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古墳研究の進展と停滞(前編)(中司照世先生)

つどい312号
元福井県埋蔵文化財調査センター所長 中司照世先生

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以下検索用テキスト文

はじめに 昨今、筆者の関わってきた古墳時代の研究は、はたして本当に進展しているのだろうか、むしろ停滞(後退)しているのではないか、とふと懸念を抱くことがある。 以前から筆者は、近畿地方における古墳研究には問題が多いと感じてきた。そこで、そうした点の一端について、二〇一〇(平 成二十二)年の近つ飛鳥博物館春季特別展 「継体大王の時代」の一環として開催されたシンポジウムで言及した(注1)。  今回はそうしたことや、従来の筆者の主張に対する批判、ならびに、先年の但馬地方再訪問の旅に関連し、同地の首長墳の実態に関する論議等について述べてみたい。 なお、小稿は一般の方がたが主な読者であり、できるだけ平易に、かつ、時系列で記述していくこととしたい。  Ⅰ その後の論調について 滋賀県北谷十一号墳の研究 先年、近江地方の首長層の動静について原稿を執筆にする必要から、同地方の古墳に関する未知の情報が存在しないかと、何気なくパソコンで検索していて、思いがけず目についた一文があった。それは「あれは円墳というたけど、あいつら(川西・中司)は前方後円墳にしたがっとったさかいに…」という、草津市北谷十一号墳の発掘責任者であった故・西田 弘氏の発言の引用である。   今から三十年ばかり前、筆者は川西宏幸氏と、同古墳の報告が概要に止まっていて、きわめて重要な内容をもっているにもかかわらず注目を集めていないことから、当時滋賀県立近江風土記の丘資料館保管の出土品について、同館(秋田裕毅氏)の協力のもと実測図を作成、西田氏の教示や了解を得て報告した〔中司・川西一九八〇〕。 本古墳は、名神高速道路建設に伴い一九六〇(昭和三十五)年に緊急発掘され、その後丘陵の土取りで消滅している。調査後刊行の概報では、外部設備として葺石・埴輪を備える、群内最大の円墳と報告されている〔滋賀県教育委員会一九六一〕。  ただ、旧・日本道路公団が事前に作成した測量図には、円丘から丘陵先端部の方向に延びる前方部状の地形が描かれている。つまり、全形はまさに大型前方後円墳状を呈する。埋葬設備は重厚な構えの粘土槨で、墳丘の崩壊に伴い部分的な遺存に過ぎないが、内外から仿製方格規矩鏡一面(面径二十三・八センチメートル)、鍬形石五個、鉄剣二八口、鉄柄付手斧二本を初め、鉄刀・鉄鏃・鉄鉇など、多数の副葬品が出土している(図2)。なお、鉄柄付手斧は渡来品である。 そこで我々は、地形測量図から看取しうる墳丘の形状や外部設備の兼備、重厚な構 えの粘土槨の存在、豊富な副葬品の出土などから勘案すれば、いかに近江が畿内の隣接地方とはいえ、同古墳をそのまま円墳とするには疑問が多く、むしろ前方後円墳とみなすのが妥当でないかと考えた。地形測量図から仮に墳丘規模を算出すれば、最小でも約一〇五メートルを測る。  しかし、その十年後、同県の研究者により、やはり円墳で規模は径約三十二メートル、高さ二メートル以上とみなすべき、という反論が提起された〔用田一九九〇〕。 その要旨は次の通りである。 ①西田氏は、「前方部状の箇所も調査したが、墳丘に該当 する見解が得られなかった」として、あえて円墳としている。 ②円墳上にはかつて阿弥陀堂があり、前方部状の尾根も参道としての利用で手が加わっていた可能性がある。③葺石分布の下限は墳頂下一・五~二・〇メートルであり、ここより下方には葺石や埴輪は一切検出されなかったといわれる。 