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仁徳陵古墳時代の空間構成(一瀬和夫先生)

つどい316号
豊中歴史同好会創立25周年記念シンポジウウム  講演3
仁徳陵古墳時代の空間構成
京都橘大学文学部 教授 一瀬和夫先生

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ご紹介いただきました一瀬です。今回は豊中歴史同好会設立二十五周年の記念シンポジウムですが、以前十五周年の時もお手伝いさせていただきました。ふたたびよろしくお願いいたします。 今日は、仁徳陵古墳が築造されたころは、考古学的な証拠から見てどういった景観イメージをかもしだしていた時代だったのかということを、探りたいと思います。考古学は、同じ時期を面で拾っていくというような作業をします。仁徳陵古墳築造のころの地図を作るような作業ですね。そういう作業をすると、それなりになにか言えることが出てくるのかなというようなことを目指して今日はお話したいと思います。 河内の治水 先々月亡くなられた、同志社大学におられた森浩一先生の文庫本をこないだ手に入れたのです。巨大古墳ということで、治水王と天皇陵というサブタイトルがついています。これは仁徳陵古墳を中心にする五世紀のころのイメージだと思うのですが、河内の巨大古墳が平野部の治水で絡んでいるというところのイメージが濃い。少なくとも森先生の中では濃かったと思います。森先生はこの本で、現在の河内平野は、一部には低湿地は残るものの大きな沼や湖のような地形は無く、いわば単純な土地の構造であるが、一五六五年に深野池(ふこうのいけ)という南北二里、東西半里から一里の湖に似た大きな池を訪れたポルトガルの宣教師ルイス・デ・アルメイダによる記述があるとおっしゃっています。 こういう水に浸かっている状態を何とか治水する王者というのが、仁徳陵古墳なり、応神陵古墳なりの被葬者、というイメージだととらえられていました。 そのイメージは、局部的に掘ると実はあたっています。しかし、実は縄文時代晩期のころには、北河内のいまレンコン畑のあるようなところもすでに旧淀川の堆積の関係で干上がっていまして、陸地化しています。ところが、大和川ないし石川からどんどん土砂が平野南半部に送られてきて、こんどは北河内が低くなり、水に浸かるようになります。高かった土地が、今度は低くなって水に浸かるようになったのです。それで、高低のバランスがどんどん狂ってくるのですが、それ以降、狂ってくるときに、治水をすると元の状態に一旦は戻るというような運命に河内平野はあった感じです。そこら辺の地形、土地利用の在り方を頭に入れとかないと、河内平野というのは理解しづらいかなと思ったりします。 治水が何のためにあるかというと、ふつうは農耕をイメージするような形だったと思うのです。しかし、今日の私の話はそれでは無く、仁徳陵古墳築造の時代は農耕以外のことをやり始めたので、土地の開発が必要だったという話です。 弥生集落の基本生活領域 前置きが長くなったのですが、図1をご覧ください。人間が活動する上では、身体的な特徴から、おのずと限界があり、それは法則にできるということになります。図は、奈良大学におられた、酒井龍一先生の弥生時代中期社会の枠組みについての理念形です。農耕集落を営んで、村の周りに溝を囲んで、その周囲に田んぼがあって、一定の田んぼを確保して、となりの村が接続してくるという、他の影響が少なくて、土地を使った場合を想定しています。中心部は三百メートルぐらいの基本生活領域の円がありまして、外縁施設があって、それが七百メートルで機能的空間と言います。それで、理論上の円周の範囲を環境体と言い、半径二・五キロメートルとなります。 酒井先生の説はビタ=フィンジが説いたキャッチメントエリア分析を踏まえています。そこでは、農耕集団は遺跡を中心として半径五キロメートル、すなわち一時間に歩行できる距離を日常生活の活動範囲としています。