマト古墳群・佐紀盾列古墳群・馬見古墳群・百舌鳥古墳群・古市古墳群のすべてに共通する特徴的な副葬鏡があります。大型仿製鏡と呼ばれる直径二〇センチメートルをこえる立派な国産鏡の一群です。紋様系列がたどれ、中型・小型のものもあります。以前の研究では、三角縁神獣鏡の配布がおわり、足らない部分を補完するため、仿製三角縁神獣鏡が創出され、さらに後、大型仿製鏡が出現すると推定されました。ところが、近年は桜井茶臼山古墳からこの鏡群が発見され、古墳時代の開始時期から存在するとわかってきました。  ただし、副葬時期の大半は古墳時代の前期後半で、成務陵古墳とされる佐紀石塚山古墳から二四センチメートルのだ龍鏡と呼ばれる鏡が、日葉酢媛陵古墳とされる佐紀陵山古墳や馬見古墳群の新山古墳や佐味田宝塚古墳からも同系統の紋様の鏡がそれぞれ複数みつかっています。それで、四世紀後半の王権にかかわる鏡と考えられてきました。  ところが、よくよく注意しますと、百舌鳥・古市古墳群の古い古墳にも副葬されているのです。応神陵古墳の北側に鞍塚古墳があり、直径一四センチメートルでやや小ぶりですが、大型仿製鏡に共通する紋様を刻む鏡が発掘されています。共通する紋様の鏡が百舌鳥古墳群でも江戸時代に掘り出されていることが古記録にあります。さらに、百舌鳥古墳群の南にある大野寺には直径一七センチメートルのだ龍鏡が二面保管されており、百舌鳥狐塚古墳出土と伝わります。確証はないのですが、前期古墳のない地域なので、これらは百舌鳥の五世紀の古墳に副葬されたようなのです。このような四世紀の大和と五世紀の河内に、共通する副葬遺物が認められるのです。  ちなみに、この系統の大型仿製鏡がこの近くでは桜塚古墳群の豊中大塚古墳から発見されています。そして、垂水神社の南にあたる吹田市垂水南遺跡で、この鏡のスクラップ片と焼け土などがみつかり、大阪が製作地だった可能性もあるということです。  また、古墳を飾る埴輪をつくった工人集団も、古墳時代前期から継承され、大いに発展しました。古墳の形や埴輪は、近畿の四世紀と五世紀で断絶するわけではありません。 そうすると、四世紀の大和から五世紀の河内に巨大古墳造営が移行する現象は、連合王権の盟主のみが入れ替わったという解釈で説明されます。大和東南部の勢力が盟主だった四世紀前半、大和北部の佐紀勢力が盟主だった四世紀後半、河内の新興勢力が盟主となる五世紀前半と、トップが移り変わるのです。そして、五世紀後半以降は再び大和に戻るという構図です。 主導権交替などという言葉で説明される場合もあります。古墳づくりは継承的で、戦乱や武力制圧ではありません。『記』『紀』には「皇祖霊」という言葉があります。大王が先代以前の祖霊をまつるのであれば、大王墓は同じ地域にある方が祭祀しやすいと思います。これが、分かれているのですから、一系譜ではないとも考えられます。 しかし、発掘調査で造営後の祭壇や祭祀痕跡がみつかることはありません。古墳は造られるまでたいへんな労力をかけるのですが、完成直後からほったらかされたようです。濠は埋まり、埴輪は転んだままです。不思議なことに、同時代に補修された痕跡はみつかりません。つまり、墓域が分散することで祖霊祭祀に不都合がおこるようではないのです。 したがって、五世紀に神武天皇東征伝承のもととなる移動や大和の平定があったことにも否定的です。そもそも、四世紀・五世紀を通じ、物流の流れは近畿から地方にむけてのものが大半で、九州から近畿に移動してくる物質・文化はほとんどないのです。そうすると、日向から移動してくる神武天皇という王権の始祖伝承を考古学的に物流でとらえることは難しいわけです。 ところで、四世紀と五世紀では、物質・文化に大きな変革が訪れます。例えば、窯業技術です。四世紀までは伝統的な素焼き土器の文化でした。五世紀には須恵器という半島由来の窯焼きの土器が普及し、食事や儀式に至るまで、汎西日本の庶民に浸透しました。 また、大和・河内では鍛冶関連遺構を伴う集落も増加します。鉄素材やスクラップをもちこんで、農具や工具に鉄の刃先をつけるのです。こういう痕跡が一挙に増えます。