古墳の現存しない今日では、もちろん、調査担当者の見解は何よりも尊重されるべきである。ただ、近畿地方における既往のほかの主要な調査古墳の報告内容についても、誤認ではないかと思える事由で、問題を抱える例が少なくない(注2)。 また、反論の直接の根拠とされている葺石・埴輪片の散布範囲に関しても、当時の調査体制が必ずしも万全とは思えず、墳丘に関する様々な知識も今日より乏しい状況下の発掘そのものにも、いささか懸念が残る。さらに、仮にそのとおりだとしても、必ずしも円墳と特定する根拠とはなりがたいことが承知されていない憾みが残る。 というのは、当時既にそうした外部設備 の設置が一部にとどまる古墳の発掘例が、 奈良県や宮城県など、ごく僅かではあるが 報告されており(注3)、反論の根拠としては、あながち十分ではないことが明白であった。 念のため補足すると、調査結果の再検討にあたっては、我々も西田氏から図面や写真など、関連諸資料を頂戴している。 一方、墳頂には、かつて阿弥陀堂が所在 していて、墳丘の削平があったのではないかとも推測されている。だが、近江地方から北上の道筋に点在する、主要古墳の調査例からみた埋葬設備の埋設状況を検討の上、本古墳の粘土槨検出時の写真等と対比すれば、まずあらぬ杞憂と言わざるを得ない。 ならば、仮に前記のような約三十二メートルの推定径をもつ円墳だとしても、高さ二メートル余りでは矛盾が大きい。 この北谷十一号墳には、内湾気味で弧状を呈する地形が東接している。筆者は、自然丘陵を整形して古墳を造営するさいの掘削痕(溝)ではないかとみなした。その点についても、もし筆者らの推定のとおりなら、墳丘と溝底との比高差が十メートルを超えるという懸念が表明されている。 双方の比高差は十四メートル程度である。だが、はたして大型前方後円墳なら、さして問題にもならない規模ではなかろうか。実査で各地の丘陵を巡ると自ずからわかることだが、丘陵稜線の無為な切断は意外に存在しないものである。こうした低丘陵の稜線に直交する形の溝は、多くの場合、後に集落間を最短距離で結ぶ尾根越えの里道としても、利用されている。  こうしてみると、重厚な粘土槨の内蔵、質量とも豊富な品の副葬、とりわけ大型銅鏡や渡来品である鉄柄付手斧の混在など、特筆に値する様相を呈している。古墳の内容とその規模とは多分に整合する傾向にあるので、やはり大型前方後円墳とするのが無理のない解釈といえよう。 前述のように、当時既に若干例とはいえ、段築を有する円墳では上段墳丘のみか、あるいは、前方後円墳でも後円部のみという、葺石の部分的な敷設例が報告されており、今後のさらなる確認数の増加が予測しえた。そこで、いずれ反対論者自身が自説の論拠の不備に思い至ることが想定され、あえてそうした異見に対して反論するには及ぶまいと考えた。 しかしながら、その後も前方後円墳説への賛同者は稀で、円墳説が踏襲されることが続いた。そこで、基礎資料の如何が所説の帰趨を決するシンポジウムなどで、近江地方の首長層の動静に論究する必要があるさいは、そうした点への留意を促すべく適宜言及した(注4)。    今なお、滋賀県文化財保護協会による「遺跡解説」では、「中ぐらいの大きさの円墳(大型の前方後円墳という説も)」と紹介されている。両説並立ともいいうるが、筆者には、依然としてわが国の古墳の実態に関する議論の欠如や周知の遅れが、あまりにも端的な現象と思えてならない。 加賀地方の首長墳について 先日、二〇〇七(平成十九)年に小松市で第二十二回まいぶん講座「フォーラム 古墳時代後期の江沼と三湖台古墳群」が開催され、その記録集が刊行されていることを知った。その中で、三湖台古墳群内における臼のほぞ古墳の存在も討論の対象となっているが、未だ中期説と後期説とが並立するなど、依然として築造時期の評価が定まっていない〔望月・伊藤・菱田二〇一〇〕。  