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歴史学からみた4・5世紀の伊勢とヤマト政権

つどい308号
皇學館大学教授 荊木善行先生

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    伊勢神宮とは   みなさまお久しぶりです。昨年に続き、今年もこの豊中歴史同好会で講演させていただく機会に恵まれたことを光栄に存じます。  さて、本日は、「歴史学からみた四・五世紀の伊勢とヤマト政権」というタイトルで、古代における伊勢と中央との関係についてお話しする予定ですが、古代の伊勢をテーマにお話しするとすれば、やはり伊勢神宮に焦点をあてる必要があります。  皇 こう大神宮たいじんぐう、いわゆる内宮ないくうは、延喜えんぎ伊勢いせ大神宮式だいじんぐうしきに「太神宮三座〈度会郡わたらいぐん宇治郷の五十鈴の河の上ほとりに在す〉。天 あま照てらす大神一座。相 あい殿どのの神二座」、同神名式に「太神宮三座〈相殿に坐す神二座。並大。月次つきなみ・新嘗にひなめ等の祭に預る〉」とあるように、天照大神を祀る神社で、現在も三重県伊勢市の地に鎮座しています。いっぽう、豊受とようけ大神宮だいじんぐう、いわゆる外宮げくうについては、やはり伊勢大神宮式に「度会宮四座〈度会郡沼 ぬま木 き郷山田原に在り。大神宮を西に去ること七里〉。豊受大神一座、相殿神三座」、神名式に「度会宮、四座〈相殿神に坐す神三座、みな大、月次・新嘗〉」とみえています。豊受大神とは、天照大神に食事を奉る神です。この両正宮と、これに所属する別宮・摂社・末社・所管社しょかんしゃをあわせて、一般に「伊勢神宮」と称しているのです(正式には「神宮」)。  神宮、とりわけ内宮がいったいいつごろ成立したのかという問題は、ひじょうに重要な意味をもちます。なぜかというと、内宮は、皇祖神である天照大神を祭神としているので、こうした祭神を奉祀する神社が 伊勢の地に鎮座した時期や理由を探ることは、天照大神を奉祀する政治的集団、すなわちヤマト政権がいかにして東方へ勢力を拡大してきたかという問題とかかわるからです。  式年遷宮の起源 ところで、みなさまはよくご承知かと存じますが、今年は神宮の式年しきねん遷宮せんぐうの年にあたります。式年遷宮の「式年」とは定まった年という意味で、神宮が二十年ごとに社殿や装束しょうぞく・神宝をことごとく新調し、大神を新宮に遷 うつすことをこう呼んでいます。正宮だけでなく、別宮・摂社・末社・所管社しょかんしゃ   参宮名所図会 御遷宮  右図           3  に至るまで百二十五のお社すべてを新しくするわけですから、大規模な祭典です。新宮に御神体を遷す、いわゆる遷御せんぎょの儀は式年遷宮のクライマックスともいえる儀式ですが、今回の遷宮では内宮が十月二日、外宮が十月五日におこなわれる予定です。  ところで、この式年遷宮が制度化されたのは、ずいぶん古いことです。おおよそ七世紀後半の持統天皇朝のことだといわれています。式年遷宮のはじまりについては、『日本書紀』には記録されていませんが、『太 だい神 じん宮 ぐう諸 しょ雑 ぞう事じ記き』第一には「朱雀すざく三年九月廿日、左大臣の宣 せん参宮名所図会 御遷宮  左図                                                                 4  に依りて、勅みことのりを奉うけたまはるに、伊勢二所太神宮の御神宝物等を勅使を差つかはして送り奉られ畢おはんぬ〈色目は記さず〉。宣旨せんじの状に?いはく、『二所太神宮の御遷宮の事、廿年に一度まさに遷御せしめ奉たてまつるべし。立てて長き例ためしと為すなり』と云々」とあります。さらにその直後には、「抑そもそも朱雀三年以往の例、二所太神宮の殿舎・御門・御垣みかき等は、宮司、破損の時を相待あひまちて修補し奉るの例なり。而 しかるに件くだんの宣旨に依りて、遷宮の年限を定めり。又外院げいんの殿舍・倉・四面重々御垣等、造り加へらるる所なり」とあって、それ以前の修造についても言及しています。  ここで問題になるのは、「朱雀」という年号です。これは、天武天皇の晩年の「朱あかみ鳥 とり」のことかと思われます。この「朱鳥」には元年しかありません(西暦では六八六年)。七月に改元されましたが、九月に天武天皇が崩じたために、二年以降は存在しません。ですから、朱鳥=朱雀だとすると、朱雀三年は持統天皇二年(六八八)にあたるので、式年遷宮の制度化は持統天皇朝にはじまるといえます。