九州島における4・5世紀の一様相(3)-肥前(3)-(宇野慎敏先生)
つどい315号
北九州市芸術振興財団学芸員 宇野愼敏先生
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=end= 以下検索用テキスト 一、はじめに 先に、長崎県西部の西彼杵(にしそのぎ)半島の東シナ海に面する布留式期新相段階に新たに出現する集落跡を紹介した(宇野二〇一三b)。四世紀後半〜五世紀前半頃に集落が営まれる背景に、有明海や島原湾沿岸部の中九州、肥後の有力者層たちが長崎半島の南を経由し、東シナ海を北上して壱岐水道に至るための水先案内を荷なった人々ではないかと推論した。 本稿では、肥前西部のもう一つの前方後円墳が集中する大村湾東沿岸部の四・五世紀の有力首長層について検討していきたい。 二、大村湾東沿岸部の有力首長墓 肥前西部における前方後円墳を築造する有力首長墓は、先に紹介した壱岐水道に面した松浦郡の笠松天神社古墳と岳崎古墳の二基の前方後円墳(宇野二〇一三a)と、島原半島北側の高来郡守山大塚古墳や倉地川古墳の二基ずつ存在している。もう一つ最も有力首長墓が多く築かれているのが、この大村湾東沿岸部の彼杵(そのぎ)郡である。 現在この彼杵郡には、前方後円墳と推定されるものが五基((一))を数える。これまで、有力首長墓の変遷については、宮崎貴夫氏らが検討されている(宮崎一九九二、秀島二〇一三)。 北端のひさご塚古墳は、東彼杵郡東彼杵町彼杵宿郷字古金谷に所在する。彼杵川が西南方向に流れ、大村湾に注ぐ河口北岸の標高約二メートルの砂礫丘に築かれる。前方部周縁を丸く削平され、ヒョウタンのような形になったために「ひさご塚」と古くから呼ばれていた。全長五八・八メートル、後円部径三七・七メートル、前方部幅一八・五メートルで、短く低い前方部である。埋葬施設は、一号石室と二号石室があり、一号石室はほとんど削平されているが、石棺系の竪穴式石室と考えられている。二号石室は、一号石室より後出すると考えられており、横口式石棺式石室の一種と推定されている。副葬品は一号石室から鉄鏃、鉄斧、ガラス玉、勾玉、二号石室から仿製獣形鏡、鉄剣、刀子、ガラス玉が出土する。 このひさご塚古墳のすぐ西側に全長二五メートルの重棺(かさんがん)前方後円墳が位置する。墓地になっていて詳細は不明である。 ひさご塚古墳から南東方向約六キロメートルの大村湾を臨む標高一二メートルの丘陵先端部の大村市松原二丁目久津に久津(くず)石棺群が所在する。A地点とB地点の各々に一基ずつ石棺が所在する。A地点の石棺は大半を削平されたため詳細は明らかではない。石棺の幅が、ひさご塚古墳一号石室とほぼ同じであり、石棺系横口式石室の可能性が大きい。 次に石走(いしばしり)一号墳は、久津石棺群の南約二キロメートルの標高一〇メートルの丘陵先端部に所在する。石走川右岸で、元は二基存在したとされるが、現在一基のみである。東方向に前方部を向ける全長二〇メートル前後の前方後円墳に推定される。現在、後円部上に板石組みの祠があり、周辺には板石が散乱し、本来は石棺系横口式石室の可能性がある。 石走一号墳の南東約一キロメートルの黄金山(こがねやま)古墳は、東方向に開口する石棺系横口式石室の古墳である。前方後円墳の指摘もあるが、開口方向の東側は丘陵が高く、前方部の可能性は少ない。反対の西側は、現在階段状に削平され、前方部の痕跡はみられない。また四世紀後半〜五世紀前半にかけての前方後円墳の一般的な開口方向は、前方部方向に開口する。黄金山古墳が西側に前方部をもつとするならば、前方部側とは真反対側の東側に開口することになり、前方後円墳の可能性は小さい。 