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東大寺領猪名荘とその絵図

つどい304号
大阪大学大学院文学研究科 准教授 市大樹先生
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一、はじめに
 「摂津職河辺郡猪名所地図」(以下、猪名荘絵図)と称される縦六四・五センチメートル、横一二三・五センチメートルの横長の絵図がある(図1)。かつて奈良県大和郡山市在住の水木直箭氏の所有であったが、現在は尼崎市教育委員会に所蔵されている。尼崎市域に古代から中世にかけて存在した、東大寺領猪名荘に関わる絵図である。天平勝宝八歳(七五六)の年紀をもつが、現在の地図は奈良時代の原本ではなく、十二世紀頃に写されたものだと考えられている。平安時代における猪名荘の新たな開発、それにともなう周辺諸勢力との軋轢を反映する描写が、この絵図には随所に認められる。
 二〇一三年二月九日、「奈良・平安時代の摂津―摂津職河辺郡猪名所地図からー」という題目で、猪名荘絵図を読み解きながら、古代における猪名荘の歩みをたどってみた。以下はその報告要旨である。巻末に掲げた文献に多く導かれての報告であったことを明記しておく。

二、東大寺領猪名荘の誕生
 天平勝宝八歳(七五六)五月二日、聖武太上天皇が死去した。同年五月二五日、天皇家によって、七つの荘園が東大寺に施入された。春日荘、飛?荘、清澄荘(以上、大和国)、水無瀬荘、猪名荘(以上、摂津国)、葛木寺東所、田村所(以上、平城京左京)である。これらは天皇家にゆかりのある土地であったと推定されている。
 猪名荘絵図の袖書(絵図の右端)には、荘園の内訳が、「宮宅所」八段二〇歩、「田地」四五町八段二〇五歩、「墾田」三七町六段二一二歩、「浜」二五〇町、「大小江」一一処であったと記されている。これとは別に「野」一〇〇町という記載もある。成立当初の猪名荘は「宮宅所」八段二〇歩、「田地」四五町八段二〇五歩(うち水田は二七町余りか)であったらしい。それ以外は、その後の開発などによる成果である。
また、猪名荘絵図の奥書(絵図の左端)には、摂津職・河辺郡の役人や、「聞聊田使」(聞御田使ヵ)という中央からの使者によって、記載内容を証明する署名が記載されている。写しということもあって、署名部分には誤写が散見する。
 猪名荘絵図の本体には、方眼線が引かれ、土地の様子が描かれている。方眼線は古代の地割である条里を示している。条里は一町(約一〇九メートル)間隔の地割で、その一マスが一坪にあたる。坪は縦横六ずつの計三六で里を構成した。それぞれのマスに書かれた「一」から「卅六」までの番号が坪数である。三六坪からなる里は「○条○里」と数えた。
この絵図には「一条一(八)里」、「一条九里」、「一条十里」、「二条九里」、「三(二)条十里」、「三条九里」、「二(三)条十里」、「三条十一里」、「四条十九里」、「四条廿里」、「四条廿一里」の文字が確かめられる。( )内が正しい数字であり、写しのため誤写が多い。
 絵図で一際目立つのが、二本の墨線からなる曲線である。左右の一番外側の線沿いに「東外提(堤)百六十五丈」、「西外堤長三百五十丈」と注記されていることなどから、堤防を表現したことがわかる(一部は道路ないし溝の可能性もある)。その内側には「小浜田」「入江田」「塩垂田」という名称の田がみられ、元来は海が入り込んでいたことがわかる。何度も堤防を築いて干拓をおこない、耕地を広げていったのである。こうした海水の侵入を防ぐための堤防を「塩堤」と呼ぶ。塩堤は内側から外側に向かって大きく三段階にわたって築かれた。細部については異説もあるが、概ね図2のよ
うに推定されている。
 坪内に書かれた文字は、①坪番号+小字地名的名称+面積+田品、②坪番号+面積、③坪番号のみ、④記載なし、の大きく四種類に分類できる。ごく大雑把にいえば、①は第一堤防内で「田地」にあたり、②は第一堤防と第二堤防の間で「墾田」にあたり、③は第二堤防と第三堤防の間で「野」にあたり、④は「浜」「江」にあたるようである。この絵図は十二世紀頃の写しであると述べたが、そこにいたるまでの開発の痕跡が記録されているのである。当初の猪名荘の中心地が、二条九里二十九坪にある「宮宅地」である。「宮宅」はミヤケであるが、この場合は荘園の管理施設である「荘所」とほぼ同義とみてよかろう。一九九七年、JR尼崎駅北側の再開発にともなう発掘調査が実施された。場所は「潮江字東大寺」で、まさに猪名荘絵図の「宮宅地」に他ならない。古墳時代から中世にいたる遺構が検出された。図3は奈良時代から鎌倉時代にいたる遺構変遷図で、荘所の一部と考えられる。奈良時代の後期の「西庄」(西事務所)と書かれた土師器の皿も出土している。ここを拠点にして猪名荘の開発が進められていったのである。