『太神宮諸雑事記』がこれを天武天皇の項にかけてしるすのは、天皇の発案にかかるものだったからではないでしょうか。  いずれにしましても、つづく持統天皇のところに、「即位四年〈庚寅〉太神宮御遷宮。同六年〈壬辰〉豊受太神宮遷宮」とありますように、持統天皇四年(六九〇)に内宮の遷宮が、さらに二年おくれて外宮のそれがおこなわれたことは確実です。  壬申の乱と神宮  さて、この式年遷宮の制度化ですが、じつは大友皇子と大海人皇子が皇位を争った壬申の乱と関係が深いといわれています。そこで、以下は乱の経過を辿りながら、この点について考えてみましょう。 朴 えの井 いの雄お君 きみらが近江朝廷側の動向を吉野の大海人皇子に通報したのが、天武天皇元年(六七二)五月のことです。これをうけて皇子が決戦を決意し、村国男依むらくのおよりを美濃に派遣し、挙兵を命じたのは、翌六月の二十二日です。二十四日に至って、いったんは躊躇した皇子であったが、結局、皇后(のちの持統天皇)や草壁くさかべ皇子・忍壁おさかべ皇子・朴井雄君とわずかばかりの供をしたがえ、東国に向かいます。 吉野から北上して宇陀うだ郡を通過した一行は夜道に苦労しながら、夜半に伊賀国に入り、伊賀郡で郡司ら数百人を集めます。明朝、儡た萩野らので休息し、柘植つげの山口(三重県伊賀市柘植)で近江を脱出してきた高市たけち皇子らと合流し、さらに、伊勢の鈴鹿では同国の国司や湯沐令とうもくれいらが加わり、二十六日には大津おおつ皇子も合流します。 美濃から戻った村国雄依が不破ふわ道を塞いだことを報告すると、大海人皇子陣営は活気づきます。そして、これに勢いを得た大海人皇子は、高市皇子を不破に遣わして軍事を監督させるとともに、東海道・東山道諸国にも使いを派遣して挙兵させます。  いっぽう、ようやく大海人皇子の東国入りの報せをうけた近江朝廷は、驚いて度を失います。あわてて東国・大和・筑紫・吉      5 備に使いをだしてこれらの地の国司らを味方に引き入れようしますが、いずれも不首尾に終わっています。これに対し、大海人皇子側は、美濃国の不破に入り、七月にはいると、一気に攻勢にでます。伊勢と近江の両面から近江を攻撃し、破竹の勢いで勝ち進み、ついに二十二日には大津京を陥落させました。  さて、こうした乱の経過で注意したいのは、天武天皇が、六月二十六日の朝、朝明あさけ郡(三重県四日市市)において伊勢神宮を遥拝していることです(後述参照)。これは、壬申の乱の戦勝祈願に相違ありません。ですから、勝利を収めた天武天皇は神宮に対し、格別の崇敬すうけいを抱いたはずで、右にのべた式年遷宮の制度化も、おそらくは神恩・加護に対する感謝の気持ちから起こったものと考えるべきでしょう。式年遷宮は、その後、戦国時代に百二、三十年の中断があったことを除くと、こんにちに至るまで絶えることなく継承されてきましたが(平成二十五年には第六十二回の式年遷宮をむかえる)、その制度の淵源が天武天皇朝にあることは、まことに感慨深いものがあります。  伊勢神宮の起源  タイムリーな話題ということで、式年遷宮の話にいささか深入りしましたが、そもそも、この神宮(内宮)はいったいいつごろ成立したのでしょうか。 最初に申し上げましたように、内宮は、皇祖神を祀る神社だけに、その創祀や展開が、ヤマト政権の勢力伸張、さらにはその後の律令りつりょう国家こっかの形成と密接に結びついています。  内宮の起源に関しては、『日本書紀』垂 すい仁 にん天皇二十五年三月十日条に「大神の教おしへに随まにまに、其の祠やしろを伊勢国に立て、因りて斎宮いはひのみやを五十鈴川の上に興たつ。是を磯いその宮 みやと謂いふ」という伝承が語られていますが(後述参照)、これとはべつに、『続日本紀』文武天皇二年(六九九)十二月乙卯(二十九日)条に、つぎのような記事がみえています。    多気たきの大神宮だいじんぐうを度合わたらい郡 ぐんに遷す。  この記事を虚心に読むかぎりでは、「多気大神宮」が文武天皇二年に現在の地に遷座したことは疑いのない事実で、内宮の伊勢鎮座は、八世紀初頭にもとめなければなりません。しかし、『日本書紀』は、内宮の鎮座を垂仁天皇の時代のこととして伝えています。もし、右の『続日本紀』の記事を信頼するとすれば、『日本書紀』の所伝のほうをどのように理解すればいいのかが問題となります。  そこで、つぎに天皇祭祀のかなめともいえる内宮が、実際のところ、いつごろ成立したものなのか、この記事をてがかりに考えてみましょう。  文武天皇二年条の問題点  右の『続日本紀』の記事に間違いがないとすると、これをもとに、元来多気郡にあった内宮が、この年はじめて度会郡に移されたと考えることが可能になります。