石室は全て扁平な板石を使用し、半地下に営まれた組合式箱形石棺で、東側に横口を付設するものである。石室は、四周に板石を立てた上に板石を平積みし、ドーム状に構築したものである。出土遺物は多量の土師器が紹介されているが、本古墳から出土したと伝えられるものばかりで、確実に石室内から出土したかどうかは明らかでない。一般的にこの時期の埋葬施設には土器を多量に埋納することはない。また出土したとされる土器は、五世紀初頭前後の土師器と考えられ、この石室の形態から五世紀前半頃と考えられる (宇野二〇一三c)。 黄金山古墳からさらに南東側約四・五キロメートルの丘陵上に琴平神社古墳がある。社殿と墓地によって南側くびれ部から前方部にかけて削平されてしまっている。全長約二四メートル、後円部径一四メートル、前方部幅一〇メートル、後円部と前方部の比高差一・五メートルで低平な前方部である。 出土遺物はなく、詳細も明らかではないが、くびれ部がしまっていることや低平で前方部端があまり広がらないことなどから、笠松天神社古墳と相似しており、四世紀後半〜五世紀前半におさまるものと思われる。 以上のように大村湾東沿岸部では、四、五世紀の有力首長墓として四基余の前方後円墳と二〜三基の円墳が集中している。 これ以降の五世紀後半から六世紀前半にかけての首長墓は、現在見られない。六世紀中頃〜後半にかけて鬼の穴古墳や茶屋の辻古墳が築かれる。 三、石棺系横口式石室の出現 この地域における古墳の年代は、主に多量の土師器を出土する黄金山古墳について竹中哲朗氏や古門雅高氏が検討されている(竹中二〇〇三、古門一九九九)。 これらの成果では、小田富士雄氏報告による土師器や東彼杵町歴史民俗資料館所蔵の土師器などから、黄金山古墳の時期を四世紀後半〜五世紀初頭に比定されている。 しかし、黄金山古墳の石室は、佐賀・谷口古墳東石室や、福岡・老司古墳四号石室墓壙掘方などと長さと幅の比率がほぼ同じであることなどから、当地域の石棺系横口式石室は玄界灘沿岸部の初期横穴式石室から伝播したものと考えた。黄金山古墳の石室は、肥後・大鼠蔵尾張宮古墳の玄室の長さと横口部の長さの比率がほぼ同じであることから、肥後・大鼠蔵尾張宮古墳の年代と大差ない五世紀前半頃に比定できるとした(宇野二〇一三c)。 すなわち中・北部九州の初期横穴式石室は、玄界灘沿岸部の初期横穴式石室から肥前西部の石棺系横口式石室へ、また八代海沿岸部の肥後型石室へ横口式石室の技術が伝播したものと言える(宇野二〇一二)。 玄界灘沿岸部の初期横穴式石室から肥前西部や八代海沿岸部に各々伝播するが、初期横穴式石室そのものが伝播したのではなく、各々在地の墓制の延長上に横口部を設けるという形で、各々の地域で変容したと考えられる。このため北部九州では竪穴系横口式石室、肥前西部では石棺系横口式石室、肥後では石障をもつ肥後型石室が、各々の地域で独自の在地墓制が発展したものと想定される。 四、大村湾東沿岸部の石棺系横口式石室 にみる三つのタイプ これまでひさご塚古墳の一号石室は、側板がほとんど削平されていたため、大型箱式石棺か竪穴式石室、あるいは竪穴系の横口式石室の可能性が考えられてきた。 筆者は以前、石室規模は階層性を表すのではないかと指摘したことがある(宇野二〇一一)。そして構築技術の系譜は、石室の長さと幅の比率にあるのではないかと考えた(宇野二〇一二、二〇一三)。 これをもとにひさご塚古墳の一号石室と二号石室を黄金山古墳石室と比較すると、その比率はほぼ同じであることがわかる(図2・4)。 