筆者は、一九七五(昭和五十)年前後に、継体伝承地域の考古学的検討の一環として、 石川考古学研究会の友人諸兄の協力を得て、 加賀地方の首長墳の悉皆調査を実施した。その結果、新事実の確認など、以前とは異なる様相が明らかになり、首長系譜や動向について論究した〔中司一九七七〕。  後年、筆者が加賀地方最後の大首長墳と推定した、石川県小松市臼のほぞ古墳の測量が実施された〔古墳文化を学ぶ会一九九二〕。報告の「まとめ」では、筆者らの既往の研究に対して、「地域」や「首長とその系譜」等現認しうる首長墳をもとに、単に図式的に並べたに過ぎないと論断するなど、きわめて先鋭的な批判を展開している。 そうして、臼のほぞ古墳の意義についても新たな見解を提示している。筆者の論究時には、本古墳を六世紀中葉の築造とするのが、多くの研究者の一致した見解であった。しかし、埴輪が存在しない点などを、周辺の古墳との関連性が認めがたい異なる様相と認識、併せて、墳形が奈良県天理市景行天皇陵(渋谷向山)古墳と相似するとみなして、時期が遡る可能性を強調している。 はたしてそうであれば、前期古墳となる。だが、結論から述べれば、必ずしも綿密な調査に基づく自説の提起ではなく、遺憾ながら却って地域研究に混乱をもたらした側面が否定しがたい。ちなみに、以前から筆者は、現行のいわゆる「相似墳論」は、実証性に欠けると主張している。 前記のように、埴輪の存在しない点が新説の主な根拠の一つとなっている。ただ、北陸地方では、六世紀中葉は埴輪樹立の衰 退期なのが実情である。つまり、既に本古 墳造営時にはその使用は途絶したものとも 判断しうる。ならば、やはり本古墳に関しても、まず時期的な後出性に由来する現象ではないかと検討すべき課題である。すなわち、加賀地方に止まらず、隣接諸地方における主要古墳でのその存否を概観すれば、容易に察知しうる事例ではなかろうか。 そもそも、臼のほぞ古墳の位置するいわゆる三湖台古墳群においては、何らかの資 料により築造時期を特定しうる例では、そ の大部分が後期に属すことは周知の事実で ある。そして、一旦本古墳を除外しても、御幸塚古墳から茶臼山古墳へ、ついで矢田新丸山古墳へと、上位の首長系譜の変遷がたどれる。こうした古墳立地の推移は、他の地方でも同様で、基本的には台地先端部から順次その奥へと移動している。本古墳は、まさにその中間に所在する首長墳にほかならないことも示唆的といえよう。 しかも、臼のほぞ古墳では、かつて墳丘 (くびれ部)の崩落土から、明らかに後出する時期の須恵器片の採集が報じられている(図4)。にもかかわらず、なぜかその事実は等閑視されている。しかし、六世紀代におけるくびれ部周辺での須恵器を用いた祭祀は、石川県七尾市高木森古墳・温井一五号墳、福井県あわら市神備山古墳などの近隣諸例を初め、各地で散見しうる現象にほかならない。 念のため付言すると、測量報告では存在が不明とされているが、同古墳の墳丘は明らかに二段築成である(図3)。これは、後続の首長墳かと思える茶臼山古墳(二段築成の円墳)とも共通する様相である。 一方、両部分上に後に造営された方形土壇を除けば、後円部頂が前方部頂よりやや高い。一九九〇年代以降、地元の研究者間では、大半が後期説から前~中期説へと変化したが(注5)、この点が古相を呈する墳形と判断されたかのようである。 こうした古墳の時期推定には、学界を主導している形の近畿地方の研究が、とかく各地に多大な影響を及ぼしている。未だ通説化していないが、この種の前方部の低平な形状は、必ずしも時期的に遡及させうる要素ではなく、逆に前方部が再び低平化した段階の表微とも看取しうる。いわば、後期でも後出的な特徴でもある。