福山敏男氏は、この「多気大神宮」は、度会郡に移されるまえの外宮の名称ではないかと                                                                6  みておられますが〔福山=一九五二〕、そのように考えると、度会郡に移されるまえの外宮が、なぜ「大神宮」と称されたかがうまく説明できない憾みがあります。  こうした「内宮文武天皇二年遷座説」は、筑紫つくし申 のぶ眞 ざね氏が、昭和三十七年(一九六二)にはじめて提唱されたものです。筑紫氏によれば、皇大神宮の別宮の瀧原宮たきはらのみや(遥宮)がある三重県度会郡大台町瀧原の地は、もと多気郡に属していたといいます。そして、文武天皇二年に至ってその多気から五十鈴川の川上に大神宮がうつってきたのであり、現在の瀧原宮はかつての多気大神宮の名残だというのです〔筑紫=一九六二〕。  その後も、川添登〔川添=一九七三〕・菊地康明〔菊地=一九七七〕・櫻井勝之進〔櫻井=一九九二〕・田村圓澄〔田村=一九九七〕らの諸氏が、やはりこの記事をもとに文武天皇二年説を展開しておられますが、当該記事の「多気大神宮」が内宮のことを意味するのであれば、内宮が文武天皇二年にはじめて現在の地に遷座したことは動かしがたいでしょう。  ただ、神宮側の史料である『皇 こう太 たい神宮じんぐう儀式帳ぎしきちょう』や『等と由ゆ気宮けのみや儀式帳ぎしきちょう』(いずれも、文武天皇二年から百年余りのちの延暦二十三年〈八〇四〉に成立)などがその事実にまったく口を閉ざしているのは不思議です。しかも、『続日本紀』の記事がまちがいないとすれば、養老四年(七二〇)に完成した『日本書紀』は、わずか二十年餘りまえの事実を無視し、あえて内宮の伊勢鎮座を垂仁天皇の時代のこととする虚構の所伝を掲げたことになるのですが、『日本書紀』の編者がそのような見え透いた工作をおこなったとはちょっと想像できません。菊地氏らによりますと、垂仁天皇二十五年条に「斎宮を五十鈴川上に興す」とあるのは、神宮としての祠ではなく、斎王の忌みこもる宮のことで、内宮そのものを指すのではないそうです。しかし、これは、あとでもふれますが、史料解釈においてしたがいがたい点があり、支持することはできません。  なお、『日本書紀』天武天皇元年(六七二)六月丙戌(二十六日)条には、「旦あしたに、朝明郡あさけのこほりの迹太川の辺にして、天照大神を望拜みたまふ」という記事にみえていますが、西宮秀紀氏によれば、「迹太川」(現在の朝明川)から、天照大神を望拝するとすれば、伊勢湾越しに現在の伊勢市方面を望んだとみるべきで、このとき、すでに内宮は度会郡に鎮座していたことが想定できるといいます〔西宮=一九九四〕。  こうしてみると、文武天皇二年説も鉄案とはいいがたいようです。ただ、文武天皇二年説を否定した場合、この『続日本紀』の記事はいったいなにをしるしたものであるかということが、あらためて問題になります。田中卓氏は、多気大神宮司の誤写か、多気斎宮の分置(離宮院の新設)かのいずれかであろうとしますが〔田中=一九八五〕、本文になんらかの誤脱のある可能性も考えられます。これについては、私にも名案はありませんが、当該記事が内宮そのものの遷座を示すという説には無理があるようです。多くの研究者に支持されている文武天皇朝      7 創祀説ですが、『続日本紀』のわずかな記述を唯一のよりどころとしているだけに、ちょっと強引な感じがします。  雄略天皇朝創祀説  ところで、このほかにも、内宮の成立時期については、じつにさまざまな学説が提起されています。その一つ一つをここにくわしく紹介することはできませんが、さきの文武天皇二年説以上に有力視されているのが、雄略天皇朝説です。そこで、つぎにこの説を取り上げてみます。  雄略天皇朝説をはじめて唱えたのは、直木なおき孝次郎こうじろう氏です〔直木=一九五一〕。直木氏によれば、伊勢神宮はもともと日の神として信仰された地方神であり、皇祖神として信仰されるようになるのは、古くみても雄略天皇朝のことで、それは皇室の東国進出と関係があるといいます。  こうした直木説を踏まえて、伊勢神宮の成立に関して包括的な研究をおこなったのが、岡田おかだ精司せいじ氏です〔岡田精司=一九六〇〕。岡田氏の説は、雄略天皇朝説を代表するものであり、これを支持する研究者も少なくありません。そこで、以下は、この説について検討してみたいのですが、まず、岡田氏みずからの要約によって〔岡田精司=一九八二〕、その所説の要点を紹介しておきましょう。 ①雄略天皇の治世の四七七年(この年代については、後述参照)に、大王の守護神の祭場を河内・大和地方から伊勢へ移したものと推定される。それが、内宮の起源=伊勢神宮の成立である。 ②神宮成立の歴史的背景として、五世紀後半の社会的変動や伝統的信仰の変質、東国経営の進展などが考えられるが、直接的には中国南朝に対する朝貢外交のゆきづまりと朝鮮半島における日本勢力の敗退にともなう国際的危機が、もっとも大きな要因になったにちがいない。 ③外宮の前身は南伊勢地方の国造クラスの豪族度会わたらい氏しの守護神で、古くからこの地で崇敬されていた太陽信仰の対象であったらしい。 ④伊勢の度会の地が内宮の鎮座地に選ばれたのは、③にみたような太陽信仰の聖地としての、宗教的条件が主であったが、東国経営との関係も重要な要素であった。 ⑤内宮祭神=太陽神は、古い形態では男性神であったが、随従する巫女みこ神 がみと主客交替するかたちで祭神の変更が起こったのは、六世紀末から七世紀初頭にかけて進行した変化である。  このように、岡田氏は、内外の動向にも目を配りながら、伊勢神宮の成立を雄略天皇朝と断定しているわけですが、その根拠としてあげておられるのは、つぎのような点です。 ①『日本書紀』には雄略天皇朝に伊勢服属の説話が集中している。 ②垂仁天皇二十五年紀の「一書」に、内宮鎮座の年を「丁巳ていしの年 とし冬十月甲子」としているのは、神宮関係の諸書に外宮鎮座を「丁巳年」とするのと一致し、                                                                8  それが倭王武の南朝遣使のときにあたっている。 ③斎王任命は、雄略天皇朝以後ほぼ確実となる。  なお、岡田氏は、「四七〇年代の雄略の治世に〔内宮の〕創建年代を求められることは、考古学資料からも裏づけられる」といい、つぎの二点をあげておられます。 ④第一点は、祭祀遺跡である。外宮だけでなく内宮の神域からも滑石製臼 うす玉 だまが大量に出土しており、これらは五世紀代に盛行した祭祀遺物であるから、社殿の有無はべつとしても、五世紀代に内宮もしくはその前身の太陽神祭場がすでに存在していたという、有力な証拠となる。 ⑤第二点は、内宮の御神体を納める「御船代みふなしろ」の形態である。「御船代」の形態は古墳時代前・中期に盛行した〈舟形ふながた石棺せっかん〉のかたちそっくりで、内宮の成立がまだ〈舟形石棺〉のおこなわれていた時代であったと推定できる。  こうした論拠は、一見説得力があるような印象を与えますが、すでに高森たかもり明勅あきのり氏らが、きびしく批判しておられるように、いずれも雄略天皇朝説を支える根拠とはなりません。  いま、おもに高森氏の批判によりながら、岡田説の問題点をかい摘つまんで紹介しておきます。  まず、①については、伊勢服属の説話が集中しているからといって、それをそのまま鎮座の時期と断定してしまうことは行き過ぎでしょう。雄略天皇紀を利用して議論を進めるなら、なぜそこに鎮座そのものの記事がないのか、鎮座記事がなくても鎮座の事実があったと主張できるのか、この点をあきらかにする必要があります。  つぎに、②ですが、『日本書紀』本文を頭から否定しながら、いっぽうでその異伝である「一書」を採用し、さらにそれを『太神宮諸雑事記』や『倭やまと姫ひめの命みこと世記せいき』などにみえる外宮鎮座(またはその託宣のあった)の「丁巳年」(雄略天皇二十一年〈四七七〉)に結びつけることは、およそ学問的なルールにはずれた立論です。  また、③にしても、斎宮記事は、雄略天皇朝以降も断続的にしか存在しないのであって、岡田氏の説はそのことには口を閉ざしています。  さらにいえば、岡田氏があげておられる考古資料に関しても、④は、内宮神域の祭祀遺物に五世紀代にまで溯るものが存在するという程度の証拠でしかありませんし、⑤に至っては、自説の有力な補強材料として持ち出しておられる〈舟形石棺〉が、じつは古墳時代前期、すなわち四世紀代に使用されたものであるという事実を確認するとき、私たちは、岡田説の脆さを感ぜずにはおれません。  高森氏は、岡田説を批判しつつ、 この説の基本的な問題点は、『書紀』本文の記事およびそれと共通する伝承をあたまから否定するいっぽうで、それ以外のものについては時代もくだり、史料性に疑問があるやうな場合でも、      9 自説の補強になりさうな記事をたやすく採用してしまふことだ。さらには補強材料でもないものを、類推や拡大解釈をかさねて「根拠」にまでひきあげてゐる。