ひさご塚古墳の一号石室は長さが二・七メートル、幅一・五メートルで、二号石室は長さが一・七メートル、幅一・〇メートルであり、一号石室の方が長さで約一メートル、幅で〇・五メートル大きく、二号石室が後出すると考えられている。 しかし、黄金山古墳石室は長さ二・二メートル、幅一・二メートルで、ひさご塚古墳一号石室よりは規模が小さく、二号石室よりはやや規模が大きい。 また久津A地点石棺は、石棺材抜き取り痕であるものの長さ二・一メートル以上、幅一・五メートルで、ほぼひさご塚古墳一号石室の幅と同規模である。久津A地点石棺は、すでに削平されているため墳丘形態は明らかではないが、盛土があった可能性が大きいとされている。 黄金山古墳は前方後円墳の可能性は小さく、石室の規模はひさご塚古墳が前方後円墳であることを勘案すれば、やや下位に属すると言えよう。 このように考えるならば、ひさご塚古墳一号石室は本古墳の主たる被葬者の埋葬施設であることは間違いなく、二号石室はやや後出するものの、その規模などから言っても従属的な被葬者のものであったことが推察される。 したがって、これまで竪穴系横口式石室か竪穴式石室といわれてきた石室は、長さと幅の比率や規模などから勘案すると、ひさご塚古墳一号石室や久津A地点石棺は、黄金山古墳と同様の石棺系横口式石室と推定される。 そしてその規模から、ひさご塚古墳一号石室の被葬者や久津A地点石棺の被葬者が最も上位に位置付けられ(Aタイプ)、やや中位に黄金山古墳の被葬者(Bタイプ)、そして下位にひさご塚古墳二号石室の被葬者(Cタイプ)というように三つの階層に分けられるのではないだろうか。 先に検討してきたように、大村湾東沿岸部に導入された石棺系横口式石室は、A〜Cの三つのタイプに分類でき、Aが有力首長層の上位層、Bが中位層、Cが下位層に位置付けられる。このことは玄界灘沿岸部から伝播した横口式の石室が導入当初から 階層秩序を形成していたことを裏付けるものである。大村湾東沿岸部の在地有力首長層たちは、ヤマト政権との関わりをもつ中で階層序列を形成し、玄界灘沿岸部からの横口式石室の構築技術を受容する中で、在地墓制の箱式石棺と融合させた石棺系横口式石室を成立させ、在地の墓制として構築する当初からすでに階層序列が形成していたと考えられ、墳丘形態、墳丘規模、それに石室形態、石室規模に対して反映されていたものと思われる。 しかし、この墓制に表象された階層序列は、ヤマト政権内における階層序列に組み込まれたものではない。それは墳丘形態において前方後円墳や円墳といった墳丘形態にヤマト政権による葬送儀礼が表象されているにもかかわらず、遺体を埋納する石室の形態に新式の横口式を受容していながら在地の墓制を確立している点は、大村湾東沿岸部の有力首長層たちはヤマト政権との密接な関係をもちつつも在地の有力首長層として自立していたことが窺える。 大村湾東沿岸部の首長層とその歴史的意義 この地域の石棺系横口式石室には三つのタイプがあって、それらは階層差を示すものと考えた。そして、その構築技術は玄界灘沿岸部から伝播したもので、その年代は玄界灘沿岸部の初期横穴式石室より少し後出する時期の五世紀初頭〜前半であることを指摘した。 したがって、当地域最大の前方後円墳であるひさご塚古墳の埋葬施設も石棺系横口式石室と考えられ、その時期は五世紀前半頃に比定できるのではないだろうか。 また、石走一号墳の埋葬施設はほとんどわかっていないが、板石の散乱状況などから石棺系横口式石室の可能性が大きく、久津A地点石棺も同様であり、その時期も五世紀前半頃に比定できる。 