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桜井谷窯跡群の最新の発掘成果について

つどい310号
豊中市文化財講演会(豊中市教育委員会共催)
豊中市教育委員会事務局 地域教育振興室 主査 陣内高志(じんのうちたかし) 様

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文化財講演会(豊中市教育委員会共催)桜井谷窯跡群の最新の発掘成果について豊中市教育委員会事務局地域教育振興室 主査 陣内高志 じんのうちたかし

はじめに 昨年度、豊中市教育委員会が発掘調査を実施した桜井谷窯跡群2‐2号窯跡は、窯全体の残存状況が非常に良く、しかも大量の須恵器が窯詰め状態のまま確認され、豊中内外で注目されました。本日はその調査概要について報告させていただきます。  須恵器・窯跡 調査報告に先立って今回のキーワードにもなってくる須恵器、窯跡について説明します。 須恵器とは今から約一六〇〇年前、朝鮮半島から伝わった焼き物です。製作には回転台(轆轤)を使用し、窯で一〇〇〇度以上の温度で焼成する高度な技術です。完成した須恵器は灰色で非常に硬くしまってお り、液体の貯蔵にも適しております。 次に須恵器を焼くための窯跡は、山の斜面地を利用してつくられますが、良質な粘土と豊富な燃料が確保される必要があります。付近に水場も必要になってきます。 そのような須恵器の窯跡が、千里丘陵と呼ばれる豊中市から吹田市にかけて広がる丘陵地帯に数多くつくられ、総数にして一〇〇基以上とも言われています。これは、古墳時代、日本列島最大の須恵器生産地帯であった大阪南部の陶邑窯跡群(堺市、和泉市の一部など)に次ぐ生産量を誇ったとされています。豊中市側を桜井谷窯跡群、吹田市側を吹田窯跡群、両者を一括りにして千里窯跡群と呼ぶこともあります。  桜井谷窯跡群 桜井谷窯跡群は、千里川上流域の河岸段丘上に須恵器窯跡がつくられています。2‐2号窯跡は西岸側の最も高い所の斜面(高位段丘)、千里川から最も高所付近でもあります。全体的に窯跡の分布の中心は千里川の東岸側のようです。一方、西岸側の窯跡は散在的であり、このような東西両岸で対照的な状況の理由も今後の課題の一つと言えます。 次に桜井谷窯跡群の時間的な推移となると、これまでに年代が判明している約二十基の須恵器窯跡から概観すると、桜井谷窯跡群は五世紀後半頃(古墳時代中期後半)から八世紀代(奈良時代)にわたって営まれたことがわかります。 2‐2号窯跡のおおよその年代比定は、昭和五十二年の範囲確認調査で出土した須恵器に基づいております。それによると、2‐2号窯跡は群中最古の窯跡の一基であり、桜井谷窯跡群成立~展開を考えるうえで重要な窯跡と言えます。 文化財講演会(豊中市教育委員会共催) 桜井谷窯跡群の最新の発掘成果について 豊中市教育委員会事務局 地域教育振興室 主査 陣内じんのうち 高志たかし                                                                 8   2‐2号窯跡の発掘成果 それでは2‐2号窯跡について、主だった十二の成果を報告させていただきます。 1点目は前庭部~灰原です。前庭部は平坦、灰原は南に向かって下がる斜面地を形成しています。前庭部~灰原の堆積状況を観察しますと、黒土層・赤土層でのまとまりが約六〇~七〇センチメートルの層厚中に少なく とも三単位存在します。黒土層は燃焼部の灰を掻き出した層、赤土層は窯本体の壁材や床面の一部であり、これらが焼成中に剥落して砕片になったものです。このように前庭部~灰原で作業単位が確認できるほど残存状態が良好な事例は少数です。 2点目は天井部分が一部残存するほど窯全体の残り具合が良かったことです。天井が残存することで、窯本体の全長九・六メートル、天井までの高さが一・四~一・六メートル、最大幅二・二メートルなど、五世紀代の須恵器窯の具体的な規模が明らかになってきました 3点目はまずは焼成部の天井が残存していたことです。焚口~燃焼部の状況はきちんと確認できていませんが、少なくとも焼成部については地下式工法、トンネル工法によってつくられています。窯つくりは危険かつ大変な作業であったと思います。 4点目はその焼成部天井部分の崩落により2‐2号窯跡は生産を停止したということです。