全体にフェアでない史料操作が目につく。かうしてくみたてられた意見には、とてもしたがふことはできない。 と、なかなか手厳しいのですが〔高森=一九九七〕、岡田氏の雄略天皇朝説は、所詮、その程度のものです。  垂仁天皇紀の記事をめぐって  さて、そこで見直さなくてはならないのが、伊勢神宮の創祀にかかわる『日本書紀』の記載です。すなわち、『日本書紀』崇神天皇六年条には、まず、崇神天皇の時代のこととして、つぎのような記述がみえています。 六年、百姓おほみたから流離さすらへ、或いは背叛そむくもの有り。其の勢、徳うつくしびを以ちて治め難し。是を以ちて、晨 つとに興 おき夕ゆふへに慯 おそり、罪を神祇に請 のみたまふ。是より先に、天照大神・倭やまとの大国おほくに魂 たま二神を並びに天皇の大殿おおとのの内に祭る。然るに其の神の勢みいきほいを畏 おそり、共に住みたまふこと安からず。故、天照大神を以ちて豊鍬入とよすきいり姫ひめの命みことに託つけ、倭やまとの笠縫邑かさぬひのむらに祭り、仍よりて磯し堅城かたきの神籬ひもろきを立つ〈神籬、此には比莽ひも呂ろ岐きと云ふ〉。(後略)  これによると、それまで「大殿の内」に祭られていた天照大神は、天皇がその神勢を畏れたために、皇居をでて笠縫邑(奈良県磯城郡田原本町や桜井市にあてる説があるが不明)に祀られるようになったといいます。田中卓氏などは、これを「邸内の氏神から地域神へといふ画期的な発展」ととらえておられますが〔田中=一九八四a〕、それはともかく、右の記事が天照大神の伊勢鎮座の発端を語る伝承でしょう。そして、これにつづいて垂仁天皇二十五年三月丙申(十日)条には、天照大神が倭姫命を御杖みつえ代 しろとし、鎮座地をもとめて宇陀の筱 ささ幡 はた・近江国・美濃国の各地を巡行し、やがて伊勢国に至って、五十鈴川のほとりに「斎宮」を立てたという、内宮鎮座の経緯がしるされています。 三月の丁 てい亥 がいの朔にして丙 へい申 しんに、天照大神を豊耜入姫とよすきいりびめの命みことより離ちまつり、倭やまと姫ひめの命みことに託けたまふ。爰 ここに倭姫命、大神を鎮 しずめ坐まさせむ処ところを求めて、菟う田だの筱 ささ幡 はたに詣 いたり、〈筱、此には佐佐と云ふ〉更に還 かへりて近江国に入り、東ひがしのかた美濃を廻 めぐり、伊勢国に到 いたる。時に天照大神倭姫命に誨 おしへて曰のたまはく、「是の神風の伊勢国は、則ち常世とこよの浪 なみの重浪しきなみ帰よする国なり。傍 かた国 くにの可怜うまし国 くになり。是の国に居をらむと欲 おもふ」とのたまふ。故 かれ、大神の教おしへに随まにまに、其の祠やしろを伊勢国に立て、因りて斎宮いつきのみやを五十い鈴川すずのかはの上へに興たてたまふ。是を磯いその宮 みやと謂いふ。則ち天照大神の始めて天より降 くだります処なり。〈一 あるに云 いはく、天皇てすめらみこと、倭姫命を以ちて御杖みつえとして、天照大神を貢奉たてまつりたまふ。是を以ちて、倭姫命、天照大神を以ちて磯城しきの厳橿いつかしの本 もとに鎮め坐せて祠る。然して後に、神の誨の随に、丁巳ていしの年 としの冬十月の甲子かっしを取りて、伊勢国の渡遇宮わたらひのみやに遷しまつる。(後略)〉                                                                 10   こうした天照大神の遷宮と鎮座については、延暦二十三年(八〇四)の『皇太神宮儀式帳』にもくわしい記載があります。また、同年にできた『等由気宮儀式帳』にも垂仁天皇の時代のこととして「度会の宇治の伊須々いすすの河上に大宮供 つかへ奉たてまつる」としるされています。  右の『日本書紀』の文章については、いろいろな解釈がおこなわれていますが、記事の内容を把握するうえで、ぜひとも確認しておかなければならない点がいくつかあります。  第一に、本文にでてくる「祠」と「斎宮」が、それぞれなにを指すのかという問題です。さきに紹介した菊地氏をはじめ、櫻井氏・田村氏などによれば、右の記事には「祠」と「斎宮」の書き分けがあり、「祠」は神宮のことを指すが、「斎宮」のほうは「神宮としての祠」ではなく、いわゆる斎宮の意味であるといいます。  しかしながら、本文をよく読めばわかるように、「斎宮」ということばは、下文では「是を磯宮と謂ふ」と言い換えられています。これがもし「斎王の忌みこもる宮」をいうのでしたら、それを「磯宮」と呼ぶのはちょっと無理があります。なぜかというと、「磯宮」の「磯」は「伊勢」の語源ともいわれ、「イソの宮」とは「イセの宮」にほかならないからです〔田中=一九八四b〕。  