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「倭の五王」陵と百舌鳥・古市古墳群―古代東アジアの国際関係を通して-(坪井恒彦先生)

つどい311号
元読売新聞編集委員 坪井 恒彦先生

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漢字変換の制限により文字化けする場合があります。 一 「倭の五王」時代前史としての四世紀―鉄素材供給ルートと倭王権の対朝鮮半島戦略  中国・宋王朝(四二〇~四七九年)の正史『宋書』の編纂は、宋の元嘉十六年(四三九)に始まって梁の天監二年(五〇三)に完成したとされ、ほぼ同時代史といえる。その「帝紀」と「列伝」の中に倭国五代の王「讃、珍、済、興、武」が登場する。  うち「列伝」では、中国が自国こそ世界の中心であるという中華思想に基づいて周辺諸国を紹介した「夷蛮伝」に収められる。中国の皇帝が周辺諸国の王に対して官号や爵号、将軍号を授けて君臣関係を結ぶ「冊封体制」下にあった倭国王は、五世紀の宋王朝の歴代皇帝に対し、より高い官位などを求めて使節を送り続けた。『宋書』はその遣使記録を年次別に記録しており、古代史学界では一部の「九州王朝」論者らを除き、この倭国王らは後に天皇と呼ばれるヤマト政権の大王たちであるという認識で一致する。とすれば、彼らの墳墓を『宋書』における遣使年次をキーワードに、考古学の編年でほぼ五世紀に相当する大阪府南部の百舌鳥・古市古墳群内の巨大前方後円墳に求め得るのではないか。  その関係を探る前に、「倭の五王」たちの遣使に至る経緯を見ておきたい。百舌鳥・古市古墳群が営まれるまで、四世紀後半の大王墓は奈良盆地北部の佐紀古墳群内に築かれていたことは墳丘の規模から見て明らかだ。そこに葬られた大王たちが激動期にあった朝鮮半島情勢への対応に追われたことを多くの研究者が指摘する。四世紀前半、中国で晋が衰退すると遼東一帯で前燕が力を増して朝鮮半島北部の高句麗を圧迫、その南下策に拍車をかける。高句麗との対立を余儀なくされた百済は倭国に接近し、三六九年までに軍事的な同盟を結んだことが石上神宮(奈良県天理市)に伝わる七支刀の銘文などで裏付けられる。  この同盟は倭国にとっても、経済・軍備上欠かせない鉄素材の唯一の供給ルートである朝鮮半島での権益を確保するために避けられない選択だった。半島とのパイプは鉄資源だけでなく、それに伴う鍛冶・金工の技術、新しいタイプの硬質土器などの生活必需品、銅鏡などの威信財など、あらゆる先進文物・システムを入手するためにも必要である。倭王権は朝鮮半島南部・伽耶地域を拠点にそれらを独占的に押さえ、国内での支配力を高めていたが、将来に向けて安定的に確保するためにも百済支援を選ぶことになったと考えられる。   二 倭国王による中国王朝への相次ぐ遣使 ―遣使年次に見る「冊封体制」への思惑  百済との軍事同盟を強めて行った倭国はやがて高句麗との戦いに備えざるを得なくなる。もし、百済が高句麗に倒されると、倭国にも侵攻の矛先が向かって来る。そこで五世紀初めの倭国政権は、当時、南朝で晋に替わって建国したばかりの宋王朝の冊封下に入り、その官号・爵号を授与されることで朝鮮半島での高句麗との戦いを優位に運ぼうと考えた。例えば、「倭の五王」二代目の珍は宋王朝に民政権と軍政権の公認を要請しているが、その範囲は民政権が倭国内だけなのに軍政権は朝鮮半島南部から百済・新羅にまで及んでいる。  そんな五王による宋王朝への使節派遣年次と百舌鳥・古市古墳群内の主要な大王墓の造営時期との関連に注目しているのが天野末喜氏(大阪府藤井寺市教育委員会)である。