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天照大神と瀬織津姫-ホツマに登場する廣田・六甲山周辺と社寺・伝承との関連-

つどい303号
神話伝承研究家 大江幸久先生
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以下検索用テキスト文
はじめに
『ホツマツタエ』は江戸時代の写本が最古のものとして滋賀県高島市で発見されています。ヲシテ文字で記され、全編五七調で統一されています。神代の時代から景行天皇の御世、ヤマトタケの活躍までを内容としています。ホツマがふたたび世に出て四十数年経ちました。
 ここ数年、様々な方面からホツマへの関心が急速に高まりつつあります。数多くのホツマ・ホツマ関連の著作を出版しているホツマ研究家であり、画家でもある鳥居礼氏は、伊勢神宮からの依頼で数十点もの絵画を奉納しています。鳥居礼氏の絵画展には、今上天皇の実姉で伊勢神宮斎主である池田厚子様、秋篠宮様、高円宮様もご来臨されています。皇室の方々もホツマにご関心を持たれ始めているのではないでしょうか。

 ◇天照大神の遺言 瀬織津姫と廣田 
 ホツマに記された、天照大神の中宮ムカツ姫=瀬織津姫への遺言
 天照大神は自ら日の輪(太陽)にお帰りになる(崩御される)ことを決心され、諸臣、諸民を集めて、后の瀬織津姫に遺し法(のこしのり)をされました。
「私の亡き後、ヒロタ(現・廣田神社)に行ってワカ姫(生田神社祭神で天照大神の実の姉に当たる)のご神霊とともに余生を過ごし、女意心(イゴコロ)を守り全うしなさい。私も豊受大神神上がりのこの地(京丹後市峰山町久次)のマナイ(比沼麻奈為
神社)で猿田彦に穴を掘らせて罷(まか)ろうと思う。我は豊受大神と男(オセ)の道を守らん。これ伊勢(イモオセ=いせ)の道なり」と、のたまい、洞(ほら)を閉じさせました。

廣田・六甲山周辺実地調査
 六甲比女 向う姫 ムカツ姫 瀬織津姫
 ホツマによれば、瀬織津姫が天照大神の命に従って晩年にお過ごしされたのは摂津の国のヒロタ、現在の兵庫県西宮市とその
周辺です。その記述の通りならば、その後、ここで瀬織津姫は神上がられたことになります。瀬織津姫の奥都城(おくつき=御墓所)に最もふさわしい場所は六甲山中と思われます。
 ホツマに登場する瀬織津姫の別名は天照日に向う姫=ムカツ姫です。

◇ムコ、ムカツ
『武庫郡誌』にはムコの地名について考察されています。
 武庫「按ずるに、武庫は仮字のみ、記紀共に務古に作る。埋兵の故に、新に名付けたるに非ず。後世に至り、埋兵の造説あるを以て、称ずるならん。賀茂真淵の「武庫は原名向ふなり」と云ふ説に従ふべし。…
 又此名は、古書には務古とも、牟古とも書きたれば、武庫も仮字なるを字につきて説をなすは俗の業なり。椋のある地あれば、椋山などと云ひしか。
 又向つ(ムカツ)峰、向つ(ムカツ)國など古く言へり。此地海頭に差し出でたる地にして、難波より向はるる故、向ふと云ふか。
 之を按ずるに、武庫、原名向ふと云ふ事信ずべし。『日本書紀』に向津比賣(ムカツヒメ)とあるは、即ち武庫郡廣田の大神なり。

◇隠される瀬織津姫の御名 
 向うヒメ・ムカツ姫由来の ムコ・ムカツと、天照大神荒御魂の関係がここ廣田の地で事実上抹消されたことが、伊勢の地に次ぐこの場所の重要性がわからなくなってしまった要因の一つです。
 六甲の名前を冠した六甲山(むこやま)神社(石の宝殿)と六甲比命大善神社=六甲比女(ロッコウヒメ・ムコ姫)神社が、廣田神社と同一の祭神であるらしいことが長らく不明となっていました。この六甲比女神社と六甲山神社の二つの神社名は廣田神社主祭神、撞賢木厳之魂天疎向津媛と深く関連しています。
『日本書紀』に記された天照大神荒御魂、神功皇后の段「我が荒魂は皇后に近づく可からず。まさに御心広田国に居らしむべし」は意味不明な表現です。これには記紀成立以前、男神天照大神と並祭されていたと思われる瀬織津姫を宮中祭祀から分離・抹消するための意図があったのではないでしょうか。 