そのように考えてよければ、大村湾東沿岸部の有力首長墓は、四世紀後半〜末の琴平神社古墳が現在最も古く、詳細がわかっていない石走一号墳、久津A地点石棺、ひさご塚古墳、そしてほぼ同時期と考えられる黄金山古墳で、最後に全長二五メートルの重棺古墳が続き、その後しばらく首長墓は築かれなくなり、六世紀中頃以降の鬼の穴古墳、茶屋の辻古墳まで空白期間となる。 こうした大村湾東沿岸部に四世紀後半〜末ないし五世紀前半に集中して築かれる有力首長墓は、箱式石棺から発展した石棺系横口式石室を採用していることから、在地の有力首長層であることは間違いない。 また、玄界灘沿岸部の有力首長層たちは、谷口古墳の長持形石棺や副葬品の石釧などからヤマト政権との密接な関わりをもつ首長層であり、鋤崎古墳の副葬品に長方板革綴短甲が出土していることから、軍事的性格をもつ被葬者と考えられる。玄界灘沿岸部の横口式石室の影響のもとに石棺系横口式石室が構築されていることは、ヤマト政権と密接な関係をもち、軍事的性格をもつ玄界灘沿岸部の有力首長層と交流をもった大村湾東沿岸部の有力首長層たちが、そういった人たちとともに朝鮮半島への出兵に関わり、新しい墓制を取り入れたのではないだろうか。 本編を著すにあたり、小田富士雄先生、武末純一先生、塚口義信先生、中司照世氏、稲富裕和氏、安楽哲史氏、野澤哲朗氏をはじめ多くの方々にご指導、ご教示をいただいた。記して謝意を申し上げます。 註 (一)本編で紹介する以外に、ひさご塚古墳東方約二〇〇メートルにワレ権現古墳が所在したと伝えられるが、詳細不明。 《引用・参考文献》 宇野愼敏 二〇一一「九州古墳時代の埋葬施設にみる階層秩序と地域性」 第十四回九州前方後円墳研究会 宮崎大会資料集。 同 二〇一二「肥後・初期横穴式石室に見る三つの系譜とその背景」 『熊本古墳研究』第五号 熊本古墳研究会。 同 二〇一三a「九州島における四・五世紀の一様相(一) ─肥前(一)─」 『つどい』第三〇一号 豊中歴史同好会。 同 二〇一三b「九州島における四・五世紀の一様相(二) ─肥前(二)─」 『つどい』第三〇五号 豊中歴史同好会。 同 二〇一三c「大村市・黄金山古墳の再検討」 『福岡大学考古学論集2』─考古学研究室開設25周年記念─。 小田富士雄 一九七〇「長崎県大村市・黄金山古墳調査報告」『九州考古学』三九・四〇号 九州考古学会、のち小田富士雄著作集二『九州考古学研究 古墳時代篇』学生社 所収。 竹中哲朗 二〇〇三「大村湾・橘湾沿岸の古墳・箱式石棺の検討」『西海考古』第五号 西海考古同人会事務局。 開 正和 二〇〇〇「大村市黄金山古墳の調査」『西海考古』第二号 西海考古同人会事務局「補遺」。 秀島貞康 二〇一三「古墳時代」『新編 大村市史』第一巻自然・原始・古代編 大村市。 古門雅高 一九九九「黄金山古墳出土土師器の検討」『西海考古』創刊号 西海考古同人会事務局。 宮崎貴夫 一九九四「肥前西部」『前方後円墳集成─九州編─』 山川出版社。 《報告書等》 長崎県教育委員会 一九九二「県内古墳詳細分布調査報告書」 長崎県文化財調査報告書 第一〇六集。 長崎県教育委員会 一九九七『原始・古代の長崎県資料編Ⅱ』。 長崎県教育委員会 一九九八『原始・古代の長崎県 通史編』。 長崎県教育委員会 一九七八『長崎県埋蔵文化財調査集報Ⅰ』。 東彼杵町教育委員会 一九九一『ひさご塚古墳』東彼杵町文化財調査報告書 第五集。 東彼杵町教育委員会 一九九四『ひさご塚古墳Ⅱ』東彼杵町文化財調査報告書 第六集。 福岡県教育委員会 二〇〇二『鋤崎古墳』福岡市埋蔵文化財調査報告書 第七三〇集。 佐賀県浜玉町教育委員会 一九九一『史跡谷口古墳保存修理事業報告書』浜玉町文化財調査報告書 第二集。 熊本県教育委員会 一九八四『熊本県装飾古墳総合調査報告書』熊本県文化財調査報告書 第六八集。
