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考古学からみた4・5世紀のヤマト政権と吉備(後篇その2)

つどい302号
元福井県埋蔵文化財調査センター所長 中司照世先生
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はじめに 前回、吉備において筆者がとりわけ関心を抱く若干の問題について論究した。今回は、続いてその他二、三の問題について、論じることとしたい。 二、吉備における首長層の実態 (一)吉備における大首長墳の分布と変遷 首長墳の分別 先に、吉備の中枢域における、主要首長墳の分布を示した〔『つどい』第三〇〇号、図1〕。それでは、当地方における首長層の動静は、どのように考えることができるのであろうか。 全国各地の首長墳は、その分布実態等からみて、単一地域の首長の墓である小首長墳と、律令制下の複数の郡あるいは国にも相当する広域に及び、膝下に複数の小首長を擁するなど、より上位の首長の墓である大首長墳とに分けうる。前者の墳丘長(径)はおおむね二三、四~六〇メートル前後を測り、後者はおおむね六三、四~一三〇メートル前後を測るというのが、筆者の複数の地方における実査の帰結である。  こうした傾向をもとに、次に吉備の政治体制やその変遷について簡略に述べる。説明にあたっては、既存の主要首長墳の編年に関して、時期のみならず墳形や規模を明示し、理解が容易な正岡睦夫氏の案(図1)に依りながら、行うこととする(注1)。 備前における大首長墳 まず、後に備前国域に相当する地方について説明する。 この地方では、浦間茶臼山・操山一〇九 号・網浜茶臼山・(宍甘)山王山・花光寺山・牛窓天神山・湊茶臼山・神宮寺山・鶴山丸山・金蔵山・黒島(一号)・築山・両宮山・朱千駄・鹿歩山など一五基の古墳が、四・五世紀の大首長墳にあたろう。そのほか、一本松古墳もその規模(六五メートル)からみる限り該当するが、報告では外部設備に欠落があり、躊躇せざるを得ない。  それ以外にも、図示こそされていないが、五世紀後半の造営とされる西もり山(森山)古墳も、墳形・規模(八五メートルの帆立貝形古墳)や周濠・段築・葺石・埴輪など外部諸設備の兼備から見る限り、大首長墳とするのがふさわしい。 これらを概観すると、一般の律令国域に相当する地方の歴代大首長墳の基数を大きく凌いでおり、その統治領域や政治体制の推定に困難が伴う。分析を一層複雑にしているのが、浦間茶臼山(一三八メートル。以下数値のみを列挙する)・湊茶臼山(一五〇)・神宮寺山(一五〇)・金蔵山(一六五)・両宮山(二〇六)など、通有の大首長墳の規模より一層大規模な古墳の混在である。併せて、浦間茶臼山・操山一〇九号・網浜茶臼山(?)・神宮寺山・金蔵山・黒島(一号)・両宮山の各古墳においては、墳丘が三段築成である点も見逃しがたい。なお、改変が激しいが、西もり山(森山)古墳も墳丘は三段築成の感が強い。 こうした、大首長墳の中でも、より大きな墳丘規模を誇り、一層優勢な突出した存在を確認しうる状況は、どのように考えうるのだろうか。そこで、他の地方の古墳のあり方や政治体制を参考にすれば、たとえ一時的にであれ、大・小の首長層の中間に、いくつかの小首長を束ね、同時に大首長の膝下にも位置する、「中首長」というべき首長の並立を想定することができる。つまり、吉備でも、重層的な政治体制の存立していた可能性を検討する余地があろう。 わけても、瀬戸内海を臨む湾岸域に立地し、地理的に他地域とは隔絶された点と、牛窓天神山・黒島(一号)・鹿歩山というように、歴代大型古墳の継続的造営からみて、牛窓湾岸の首長墳は、同じ備前内とはいえ、他とは異なる側面を看取しうる大首長系譜と位置づけるのが妥当であろう。なお、これらを吉備海直一族の歴代の墓とする吉田説は前に紹介した(注2)。  備中における大首長墳 次に、後に備中国に相当する地方について説明する。 この地方では、中山茶臼山・車山・小盛山・三笠山・佐古田堂山・造山・作山・千足・小造山・宿寺山など一〇基の古墳が、四・五世紀の大首長墳にあたろう。