たとえば、前方部が畑地化により大幅に削平されていると解説されがちであるが、奈良県橿原市五条野(見瀬)丸山古墳などは、そうした端的な一例といえよう。 以上のように、臼のほぞ古墳に関する既知の諸様相を総合する限り、加賀でも最後の段階の前方後円墳の一基とみなすべき可 能性が高い。 今一つ同書で注目すべきことに、二子塚狐山古墳に関する問題がある。同古墳からは、多くの武器・武具や朝鮮半島からの渡来品など、加賀地方では珍しい副葬品類が出 土している。その特徴から、被葬者を外から入ってきた人物とする考えが提起されている。 かつて筆者は、同古墳は江沼郡の中央部に位置し、平地の立地で、周濠・段築・葺石・埴輪の外部諸設備を完備していることなど、加賀地方でも異色の存在である側面や、『日本書紀』欽明天皇三十一年条に記載されている道君との騒動の伝承等から、その被葬者を江沼臣ではないか、と考えた〔中司一九七七〕。  副葬品には、多数の渡来系遺物に、倭・韓双方に分布する同一工房製の銅鈴が混在している。この種の銅鈴は、併行期である福井県若狭町西塚古墳でも出土している。同古墳は、雄略紀八年条の朝鮮半島出兵で、高句麗軍から新羅を救援したと伝えられる膳臣斑鳩がその被葬者ではないか、との推定が可能である〔中司二〇〇九〕。 はたしてそうであれば、遺構・遺物など種々の様相からみて、二子塚狐山古墳の被葬者は、膳臣旗下の倭軍の一翼を担う形でともに渡海した、いわば加賀地方の部隊長にあたるのではないか、と推定した〔中司二〇一一〕。 ちなみに、同古墳の銀製帯金具等は新羅系の渡来品であって、その点文献上の新羅救援の伝承ともまさに符合している。また先年、同じ副葬品である銅鏡の踏み返し鏡の存在や、それが福岡県沖ノ島出土である蓋然性が高いことなどが判明している。 なお、二子塚狐山古墳は、緑色凝灰岩製組合式石棺を内蔵している。筆者は加賀地方に点在する石棺材等を検討の結果、同古墳の石棺はあるいは福井市の笏谷石製ではないかという可能性を、福井県坂井市で開催された「越の国シンポジウム二〇〇七」において指摘した〔中司二〇〇八〕。はたして同古墳の被葬者が江沼臣であって、石棺材が筆者の推測のとおり越前地方産の笏谷石なら、継体天皇の母・振媛の出自に連なる豪族であるだけに実に興味深い。 若狭の大首長墳について ところで、先日新たな継体天皇に関する著書が刊行され、 著者からその寄贈を受けた〔水谷二〇一三〕。 これまで長年継体伝承地域における動静を追及してきた筆者は、ご高配に感謝しながら一読した。その中では、文献史学を専門とする著者の考えは、門外漢である筆者には、参考になる箇所も少なくない。ただ、 賛同し難いいくつかの箇所が見られた。  とりわけ、若狭地方の膳臣について取りあげ、同地方の膳氏と中央の膳氏との関係は、あくまでも擬制的なものに過ぎないとする説を援用しながら、「若狭国造が六世紀半ばころに(中央の)膳氏と系譜的結びつきをもち、以後膳氏と名乗ることになったのではないか」と主張している点に関しては予想外のことで、今さらの異説にしばし空虚な気持ちに陥った。 というのも、われわれ同地方で研究を継続してきた者が、長年の調査・研究でようやく得た到達点から、再び二〇年余り前の錯綜した膳氏研究の状況に舞い戻った想いを抱いたからにほかならない。  若狭地方では、早くから大型古墳について、つとに膳氏との関係が論じられてきた。しかし、一九九二(平成四)年刊の『小浜市史』では、そうした既存の考えをあたかも一蹴するかのように、膳氏と若狭との関係は真実性に乏しいと否定的な側面を強調し、併せて、膳氏の若狭地方における説話が事実として評価できるかは、今後の若狭における発掘調査にかかっている、と結んでいる〔鬼頭一九九二〕。 確かに、古代の文献上の伝承に安易に依拠するのではなく、時には白紙に戻って再考証する必要があるのは言うまでもない。