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=end= 以下検索用テキスト 一、はじめに 先に、長崎県西部の西彼杵(にしそのぎ)半島の東シナ海に面する布留式期新相段階に新たに出現する集落跡を紹介した(宇野二〇一三b)。四世紀後半〜五世紀前半頃に集落が営まれる背景に、有明海や島原湾沿岸部の中九州、肥後の有力者層たちが長崎半島の南を経由し、東シナ海を北上して壱岐水道に至るための水先案内を荷なった人々ではないかと推論した。 本稿では、肥前西部のもう一つの前方後円墳が集中する大村湾東沿岸部の四・五世紀の有力首長層について検討していきたい。 二、大村湾東沿岸部の有力首長墓 肥前西部における前方後円墳を築造する有力首長墓は、先に紹介した壱岐水道に面した松浦郡の笠松天神社古墳と岳崎古墳の二基の前方後円墳(宇野二〇一三a)と、島原半島北側の高来郡守山大塚古墳や倉地川古墳の二基ずつ存在している。もう一つ最も有力首長墓が多く築かれているのが、この大村湾東沿岸部の彼杵(そのぎ)郡である。 現在この彼杵郡には、前方後円墳と推定されるものが五基((一))を数える。これまで、有力首長墓の変遷については、宮崎貴夫氏らが検討されている(宮崎一九九二、秀島二〇一三)。 北端のひさご塚古墳は、東彼杵郡東彼杵町彼杵宿郷字古金谷に所在する。彼杵川が西南方向に流れ、大村湾に注ぐ河口北岸の標高約二メートルの砂礫丘に築かれる。前方部周縁を丸く削平され、ヒョウタンのような形になったために「ひさご塚」と古くから呼ばれていた。全長五八・八メートル、後円部径三七・七メートル、前方部幅一八・五メートルで、短く低い前方部である。埋葬施設は、一号石室と二号石室があり、一号石室はほとんど削平されているが、石棺系の竪穴式石室と考えられている。二号石室は、一号石室より後出すると考えられており、横口式石棺式石室の一種と推定されている。副葬品は一号石室から鉄鏃、鉄斧、ガラス玉、勾玉、二号石室から仿製獣形鏡、鉄剣、刀子、ガラス玉が出土する。 このひさご塚古墳のすぐ西側に全長二五メートルの重棺(かさんがん)前方後円墳が位置する。墓地になっていて詳細は不明である。 ひさご塚古墳から南東方向約六キロメートルの大村湾を臨む標高一二メートルの丘陵先端部の大村市松原二丁目久津に久津(くず)石棺群が所在する。A地点とB地点の各々に一基ずつ石棺が所在する。A地点の石棺は大半を削平されたため詳細は明らかではない。石棺の幅が、ひさご塚古墳一号石室とほぼ同じであり、石棺系横口式石室の可能性が大きい。 次に石走(いしばしり)一号墳は、久津石棺群の南約二キロメートルの標高一〇メートルの丘陵先端部に所在する。石走川右岸で、元は二基存在したとされるが、現在一基のみである。東方向に前方部を向ける全長二〇メートル前後の前方後円墳に推定される。現在、後円部上に板石組みの祠があり、周辺には板石が散乱し、本来は石棺系横口式石室の可能性がある。 石走一号墳の南東約一キロメートルの黄金山(こがねやま)古墳は、東方向に開口する石棺系横口式石室の古墳である。前方後円墳の指摘もあるが、開口方向の東側は丘陵が高く、前方部の可能性は少ない。反対の西側は、現在階段状に削平され、前方部の痕跡はみられない。また四世紀後半〜五世紀前半にかけての前方後円墳の一般的な開口方向は、前方部方向に開口する。黄金山古墳が西側に前方部をもつとするならば、前方部側とは真反対側の東側に開口することになり、前方後円墳の可能性は小さい。 