三、猪名荘の発展と周辺勢力との摩擦
 施入当初の猪名荘の田地は、第一堤防で囲まれた二七町余りに過ぎなかったと考えられる。しかし干拓をおこなって開発を進めていった結果、天暦四年(九五〇)十一月二十日の東大寺封戸庄園并寺用帳に「庄田」八五町一段三四二歩、長徳四年(九九八)東大寺領目録に「庄田」八五町一段三四三歩、「野地」一〇〇町、「浜」二五〇町と記録されるまでになる。
 その間の承和十四年(八四七)には淳和院との間に土地相論もおきている。淳和天皇は天長七年(八三〇)に河辺郡で勅旨田の開発をおこなっており、猪名荘に隣接する地も開墾されたことが原因と考えられる。この相論を解決するために、郡司や刀禰らが堤防の由来や実状などの調査をおこなっているが、相論は少なくとも斉衡二年(八五五)まで持ち越された。
 延喜二年(九〇二)には荘園整理令が出され、摂津国司は「庄田」八五町余りの官物だけしか免除しなくなった。以後、東大寺は摂津国司の代替わりごとに「免判」(免除の国符・庁宣)の申請をすることになる。
 永延元年(九八七)頃、東大寺は長洲浜に渚司・刀禰を置き、住人らから「在家地子」(住人の屋敷にかかる地子)を徴発していた。しかし在家地子は比較的軽微な負担で済み、長洲浜の住人は漁業・海運・交易などの活動を比較的自由に展開できた。
 ところが、平安京にあった検非違使が長洲浜の住人に対して雑役(検非違使庁役)をかけてくるようになる。長洲浜の一帯は神崎川の河口にあたる。平安時代の初頭におこなわれた淀川と三国川(神崎川)を江口付近でつなぐ工事がおこなわれた結果、神崎川の河口は平安京への出入り口となり、検非違使庁が進出してきたのである。
 そこで長洲浜の住人らは検非違使庁役を免れるために、みずから権門勢家の「散所」となっていく。十一世紀初頭に小一条院敦明親王の散所となり、式部卿宮敦貞親王、関白藤原教通、小野皇太宮藤原歓子へと受け継がれた。そして応徳元年(一〇八四)八月、皇太宮職領長洲散所は、鴨社(京都の下鴨神社)領である山城国愛宕郡来栖郷にあった田地七町八段二九〇歩と交換され、鴨社領長洲御厨が誕生する。
 長洲御厨が成立した当初は、鴨社の私的な御厨であり、供祭人も根本住人三八人、在家二〇宇にすぎなかったが、寛治三年(一〇八九)、白河上皇が供祭人に対して検非違使庁役や国衙などの課役を免除する特権を与えると、近隣から多数の来住があり、元永元年(一一一八)には神人三〇〇人、間人二〇〇人、浜在家数百へと激増する。浜の開発も進み、長洲・大物・杭瀬の三箇所に分化するようになる。
 こうしたなか、長洲浜の支配をめぐって、東大寺と鴨社との間で対立が生じる。鴨社による支配は元来は供祭人・神人の人的支配だけであったが、土地を囲い込むことによって領域支配をも目指すようになる。寛治六年(一〇九二)、これを寺領への侵略とみなした東大寺は、長洲浜の領有権を主張して朝廷に訴え、以後長く相論が続くことになる。また、東大寺は鴨社だけではなく、摂津国衙との対立もあった。
 猪名荘絵図の南辺をみると、左から「大物浜」、「長洲浜」、「杭瀬浜」の文字が確認できる。奈良時代における施入当初、この一帯は海中であったが、その後の開発の結果、浜となった場所である。開発にともなって生じた各種の利権をめぐって、東大寺・鴨社・摂津国衙との間で訴訟が繰り返されることになる。東大寺は訴訟に勝つためにも、関係書類を整理し、自己の正当性を主張する必要があった。猪名荘絵図もそうした必要性から生み出されたのである。

《主要参考文献》
浅岡俊夫「東大寺領猪名庄の位置とミヤケ  開発」『地域史研究』三一―一、二〇〇一年
尼崎市教育委員会編『猪名庄遺跡』尼崎市  文化財調査報告第二八集、一九九九年
尼崎市立地域研究史料館『図説 尼崎の歴  史上巻』二〇〇七年
奥野中彦「摂津職河辺郡猪名所地図をめぐ  って」『地方史研究』一三七、一九七五年
鷺森浩幸「摂津職河辺郡猪名所地図」『日  本古代王家・寺領と荘園』塙書房、二  〇〇一年(初出一九九六年)
鷺森浩幸「猪名の王家所領と武庫水門」『大  手前大学史学研究所紀要』二、二〇〇  三年
戸田芳実「東大寺領猪名庄と長洲浜の発展」  『尼崎市史一』一九六六年
中村聡「猪名荘の成立と尼崎」『神戸・阪  神間の古代史』神戸新聞総合出版セン  ター、二〇一一年
渡辺久雄「東大寺領摂津国猪名庄の歴史地  理」『条里制の研究』創元社、一九六  五年

《図版の出典》
図1 『日本荘園絵図聚影 釈文編一 古代』三五
図2 『日本古代王家・寺領と荘園』図14
図3 『図説 尼崎の歴史 上巻』86頁



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