なお、小盛山古墳は造出付円墳とされているが、帆立貝形前方後円墳とみなすべきであろう(現行の造出付円墳と帆立貝形前方後円墳との分類基準には、問題があることは、折に触れ言及した)。 備前と同様な、通有の大首長墳の規模を超える例に、車山(一三五)・佐古田堂山(一五〇)・造山(三六〇)・作山(二八六)の各古墳が存在する。併せて、車山・小盛山・造山・作山・千足・小造山の各古墳が三段築成である点も見逃しがたい。造山・作山ならびに両宮山の超大型古墳は、いずれか一地方にとどまらず、吉備全域への支配体制を確立したものとみなす説は、もっともな見解と思える。 (二)吉備の大首長墳にみる特異性 吉備における三段築成の古墳の存在 備前・備中の首長墳の分布やその変遷からみて、両地方ともそれぞれに大首長が存在しながら、同時に、重層的な政治体制が存立していた可能性を指摘した。牛窓湾岸の歴代首長墳や計三基を数える超大型古墳の点在は、その端的な例と言える。 ところで、前節で列挙したように、通有の大首長墳やあるいはその規模を超える例以外に、それより小規模な例を含む多くの首長墳に、三段築成の存在を確認しうることは軽視しがたい。既述のように、造山・作山両古墳には、応神妃となった兄媛(えひめ)の兄である御友別(みともわけ)やその子の稲速別(いなはやわけ)らの墓ではないか、とする門脇説がある。また、黒島 (一号)古墳の存在が、『記』の仁徳天皇段に伝える黒日賣(くろひめ)伝承と符合することから、その墓である可能性を述べた。  以前から筆者は、崇神朝のみならず、孝元・開化両朝まで含めて、『記』『紀』に記載されている皇別氏族と、各地に散在する三段築成の古墳との整合例を、散見しうることを指摘してきた。また、伊賀・伊勢・近江・若狭・丹波など、畿内外周域における三段築成の古墳の検証例についても報告した〔中司二〇〇九「五世紀のヤマト政権と若狭『つどい』第二五四号」〕。 吉備における総数一三、四基という三段築成の古墳の数は、畿外としては異例の多さを誇る。こうした他地方との比較にもとづく吉備の特徴は、この地の豪族と大王家との関係の濃密さを窺わせるに十分である。 古代史学界の大勢が、その始祖伝承を初めとして、『記』『紀』に頻繁に登場する吉備氏の諸記述に関して、その多くを単なる伝承や後代の創作に過ぎないとして、いたずらに退けてきた研究姿勢に、再考を迫るものではなかろうか(注3)。 特殊器台形埴輪の分布とその意義 ところで、吉備の古墳時代に論究するさい、注目されるものに、やはり同地方に特徴的で、かつ大和にも関連が深い品である特殊器台形埴輪の存在がある(図3)。  既存の研究によれば、それらの分布は大きく三群に分けうる。まず一つの群は、主に吉備に分布するA群である。次の一群は、淀川流域とも称せる地方に分布するB群である。残る一群は、大和盆地東南部に集中するC群である。 A群の大部分は、吉備に集中する。逐一の解説は省略するが、その一端は播磨にも及んでいる。同地方西部には、『記』等の記載からも、吉備氏の一族が広く蟠踞していたことが説かれている。すなわち、孝霊天皇段では、皇子である大吉備津日子(おおきびつひこ)命と若建吉備津日子(わかたけきびつひこ)命とが針間(はりま)を道の口として、加古川説のある氷河(ひかわ)の前に忌瓮(いわいべ)をすえて、吉備を平定したと伝える。また、景行天皇段では、吉備臣等の祖、若建吉備津日子の女、針間の伊那毗能大郎女(いなびのおおいらつめ)と、その妹の伊那毗能若郎女(いなびのわかいらつめ)とが景行妃となったことを伝える。後者について、『播磨国風土記』の印南別嬢の日岡墓(褶墓(ひれはか))にかかる話も、関連する伝承である(注4)。 B群は三か所の点在である。兵庫県尼崎市西川遺跡出土品は、工事に伴う包含層からの採集であって、近隣への古墳の存在が推定されている。また、滋賀県大津市壺笠山古墳は、現在円墳状(径約四八メートル)を呈する。後世の砦構築による改変のためか、本来の墳丘の形状を特定しがたい。残る一基は、京都府向日市元稲荷古墳(墳丘長九四メートルの前方後方墳)である。後方部のみではあるが、三段築成を呈するのは、注目に値する。 