天野氏は古市古墳群の地元で約四十年間にわたり、百舌鳥や大和・佐紀古墳群などを含めた大王陵の編年研究を進めている。その研究成果の一部を紹介しながら、私案についても触れておきたい。天野氏は、「古墳時代年代試案」(別表=『同志社大学考古学研究会五十周年記念論集』などに所収)で、三世紀初めから六世紀後葉までの三八〇年間を二〇年刻みに分け、各時期に完成したとみられる大王陵などの主要古墳を当て嵌めている。  二〇年刻みの目安は和田晴吾氏による古墳の編年、川西宏幸氏による円筒埴輪などの編年、寺澤薫氏らによる土師器など(二〇一年~二二〇年の「庄内2式」から四〇一年~四二〇年の「船橋02」まで)と田辺昭三氏による須恵器(三八一年~四〇〇年のTG231・2から五六一年~五八〇年のTK43まで)の編年、そして紀年銘の入った遺物や年輪年代測定で伐採年が明らかにされた出土木材などの「暦年代資料」などである。このような五世紀を中心とした時代の二〇年間刻みによる大王墓の築造時期が認められるとすれば、ここへ『宋書』に記録された「倭の五王」たちが使節を送り込んだ遣使年次を付き合わせることで、彼らの大王陵を推定しうるという考え方である。『宋書』や『南斉書』『梁書』には、「倭の五王」についての遣使や官爵除授の年次を明記した記録が、計十二回登場する。ただし、各王についての生年、即位年、没年の直接的な記述はない。  天野氏は生前に自分の墓を築いておく寿墓の制度は原則的にはなかったとみて、七、八年~一〇年の造営期間を想定し、五人の王が遣使朝貢を行ったのは前王が亡くなって墓を築き始め、それが完成した直後に新王の遣使朝貢があったと考える。まず『晋書』に記録される「四一三年、倭国方物を献ず」の主体を讃とみて、この年を讃の最初の朝貢年とし、その直前に讃の先代の墳墓が完成したとする。同様に『宋書』の珍の最初の遣使朝貢年四三八年の直前を讃の墳墓完成年、済の四四三年、興の四六二年、武の四七七年も、それぞれその直前に先代の珍、済、興の墳墓が完成したのだとする。「この方式では武の墳墓の完成年は分からない」が、稲荷山古墳出土鉄剣銘文によれば、倭王武と考えられるワカタケル大王(後に雄略天皇と呼称)は四七一年には大王位に就いていたのだから、その後の在位年数や死後の墳墓築造の期間を勘案して、武の墳墓は五世紀末には完成していたとみる。  このようにして天野説で倭五王の陵墓を整理すると、讃の先代(須恵器型式編年でTK73)=誉田山古墳(現応神天皇陵)、讃(TK216~208)=大山古墳(現仁徳天皇陵)、珍(TK208)=土師ニサンザイ古墳(現陵墓参考地)、済(TK23)=市野山古墳(現允恭天皇陵)、興(TK23)=軽里大塚古墳(現日本武尊陵)、武(TK47)=岡ミサンザイ古墳(現仲哀天皇陵)となるという。 三 『宋書』倭国伝に記された「倭の五王」 の実態 ―『記』『紀』に現れる「天皇」との照らし合わせ  この天野氏による意欲的な「倭の五王」陵を追究していく方法は、基本的に支持したい。ただし、五王の具体的な比定には少し異論がある。例えば、讃の先王墓とされる誉田山古墳から、讃の大山古墳、珍の土師ニサンザイ古墳、済の市野山古墳、興の軽里大塚古墳まで、須恵器編年では二〇年刻みで順序だてられるが、川西氏の埴輪編年ではすべて第Ⅳ期に入る。二〇年刻みで当て嵌められている須恵器の形式も各古墳で単純に一定の形式で統一されているわけではない。前方部や後円部、周堤部など出土場所によって、また造営後に継続していた可能性のある墳墓祭祀などを想定すれば、型式にバラつきが出るのはやむを得ない。