狩猟採集集団は半径十キロメートル、二時間で歩行できる距離がそれにあたるとしたということになります。狩猟採集集団は移動するのが自分たちの生業につながっていくので、一日の半分を移動という値を基本にしていて、農耕の場合は往復時間を短縮して稲作地での仕事をまっとうに終えて帰ってこないといけないということで、この半径五キロメートル圏内というのが非常に納得のいく空間の切り方になってきます。 最近は大阪市東南の長原から瓜破(うりわり)あたりにかけての遺跡で発掘調査が進んでいます。その成果からいきますと、弥生時代後期ぐらいには、ムラ自身が五百メートルピッチぐらいで並んでいるのではないかというような話になりつつあります。河内平野はムラの範囲が重複状態で密集しはじめたことになります。平野は飽和状態になったのです。 弥生集落と古墳時代中期の空間の差 農耕にもいろんな道具が必要です。河内平野の真ん中ですと、農耕具に使うようなしっかりした木が手に入らないので、自然、山手の方の集団と接触しないといけないということになります。私も大阪市と八尾市の方の境の平野の真ん中、加美・久宝寺を発掘調査したことがあります。そこで、花粉分析をしますと、いろんな樹種の花粉が出てまいります。花粉分析で出てくる樹種と農耕具の樹種が、大体合いそうなのです。多分花粉の飛んでくるエリアで農具になるような木もしくは農具そのものを手に入れていたということになり、ひいては山地と平地で、集団関係が成立していて、物流が農耕に加わっていたということになるかなと思います。 酒井龍一先生の研究で、瀬戸内海沿岸の弥生石器の物流的な関係を検討されたものがあります。大阪府茨木市の東奈良から森小路、田能、勝部とかの遺跡を経由し百間川のある岡山の方向へというつながりの図を作っておられます。その中で見ると、核的というか母村というかそうしたムラはそんなに大きくは動いてはおりません。結局、弥生時代中期社会の段階では、機能空間と環境体をともなってその骨格はそんなに大きくは動かない社会だということになります。 ところが、『漢書』地理誌とか『魏志』倭人伝とかで、倭国が乱れたような話が出てきたりします。乱れた証拠だというような状況で、弥生時代後期には、高地性集落という、たとえば芦屋市に会下山遺跡というような、大阪湾全体が見渡せるような遺跡があります。遺跡が分解、増加、拡大すると、すごく集団同士の移動範囲が大きくなったということにもなります。中国の乱れの影響もあったでしょう。農耕にプラスして交通という機能が、重要視されるようになり、弥生時代の後期に加速します。基本生活領域は、弥生時代後期になると五百メートルピッチ、邪馬台国時代の庄内式の時期になると、河内平野の楠根川流域あたりで、基本生活領域が川沿いにつながった状態まで達してしまいます。しかし、こういう風に考えましても、まだ古墳時代中期に比べると、そんなに肥大した社会では無かったかもしれません。 というのは、古墳時代中期の世界と、弥生時代の基本生活領域というのを比べてみますと、仁徳陵古墳の長さが五百メートルもありますので、仁徳陵古墳の本体が三百メートルの基本生活領域をすっぽり包んでしまいます。弥生集落の外縁施設、機能的空間が七百メートルなのですが、仁徳陵古墳の三重濠全部合わせると、八百四十メートルあるので、この七百メートルの空間も包んでしまうということになります。仁徳陵古墳だけで、弥生時代中期の中核的な集落というのがすっぽり収まってしまうということになります。しかもそれはひとつの墓だけですっぽり収まってしまうということです。古墳時代中期、五世紀になると、大きな社会の構成するほんの一部の機能空間の内の、たかがひとつの墓という部分だけが、弥生時代の基本的なムラを飲み込んでしまうというようなところまで達するのです。日本の歴史のなかで最も物量的に肥大化した社会というのが、五世紀の古墳時代中期ということになります。 