それで、五世紀の近畿では巨大古墳造営以外にも、ため池造営や堀江開削などの大規模土木工事が始まったと推測されます。さらに、乗馬の風習なども加わります。 いずれにせよ、これらの変革は九州発進ではなく、半島からもたらされたものです。神武天皇東征伝承をかりに評価すれば、考古学的な物流や文化の発信源は半島で、王権も半島から渡来したと考えられるかもしれません。ただし、考古学者はそう単純化して受けとめません。須恵器・鍛冶・馬具のどれをとっても、その発信の源は半島の伽耶地域の南端とされます。伽耶地域は百済・新羅と違って、政治的結合の遅れた複雑な野合勢力です。そういう集団の一部が倭国王権の中枢となったとすれば、その末に百済や新羅との関係はどうなるのかという問題です。すでに、四世紀段階に倭国と同盟をした百済が、変わらず五世紀の新王権に朝貢して同盟するのは不自然です。 出土遺物を概観すると、五世紀前半は伽耶・百済の文物が選択的に取り入れられ、五世紀後半以降は百済系文物が多くなることも分かってきました。つまり、半島からの物流は一元的ではなく、多元的だったようなのです。 三 五世紀の大和の再評価  次に、五世紀の変革ついて、大和と河内のどちらが主だったのかを検討します。これまでは、河内湖周辺に渡来系遺物を含む集落が顕著に認められ、鍛冶や馬匹生産が発展したと位置付けられてきました。また、須恵器生産は和泉と千里の丘陵に一大生産地があり、その規模の大きさから王権の主導による生産と流通が推測されているのです。そうすると、王権の拠点は文化が著しく進んだ河内地域だったと考えられます。直木先生のお説が魅力的に見えます。  これに対し、大和はどうだったのでしょう。結論をいえば、大和も同様に位置づけられることが分かりつつあるのです。中でも注目されるのが、塚口先生も注目されておられる畝傍山周辺です。  これまで、畝傍山周辺はあまり発掘調査されていませんでした。東側に藤原京があり、五世紀の遺跡は宮都造営で破壊されているとも思われていました。また、西側や北側は田園が広がり、発掘の機会が少なかったのです。  ところが近年、京奈和自動車道建設があり、バイパス道路や周辺開発などの工事も加わって、畝傍山の西側や北側の遺跡群が大規模に調査されました。これまでの調査成果を合わせ、この地域の四・五世紀の様相が明瞭になりつつあるのです。  かいつまんで紹介すれば、畝傍山周辺には弥生時代から古墳時代に続く拠点的集落がいくつかあります。橿原市中曹司遺跡・新沢一町遺跡・四分遺跡などです。これらはいずれも、四世紀末には廃絶します。かわって、五世紀になると新たな新興集落が数多く見られるようになります。わたしはこれを畝傍山集落群と呼んでいます。四条遺跡・新堂遺跡・東坊城遺跡・曽我遺跡・内膳遺跡・藤原宮下層遺跡・山田道下層遺跡などです。これらの集落の特徴は、韓式系土器・初期須恵器がとりこまれ、渡来人の痕跡がうかがえることです。後に年代的根拠を説明しますが、これらの遺物によって、畝傍山集落群はおおよそ五世紀初頭におこったとわかるのです。さらに、鍛冶関連遺物によって鉄製品を製作していたこともうかがえます。  畝傍山周辺で四世紀末に伝統的集落が消滅し、五世紀になると新興集落が勃興する状況は河内と共通します。塚口先生の注目されている応神天皇が畝傍山周辺に「軽明之宮」を置いた伝承をほうふつとさせるものです。 ただし、伝統的集落の人達が、五世紀になって分散移住しただけ、という可能性もあります。これについては各集落の周辺から墓域が発見され、やはり初期須恵器などを使ったこれまでにない墓前祭祀を展開していることです。曲川古墳群・内膳古墳群・南山古墳群などです。 なかでもひときわ眼を引くのが、新沢千塚古墳群の一二六号墳です。高句麗系金製冠飾・百済系火熨斗(アイロン)・新羅系金製耳飾り・伽耶系帯金具・西域の瑠璃ガラス皿など、国際性豊かな遺物をふんだんに副葬していました。 以上、伝統的集落の人達の移住と考えるより、この地域に新たな人達が数多く流入し、集落が入れ替わる可能性が極めて高いことが分かるのです。ただし、河内の場合を含め、これらの集落の人々はすべて渡来人だったかというと、そういうことではありません。