応神・仁徳天皇時代の豊中(陣内高志先生)
つどい316号
豊中歴史同好会創立25周年記念シンポジウウム
事例報告 応神・仁徳天皇時代の豊中
豊中市教育委員会 陣内高志 先生
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おはようございます。豊中市教育委員会の陣内です。 私からは四人の先生方のご講演に先立って「応神・仁徳天皇時代のとよなか」という事例報告をさせていただきます。「五世紀の豊中」という風に少しタイトルを読み替えて聞いていただけたらありがたいです。 第1図は古墳時代全体の遺跡分布図です。 言うまでもなく、五世紀の豊中といえば桜塚古墳群を抜きにして語ることはできません。この事例報告も桜塚古墳群の紹介が中心になります。では五世紀の豊中について古墳群、倉庫群、集落、窯跡の順に紹介します。 最初に古墳の動向です。第2図は二〇一三年八月三日に豊中歴史同好会さんと共催で実施した講演会で福永先生が用いられた猪名川流域の首長古墳の系譜図です。これをみますと、四世紀代は小地域ごとに首長墳がつくられますが、五世紀前半代の猪名川流域は桜塚古墳群が独り勝ちしている様子がよくわかります。この桜塚古墳群は四世紀代に「西群」から築造を開始し、五世紀代に「東群」へと移行し最盛期を迎えます。第3図はその桜塚古墳群東群の分布図です。大塚、御獅子塚古墳、狐塚、北天平塚古墳、南天平塚古墳と首長墳が連なっています。桜塚古墳群の位置づけは地理的にみて大阪平野の入口にあたる点が注目されます。北方、東方ならびに西側の勢力に対する交通の要衝とみられています。昭和五十八年、大塚古墳主体部の発掘調査では南北約九メートル×東西六メートルの大きな墓壙内に長さ約七メートルの割竹形木棺が二基設置された状況が明らかになりました。二基の木棺はそれぞれ東槨、西槨と呼んでおり、西槨は鎌倉時代に盗掘の被害にあっていました。一方盗掘を免れた東槨からは短甲3、冑2、刀剣類、鏡等多数の副葬品が出土しており、中でも短甲のうち2領は全国的にみても希少な襟付きであることが注目されます。出土品から五世紀初頭の年代が考えられています。 続いて御獅子塚古墳の調査では、二基の主体部の存在が判明し、このうち新しい方 の第一主体部(粘土槨)から三角板鋲留短甲が出土しており、これは革綴じから鋲留めへと技術移行期のものとして注目されています。五世紀中葉の時期が考えられています。他の特徴的な副葬品として、棺外から ではありますが馬具が挙げられます。前輪と後輪、杏葉と雲珠が出土しており、日本列島内の出土例としては古い方に属します。 さて、市内には桜塚古墳群以外に小規模な古墳群があります。直径一〇メートル程度の円墳が四基ほど確認された蛍池北遺跡の古墳群(五世紀後半~末)、南部の利倉南遺跡では一辺八メートル程度の方墳が数基確認され、出土品の特徴から五世紀後半~末とみられます。これら小規模古墳は長くは続かないようです。 古墳以外のものとしては蛍池東遺跡の大型倉庫の発見があります。柱間は五×四間、五×五間が主で、なかには床面積一〇〇平方メートルを超える大型ものもあり、大阪府文化財センターさんの調査成果と合わせますと、第4図のようになり、大型倉庫は六棟以上確認されています。これら倉庫は五世紀前葉の竪穴住居を破壊してつくられていますので、五世紀初頭頃の年代が考えられています。となると、大塚古墳の時期とも重なってきますので、当該倉庫群と桜塚古墳群との関連が注目されます。 続いては五世紀代の集落の様子です。集落跡は市中部では新免遺跡・山ノ上遺跡、同南部では上津島遺跡、利倉西遺跡などが良く知られています。第5図は山ノ上遺跡で確認された五世紀前半、須恵器が出現する直前段階の竪穴住居です。山ノ上遺跡は桜塚古墳群のすぐ西側で、しかも同時期に営まれている集落でもあり両者の関係性が注目されるところですが、点的な調査であるため今後の検討課題です。 さて、五世紀の後半代になりますと桜井谷窯跡群の成立が特徴的であります。同群は五~八世紀代にかけて営まれた須恵器窯跡群であり、主に千里川上流域に集中します。第6図は年代が判明している窯跡の一 覧です。Ⅰ形式を五世紀、Ⅱ形式を六世紀と置き換えてみていただきますと、2‐2号窯跡は表の一番上、桜井谷窯跡群成立期の窯跡であり、これを契機に須恵器生産が拡大し六世紀代にそのピークを迎える様子がうかがえます。ところでこの2‐2号窯跡は平成二十四年度本市教委が発掘調査を行い、全長約九・六メートル、床面の最大幅二・二メートルをはかり窯自体はトンネル工法によってつくられていることなどが判明しました。窯内からは窯詰め状態の須恵器が多数確認され、大変注目を集めました。 以上、簡単ではありますが応神・仁徳天皇時代のとよなか、五世紀の豊中についてその特徴的事例を報告してまいりましたが、桜塚古墳群「東群」の隆盛から始まり、後半代になってきますと次第に勢力が衰え、変わって桜井谷窯跡群における須恵器生産の勢力が拡大していくというような時代の流れを読み取ることができるように思います。以上で、報告を終わらせていただきます。ありがとうございました。