これは窯詰め状態の須恵器群      9 を覆うような状態で天井の壁材片が多数検出されたことから明らかになりました。 5点目は、今回の調査で新聞報道等により最も注目されたことですが、焼成中の窯詰めされた須恵器が多数見つかったことです。須恵器の種類は主として杯身・杯蓋の セット(約一一九セット)と胴部の最大直 径七〇センチメートル以下の中~小形甕、そして少数ながら高杯という内容でした。これらは、須恵器窯跡における一回の焼成時における須恵器の種類と数量等の詳細が明らかにできる可能性があります。この作業については、現在も検討中です。 6点目は窯詰め須恵器のおおよその配置です。まず甕の配列が優先されるようです。2‐2号窯跡の場合、甕とその焼き台の分布から横に四個体、縦方向に少なくとも七個体、つまり四×七という配置がなされます。杯身・杯蓋セットはこれら甕の合間に重ね合わせながら配置していくというパターンです。杯身・杯蓋セットは甕の周囲を環状に配置し、しかも杯セットの八割以上が杯身を上に向けて天地逆状態で最大三段重ね焼きを行っています。 7点目は杯身・杯蓋の大きさについて。杯身・杯蓋がセットで確認された一一九セットを対象に各個体を計測した結果、杯身は口縁部の直径一二~一三センチメートルに収まるものが大半を占め、杯蓋は口縁部直径が一四~一五センチメートル内が大半を占める結果となり、杯身・蓋の形状や口縁部の大きさなどを考慮すると多くが陶邑編年(田辺昭三編年)でMT15型式段階、六世紀始め頃の特徴を有しているという印象を受けます。 8点目は再び窯本体に目を向け、焚口部の両端出土の木です。直径五センチメートル程度、長さ約五〇センチメートルの木は焚口側壁沿いに検出されました。窯本体の閉塞施設の可能性を考えましたが、専門家の方々に聞いても確固たる根拠はなく前例がないということです。よって現在類例ならびに役割については調査中です。 9点目は煙道部の構造です。煙道穴は残存しておりませんがある程度までは復元でき、直径九〇センチメートル程度の穴がほぼ垂直に立ち上がる構造が考えられます。煙道部一帯は実際の煙道穴よりも二回りほど大きく掘り込まれており、しかも煙道穴の周囲には幅約五〇センチメートルの平坦 地が存在します。これは煙道での作業用ス 2|2号窯跡平面図                                                                 10  ペースと考えられます。煙道東側では作業用スペースに降りていくためのルートが存在するようです。 10点目は窯本体における床面の枚数です。桜井谷窯跡群成立期とされる2‐2号窯跡は、半世紀程度の操業期間(五世紀後半から六世紀初頭頃)が想定され、期間中、床面の補修が充分考えられます。部分的に断ち割り調査を実施したところ、床面に約 一〇~二〇センチメートルの堆積が認められ、少なくとも四枚の床面が存在するようです。 11点目は窯本体の壁面です。壁面のいたるところに補修箇所が見受けられます。こぶ状に突起しているところが補修部分ですが、観察の結果、補修は粘土の塊を貼り付けた後に手で壁に撫で付けるようにして粘土を引き延ばして補修箇所を覆っており、2‐2号窯跡ではその撫で付けた痕跡が確認できます。また、補修によって生じる起伏に富んだ壁面は、須恵器焼成とっては都合の良い状態でもあります。これは燃焼時、発生した熱が壁に当たって様々な角度・方向に反射していき、焼成中の須恵器全体に万遍なく熱が行き届く効果を生んでいます。 12点目は、窯本体の西側に幅約三メートル、長さ一五メートルほどの平坦地が確認されたことです。ここから見つかる須恵器は2‐2号窯本体で見つかるものとほぼ同じ特徴を有しており、同時期に営まれた施設と考えられます。斜面地ばかりのなかに人工的につくられた平坦地。これは須恵器作りのための作業場と考えられます。窯本体と隣接する位置に平坦地が検出される事例は珍しいようです。  おわりに 以上、2‐2号窯跡の調査成果について主だった十二の特徴を紹介させていただきましたが、これらは調査成果の一部であり、詳細な報告は今後発刊予定の調査報告書の中でさせていただきます。 2‐2号窯跡は、調査後、事業主側と保存に向けた協議を重ねてまいりましたが、誠に残念ながら保存断念という結果になりました。 

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