例えば、福岡空港の横にある板付遺跡では基本的生活領域に相当するところを丸ごと囲って公園になっているのですが、大型古墳に比べるとなんと小さいことかという印象があります。横浜市でも歳勝土(さいかちど)と大塚という遺跡がありまして、そこもやはり、古墳がこの村を丸呑みしてしまうなあとなります。現在の話で実際には、河内大塚古墳という羽曳野と松原の市境にある古墳があります。そこでひとつの村が展開していて、これは、大正時代まで古墳の中にあった村が立ち退かなかったからという政治的理由により、結局、陵墓参考地にすぐにできなかったということがあります。かなり形の良いままでこの古墳が残っていたとすれば、いの一番に雄略天皇陵に比定されていたかもしれません。まあ、それくらい古墳時代中期は肥大化したということになります。 古墳時代中期前夜の空間構成 それで、古墳時代中期で、いったいどんなものが機能的で特化された集落や施設などかということを確認するために、河内平野というものを中心として、その空間を考えてみたいと思います。 というのは、大和から河内へ移動する証拠に古市・百舌鳥古墳群が直接的にとりあげられることがありますが、ふつう、墓が中心地になることは考えにくいからです。ただし、墓というものは、他人の土地に勝手に作ったら潰されるだけなので、セーフティゾーンの中に入ってつくらないといけない。先ほどの概念的なものからいくと、機能的空間の中の一番端の方に普通はあるだろうということになります。 弥生時代中期の場合を想定すると、竪穴住居とか高床式建物があって、その周囲に環濠をめぐらして、その外側に方形周溝墓が広がるのが基本形となります。自分の管理できるエリアの中で墓はつくられるということを原則にすれば、中心地があって、一定の範囲があって、その周囲に墓が作られたことになるかなと思います。 私は、五世紀の仁徳陵古墳がつくられた時期は、ON46型式という須恵器の型式がありまして、そのころだと思っています。この型式を目印にして、これと併行してある考古資料をつないで空間構成を復原してみたいと思います。 まずは、そのころに一番中心地になってそうなのが、図2で法円坂と書いている部分です。いまNHKが建っている真南に掘立柱の復元建物があるのですが、そのあたりと考えます。それを中心にして半径十キロの円を描くと、だいたい、北は豊中の庄内あたり、東は生駒の山裾、南は長原、すなわち今の大和川が通っているあたりまでとなります。 いま東西に流れている大和川は江戸時代に付替えられたものです。したがって、図で大県と古市と書いているあたりからデルタ状に川が北西方向に分かれますが、そのデルタ状の中で長瀬川、楠根川、玉串川というのが元の大和川になります。平野川については、私は大和川には入れておりません。また別の性格を平野川は持っていると思います。あとで余裕があればその話をします。 ともかく、河内のそのエリアと、上町台地の部分を囲んで十キロということになります。そこから外れてくるのが、豊中市庄内から北、北東になると千里丘陵、須恵器の窯が築かれますが、それが千里窯跡群にあたります。東側は生駒の山にあたり、南側は古市、百舌鳥と書いていますように、二十メートルから三十メートルぐらいの海抜の洪積台地が張りだしてくる。ここは、段丘礫というガラガラの礫層があるので、その当時としてはとても水田耕作が出来ないエリア。そういう所に墓がつくられるという話になります。それから、ちょっと離れたところに大和盆地がありまして、二十五キロ圏内ですかね。そこに奈良市の佐紀古墳群とか、大和盆地での大和川の合流地点の馬見古墳群とかいうのがあります。さらにその外側の森林地帯に、布留遺跡があったり、南郷遺跡があったりします。おそらく次の五世紀後半、TK23型式の時期になると、ようやく、大和は森林開発が活発化し始めて、先ほど、西川さんの話で紹介がありました韓式土器とかを、携えた渡来工人がその時入ってくるのかな思ったりしています。