しかし、既に多くの整合する考古学的事例の存在が判明していた。これまで蓄積された多大な調査成果を吟味することなく、いたずらに看過するのは、研究面において必ずしも生産的な姿勢とは言えまい。 おりしも若狭地方では、一九九二年から一九九五(平成七)年にかけて、「主要前方後円墳総合調査」が実施された。これは、国史跡を中心とする各主要古墳のより広域の保存のため、墳丘外周の範囲確認を目的とする調査であった。 その結果、新たに従来未知の諸情報や時 期決定の根拠となる資料が得られた。各古 墳の規模や時期、ならびに先後関係が、長 年の論争後ようやく確定したわけである〔福井県教育委員会一九九七〕。  ところで、新著の「あとがき」では、著 者は考古学的な知識に迂遠なことを述べている。所々のケアレスミスの散在も気にな らぬことはないが、参考文献に調査報告書等を挙げながら、とかく考古学的な知識、とりわけ関連する古墳の実態への十分な理解がないまま、自論展開が目立っている。調査にあたった担当者の一人であり、かつ、実証主義にもとづく研究を旨とする筆者に は、いささか信じがたいことであった。 そもそも、畿外に於いて、平地に立地し、 周濠を巡らす古墳は、ごく稀な存在に過ぎない。まして葺石・埴輪を備え、天皇(大王)家との親縁な関係が窺える三段築成が大多数を占める若狭地方の歴代大首長墳の存在は、全国的にみても誠に異例な現象といわざるをえない。  前記のように、雄略紀八年条では、膳臣斑鳩は吉備臣小梨・難波吉士赤目子とともに渡海し、高句麗軍と戦火を交え、撃退したと伝える。西塚古墳では、①背後の山の名が「膳部山」といわれ、②多数の地元産と思える埴輪にごく一部ながら吉備産と思える埴輪が混在し、③北部九州系の石室を内蔵し、④多くの渡来(伽耶)系遺物を副葬し、⑤五世紀後葉の須恵器が共伴するなど、文献上の伝承と考古学的側面とがまさに符合している。これに、前述の二子塚狐山古墳に顕在する関連諸事象を加味するなら、伝承との整合性は無視し得ないことではなかろうか。  くわえて、後続の大首長墳である十善ノ森古墳でも、漆器や馬具の障泥金具など、わが国でも特殊例といいうる品が混在しており、副葬品類に現れた特異さは軽視しがたい。 つまるところ、こうした考古学的側面と『記』『紀』記載の内容との合致からする限り、若狭地方の膳氏を擬制的なものや枝族とは考えがたく、古代の文献に登場する歴代の膳氏そのものであろう(注6)。 参考までに申し添えるなら、筆者は膳氏が若狭地方に常住していたとは考えていない。こうした類例は、物部氏や土師氏など他の主要豪族の場合でも提示しうるが、移封地となった若狭地方に古墳を造営したものとみなしている。  同じく、著者が否定する大彦命後裔伝承を有する豪族であるが、継体朝に筑紫君(磐井)が近江臣に向かって放った揚言に「今こそ使者たれ、昔は吾が伴として、肩摩り肘觸りつつ、共器にして同食ひき」がある。筑紫君に関して、確認しうる確かな初期の古墳としては、福岡県広川町石人山古墳が挙げられる。本古墳もまた、畿外では例の少ない三段築成にほかならない〔中司二〇一三〕。 小結  以上、既存の反論の主な例に応えた。いずれにしろ、論考を世に問う有為の方々であるだけに、いたずらに性急な新知見の公表に走ることなく、事前の一層慎重な検証が望まれる。 注  1 主に、①丘陵縁辺部における古墳立地の変遷については、基本的には先端部の立地ほど時期が先行すること、②墳形については「剣菱形」「片直角型」「一隅突出型」などと、特殊な名称で呼び分けるべき前方後円(方)墳の存在は確認しえないこと、③後期でも後出の前方後円墳では再度前方部が低平化すること、などである。 