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桜塚古墳群から桜井谷窯跡群へ -古墳時代豊中の激動を読む-

つどい310号
大阪大学教授 福永伸哉先生

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一 はじめに  豊中市を含む猪名川流域では、この四半世紀の間に有力古墳の調査が進み、地域の首長系譜の盛衰がかなり明確にたどれるようになってきた。この地域の古墳時代のミクロな歴史展開が、じつは畿内政権の中枢地で進行したさまざまな政治的動きと密接に関連して進行したものであったことを理解できるようになってきた。ただ、人々は有力者の墳墓づくりに終始していたわけではない。この時代に行われたさまざまな生産活動やその生産物の流通などにかんする考古学情報も、古墳時代史を解き明かすまた別のアプローチを提供してくれる。  豊中市北部に広がる丘陵地帯には、古墳時代の最先端技術を駆使した須恵器の一大窯業地が展開したことがすでに戦前から知られていた。桜井谷窯跡群と呼ばれるこの遺跡群からは、これまでに四〇基以上の須恵器窯跡が確認されている。桜井谷窯跡群の一帯に営まれた太鼓塚古墳から明治年間に出土した須恵質の陶棺は、須恵器生産にかかわる有力者がみずからの生業にかかわる棺に意図して葬られたと解釈することもできよう。この陶棺は故あって遠く大英博物館の収蔵品となり、現在は同博物館の日本展示室の主要な展示品の一つとなっている。  この桜井谷窯跡群から南東に四キロメートルほど離れた吹田市の丘陵一帯にも多数の須恵器窯跡が存在している。豊中市から吹田市にかけての北摂丘陵は別名「千里丘陵」と呼ばれることから、近年では豊中市 と吹田市一帯に広がる須恵器窯跡を「千里窯跡群」と総称し、西の豊中市域の一群を「桜井谷窯跡群」、東の吹田市域の一群を「吹田窯跡群」と呼び分けることが定着してきている(図1)。大阪平野南部の和泉丘陵には古墳時代から古代にかけて「陶邑窯跡群」という日本屈指の須恵器窯跡群が展開した。これと比較すれば全体的な操業規模は小さいとはいえ、「千里窯跡群」も全国的に見れば十指に入る古墳時代窯跡群である。しかも、一九八〇年代以降の調査の進展によって、「千里窯跡群」はただ単に「陶邑窯跡群」の不足を補う存在であったのではなく、須恵器生産の開始期の点で「陶邑窯跡群」に匹敵する古さを持っているとともに、「陶邑窯跡群」とは窯場の盛期が微妙にずれていることなどが徐々に明らかになってきたことは注目に値する。  そうした中、二〇一二年秋~二〇一三年春にかけて行われた桜井谷窯跡群二─二号窯の発掘調査は、千里窯跡群の歴史的評価に新たな視点を提供する重要な成果をあげた(豊中市二〇一三)。以下では、桜井谷窯跡群の稼働実態の特徴を検討しながら、この窯場の操業背景を古墳時代の政治動向と関連づけて理解するとらえ方を提示してみたい。 二 桜井谷窯跡群の六世紀の隆盛  畿内北部の一地方窯として理解されていた千里窯跡群の操業実態にまず再認識を迫るきっかけとなったのは、一九八六年に行われた吹田市側の吹田三二号窯の発掘調査であった。窯体内から出土したのは鋸歯文や斜格子文を施文したものを含む初期須恵器片のみであり、これにより千里窯跡群は陶邑窯跡群などと並ぶ日本最古段階の須恵器生産地との評価が生まれたのである。  桜井谷窯跡群では、一九九〇年に豊中市教育委員会が主体となり、筆者をはじめ大阪大学考古学研究室によって実施された二─二三号窯の調査成果が注目された。この調査では、当窯が六世紀前葉の操業であり、長さ一三メートル、最大幅二・五メートルをはかる巨大な窯体と、幅三〇メートル、長さ三〇メートル以上の広大な灰原を有していることが明らかになった。一基の須恵器窯としては列島でも最大級の操業規模といっても過言ではなかろう。