その時、法円坂中心に円を描くと、私の中ではすごくスムーズな円が描けます。 半径五キロメートルが農耕民だという話をしたのですが。どうして十キロメートルのだということになります。十キロメートルで結構稼げるようになった原因というのが、この円の右上の方に蔀屋北(しとみやきた)遺跡いう遺跡がヒントになります。ちょうど四条畷(しじょうなわて)市と寝屋川市の間なのですが、図に、馬印を入れております。さらに南側に、八尾南遺跡というのと長原遺跡というのがあります。ここにも馬印を入れています。丁度この二か所が、馬を飼育するために新たに土地を使えるような状態にして、大掛かりな牧をつくったと思われるところです。これで、狩猟民族並に移動範囲が拡がったのだろうと、考えます。 いま馬の話をまずはしてしまったのですが、もう一度古墳の立地から詳しくみていきますと、平野部の縁辺の更に高台に大型古墳で構成する古市古墳群がつくられる。同じように大阪湾に面した高台に百舌鳥古墳群が造られるということになります。図3の説明をさせていただきますと、①というのが津堂城山古墳になります。津堂城山古墳は大王墓だとおっしゃる方が大勢を占めているのですが、私は河内平野の地域首長墓だと考えています。河内ではここで二百メートルクラスの前方後円墳を築ける様になったのです。 河内の中では楠根川中心にした、近鉄大阪線の八尾駅の辺りに東郷とか成法寺(じょうほうじ)という遺跡があるのですが、そのあたりを中心にしていた集団が、玉手山古墳群の北側の一群を築いた私は考えております。ついでに松岳山古墳群も築いたと考えます。これらが、邪馬台国時代の三世紀から四世紀にかけて優勢であったグループです。それが丁度河内平野デルタ部の平野部、すなわち農耕の中心地帯を抜けていくことになります。つまり、瀬戸内海から大阪湾、上町台地の突端から、亀の瀬という二上山と生駒の間にある谷を東に抜けると大和盆地に入れます。付け根に船橋遺跡という遺跡があるのですが、そこまで斜め一直線で行けるルートというのが楠根川になります。それで、弥生時代後期以降の輸送、交通を重視した中での主要幹線道といいますか、メイン道路的な役割も得て、楠根川の集団が河内平野の中ではいちばん優勢を保ったと思っています。そのルートから、大和川の上流に行き、最後初瀬川を上って、突き当りまで行くと、纒向川と初瀬川に囲まれたところに纏向遺跡があります。邪馬台国かもしれないという遺跡です。そこがいわば、河内平野の水源を握っているというような図式にもなります。つまり大和川の入り口辺りに、楠根川流域の東郷・成法寺という遺跡があって一番山手の方の奥に纏向遺跡があるというような構造で、その一番の首長の墓は、その当時は箸墓であったり、渋谷向山、すなわち景行陵古墳であったりしていたのかなと思います。 古墳時代中期の空間構成 ところが一転しまして、稲作だけでは済まない時代に突入します。交通とか、当時の最新の物資、朝鮮半島とかとの接触がどんどん増え、今度は交通だけで済まない時代になってくるということになります。そこで、そのなかで新たな展開をもったのが、ひとつは古市です。河内平野では平野川という流域があるのですが、その平野川の上流というのが、図の中央の③応神陵古墳になります。飛鳥川から石川を経由して、応神陵古墳の南側に入ってくる大水(おおずい)川、大乗(だいじょう)川ともいう川があります。①の津堂城山古墳のちょっと右付近に太田とか沼とかいう地名があるところにすごく深い谷があります。西大井遺跡で発掘調査したりしますと、古墳時代面は八メートルぐらい下がってしまいます。だからかなり深い谷があったということになるのですが、それを大きな水源とする平野川が主に河内平野の西側を潤していきます。 楠根川流域はこういう山手を持てず、東側は、恩智川に逆に止められていて、生駒の山麓の山手を奪取できなかったということになります。すなわち、きたるべき五世紀にとり立てて飛躍する材料を持つことができなかった。