石室は全て扁平な板石を使用し、半地下に営まれた組合式箱形石棺で、東側に横口を付設するものである。石室は、四周に板石を立てた上に板石を平積みし、ドーム状に構築したものである。出土遺物は多量の土師器が紹介されているが、本古墳から出土したと伝えられるものばかりで、確実に石室内から出土したかどうかは明らかでない。一般的にこの時期の埋葬施設には土器を多量に埋納することはない。また出土したとされる土器は、五世紀初頭前後の土師器と考えられ、この石室の形態から五世紀前半頃と考えられる (宇野二〇一三c)。 黄金山古墳からさらに南東側約四・五キロメートルの丘陵上に琴平神社古墳がある。社殿と墓地によって南側くびれ部から前方部にかけて削平されてしまっている。全長約二四メートル、後円部径一四メートル、前方部幅一〇メートル、後円部と前方部の比高差一・五メートルで低平な前方部である。 出土遺物はなく、詳細も明らかではないが、くびれ部がしまっていることや低平で前方部端があまり広がらないことなどから、笠松天神社古墳と相似しており、四世紀後半〜五世紀前半におさまるものと思われる。 以上のように大村湾東沿岸部では、四、五世紀の有力首長墓として四基余の前方後円墳と二〜三基の円墳が集中している。 これ以降の五世紀後半から六世紀前半にかけての首長墓は、現在見られない。六世紀中頃〜後半にかけて鬼の穴古墳や茶屋の辻古墳が築かれる。 三、石棺系横口式石室の出現 この地域における古墳の年代は、主に多量の土師器を出土する黄金山古墳について竹中哲朗氏や古門雅高氏が検討されている(竹中二〇〇三、古門一九九九)。 これらの成果では、小田富士雄氏報告による土師器や東彼杵町歴史民俗資料館所蔵の土師器などから、黄金山古墳の時期を四世紀後半〜五世紀初頭に比定されている。 しかし、黄金山古墳の石室は、佐賀・谷口古墳東石室や、福岡・老司古墳四号石室墓壙掘方などと長さと幅の比率がほぼ同じであることなどから、当地域の石棺系横口式石室は玄界灘沿岸部の初期横穴式石室から伝播したものと考えた。黄金山古墳の石室は、肥後・大鼠蔵尾張宮古墳の玄室の長さと横口部の長さの比率がほぼ同じであることから、肥後・大鼠蔵尾張宮古墳の年代と大差ない五世紀前半頃に比定できるとした(宇野二〇一三c)。 すなわち中・北部九州の初期横穴式石室は、玄界灘沿岸部の初期横穴式石室から肥前西部の石棺系横口式石室へ、また八代海沿岸部の肥後型石室へ横口式石室の技術が伝播したものと言える(宇野二〇一二)。 玄界灘沿岸部の初期横穴式石室から肥前西部や八代海沿岸部に各々伝播するが、初期横穴式石室そのものが伝播したのではなく、各々在地の墓制の延長上に横口部を設けるという形で、各々の地域で変容したと考えられる。このため北部九州では竪穴系横口式石室、肥前西部では石棺系横口式石室、肥後では石障をもつ肥後型石室が、各々の地域で独自の在地墓制が発展したものと想定される。 四、大村湾東沿岸部の石棺系横口式石室 にみる三つのタイプ これまでひさご塚古墳の一号石室は、側板がほとんど削平されていたため、大型箱式石棺か竪穴式石室、あるいは竪穴系の横口式石室の可能性が考えられてきた。 筆者は以前、石室規模は階層性を表すのではないかと指摘したことがある(宇野二〇一一)。そして構築技術の系譜は、石室の長さと幅の比率にあるのではないかと考えた(宇野二〇一二、二〇一三)。 これをもとにひさご塚古墳の一号石室と二号石室を黄金山古墳石室と比較すると、その比率はほぼ同じであることがわかる(図2・4)。 ひさご塚古墳の一号石室は長さが二・七メートル、幅一・五メートルで、二号石室は長さが一・七メートル、幅一・〇メートルであり、一号石室の方が長さで約一メートル、幅で〇・五メートル大きく、二号石室が後出すると考えられている。 