もっとも、『古語こご拾遺しゅうい』には、「仍よりて神の教おしへの随まにまに、其の祠を伊勢国の五十鈴の川上に立つ。因りて斎宮を興たてて、倭姫命をして居をらしむ」とあり、これを参考にすれば、「斎宮」は斎王の宮だということになります〔櫻井=一九九二〕。しかし、『古語拾遺』のこの部分は、『日本書紀』を下敷きに、『古語拾遺』の作者である齋部いんべの広 ひろ成 なりが自己流の解釈によって書き換えたもので、垂仁天皇二十五年条を理解するうえではあまり役に立ちません。  さて、つぎに問題となるのは、後段の「一云」に「然して後に、神の誨の随に、丁巳ていしの年 としの冬十月の甲子かっしを取りて、伊勢国の渡遇宮わたらひのみやに遷しまつる」とある部分です。これも、古来難解とされる箇所なのですが、この干支は、『太神宮諸雑事記』や『倭姫命世記』などにみえる外宮鎮座(またはその託宣のあった)の「丁巳年」に一致しますから、田中氏がいわれたように、外宮に関する年紀の所伝が誤って混入したとみるべきでしょう。  ちなみにいうと、さきに雄略天皇朝説のところで、岡田氏が、『太神宮諸雑事記』や『倭姫命世記』などにみえる外宮鎮座(またはその託宣のあった)の「丁巳年」をこの「一云」にみえる内宮鎮座の異伝の年紀と結びつけておられることを紹介しましたが、これは、じつは外宮鎮座をしるした所伝が、垂仁天皇紀に紛れ込んだとみる田中氏の説を安易に流用したものなのです。  ところで、こうした垂仁天皇紀の記述からどこまで史実が読み取れるかというのは、むつかしい問題なのですが、まったくの伝承として無視するのもどうでしょうか。記紀が語るところによれば、崇神・垂仁・景行天皇の時代は、天皇の勢力が伸長し、そ      11 れにともなって国力が大和のそとにむかっ て発展した時代であったといいます。崇神天皇朝の四 し道 どう将軍しょうぐんの派遣、垂仁天皇朝の出雲の神宝しんぽう検校けんぎょう、景行天皇朝の熊襲くまそ征伐・日本武尊の巡行、などは、それを反映した伝承ではないかと思われます。  しかも、垂仁・景行天皇の宮きゅう都と(垂仁天皇の「纏向珠城宮」、景行天皇の「纏向日代宮」)との関連が指摘される三輪山山麓の纏 まき向 むく遺跡や、あるいは崇神天皇陵に治定される行燈山あんどんやま古墳、おなじく景行天皇陵に治定される渋谷しぶたに向山むこうやま古墳(これらの古墳は、当時としては、全国で最大の前方後円墳である。なお、これらの古墳の築造時期については、異論もあるが、四世紀中葉を中心とする時期を考えておく)の偉容を考えるとき、ヤマト政権の躍進を語った記紀の伝承がまったく架空の造作であるとは考えられません〔荊木=一九九三〕。おなじように、附会の物語のようにいわれる天照大神の巡行譚じゅんこうたんも、武力によるヤマト政権の東国進出のプロセスを投影してものであると考えれば、これまた荒唐無稽こうとうむけいな物語では片付けられないような気がします。  有力な学説として一般にも流布している雄略天皇朝説や文武天皇二年説が(なお、ここでは取り上げなかったが、ほかにも天武天皇朝説・斉明天皇説などがある)たしかな根拠をもたない以上、垂仁天皇紀の所伝をもうすこし大切に扱う必要があるのではないでしょうか。  内宮鎮座の年代  ところで、右にのべましたように、内宮の鎮座を伝えた垂仁天皇紀の記載を尊重する立場に立つとすれば、つぎに、それが、実年代ではいつごろのことと推定することができるのかという問題が生じてまいります。  垂仁天皇紀にみえる内宮鎮座の伝承に重きをおく田中氏〔田中=一九八四a〕や高森氏〔高森=一九九七〕は、崇神・垂仁天皇の実年内 宮 正 殿                                                                 12  代を三世紀なかばから四世紀前半としておられますが、これは、『古事記』にみえる崇神天皇の崩年干支「戊つちのえ寅 とら」が二五八年ないしは三一八年にあてられることが大きな拠りどころとなっています(念のため附言するが、さきに引用した『日本書紀』の記事に附いている干支は、実際よりもかなり古いものに設定されているので、それを単純に西暦に換算してもあまり意味がない)。  よく知られていますように、『古事記』には、第十代崇神天皇以下、断続的ではありますが、十五人の天皇について、分注ぶんちゅうのかたちで、天皇の崩御ほうぎょした年を干支でしるしています。これを、われわれは「崩 ほう年 ねん干支かんし」とか「歿 ぼつ年 ねん干支かんし」とか呼んでいます。