平野川の方は上っていくと、こういう洪積台地の山が用意されていたということになります。その一番平野側で、そのころ津堂城山より北側に平野川流域の集団がすんでいた。そして、その時に一番山手側につくったつもりのものが津堂城山古墳になります。ところが、最終的に古市古墳群のこの分布図をご覧いただきますと、津堂城山古墳は、やたら北西の平野側に、単独に、ポツンと離れたように、結果的になってしまいます。かなり山手の方で、古墳をつくるための、埴輪を、応神陵古墳ですと一万七千本焼かないといけないし、それを焼くための薪がいる。粘土もいる。水もいるというような地形。しかも津堂城山古墳は、ついこないだまで調査できちっとした葺石が墳丘本体で見つからなかったものが、ようやく見つかったのですが、かなり大きな葺石を使っています。津堂城山古墳辺りでは、その葺石の材料は手に入りません。少なくとも握りこぶし大の石でもいいから手に入れたいと思うなら⑤から④の允恭陵古墳から応神陵古墳の辺りに古墳をつくらないと仕方がないというような立地になります。 これと同じような条件が不思議と百舌鳥でも一緒でして、図4の百舌鳥古墳群の地図をご覧いただけたらと思います。乳岡(ちのおか)古墳が地図の真ん中にあります。石津川というのが大阪湾から入り込んでいまして、その石津川の流域、石津川がある種古市の平野川みたいな位置関係になるのかもしれないのですが、その左岸に、弥生時代から有名な四ツ池遺跡というのがあります。その辺りで、ほそぼそと農耕を営んだ集落のように思えます。そこに乳岡古墳という古墳が忽然と現れるように思われていたのですが、もうひとつ、どうしてこんなところにあるのだろうという古墳に、長山古墳というのがあります。地図でも無視してしまっているのですが、乳岡古墳のちょっと北くらいに、堺市街地の南の少し高くなった所に長山古墳というのが、今年の夏に発掘されました。葺石もあります。それで、後円部の方もおさえられているので、前方部を南側において、北に後円部をおいた古墳がつくられます。地形をよくよく見ると、履中陵古墳の左手西側の台地の裾だけ等高線がすごくゆるく、密度的には同じような感じで等高線が降りていくのがわかります。つまり、すごくゆるやかに大阪湾までのびる広い幅の尾根の南側に乳岡古墳があり、北側に長山古墳があります。尾根が大阪湾に面して西に向く突端、おそらく大阪湾の水面(みなも)に突き出たような見え方を当時はしたと思うのですが、そういうところの北によせて長山古墳がつくられています。ただ前方部は貧弱な前方部なのです。乳岡古墳になるとまともな前方後円墳がようやくつくれるという形になります。両方とも、この辺りでは大きい葺石になるような石は拾えないのですけど、大きな石をちゃんと持ってきています。一部で、石は緑泥片岩を葺石につかっています。中央構造線から南の方で目立つ石なので、和歌山辺りから持ってきているということになります。遠方からわざわざ持ってきた石をどうして葺石に使っているのだろうという感じもあります。葺石をふくためには劣悪な地理的な位置なのですけど、当時の集落の端の辺りに古市も百舌鳥も古墳をつくり始めたということになります。 次の段階で、『日本書紀』などの記載をある程度伝承的に信頼するのであれば、集落からやや離れた高台の、百舌鳥の荒れ野のどうしようもなかった土地に、仁徳陵古墳はつくられたということになります。今の考古学的に遺跡の状況を見ても、地元の人間が有効利用もしなかった百舌鳥の荒れ野に、履中陵古墳を作ったということになります。ただ、地元からは反感を食らってというかたちで、鹿が倒れて耳からモズが出てくるという、地元の反乱的な説話がそのあたりに隠されているのかなと思います。 火力の時代 五世紀になると、喉から手が出るほど欲しくなるというのが火力。その燃料が一番望まれた時代になります。田んぼと交通路を抑えていたら安泰だった時代から、炭や薪を手に入れないと、もう時代から取り残されるという所まで行ってしまいました。 