範囲確認を目的とする調査であったため、窯の内部はごく一部をトレンチで探っただけであったが、焼成中に天井の一部が崩落したためにほぼ完成している多数の須恵器が窯詰め状態のままで残されている様子もうかがえた。また、これに先立つ一九八七年には近在の二─二九号窯でも発掘調査が行われており、二─二三号窯と一部操業時期の重なる六世紀前半の稼働が確認されている。これらの調査によって、桜井谷窯跡群の生産量は六世紀になると急増し、列島でも有数の窯業地へと発展したという見通しがえられるようになってきたのであった。  今回の二─二号窯の調査は、桜井谷窯跡群について生まれつつあったこの新たな理解をいっそう確かなものにしたということができる。窯の位置は、上述の二─二三号窯、二─二九号窯からは南西に四〇〇メートルの位置にあり、かつて灰原から出土した須恵器によって五世紀中頃から後半にかけて操業した桜井谷では古相段階の窯跡という理解が定着していた。ところが今回の調査で、当窯では六世紀前葉にも再び操業が行われていたこと、天井崩落部分の窯体内にほぼ焼成が完了した多量の須恵器が窯詰め状態のまま放置されていることが明らかになったのである。  桜井谷窯跡群の推移にかんする従来の一般的理解は、千里川に開削された桜井谷では、下流方向(南部)から操業が始まり、時期が下るにつれて徐々に谷奥へと窯の位置が北進していくというものであった。これまでの調査情報から導かれたこの見解は基本的に妥当であろう。ただ二─二窯の成果は、六世紀前半という時期に限っては、かつて操業した後に廃棄されていた南部の窯を「再利用」してまで、生産を拡大する必要が生じたのではないかという想定を可能とした。桜井谷窯跡群の六世紀前半の操業拡大はいっそう明確となり、その歴史的評価を的確に検討すべき段階に至ったといえよう(図2)。 三 六世紀の政治変動と桜井谷窯跡群  筆者は、一九九〇年に二─二三窯の調査に携わった時、この窯の生産規模がきわめて大きいこと、対照的に同時期の陶邑窯跡群では生産がやや停滞気味になることから、六世紀前葉には畿内政権によって河内(和泉)、摂津の二大生産地が増大する須恵器需要に対応するような分担体制がとられたのではないかという推測を提示した(福永・北條編一九九一)。桜井谷窯跡群を単なる地方窯ではなく「国家的」な須恵器生産を担った存在であったと理解したのである。その後の調査状況を踏まえると、桜井谷窯跡群に対する筆者の積極的な評価は一定の妥当性を持っていたと思われるが、いま振り返ると、当時は畿内政権内部で生じた六世紀の政治変動の影響を十分に織り込めていなかったことを痛感するのである。  その後筆者は、長岡京市井ノ内稲荷塚古墳、川西市勝福寺古墳など、六世紀前葉の前方後円墳の調査に携わる中で、この時期に政権中央の政治変動にともなって地域の有力古墳の系列が一新されるような地域関係の激変が生じたことを指摘することとなった。あらためていうまでもなく、畿内北部の淀川水系に政治拠点を置いた六世紀前葉の継体大王の登場にともなう変動である。  継体大王は、その奥津城と考えられる高槻市今城塚古墳で先年検出された「石室基盤工」(横穴式石室下部の地盤補強構造物)が示すように、いわゆる畿内型横穴式石室の導入とそれによる列島有力層の葬送方式の革新を遂行したと推定される。上述した井ノ内稲荷塚古墳や勝福寺古墳において初期の畿内型横穴式石室が用いられていることは、みずからのサポート勢力に対してはいち早くこの最新の埋葬施設の情報や構築技術を供与して優遇したものと見てよかろう。横穴式石室の葬送儀礼においては、墓室内に多量の須恵器(に入れた飲食物)を供献するため、その須恵器の需要が急増することは言をまたない。  継体大王の登場にあたって、多くの研究者が指摘するように河内の王権から主導権を奪うような非平和的な継承があったとすれば、急増する須恵器需要をまかなうためにその河内勢力が育成した大阪南部の陶邑窯跡群を意のままに活用したという状況は、にわかには考えがたい。