この崩年干支ついては、研究者のあいだでも評価のわかれるところでありますが、筆者は、崇神・成務・仲哀・応神天皇のものについては、かならずしも信頼がおけるとは思いません。  まず一つには、帝紀にそうしたものがしるされていたとしたならば、『日本書紀』がそれを採用していないのは不思議だし、干支を使わずに某月某日と数字で日をしるす略式の書法も落ち着きません。しかも、崩御の日を十五日とする例が全体の三分の一もあってわざとらしいことも、崩年干支を疑う理由になると思います。いったい、『古事記』は、年紀には無関心な書物であって、崩年干支はきわめて異例の記載なのです〔坂本=一九八一〕。  さて、つぎに問題となるのは、『古事記』にしるされた干支を西暦に換算した場合、崇神~応 おう神 じん天皇てんのう間の天皇の平均在位年数が大きくなりすぎる点です。この点については、推理統計学の方面から、安本やすもと美び典 てん氏のくわしい考察がありますが〔安本=一九七二〕、それによると、『古事記』の崩年干支にしたがって、第十六代仁徳天皇にんとくてんのうの崩年を四二七年、第三十一代の用 よう明天皇めいてんのうの崩年を五七八年とすれば、その間十五代百六十年で、一代の平均在位年数は、一〇・六七年となります。これは、五~八世紀の天皇一代の平均在位年数が一〇・八八年であることとよく合致しています。  ところが、第十代崇神天皇から第十五代応神天皇のあいだでは、崩年干支を採用すると、平均在位年数が大きくなりすぎます。すなわち、三一八年説をとって、崇神~応神天皇間を七十六年とすると、平均在位年数は一五・二〇年になり、二五八年説をとるに至っては、五代で百三十六年、その平均在位年数は二七・二年となってしまいます。これは、統計から得られる平均値とはあまりにもかけはなれた数値で、応神天皇以前の崩年干支については、やはり信頼しがたいとみるほかありません。  では、このように、『古事記』の崩年干支が、天皇の活躍期の実年代を考えるうえでそれほど有効でないとしたならば、いったいどのような方法によって、記紀の年代を推定していけばよいのでしょうか。 この点については、右にあげた古代の天皇の平均在位年数を利用する方法が考えらます〔荊木=一九九四〕。たとえば、『宋書そうじょ』にみえる倭国王武ぶは記紀にいう雄略天皇のことだと考えられていますが、この武は南朝の      13 宋に昇明二年(四七八)に使者を派遣しています。『宋書』順帝本紀には「倭国王武、使いを遣わして方物を献ず。武を以て『安東大将軍』となす」とあり、同書の倭国伝には「倭国王武、方物を献じ上表し、『使持節都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六国諸軍事安東大将軍倭王』を除せらる」とみえています。ここから、雄略天皇朝のある年として四七八年を押さえることが可能になり、これを基準に計算すると、雄略天皇より十代まえの垂仁天皇の活躍した時期については、 478年―(10.88年×10代)=約369年という数値(年紀)が得られます。したがって、垂仁天皇は、四世紀後半の西暦三七〇年前後に活躍した人物と推定でき、内宮鎮座の時期も、おおよそこのころとみることが可能です。  ところで、さきにも取り上げましたように、岡田精司氏は、雄略天皇朝説の補強材料として舟形石棺を持ち出し、それによって、ぎゃくに自説に矛盾を来す失態を演じました。内宮創祀の年代推定に考古資料を持ち出すのであれば、もっといい材料があります。 ご承知のかたも多いかと存じますが、内宮の正殿には棟持柱むなもちばしらという、特殊な柱が用いられています。これは、正殿の両端に屋根を支えるための柱で、やや社殿よりに傾斜して立てられているものです。これは、じつをいうと、高床式たかゆかしき建築物のおもかげを残したものであって、これを採用した伊勢神宮の建築物の起源は、思いのほか古いものであることが知られます〔渡邊=一九八六〕。棟持柱をもつ建物の遺構は、全国各地の弥生時代から古墳時代にかけての遺跡から多数発掘されています。たとえば、弥生時代中期後半の池上曽根遺蹟(大阪府)や後期の伊勢遺蹟(滋賀県)でみつかった独立棟持柱建物はよく知られていますが、これらを参考にすると、伊勢神宮の建築物の様式は、右にのべた内宮鎮座の推定年代に牴触ていしょくしないどころか、それよりもさらに古い起源をもつことが考えられるのです。  また、直接の考古資料ではありませんが、岡田おかだ荘司しょうじ氏のいう伊勢の内宮鎮座地と大和の纒向遺跡との位置関係も注目されます〔岡田荘司=一九九四〕。