そのような第Ⅳ期の中でも、TK208とTK23に割り振られる土師ニサンザイ古墳、市野山古墳、軽里大塚古墳の3古墳については、土師ニサンザイ古墳の資料などが乏しいこともあって、順序が確定しているわけではない。必ずしも「土師ニサンザイ古墳→市野山古墳」ではなく、その逆も成り立つのではなかろうか。  仲津山古墳以来、石津丘(百舌鳥陵山)、誉田(御廟)山、大山というように、古市と百舌鳥が交互で大王墓を築造し続けていたとすれば、五世紀中葉から後葉の大王墓の編年として、大山古墳→市野山古墳→土師ニサンザイ古墳と進み、墳丘長が二〇〇メートル弱とみられ、他の二三〇メートルを超す巨大古墳が候補となるこの五世紀段階の大王墓としてはふさわしくない軽里大塚古墳を除くと、土師ニサンザイ古墳の後は岡ミサンザイ古墳しか該当するものがない。宮内庁が仲哀天皇陵とする岡ミサンザイ古墳は五世紀末段階の築造であることが確実視され、この時期に他に大王墓候補が認められないことなどから、被葬者を倭王武とする考えが多くの研究者に支持されている。とすれば、倭の五人の王墓のもう一つは、大山古墳のさらに前に想定せざるを得ず、天野説で讃の先王の墓とされた誉田山古墳(TK73)が、讃その人を葬った大王墓とは考えられないだろうか。  この辺りの被葬者探しはともすれば、推理ゲームに陥りかねないが、天野説のうち、済(TK23)=市野山古墳(現允恭天皇陵)と、武(TK47)=岡ミサンザイ古墳(現仲哀天皇陵)は、客観的にも蓋然性が高い。それを踏まえて、土師ニサンザイ古墳を市野山古墳より一段階新しいとみると、珍の王墓の造営は大山古墳の時期と重なり、大山古墳を讃王墓とする天野説より一段階新しくとらえられる。興は「世子興」という『宋書』の記述を重視すれば、即位はしなかったものの、皇太子ながら国内外で「倭王」として扱われたと考えられる木梨軽(允恭の皇子)を候補として挙げたい。記紀によれば、木梨軽は同母妹の軽大娘と関係を持ったとされ、弟の穴穂(安康天皇)が皇位を継ぐ。しかし、その経緯はあまりに不自然で、皇位を争って失脚した木梨軽は、その直前まで允恭天皇に替わって政務を執っていたのではないか。寿墓の制度はなかったとみる天野説とは異なるが、中国側から倭王興と認識されるほどの木梨軽には土師ニサンザイ古墳のような墳墓が準備されていた可能性も考えていいのではなかろうか。軽皇子の「軽」は呉音でキョウと発音され、それが「興」(漢音でキョウ、呉音でコウ)に通じると考えるのはうがち過ぎか。  ここで私見をまじえて改めて整理し直してみると、まず、讃の先王は石津丘古墳(現履中天皇陵)となり、倭の五王のうち、讃は誉田山古墳(現応神天皇陵)、珍は大山古墳(現仁徳天皇陵)、済は市野山古墳(現允恭天皇陵)、興は土師ニサンザイ古墳(現陵墓参考地)、武は岡ミサンザイ古墳(現仲哀天皇陵)ということになる。その延長線上でこれら五基の大王墓を仲介させて、『宋書』に記録される倭の五王の系譜と、『古事記』『日本書紀』に示された天皇家のそれを照らし合わせ、奈良時代に淡海三船が漢字2文字で表現した古代天皇のおくりなに当てはめると倭の五王とは履中、反正、允恭と木梨軽皇子、そして雄略を指していたということになるのではないか。『記』『紀』『延喜式』すべてが履中天皇陵を百舌鳥地域内に定めているのに、あえて古市に想定するのは、仁徳・履中・反正の三代の大王墓が続けて百舌鳥古墳群に営まれたとする記紀などの記載が考古学の成果と整合しないからだ。   四 「倭の五王」陵の墳丘巨大化とその限界 ―「河内大塚古墳=雄略陵」説の難しさ  百舌鳥・古市古墳群のうち、百舌鳥地域では五世紀後半に造られた土師ニサンザイ古墳(墳丘長二九〇メートル)を最後に一〇〇メートル以上の大型前方後円墳は姿を消す。