集落出土遺物のなかに幾分かの渡来系遺物が混ざるという程度で、決して大半を占めるというような量ではありません。 加えて、このような大和の変革が畝傍山界隈だけなのか、奈良盆地全域に及ぶのかという問題があります。つまり、たまたま畝傍山周辺のみ、発掘調査が進んで様相が明らかにされたのかです。これについては奈良県内で発見された韓式系土器などの渡来系遺物が細かく分析されており、その分布を見る限り、やはり畝傍山界隈が突出しているといえるのです。 少し気がかりな点を紹介します。考古学では「応神朝の画期を乗り越えられるか!」と盛んに議論されてきたことです。史学研究に対する挑戦という意味です。 『記』『紀』やその他の史料には渡来人・帰化人に関する記述が多くあります。おおよそ三回の画期があり、第一波の渡来が応神朝、第二派の渡来が雄略朝、第三波の渡来が天智朝とされています。その間にも欽明天皇時代など、いくつかの渡来記事があります。ところが、史学では三品彰英先生・上田正昭先生・平野邦雄先生・山尾幸久先生などの研究によって、第一波の渡来、応神天皇が高市郡の檜隈に一七の県の人達を帰化させた、あるいは仁徳天皇時代になって大挙渡来した、などという記事は史実ではなく、第二派以降の渡来を古く遡らせたのだろうと推断されました。このような渡来記事は飛鳥・奈良時代に活躍した渡来系氏族の祖先伝承で、古い時代の天皇に呼ばれて帰化したと誇張したくなるからなのです。結論的に、応神天皇時代に大挙して渡来人が来た事実はないというのです。 この歴史観を受けて、考古学でも須恵器技術の導入時期は雄略朝、つまり五世紀後半だろうと推測されました。一九八〇年代に五世紀後半からはじまる須恵器編年が提示され、現在でもそれを支持する研究者がいます。現在は少数派ですが、埴輪窯を導入する応神陵古墳・仁徳陵古墳などはすべて五世紀後半以降となり、まったく『記』『紀』にある被葬者を否定するのです。 それはおくとしても、先にわたしが示しましたように、大和東南部で渡来系遺物がたくさん見つかる新興集落が五世紀初頭に勃興する事実は、『記』『紀』にある応神朝の画期、第一波の渡来と大和東南部への移住に見事に対応しているのです。須恵器の導入が四世紀末から五世紀初頭、同時期に渡来系の技術をもった人々の集落が河内や大和に数多くみられることは歴然とした事実です。したがって、史学研究からも「応神朝の画期を乗り越えていただきたい!」といいたいわけです。 四 王墓の抽出とその年代  わたしは、五世紀に畝傍山界隈が王権拠点として、急速に発展したのではないかと考えます。問題点は、周辺に巨大古墳が造営されなかったことです。塚口先生は王権を支えた、大伴氏の祖やオオクメの祖などもこの時期にこの地に移住したと導かれました。このような有力豪族の立派な古墳も大和東南部にはみられないのです。わたしは大王墓とともに、有力豪族の墓も百舌鳥・古市古墳群にあると考えます。  それで、大王墓の変遷についてお話します。大王墓の抽出については白石太一郎先生によって、全国に全長二〇〇メートル以上の前方後円墳が三六基あって、その築造の順番が細かく検討されています。古墳の形や、出土する円筒埴輪の型式などからです。  古墳時代前期前半は、箸墓古墳・西殿塚古墳・桜井茶臼山古墳・メスリ山古墳・行燈山古墳・景行陵古墳の六基のみで、すべて大和東南部に造営されています。古墳時代の開始年代は近年、箸墓古墳の濠から見つかった土器を放射性炭素法で検討した結果、二四〇~二六〇年という結果が出て話題となっています。のちに説明しますが、おおよそ三五〇年頃までの一〇〇年間にこの六基が造営されたと考えます。  次に、古墳時代前期後半ですが、この時期には全長二〇〇メートル超えの古墳が一四基、一九〇メートル前後のものも含めると二二基です。急増するのです。  次に、古墳時代中期、つまり五世紀の一〇〇年間の巨大古墳ですが、全長一九〇メートル前後を含めると一六基です。中期前半と中期後半で八基ずつです。  最後の古墳時代後期は、後期後半には前方後円墳を造らなくなるので、後期前半の約五〇年間に三基です。  