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広開土王碑研究の現状と課題(生田敦司先生)

つどい314号
龍谷大学非常勤講師 生田敦司先生

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はじめに
高句麗の広開土王碑は好太王碑とも呼ばれる。広開土王は西暦三九一~四一二年に在位した王で、諱(いみな)(実名)を談徳といい、生前の尊号は永楽太王、亡くなってからの諡号(しごう)(おくりな)は国岡上広開土境平安好太王といった。碑は、広開土王の事績を示すもので、王を埋葬した西暦四一四年、王都国内城の東郊の小丘に、広開土王の子、長寿王によって建立された。現在の中国吉林省集安市である。素材は不正形方柱状の自然石高さ六・三九メートル、基底部の周囲は約七・二九メートル、重さ約三〇トンとされる。表面には、字を刻むための軽い調整があり、天地に横線、行間に縦線が入る。各字はおよそ十四センチ平方に統一されており、各行四十一字が刻まれている。字数はおよそ一八〇〇字とみられているが、判読不能等の文字があるため正確な数は確定できない。ここには三世紀末に倭が高句麗と交戦があったことなどが記される。この時期、古代日本の様子を客観的に示す中国史料もないことから、倭国のことを知る一級の史料として著名である。以下、この碑文の調査・研究の流れや碑文の内容を整理しつつ、当時の倭国の情勢などを中心に略述する。
一、碑文の調査と釈文の信頼性
広開土王碑の発見は清朝末の一八八〇年頃で、植物のツルなどに覆われるなど、決してスムーズではなかったが、碑文判読のための調査が試みられた。現在も碑文を史料として用いる場合には、拓本やその写本が用いられる。調査が始まった頃に採られた拓本は、何の加工もなしに取られた拓本で「原石拓本」という。全く加工が無いので史料的な価値は最も高いが、風化が激しい碑文であるため判読が極めて難しい。
日本に伝わった拓本で最も古いものは陸軍の酒匂(さかわ)景信(かげあき)が一八八三年に将来したものである。これは拓本を手書きで写したもので「墨水(ぼくすい)廓填本(かくてんぼん)」(酒匂本)という。拓本を見て手書きするので、難読の部分には解釈が加わってしまう。その後、一九世紀末~一九三〇年代には、水とニカワで練った石灰泥で碑の表面を整えて拓本を採る「石灰拓本」が多く出回るようになった。整った拓本は書家などが好むところであった。この拓本も、字形を整えるため、風化が激しい文字は推測によって文字を復元するため、二次史料化する。
戦後になると、水谷悌二郎氏が「原石拓本」を紹介して拓本の編年研究が行われ、史料の正確な内容理解に迫ろうとする試みが進んだ(水谷悌二郎「好太王碑考」『書品』一〇〇(一九五九年))。この編年研究の中から、倭国が百済・新羅を制圧した辛卯年の記事(後述)は、帝国陸軍による捏造であるとの説が提示された(李進熙『広開土王陵碑の研究』吉川弘文館(一九七二年))。これは「簒改説」とも呼ばれる。近年、中国で酒匂本以前の墨本が発見され、酒匂本と内容が一致すると指摘されるなど、簒改説は否定される見方が強い(徐建新 『好太王碑拓本の研究』 東京堂書店(二〇〇六年))。
「簒改説」の登場は学界に大きな影響を与え、しばらくの間、広開土王碑の内容を参照した古代史の復元研究は消極的になったといえる。
二、碑文の内容
広開土王碑の内容は「序論」というべきところと「本論」というべきところの大きく二つに分けられ、「本論」はさらに前半と後半に分けることができる。序論は第Ⅰ面の冒頭から六行目に書かれており、高句麗の開国神話から、永楽太王の世、更には永楽太王の最期について述べている。
本論の前半は、それに続く七行目から第Ⅲ面八行目の一五字目まで至り、紀年記事による太王の勲績を述べている。
 永楽五年(三九五年)王は自ら兵を率いて契丹族の稗麗を撃った。これに付随して、辛卯年(三九一)、百済・新羅は元属民であったのに、倭が海を渡り百済・新羅を臣民としたことも記述している。
 永楽六年(三九六年)王は軍を率いて百済を撃ち、空前の大成果をあげた。
 永楽八年(三九八年)王は兵を粛慎に派遣し撃ち、朝貢させた。
 永楽九年(三九九年)百済が倭と内通した。王は平壌に下り倭の進出に直面した新羅の救援を決定した。
 永楽十年(四〇〇年)王は新羅救援のため五万の兵を派遣し、新羅・任那加羅などに進み倭を退却させ、また安羅人を撃ったらしい。また、新羅は広開土王の時に朝貢するようになったとみられる。この部分は判読が難しい文字が多い。
 永楽十四年(四〇四年)倭はまた侵入してきたので王は自ら率いてこれを撃った。
 永楽十七年(四〇七年)王は五万の兵を派遣し、大勝利をおさめた。
 永楽二十年(四二〇年)王は自ら率いて東扶餘の国都にせまった。年譜の最後には、王がおおよそ撃破したところは、城が六四、村は一四〇〇であったと述べている。本編の後半は、第Ⅲ面の続きから第Ⅳ面にかけてで、広開土王の「守墓人」に関する規定が記されている。以上が碑文の概略である。特に、本編前半の編年記事では、主に外国との相克を勇ましく描いている。それでは、この記述は文献史料でどのようにたどれるであろうか。古代朝鮮三国の歴史を記した『三国史記』の高句麗本紀、広開土王の記事から外交に関わるものを抜き出すと、大体次のようになる。
 即位年、契丹を北伐
 即位年~四年、百済の南辺侵攻による戦
 九年~十五年、燕に朝貢するも禮慢にして戦となり攻防
 十七年、北燕に遣使して宗族を叙し、賜姓
 二十二年、王薨ず。號して「廣開土王」
『三国史記』の成立は一一四五年である。このため、十二世紀までに伝わった記録をもとに編纂されていることを考慮すると、必ずしも広開土王碑と同じように事績が伝わっているわけではない。『三国史記』では何年間かまとめて特定の周辺国を相手とした外交問題を述べているようである。ここで、倭国とも関わりが深い百済については、即位年から四年の間にまとまっている。
一方、碑文では、即位年と思われる辛卯年(三九一年)に倭が百済と新羅を臣民としたことだけが記されている(上述①の後半)が、百済のことを「百殘」と記し、倭や百済を討伐の対象としている。この点からみれば、広開土王の即位当初から百済との領土問題は熱を帯びていたということができ、碑文と『三国史記』との記述は整合性を得ているといえる。三、倭と朝鮮半島との関係
碑文の内容をたどると、①では、百済・新羅はもとは高句麗の属民であったのに、倭が臣民にしたとあり、②三九六年に、広開土王は軍を率いて百済を撃ち、空前の大成果をあげた、とある。碑文が王を讃えるために書かれたことを考慮すると、百済や新羅がその当時、本当に高句麗の「属民」であったかどうかは、まだ議論の余地があるかもしれない。