古市地域でも岡ミサンザイ古墳(二四二メートル)で巨大前方後円墳の時代は終焉を迎え、六世紀にも清寧・仁賢・安閑陵といった大王墓は継続して築造されるが、その規模は一〇〇~一二〇メートルにとどまる。つまり、「倭の五王」時代の後、巨大古墳は必要とされなくなるのである。その背景には五王たちが繰り返し宋王朝に求めてきた朝鮮半島での軍政権が思うように認められず、冊封関係を続けて行く意味がない、これまでのような墳墓を誇示しての大陸外交を進めて行く価値がないと倭国政権が判断したからではないか。西嶋定生氏が指摘したように、五王の最後、倭王武は自ら、中国王朝とは別の独自の天下的な世界の王「治天下大王」の称号を用い始めて冊封体制から離脱していく。それが五世紀を通して展開された巨大前方後円墳時代の終焉につながるのではなかろうか。  最後に、倭王武の大王墓候補としての関連で、河内大塚古墳の問題について考えておきたい。百舌鳥地域と古市地域のほぼ中間に位置し、その原ルートが両古墳群の造営に関連するのではないかともみられる大津道(後の長尾街道)の南沿いに築造されている。松原市と羽曳野市にまたがり、墳丘長は三三五メートルで全国第五位の超巨大前方後円墳である。明治・大正期の歴史地理学者、吉田東伍以来、雄略天皇(つまり倭王武)を被葬者と考える研究者が多くいた。陵墓参考地で立ち入りが出来ないため、詳細は不明だが、剣菱形の前方部とそれに合わせた周濠を持ち、奈良県橿原市・丸山古墳に似た広く平坦な前方部、大型の横穴式石室の存在が考えられるなどから築造時期は六世紀半ばにまで下るのではないかとみられる。ただし、この古墳については以前から、巨大な規模を誇りながら段築や造り出し部が不明瞭で埴輪の存在がはっきりせず、少なくとも円筒埴輪の囲繞が認められないなど完成された古墳としては不審な状況が指摘されてきた。  とくに近年、十河良和氏(堺市文化財課)の「未完成の安閑天皇陵」説が注目を集めている。十河氏は河内大塚古墳の南西五キロメートルにある堺市東区の日置荘西町窯跡群内の七基の埴輪窯(六世紀半ば)に注目。出土した大型円筒埴輪が、真の継体天皇陵とみられる今城塚古墳(大阪府高槻市)に埴輪を供給した新池埴輪製作遺跡のものと似ていることから、新池の工人が今城塚の完成後に次の安閑陵の埴輪を焼くため日置荘に移動したのではと考える。「六世紀の河内で日置荘のような大きさの円筒埴輪を並べられるのは河内大塚古墳しかない」という状況証拠を挙げる。岸本直文氏(大阪市立大学)も、高さ二〇メートルの後円部に対して前方部が四・五メートルと非常に低く周濠も浅いことから周濠を掘った土で前方部に盛り上げている途中で工事が止まったのではないかと未完成説を支持する。  未完成の理由として十河氏は「辛亥の変」を想定する。『日本書紀』の継体二十五年条に引用された『百済本記』(百済滅亡後に渡来した亡命百済人の編纂書)にこの年、五三一年に継体と共に息子(安閑、宣化)が皆没したとする記述がその変をうかがわせるという。さらに『元興寺伽藍縁起』や『上宮聖徳法皇帝説』には欽明が五三二年に即位したとの記録もある。これは「辛亥の変」で欽明などの勢力に安閑が殺され、生前から造り始めていた河内大塚の工事を中止し、急きょ皇后(春日山田皇女)陵として築かれた高屋築山古墳(現・安閑陵、羽曳野市)に埋葬されたと推測している。倭王武の真の王陵を考える上で、また、古市古墳群の六世紀段階の性格を見直す上でも大いに考えさせられる。(平成二十五年九月)

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