そうすると、前期後半のみ、造墓の頻度に大きな偏りがあることがわかります。暦年代ではおおよそ三五〇~四〇〇年の五〇年間と考えます。年代的基点は応神陵古墳です。応神陵古墳の外堤を大阪府教育委員会では一〇年以上にわたって調査してきました。最初の方の調査は一瀬和夫さんが担当され、最後の調査はわたしが担当しました。そういう関係です。 調査で得られた埴輪を詳しく見ると、野焼きの埴輪と窯焼きの埴輪が半々にみられることです。つまり、古墳を造営中に埴輪窯の技術が導入されたようなのです。埴輪窯の技術とは須恵器生産に通じます。須恵器生産の開始年代は最近の理化学的成果で明らかにされてきました。奈良市の佐紀遺跡の大溝で四一二年伐採の木製品に初期須恵器が伴ったという結果、宇治市遺跡群の自然河川で三八九年伐採の木製品に初期須恵器が伴ったという測定結果です。 以上より、おおよそ四〇〇年頃に須恵器を焼く技術によって、埴輪窯も成立したと考えます。これが大王墓の埴輪生産にいち早く導入されたとすれば、応神陵古墳は三〇〇年代末に造営がはじまり、四〇〇年頃に埴輪窯が導入され、それからしばらくのちに完成したというものです。次段階の仁徳陵古墳では発見される埴輪はすべて窯焼きです。逆に、応神陵古墳の前段階の履中陵古墳や仲津媛陵古墳では須恵器や埴輪窯がまだなかったので、埴輪作りはすべて野焼きです。  このように、応神陵古墳や須恵器の有無を基点に、四世紀と五世紀が峻別できるのです。わたしは『古事記』分注にある天皇の崩年干支を評価しています。応神天皇の没年は甲(こう)午(ご)年で、三九四年にあたります。そうすると、陵墓が三〇〇年代末に造営されはじめ、四〇〇年頃の埴輪窯導入段階ではまだ完成していなかった、という推測にも適合します。  『古事記』分注の崩年干支によれば、成務天皇の没年は乙(おつ)卯(う)年で、三五五年にあたります。その陵墓と推定される佐紀石塚山古墳、皇后の日葉酢媛陵とされる佐紀陵山古墳などは景行陵古墳以降の前期後半の大王墓とされます。三五〇年以降に造営がはじまると考えられるのです。  以上より、三五〇年~四〇〇年にかけての短期間に、二二基の大王墓級の古墳が造営されたことがわかるのです。それは群雄割拠の時代とも解せます。ただし、多くの考古学者はそう考えません。先に示した通り、この時期の古墳は同じ設計図を使ったのかと思えるくらい共通する墳形で、埴輪も同じ集団が作ったかのように技法が共通します。つまり、ほぼ同時にいくつもの大王墓級の古墳が造られたとしても、その被葬者は王権と連合的・和合的なのです。 五 百舌鳥・古市古墳群の造営  ところが、これを打ち破るとんでもない事態が三〇〇年代の末におきてしまいます。これまで全長二〇〇メートル前後だった古墳造営に対し、吉備に突然全長三六〇メートルの古墳造営がはじまったのです。これは造山古墳として完成します。この時点で、日本一大きな古墳が近畿以外の吉備にできたのです。  ほぼ同時期に百舌鳥古墳群でも三〇〇メートル超えの古墳造営がはじまっていました。それが、現在の履中陵古墳です。造山古墳とどちらが先に完成したかわかりませんが、結果的に同じ大きさです。それで、古墳造営は三〇〇メートル級の時代へと突入するのですが、王権は巨大古墳造営競争に大きさで打ち勝つのではなく、別の対策を考えました。それが、古墳の大きさや形の規制です。 この頃から帆立貝式古墳と呼ばれる前方部が短い古墳が全国的に出現します。これは被葬者集団がその形を選んだのではなく、大きな前方後円墳を王権が造らせなかったと思うのです。大和では全長一三〇メートルの乙女山古墳と全長一二六メートルの池上古墳が馬見古墳群に出現します。これが前方後円墳であれば、全長二〇〇メートル超えです。  また、日向の西都原古墳群には男狭穂塚古墳が造られていました。この古墳は前方部の造営のみが中断して完了します。非常に珍しい例です。もし、前方部が計画通り完成していれば全長三〇〇メートル級の古墳です。以上は、連合的・親和的だった王権が、古墳造営を規制する勢力、される勢力がではじめた例として注目します。  そして、履中陵古墳の次に完成したのは全長四〇〇メートル超えの古墳です。