しかし、黄金山古墳石室は長さ二・二メートル、幅一・二メートルで、ひさご塚古墳一号石室よりは規模が小さく、二号石室よりはやや規模が大きい。 また久津A地点石棺は、石棺材抜き取り痕であるものの長さ二・一メートル以上、幅一・五メートルで、ほぼひさご塚古墳一号石室の幅と同規模である。久津A地点石棺は、すでに削平されているため墳丘形態は明らかではないが、盛土があった可能性が大きいとされている。 黄金山古墳は前方後円墳の可能性は小さく、石室の規模はひさご塚古墳が前方後円墳であることを勘案すれば、やや下位に属すると言えよう。 このように考えるならば、ひさご塚古墳一号石室は本古墳の主たる被葬者の埋葬施設であることは間違いなく、二号石室はやや後出するものの、その規模などから言っても従属的な被葬者のものであったことが推察される。 したがって、これまで竪穴系横口式石室か竪穴式石室といわれてきた石室は、長さと幅の比率や規模などから勘案すると、ひさご塚古墳一号石室や久津A地点石棺は、黄金山古墳と同様の石棺系横口式石室と推定される。 そしてその規模から、ひさご塚古墳一号石室の被葬者や久津A地点石棺の被葬者が最も上位に位置付けられ(Aタイプ)、やや中位に黄金山古墳の被葬者(Bタイプ)、そして下位にひさご塚古墳二号石室の被葬者(Cタイプ)というように三つの階層に分けられるのではないだろうか。 先に検討してきたように、大村湾東沿岸部に導入された石棺系横口式石室は、A〜Cの三つのタイプに分類でき、Aが有力首長層の上位層、Bが中位層、Cが下位層に位置付けられる。このことは玄界灘沿岸部から伝播した横口式の石室が導入当初から 階層秩序を形成していたことを裏付けるものである。大村湾東沿岸部の在地有力首長層たちは、ヤマト政権との関わりをもつ中で階層序列を形成し、玄界灘沿岸部からの横口式石室の構築技術を受容する中で、在地墓制の箱式石棺と融合させた石棺系横口式石室を成立させ、在地の墓制として構築する当初からすでに階層序列が形成していたと考えられ、墳丘形態、墳丘規模、それに石室形態、石室規模に対して反映されていたものと思われる。 しかし、この墓制に表象された階層序列は、ヤマト政権内における階層序列に組み込まれたものではない。それは墳丘形態において前方後円墳や円墳といった墳丘形態にヤマト政権による葬送儀礼が表象されているにもかかわらず、遺体を埋納する石室の形態に新式の横口式を受容していながら在地の墓制を確立している点は、大村湾東沿岸部の有力首長層たちはヤマト政権との密接な関係をもちつつも在地の有力首長層として自立していたことが窺える。 大村湾東沿岸部の首長層とその歴史的意義 この地域の石棺系横口式石室には三つのタイプがあって、それらは階層差を示すものと考えた。そして、その構築技術は玄界灘沿岸部から伝播したもので、その年代は玄界灘沿岸部の初期横穴式石室より少し後出する時期の五世紀初頭〜前半であることを指摘した。 したがって、当地域最大の前方後円墳であるひさご塚古墳の埋葬施設も石棺系横口式石室と考えられ、その時期は五世紀前半頃に比定できるのではないだろうか。 また、石走一号墳の埋葬施設はほとんどわかっていないが、板石の散乱状況などから石棺系横口式石室の可能性が大きく、久津A地点石棺も同様であり、その時期も五世紀前半頃に比定できる。 