 ◇神仏習合で祭神名を変更されていく瀬織津姫
 天照大神を毘沙門天として祀った最初の人物が聖徳太子であったと思われます。大
阪市の四天王寺は鳥居のあるお寺で、神仏習合の形を色濃く残しています。伊勢遥拝石まであります。四天王寺では天照大神・瀬織津姫を毘沙門天・吉祥天として祀ったものと、推測します。
 以後、天照大神は、毘沙門天のほかには大日如来へ変容して祀られ、瀬織津姫は吉祥天、弁財天、不動明王(=天照大神の本地である大日如来と一体の化身)、十一面観音、聖観音等へと変えられていきました。


◇廣田神社 西宮市大社町
 西宮の平野一帯だけでなく、六甲山全体がかつての廣田神社の社領でした。(西宮神社編『西宮神社』53ページ)廣田神社の主祭神は天照大神荒御魂、またの御名は撞賢木厳之魂天疎向津媛ツキサカキイズノミタマアマサガルムカツヒメです。
 天照大神荒御魂は伊勢神宮内宮の荒祭宮祭神です。そのまたの名は『神道五部書』によると、瀬織津姫です。神宮では荒祭宮は内宮正宮と同格として位置づけられています。荒祭宮での祭祀は内宮御正宮と全く同じレベルです。毎年五月と十月、内宮の御正宮と荒祭宮に和妙(にぎたえ・絹織物)・荒妙(あらたえ・麻織物)の神御衣(かんみそ)を奉る祭りである神御衣祭は内宮正宮と荒祭宮のみ実施されます。
 ウィキペディア「荒祭宮」には「皇大神宮に準じた祭事が行なわれ、神饌の種類や数量は正宮とほぼ同等である。祈年祭、月次祭、神嘗祭、新嘗祭の諸祭には皇室からの幣帛(へいはく)があり、皇室の勅使は
正宮に続き、内宮別宮のうち荒祭宮のみに参行する。」とあります。 
 西宮の地名由来である廣田神社はきわめて格の高い神社で、戦前は官幣大社でした。西宮の地名は、花山天皇を祖とする神祇伯白川家が廣田神社を「西宮」と呼び、廣田神社への参拝を「西宮参拝」「西宮下向」と称したことに由来しています。 

◇六甲山弁財天は瀬織津姫
・役行者と天照大神・瀬織津姫=弁財天

 役行者は奈良県御所市の吉祥草寺にて生誕しました。この真東に伊勢神宮内宮があり、そのまた東に伊勢神宮奥ノ院といわれる朝熊山金剛証寺が位置しますが、そこには空海作の男神天照大神像=雨宝童子(うほうどうじ)が鎮座しています。また、生誕地の真北に、毘沙門天、吉祥天、善膩師童子(ぜんにしどうじ)を祀る鞍馬寺が位置します。
 役行者も神仏習合を推進した立役者でしたが、渡来系の意図とは異なり、真に日本の神を仏教的に守ろうとしました。
 役行者=役小角(えんのおづぬ)は甲山・六甲山で修業し、この地で弁財天を感得しました。日本最古の弁財天を祀る箕面の瀧安寺も奈良の天河弁財天も役行者が開基に関わる寺院です。同じく役行者が開基した天河弁財天神社が江戸時代の一七一二年、代官所に出した「願書」に「生身天女の御鎮座天照姫とも奉崇して、今伊勢国五十鈴之川上に鎮り座す天照大神別体不二之御神と申し伝え」とあるように、役行者は弁財天を瀬織津姫の本地として祀ったのです。弁財天が宗像三女神、中でも特に市杵嶋姫とされるようになったのは、神仏分離の際、つまり明治以降の事なのです。
 