この頃の倭と百済の関係を『三国史記』百済本紀からみると、広開土王が百済を討ったとする三九六年の翌年、阿莘(あか)王の六年(丁酉年、三九七年)に、百済は倭国と好を結び、太子の腆支を質とした、とある。阿莘王が十四年(乙巳年、四〇七年)に亡くなると、太子の腆支は倭国から帰国して腆支王となった。
この二つの記事は『日本書紀』にも書かれている。応神八年三月の記事では、百濟人が来たという本文に「百済記」を引いた注で、阿花王が日本に無礼であったので、土地を奪われた上、王子直支を遣して、日本と好を脩めた、とある。また応神十六年是歳条には、百済の阿花王が亡くなったので、直支を帰国させて王としたことを述べている。『日本書紀』は、応神八年を丁酉年、応神十六年を乙巳年としているので、百済と日本に残る記録は一致している。
それぞれの史料の主張を合わせて考えると、四世紀(三〇〇年代)中頃に建国した百済は、建国~滅亡まで高句麗との領土の攻防が頻出するが(『三国史記』)、三九六年の場合、高句麗からの攻撃によって、大きなダメージを受け、百済王は広開土王に「奴客」となることを誓っている。しかし、碑文の三九九年には、「百残、誓に違ひて倭と和通す」とあるので、この間に、倭国と好を結ぶことになったと考えられる。『三国史記』と『日本書紀』にある百済と倭とに関わる記事は、碑文の記述とその間の出来事を補完できるものといえるだろう。四〇〇年(⑤)には、倭の新羅進出に対して高句麗が救援し、新羅が高句麗に朝貢するようになったことを伝えている。これまで新羅は高句麗に朝貢したことはなかったが、広開土王の時に朝貢するようになったと取れる文面で、王の功績をたたえている。