応神陵古墳と仁徳陵古墳です。これらは王権の力が最高潮に達したと理解することもできますが、大変無理をしたと読み解くべきでしょう。これ以降、極端に突出した規模の大王墓は出現していせん。全長二九〇メートルのニサンザイ古墳、全長一四七メートルの反正陵古墳が造られました。大王墓の規模は縮小していきます。 かつて、小野山節先生は時期によって河内王朝に権力の強弱があり、大王墓の規模などに表出すると論じました。その可能性もありますが、わたしは古墳の規制が一定の成果をあげ、定着した表れと考えます。 その後も、大王は一定の墳丘規模をもつ前方後円墳を百舌鳥・古市古墳群のなかに造り続けることで、その存在意義を示さなければなりませんでした。 面白いことに、五世紀後半の大王墓はことさら前方部の拡大と高層化を強調していきます。力のある勢力には前方部を規制した古墳を造らせ、自身の古墳は前方部を強調するのです。ついには後円部の高さを前方部の高さが超えてしまう清寧陵古墳・仁賢陵古墳などが登場します。 やがて、大和の豪族は百舌鳥・古市古墳群に古墳造営することを望まなくなります。五世紀末になると百舌鳥古墳群の古墳造営はなくなり、古市古墳群でも古墳造営は縮小していきます。そして、『記』『紀』に従えば、六世紀代になると陵墓さえ河内に造られなくなるのです。やはり、この時点が五世紀王権の変質を示すものと考えます。 少し、豊中の話をしますと、桜塚古墳群では古墳時代前期後半に全長七〇メートルの前方後円墳、大石塚が出現します。ところが、応神天皇時代に直径六〇メートルの豊中大塚古墳が築かれ、前方後円墳は造らせてもらえませんでした。この古墳は初期須恵器が発見されており、西暦四〇〇年前後の造営だとわかります。 次の御獅子塚古墳は窯焼きの埴輪ばかりで仁徳天皇時代でしょうか。前方後円墳を造営させてもらっています。ただし、規模はさらに小さくなり、全長は五五メートルです。その後も狐塚古墳や北天平塚古墳などが造営されるのですが、いずれも小型の帆立貝式古墳か円墳です。 さて今回、わたしは『古事記』分注の崩年干支を評価して取り上げました。実は、以前に塚口先生からお手紙をいただき、崩年干支の扱いには注意したほうがよいよ、とたいへん優しくご指導いただいております。うれしい限りなのですが少し困っております。 史学では崩年干支を否定する研究があり、塚口先生も二〇年以上前から問題があると論じておられます。詳細については、シンポジウムで時間があれば取り上げていただきたく思います。 少し余談ですが、多くの考古学者はこの崩年干支の亡霊に取りつかれている実態があります。もっとも古い天皇の崩年干支は崇神天皇の戊(ぼ)寅(いん)年です。史学の水野佑先生や笠井倭人先生が三一八年で論を展開され、考古学では小林行雄先生などが同調されました。 崇神天皇が崇神陵古墳、同時代のヤマトトトヒモモソ姫が箸墓古墳の被葬者とすれば、その造営年代は三世紀後半を大きくさかのぼらないと。それで、多くの考古学者は古墳時代の開始時期は三世紀後半から末頃で了承しました。 さらに、小林先生は三角縁神獣鏡を卑弥呼の下賜鏡とするのですが、卑弥呼の遣使から箸墓古墳や崇神陵古墳の造営まで五〇年以上の歳月があります。これが有名な三角縁神獣鏡の伝世です。このような年代観は未だに支配的で、理化学による年代を拒絶します。実は、『古事記』分注にしばられているだけかもしれません。 ちなみに、わたしは崇神天皇の崩御の戊寅年を三一八年とせず、干支を一巡繰り上げ、二五八年と推定しています。そうすると、卑弥呼もヤマトトトヒモモソ姫も崇神天皇も同時代の人物で、箸墓古墳の年代も二四〇~二六〇年という測定値におさまってくるという意見です。 それはともかく、『古事記』分注の信憑性です。『日本書紀』は古い天皇の年代的位置づけが全くできておらず、机上で干支や宝算を操作したことがありありとしています。それで、『記』『紀』の編者はもともと暦年の根拠をもっていなかったとされるのです。百済から暦が伝わる以前は、わが国に暦や干支がなかったと考える先生もいます。しかし、それは無理があります。 