 六甲山一帯は廣田神社の領地であり、その領内へ寺院を建立する際、廣田神社主祭神を鎮守の宮とするのが当然のことですが、各寺院は廣田の祭神を別のお名前、仏教の教義でいう「本地」の名前に変更して、廣田神社の主祭神向津姫=瀬織津姫を祀っているのです。
 神戸市北区唐櫃(からと)の吉祥院多聞寺は、七世紀の創建の頃より毘沙門天が現れたという雲ヶ岩、心経岩、そして六甲比女神社を奥の院としています。その多聞寺と深い縁を持つ唐櫃の四鬼家は「昔、奈良県吉野郡天川村洞川(どろかわ)から修験者として、この唐櫃に移り住んだと言い伝えがあります。」唐櫃では、四鬼家は「役行者の子孫」といわれています。弁財天=瀬織津姫を感得し、全国の要所に弁財天を祀った役行者は、特にこの重要な場所を永続して守り抜くために、直々に自分の子孫を唐櫃に移住させたのでしょう。七世紀、役小角は流れに抗して、全国の神社から抹消されつつある瀬織津姫を守ろうとしたに違いありません。多聞寺の本尊は毘沙門天・吉祥天女ですが、実は仏教の中では珍しく家族の関係を持ちます。毘沙門天は真言密教教義に基づけば、大日如来の化身で、そのお妃、吉祥天(弁財天)も大日如来の化身とされますから、大日如来と不離一体の不動明王と同じ位置づけとなります。しかもその御子が善膩師童子という家族構成なのです。
 この御三体がそれぞれ天照大神・瀬織津姫・天忍穂耳命を示しているものと思います。また、これはあまり意識されていないものの、毘沙門天と弁財天は室町時代ごろより、七福神信仰としてさりげなく庶民の信仰の中に根付いています。

◇鷲林寺
 甲山山頂から真西に位置する鷲林寺は法道仙人開基、という話も伝わっていますが、九世紀に空海が真言宗の寺院として開基し直した可能性もあります。
 麁乱荒神(ソランコウジン)    
鷲林寺ホームページより筆者編集
「鷲林寺略縁起  
五十三代淳和天皇の勅願にて天長十年(八三三)空海によって開創された真言宗寺院。空海が廣田神社に宿泊時、夢枕に仙人が現れこの地を教示された。それに従い入山したところ、この地を支配するソランジンと呼ばれる神が大鷲に姿をかえ、口から火焔を吹き大師の入山を妨げた。空海は傍らの木を切り、湧き出る六甲山の清水にひたして加持をし、大鷲を桜の霊木に封じ込めた。その霊木で本尊、十一面観音を刻み、寺号を鷲林寺と名付けた。また、大鷲に化けたソランジンは麁乱荒神としてまつられた。
(麁(あらい)乱(みだ)れ=あらみたま=天照大神荒御魂を示すと思われる。)
「清荒神 宇多天皇勅願寺
 宝塚市に真言三宝宗大本山 清澄寺がある。清荒神として広く信仰を集めている寺院であるが、清荒神は鷲林寺の麁乱荒神を移したものであるということが二つの書物に記録されている。」

◇六甲山弁財天と空海・真名井御前
 空海とともに廣田の神奈備山=甲山に神呪寺(かんのうじ)を開基した真名井御前も弁財天=瀬織津姫と出会っていることが『元亨釈書』(げんこうしゃくしょ)に記されています。
 真名井御前、淳和天皇妃「がこの地に来られた時、野には百花咲き乱れ、また地中から五色の雲気が出て、(六甲)山頂に登れば、紫雲が峯にたなびいてきた。実際に女神が現れていわく、ここは摩尼の峯といい、われ昔この地に宝を埋めた所であるから、よろしく仏宇を立てよと告げて姿を消した。これが広田明神であったという。妃は大いに喜んで一宇を建てようとしたところ、付近の官吏、富民等が財を傾け授けたので、
三十三日で完成した。」(神呪寺発行『神呪寺史』)
この地に現れた弁財天は廣田の主祭神、向津媛=瀬織津姫に相違ありません。
・目神山の広田神影向岩 西宮市目神山 
『神呪寺史』によれば、瀬織津姫と役行者
がご対面された場所と伝えられています。目神山は女神=瀬織津姫が由来の山と言えそうです。

◇西宮神社 西宮市社家町
 廣田神社と西宮神社の関係 
 かつて西宮神社は廣田(山の宮)に対する浜南宮でした。神功皇后の時代に廣田、住吉、生田、長田へと六甲山南麓に分祀されたのかもしれません。
・西宮神社境内の南端には北向きの南宮神社が鎮座していますが、祭神は豊玉姫命・市杵嶋姫命(弁財天)、大山咋神、葉山姫命です。ここに廣田神社の神宝である剣珠が長らく安置されていました。このことから南宮神社の元の祭神は広田神社主祭神ではないか、と考えられます。しかも重要なのは廣田神社の神宝が境外末社に祀られていた、ということです。現西宮神社の境内地そのものが廣田神社の浜南宮であった、大きな証拠といえます。「宝の剣珠は『日本書紀』仲哀天皇二年の条にある、神功皇后が豊浦津(関門海峡)の海中から得た如意珠とされる」

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