『皇太神宮儀式帳』によれば、天照大神は、纒向からみて東南東の三輪山(纒向からは、立春のころ、太陽が三輪山山頂高床式建築物イラスト                                                                 14  に姿をあらわすという)の近く(美和の御諸原)に一時祀られ、最後に伊勢の地に鎮まったといいますが、岡田氏は、内宮や倭姫命によって御贄の鮑を納めるように定められた国崎くざき(三重県鳥羽市)は、纒向(奈良県桜井市)の石塚古墳附近からみて、いずれもこの三輪山の延長線上に位置することを指摘しておられます。これがたんなる偶然でなければ、「纒向の地から三輪山に向かい、山頂に昇る太陽を拝して、その東方に太陽神(日神)をまつる聖地が求められた」ことになり、纒向に宮都のおかれた垂仁天皇の時代こそ、内宮の創祀にふさわしい時期だということができます。  こうした資料をどのように利用していくかは、今後の課題とする部分も多いのですが、私の個人的な印象をのべれば、内宮鎮座の時期も、現在通説として一般に滲透しんとうしている雄略天皇朝、あるいは文武天皇朝よりは、かなり古いような気がしてなりません。  結局のところ、内宮は、大和盆地の東南部を拠点としたヤマト政権が、東方へその勢力を伸長させていくなかで、その東の方角にあたる伊勢の地に大王家の祖先神である天照大神を祀ったのが、その原形だと考えられます。そして、それは、四世紀中葉から後半にかけてのある時期だったとみてよいのではないでしょうか。以上が、私の考えです。どうも長時間ご清聴、ありがとうございました。  〔附記〕  なお、伊勢神宮の成立に関する近年の研究動向については、西宮秀紀氏の二篇の論文〔西宮=一九九三・一九九七〕を参照されたい。  【本文中に引用した参考文献】 荊木美行「垂仁天皇被葬地伝承をめぐる問題」『史料』一二五、一九九三年(改題して、『『日本書紀』とその世界』燃焼社、一九九五年、所収)。 荊木美行「記紀における実年代の推定をめぐって『史料』一二九、一九九四年(改題して、同右書、所収)。 岡田精司「伊勢神宮の起源と度会氏=外宮と度会氏を中心に=」『日本史研究』四九、一九六〇年(『古代王権の祭祀と神話』塙書房、一九六〇年、所収)。 岡田精司「伊勢神宮の成立をめぐる問題点」、井上光貞・西嶋定生・甘粕健・武田幸男編『東アジア世界における日本古代史講座』第九巻、学生社、一九八二年(萩原龍夫編『民衆宗教叢書第一巻 伊勢信仰Ⅰ古代・中世』雄山閣出版、一九八五年、所収、『古代祭祀の史的研究』塙書房、一九九三年、所収)。 岡田荘司「伊勢信仰と遷宮の歴史」『伊勢神宮と日本の神々』、朝日新聞社、一九九四年。 川添登「伊勢神宮の創祀」『文学』四一=一二、一九七三年。 菊地康明「農耕儀礼と生活」『古代の地方史』5坂東編、朝倉書店、一九七七年。 坂本太郎『史書を読む』中央公論社、一九八一年(『坂本太郎著作集』第五巻、吉川弘文館、一九八九年、所収)。 櫻井勝之進『伊勢神宮の祖型と展開』国書刊行会、一九九二年。 高森明勅「伊勢神宮はいつ・なぜはじまつたのか」『歴史から見た日本文明』展転社、一九九七年。 田中卓『神宮の創祀と発展』神宮司庁、一九五九年(『田中卓著作集』第四巻、国書刊行会、一九八五年、所収)。 田中卓「神宮の創祀について」『神道宗教』一一五、一      15 九八四年a(同右書、所収)。 田中卓「〈内宮・文武天皇二年遷座説〉批判」『神道大系月報』四二、一九八四年b(同右書、所収)。 田村圓澄『伊勢神宮の成立』吉川弘文館、一九九七年。 筑紫申真『アマテラスの誕生』角川書店、一九六二年。 直木孝次郎「天照大神と伊勢神宮の起源」、藤直幹編『古代社会と宗教』若竹書房、一九五一年(『日本古代の氏族と天皇』塙書房、一九六四年、所収)。 西宮秀紀「伊勢神宮の成立をめぐって」、小林達雄・原秀三郎編『新版[日本の古代]⑦中部』、角川書店、一九九三年。 西宮秀紀「伊勢神宮の成立はいつか」、白石太一郎・吉村武彦編『新視点日本の歴史第二巻 古代編Ⅰ』、新人物往来社、一九九四年。 西宮秀紀「伊勢神宮成立論」、梅村喬編『古代王権と交流4 伊勢湾と古代の東海』、名著出版、一九九七年。 福山敏男「神宮正殿の成立の問題」『神道史学』三、一九五二年。 安本美典『卑弥呼の謎』講談社、一九七二年。 渡邊寛「神宮の建物」、皇學館大學編『神宮の式年遷宮』、皇學館大學出版部、一九八六年。

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