ちょうど、百舌鳥野の開発で、古墳を造ろうとした人が、仁徳陵古墳の場合は埴輪三万本焼かないといけないので、埴輪の窯焼きの技術をそこで覚える。その往来のネットワークを利用して、こんどは須恵器という土器を焼く窯焼きの一大工業地帯というのを、つくり始めました。その場所というのが、今、泉北ニュータウンになっている陶邑になります。その薪となる森林資源のすごい無駄遣いと言いますか、虫食いの様子というのは、図5をご覧いただきますとわかります。須恵器の窯の分布の状態を変遷的に掲げています。一番左上の五世紀あたり、Ⅰ型式1~3段階のところをご覧いただきますと、石津川の上流の二つの大きな河川があるのですが、それの一番下流側に窯の分布が集中します。それがその下、五・六世紀という段階になると、地図の真ん中あたりで爆発的に須恵器の窯が増えているということになる。それが、その右の六世紀では南の方に移動していっています。さらに、七世紀になるともっと南の上流に移動していく。そして、八・九世紀になるとこの地図の一番下までいきます。これは、森林資源を食いつぶして行った状態というのを示していると思います。ただ、それは四百年ほどかかっている計算にはなりますが。 大阪北部の千里窯跡群でも、その一番上町台地側の吹田市辺りから古い須恵器の生産が始まって、山手に移っていく。移っていった結果、豊中市の辺りでも須恵器づくりが盛んになるという構造にもなってくる。 そういうような火力にともなった手工業生産が拡大していくという。その発端となる中心地を見ると、大阪市の法円坂の辺りであって良いと思っています。それと、馬なのですけども、蔀屋北遺跡で馬が出ています。蔀屋北辺りの様子は、先ほど言いましたように、縄文時代晩期の時点で陸化するのですが、弥生時代の終わりから庄内にかけて水に浸かりはじめます。水に浸かって、しばらく集落が営まれない状態になっていたのですけども。五世紀のちょうど仁徳陵古墳を築造した時期ぐらいになぜか水が引きます。それまで水に浸かっていたので、先住民というか、その前に住んでいる人間がいない。その水の引いたところにいきなりこういうふうな馬を伴ったような集落が忽然とできてくる。つまり、先住民がいない、使い物にならなかった湿地帯を何らかの形で干あげさして、そこに今までなかった馬飼いというような新たな仕事するような牧と集落を作らせた。そこから出てくるのは、日本で作った須恵器とかでなくって、キンキンいうような金属音をして銀色をした陶質土器であったり、ちょっと煤がかぶったような瓦質土器が、大量に運びこまれてきます。だから、そういう技術者、馬も頻繁に来ていたみたいです。いまのところ二歳馬くらいの骨が多く出ていて、それより低い年齢の馬は五世紀の時はあまり出てこなく、しかも五・六歳の歳を取った馬もいないというのが、今の時点の大阪府教育委員会の報告です。そういうような森林開発・治水開発をして、新しい街づくりというのをいくつも水際とか山際で行った。古墳造営はその総合力です。しかも、その中心、空間の距離的な中心になっているのは、先ほどから何度も言っている今の法円坂あたりということになります。それが平野の開発や政治の中心でもあったというのがというのが一番つじつまが合うのじゃあないかなと私は思っています。 といことで、ちょっと時間超過しましたが、私の発表を終わらせていただきます。どうもありがとうございました。 参考文献 一瀬和夫二〇〇五『大王墓と前方後円墳』吉川弘文館 一瀬和夫二〇〇六「四世紀末における河内平野の覇権移動前夜」『喜谷美宣先生古希記念論集』 一瀬和夫二〇一一『巨大古墳の出現ー仁徳朝の全盛ー』文英堂 酒井龍一一九八二「畿内大社会の理論的様相ー大阪湾沿岸における調査からー」『亀井遺跡』財団法人大阪文化財センター

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