百済や中国の暦が伝わる以前、わが国で年月をどうやって数えたのか「わからない」のは事実です。しかし、「わからない」から「なかった」といえるのでしょうか。 考古学では「わからない」けど「あった」と信じて、これまでに数々の発見をしてきました。例えば、発掘調査で弥生水田はまったく見つけられなかったのです。しかし、弥生時代以降、水田がなかったはずがありません。登呂遺跡の杭が打たれた水田遺構を中世のものとしても、古代にさかのぼる条里制以前の水田は確実にあったはずです。それで、私たちは地面をカンナで削るように薄く、薄く広域に削っていったのです。そうすると網目状の水田畦畔がみかり、今では全国的に古代の水田が発掘できるようになったのです。 同様に、弥生時代の方形周溝墓もこれまではまわりに溝をめぐらせるだけだと思われていました。しかし、よくよく観察して発掘すると、周溝は古墳と同様、墳丘を盛り上げるための痕跡だと分かるようになってきました。 また、古墳の埋葬施設は古墳の造営中につくられ、かまぼこのように切っていかなければ、埋葬施設の場所が分からないと思われていました。これも、そんなはずはないと疑う意識があって、埋葬施設をみつけだす方法を確立したのです。つまり、古墳は墳丘が完成してから、頂上に墓穴をほって、竪穴式石室や木棺などの埋葬施設を埋め込むのです。だから、頂上をよく観察すると大きな墓穴の輪郭が確実にあるわけです。 そうしますと「わからない」けど「あった」と信じて、『古事記』分注をよくよく見れば、百済から暦が伝わる前のカレンダーが見えてくるかもしれません。見えてくるでしょう。 横田健一先生や塚口先生は崩年干支の末尾すべてが一日から一五日に偏り、月の後半に亡くなった天皇がいないのは不自然だと指摘されます。確かに不自然です。しかし、もともとのカレンダーは一日から一五日までしかないのです。太陽ではなく、月の満ち欠けが基準だったから。 同様に、古い天皇は非常に長寿で、年代観も荒唐無稽です。しかし、中国歴史書にある卑弥呼もその前の男王帥升も同様に長寿です。これを田植えから稲刈りまでが一年、稲刈りから次の田植えまでが一年と数える春秋暦だったとすれば、年齢も倍になって長寿の理由が氷解します。百済からの暦法が定着し、古い暦は忘れ去られ、その換算は大変難しかったのでしょう。誤差も生じます。そういう誤差をも考慮すべきです。わたしは『古事記』分注の干支に全く根拠のないからといって、切り捨てるべきではない、と思っています。 六 おわりに  現在、わたしたちは百舌鳥・古市古墳群の造営終了後から約一五〇〇年後の情景を見ているわけです。決して、五世紀王権は、造営前に現在の情景を想定していたわけではありません。むしろ、大きな墓の林立に、こんなはずじゃあなかったと後悔しているかもしれませんね。 しかし、そこには巨大な前方後円墳のほか、中型の前方後円墳や小型の前方後円墳も数多くあります。また、円墳・方墳・帆立貝式古墳もあり、その大きさもさまざまです。これらは五世紀王権を支える豪族群の多様性を示すものと考えます。 五世紀王権には大小様々な豪族群が取り巻いたのですが、大和東南部には大きな古墳がほとんどありません。そうすると、王権に協力する畝傍山周辺の有力豪族は、好む・好まざるにかかわらず百舌鳥・古市古墳群に墓を築いたのです。これについても、こんなはずじゃなかった、ということかもしれません。 このような大和の空洞化は須恵器生産からも理解できます。五世紀になって、畿内で須恵器生産が本格化すると、全国各地に窯業生産が展開しました。地域の集落末端まで保水力の高い大きな水がめが供給され、人々の暮らしは一変します。その一方で、膨大な消費地だった大和では五世紀の須恵器生産がまったくありません。六世紀になってようやく須恵器窯が導入されるのです。これは意図的だと思います。 五世紀王権は、河内に大王墓を築き、その周辺に大和の豪族の墳墓までをも集中させました。それのみならず、生産体制の一元化とその掌握によって河内と大和の一体化を強化したと考えるのです。

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