こうした経緯を念頭に置いて桜井谷窯跡群における六世紀の生産規模の急増をとらえるなら、それは畿内北部勢力のサポートをえて台頭した継体大王が、新たな王権の基盤となる手工業生産の拠点として、以前から窯業技術を有してきた千里地域にてこ入れして「国家的」な須恵器生産地として位置づけた可能性が考えられるのである。  豊中市域では、これに先立つ五世紀には、猪名川流域屈指の古墳群である桜塚古墳群が最盛期を迎えていた。豊富な鉄製甲冑を有する大型円墳や前方後円墳の築造がとぎれなく続くことから見て、大阪平野に百舌鳥・古市古墳群を展開させた河内勢力が主導する同時期の畿内政権ときわめて密接な連携を持ちながら、猪名川流域の盟主的首長権を一世紀あまりにわたって維持していたのである。五世紀の桜井谷窯跡群はこの桜塚古墳群を残した有力豪族が河内の王権から先進技術を導入しながら運営したものと見て誤りはなかろう。  六世紀になると桜塚古墳群の古墳築造は急速に減衰するいっぽう、これと入れ替わるように猪名川本流をさかのぼった川西市域に突然勝福寺古墳が登場し、猪名川流域の政治的形勢は大きく変転する。桜井谷窯跡群の経営母体であった首長たちの奥津城と考えられる桜塚古墳群が衰退するにもかかわらず、なぜ桜井谷の生産はその六世紀に最盛期を迎えるのか。このことは従来ほとんど問題にされることはなかった。  桜井谷窯跡群において蓄積されてきた調査成果と、猪名川流域で進展した首長墳系譜の研究を重ね合わせた時、窯跡群の発展と継体新政権の成立という日本史上の重要テーマを関連づける理解が可能となるのである。  近年では、桜井谷窯跡群を含む千里窯跡群で製作された須恵器の特徴を抽出する研究も見られるようになった。千里窯跡群で製作された高坏には脚端部に特徴的な仕上げ方が見られることが指摘されており、この「千里系高坏」の分布は高槻市今城塚古墳、長岡京市井ノ内稲荷塚古墳、向日市物集女車塚古墳をはじめ、継体支援勢力の存在が確実視される淀川水系に広く及んでいる(図3、田村二〇一〇)。二─二号窯の発掘調査では、二〇〇個体以上の坏蓋のほか、桜井谷窯跡群ではかつてない量の良好な資料が多数検出された。それらの詳細な観察、分析によって、千里系の須恵器の同定と分布傾向の検討がいっそう進むことを期待している。 四 おわりに  日本の古墳時代研究は、社会の膨大なエネルギーを投入して築造された古墳そのものを中心的な資料として、多くのすぐれた成果を生んできた。いっぽうで、ここ数十年の発掘調査の進展は、古墳だけでなく日常生活、生産、祭祀、物資流通など、人々の多様な活動にかかわる豊かな情報を蓄積してきた。古墳から解明されることと、古墳以外の遺跡から解明されることをつなぎ合わせると、また新たな時代史が見えてくるのである。豊中市域において古墳時代遺跡としてつとに知られてきた桜塚古墳群と桜井谷窯跡群。古墳と生産遺跡という性格の違いや、盛行期の違いなどもあって、両者を統一的にとらえて当地域の古墳時代史を叙述する試みは必ずしも十分ではなかった。  今回の桜井谷二─二号窯の調査成果はまさに刮目すべきものといえる。その桜井谷窯跡群を、「王権」という視点で桜塚古墳群とつないでみた時、そこには日本史全体にかかわる重要なテーマが浮かび上がってくるのである。 【参考文献】 福永伸哉・北條芳隆編一九九一『桜井谷窯跡群二─二三号窯跡』豊中市教育委員会 田村美沙二〇一〇「千里窯における古墳時代後期の須恵器生産とその供給」『待兼山考古学論集』二、大阪大学文学研究科豊中市教育委員会二〇一三「桜井谷窯跡群二─二号窯跡現地説明会資料」 =end=

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