高句麗からみて、新羅は救援してやる見返りに朝貢してくるという、いわば保護国のような関係を碑文ではうかがわれる。この辺の関係を『三国史記』でみてみる。『三国史記』新羅本紀によると、奈勿王三十七年(壬辰年、三九二年)には高句麗から使いが遣され、次の王となる実聖を質として高句麗へ送ったとある。広開土王が即位した辛卯年(三九一年)の翌年であるから、広開土王は王となって早々に新羅への働きかけを始めていたことになる。碑文で新羅を救援したという⑤の二年後、新羅本紀実聖王元年(四〇二年)には、倭国と通好し、奈勿の王子未斯欣を質としたとある。しかし、五年後の実聖王六年(四〇七年)には倭人が辺境を侵し、七年には倭人が対馬島に「営」を置いたという情報が入るなど、新羅と倭は外交上の緊張と緩和が時に応じて伝えられている。

碑文では、百済を「百殘(残)」と表記しているが、「残」は現在日本で訓読みする「のこる」の意味よりも先に、「そこなう、ほろぼす、むごい、悪い」といったイメージが原義の語である。このことからも、国の南辺で国境を接する百済は領土を侵す敵であり、時折百済や新羅を巻き込んで半島へ進出してくる倭もまた征伐の対象として位置づけられていたのではなかろうか。それらを圧倒的に討ったことをアピールすることが広開土王の武勇であり、百済よりやや遅れて起こってきた新羅は救援して朝貢に導いたという事績で、朝鮮半島方面において覇たる存在であることを主張していると言える。
むすびにかえて
以上、概説的ではあるが、広開土王碑に関する情報をまとめてみた。碑文の内容を他の文献史料等と比較することで、その欠を補うことができると同時に、碑文の史料性も明確にすることができる。特に、碑文の主張するところは、他の編纂史料に比べて同時代性が高い一方で、王の顕彰という恣意性が併存していることには注意が必要となる。広開土王碑を用いた古代史研究は、中国の史料が記さない倭国の状況を伝える意味で、史料価値が非常に高い。その反面、碑の表面の風化による難読文字が多く、釈文に用いる拓本の価値を巡っても、その扱いは紆余曲折をたどってきた。特に、陸軍による捏造との簒改説が提唱されて以降は、史料として扱うこと自体、学界で躊躇されてきた空気があったことは否めないだろう。その後の拓本の発見等で簒改説は否定の方向にあることは先に述べたとおりである。今後は、さらに内容の解読も含め、積極的に碑文を活用した研究が進められることを期待したい。

【主要参考文献】
武田幸男『広開土王碑との対話』(白帝社、二〇〇七年)
古瀬奈津子編『広開土王碑拓本の新研究』(同成社、二〇一三年)

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