2 たとえば、滋賀県下の既調査例でも、   近江八幡市安土瓢箪山古墳では、墳丘 の範囲をより小規模と見る私見とに異 同があり、野洲市大塚山古墳・円山古 墳、高島市斉頼塚古墳などは、円墳と されているが、そうではなく帆立貝形 古墳と見る私見とに異同がある(大塚 山・円山両古墳については、『つどい』 第二六〇号、小川滋氏の現地見学記を 参照)。 一方、未発掘ながら大津市坂尻二号墳・西羅一号墳の墳形に関する報告についても、筆者の観察所見は異なる。前者は円墳ではなく前方後円墳であり、後者は帆立貝形古墳ではなく円墳と方墳の二基からなるものと考える。 なお用田氏は、併せて前記の安土瓢箪山古墳、高島市鴨稲荷山古墳の他の二基の墳丘についても新説を唱えているが、遺憾ながら賛同しがたい。 3 奈良県御所市石光山八号墳、宮城県仙台市裏町古墳などで、葺石の設置は主に後円部のみで、しかも、上段墳丘に止まっている。 なお、大阪府岬町西小山古墳(一九三〇・八一年調査)、岐阜市龍門寺一号墳(一九六一年調査)は、学界では円墳とするのが定説である。だが、ともに前方後円墳(帆立貝形を含む)であろう。そうであれば、やはり後円部上段墳丘にのみ葺石を有する例となる。 4 長年に及ぶ二説の並立は、古墳時代研究者間においても、古墳実態の周知が遅れていることなどに起因すると思える。そこで、近年の大阪府下や滋賀県下で開催されたシンポジウムでは、首長層の動静に論及する必要上、根拠が十分ではない点について述べた〔中司二〇一二〕。 5 本古墳の築造時期については、田嶋明人氏が『前方後円墳集成』編年8期(五世紀後葉)、伊藤雅文氏が五世紀中~後葉、樫田 誠氏が四世紀末~五世紀後葉とする考えを示している。 6 水谷説のとおりなら、全国的な見地からみて、歴代の三段築成の古墳の存在は不合理である。同時に、前方部も三段を呈する事実は、いわゆる皇別氏族としても、本宗家の表微とみなすべきであろう。また、膳氏が実在の疑われる天皇である孝元天皇の皇子の大彦命の後裔を称していることから、信じがたいとしているが、大彦命後裔伝承の皇別氏族の大半と古墳の分布実態とがまさに整合していることは、既に指摘したとおりである〔中司二〇〇九〕。 なお、本会の現地見学会や講演等でも度々述べているが、考古学的事象との整合性は、既に孝霊朝から認められる現象である〔中司二〇一三〕。 参考文献 鬼頭清明一九九二「律令制以前の若狭」 (『小浜市史』)。 古墳文化を学ぶ会(樫田 誠・藤井明夫ほか)一九九二「加賀・能登の古墳測量調査」(『石川考古学研究会々誌』第三十五号)。 滋賀県教育委員会一九六一『北谷古墳群 発掘調査概報』。 中司一九七七「加賀における古墳時代の展開」(『古代文化』第二十九巻第九号)。 中司・川西一九八〇「滋賀県北谷十一号 墳の研究」(『考古学雑誌』第六十六巻第二号)。 中司二〇〇八「継体大王を擁立した古代 北陸勢力」(『越の国シンポジウム二〇〇七編纂誌』)。 中司二〇〇九「五世紀のヤマト政権と若 狭」(『つどい』第二五四号)。 中司二〇一一「渡来品の流入から窺える対外交渉とそのルート」(『古代出雲の壮大なる交流』島根県立古代出雲歴史博物館)。 中司二〇一二「考古学から見た継体支援 勢力」(『継体天皇一五〇〇年の謎』高島古代史フオーラム四 記録集)。 中司二〇一三「考古学からみた四・五世 紀のヤマト政権と吉備(後篇―その二)」(『つどい』第三〇二号)。 福井県教育委員会一九九七『若狭地方主 要前方後円墳総合調査報告書』。 望月精司・伊藤雅文・菱田哲郎二〇一〇 『継体大王と江沼の豪族』。 用田政晴一九九〇「三つの古墳の墳形と規模」(『(滋賀県文化財保護協会)紀要』第三号)。

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