そのように考えてよければ、大村湾東沿岸部の有力首長墓は、四世紀後半〜末の琴平神社古墳が現在最も古く、詳細がわかっていない石走一号墳、久津A地点石棺、ひさご塚古墳、そしてほぼ同時期と考えられる黄金山古墳で、最後に全長二五メートルの重棺古墳が続き、その後しばらく首長墓は築かれなくなり、六世紀中頃以降の鬼の穴古墳、茶屋の辻古墳まで空白期間となる。 こうした大村湾東沿岸部に四世紀後半〜末ないし五世紀前半に集中して築かれる有力首長墓は、箱式石棺から発展した石棺系横口式石室を採用していることから、在地の有力首長層であることは間違いない。 また、玄界灘沿岸部の有力首長層たちは、谷口古墳の長持形石棺や副葬品の石釧などからヤマト政権との密接な関わりをもつ首長層であり、鋤崎古墳の副葬品に長方板革綴短甲が出土していることから、軍事的性格をもつ被葬者と考えられる。玄界灘沿岸部の横口式石室の影響のもとに石棺系横口式石室が構築されていることは、ヤマト政権と密接な関係をもち、軍事的性格をもつ玄界灘沿岸部の有力首長層と交流をもった大村湾東沿岸部の有力首長層たちが、そういった人たちとともに朝鮮半島への出兵に関わり、新しい墓制を取り入れたのではないだろうか。 本編を著すにあたり、小田富士雄先生、武末純一先生、塚口義信先生、中司照世氏、稲富裕和氏、安楽哲史氏、野澤哲朗氏をはじめ多くの方々にご指導、ご教示をいただいた。記して謝意を申し上げます。 註 (一)本編で紹介する以外に、ひさご塚古墳東方約二〇〇メートルにワレ権現古墳が所在したと伝えられるが、詳細不明。 《引用・参考文献》 宇野愼敏 二〇一一「九州古墳時代の埋葬施設にみる階層秩序と地域性」 第十四回九州前方後円墳研究会 宮崎大会資料集。 同 二〇一二「肥後・初期横穴式石室に見る三つの系譜とその背景」 『熊本古墳研究』第五号 熊本古墳研究会。 同 二〇一三a「九州島における四・五世紀の一様相(一) ─肥前(一)─」 『つどい』第三〇一号 豊中歴史同好会。 同 二〇一三b「九州島における四・五世紀の一様相(二) ─肥前(二)─」 『つどい』第三〇五号 豊中歴史同好会。 同 二〇一三c「大村市・黄金山古墳の再検討」 『福岡大学考古学論集2』─考古学研究室開設25周年記念─。 小田富士雄 一九七〇「長崎県大村市・黄金山古墳調査報告」『九州考古学』三九・四〇号 九州考古学会、のち小田富士雄著作集二『九州考古学研究 古墳時代篇』学生社 所収。 竹中哲朗 二〇〇三「大村湾・橘湾沿岸の古墳・箱式石棺の検討」『西海考古』第五号 西海考古同人会事務局。 開 正和 二〇〇〇「大村市黄金山古墳の調査」『西海考古』第二号 西海考古同人会事務局「補遺」。 秀島貞康 二〇一三「古墳時代」『新編 大村市史』第一巻自然・原始・古代編 大村市。 古門雅高 一九九九「黄金山古墳出土土師器の検討」『西海考古』創刊号 西海考古同人会事務局。 宮崎貴夫 一九九四「肥前西部」『前方後円墳集成─九州編─』 山川出版社。 《報告書等》 長崎県教育委員会 一九九二「県内古墳詳細分布調査報告書」 長崎県文化財調査報告書 第一〇六集。 長崎県教育委員会 一九九七『原始・古代の長崎県資料編Ⅱ』。 長崎県教育委員会 一九九八『原始・古代の長崎県 通史編』。 長崎県教育委員会 一九七八『長崎県埋蔵文化財調査集報Ⅰ』。 東彼杵町教育委員会 一九九一『ひさご塚古墳』東彼杵町文化財調査報告書 第五集。 東彼杵町教育委員会 一九九四『ひさご塚古墳Ⅱ』東彼杵町文化財調査報告書 第六集。 福岡県教育委員会 二〇〇二『鋤崎古墳』福岡市埋蔵文化財調査報告書 第七三〇集。 佐賀県浜玉町教育委員会 一九九一『史跡谷口古墳保存修理事業報告書』浜玉町文化財調査報告書 第二集。 熊本県教育委員会 一九八四『熊本県装飾古墳総合調査報告書』熊本県文化財調査報告書 第六八集。