大和盆地東南部のC群については、改めて詳細に説明する必要はあるまい。崇神陵古墳に先行する箸墓・西殿塚両古墳を初め、天皇陵を中心とする一群にほかならない。             こうした埴輪分布を概観すると、吉備・山城ほか・大和のそれぞれの群において、いずれも三段築成の古墳の混在が明白である。つまり、これらの遺物相互の分布の背景には、天皇(大王)家一族と何らかの関係がたどれるのではないか、との疑いが捨てがたい。  論じてここに至れば、これまで多くの論者が創作に過ぎないとしてきた『記』『紀』の多くの該当箇所に関しても、改めての再精査が不可欠と言えよう。吉備氏伝承に関する再検討の必要性は前記したが、他氏を含め、崇神朝のみならず孝元・開化両朝期の記載についても、遺跡の実態との符合例が少なくない。吉備氏関連の始祖伝承にかかる諸事象からしても、再検討は孝霊朝にまで遡って対象とされるべきと思える。 四道将軍と吉備津彦 吉備に関する文献上の記載と考古学的事象との整合性の有無を究明する場合、当地に由来の深い吉備津彦の存否は避けがたい課題といえよう。  『紀』の崇神紀十年条では、いわゆる「四道将軍」として、「大彦命を北陸に、その子武渟川別(たけぬなかわわけ)を東海に、丹波道主(たんばみちぬし)命を丹波に、また、吉備津彦を西道に遣わす」と記されている。 この四道将軍伝承に関連して、塚口義信氏は奈良県桜井市の桜井茶臼山・メスリ山両古墳を取り上げ、それらを大王陵とする異説を退けながら、「オホビコ・タケヌナカワワケの名で語られる被葬者像」を想定している〔塚口一九九七「桜井市茶臼山古墳・メスリ山古墳の被葬者について」『日本書紀研究』第二十一冊〕。 両古墳に関しては、現在もなお大王陵とする説が散見される。また、四道将軍の派遣についても、歴史的事実などではなく、創作とする否定説も少なくない。くわえて、埼玉県行田市稲荷山古墳出土鉄剣の銘文の解読後も、依然として大彦命の実在自体を疑問視する異見さえある。 まず、両古墳が大王陵に該当するか否かという問題から言及すると、ともに超大型の墳丘とはいえ、後円部の築成のみが三段であることや、外部諸設備の整備度が大王陵との対比からする限り劣ることからしても、大王陵説には無理がある。やはり、充実した副葬品を備え、それらに顕著な特異性をも併せ勘案すれば、塚口説にこそ説得力があろう(注5)。 大彦命については、周知のように大王家に出自を有する記載がある。しかも、『紀』に伝える後裔氏族の過半は、伝承上の北進ルート沿線への封建が推定される(注6)。 そうした現象と、畿外では稀な存在に過ぎない三段築成の古墳の分布とは、まさに合致している〔中司前掲文献〕。 他方、紙幅の制約や論の展開上詳述の余地がないが、丹波に遣わされたという丹波道主命についても、京都府宮津市に鎮座する籠(この)神社の海部氏系図〔金久与市一九九九『古代海部氏の系図』学生社〕等を参考にすれば、同府京丹後市網野銚子山古墳(墳丘長約一九八メートルの大型前方後円墳)の被葬者と関連する疑いがきわめて濃い。 そうであれば、『紀』で残る一人の将軍となる吉備津彦についても、その存在を無碍に否定するのは、説得力を欠く主張と言わざるをえない。この吉備津彦に関しては、崇神紀六十年条に、自分の留守中に出雲の神宝を貢上したことに怒って弟を殺害した、 その兄である出雲振根(いずものふるね)を征伐するため、武渟川別とともに出雲に派遣されたことが伝えられている(注7)。 参考までに、筆者は、島根県古代文化センターの調査で、同県下における分布調査の精度がきわめて高いにもかかわらず、他の多くの地方とは異なり、四・五世紀の出雲の大首長墳の存否が未だ判明しないことから、早い時期に何らかの大きな政治的変動が生じたのではないか、との疑念を抱くに至った〔中司二〇一一「古墳の比較検討から見た古代イズモの特質」『古代出雲の多面的交流の研究』〕。 文献上の記載や考古学的な事象とは異なるけれども、吉備津彦やその系統を祀る神社は、岡山県を中心に島根・鳥取から奈良・和歌山の各県にかけて、広く散在しているという。島根県の研究者である内田律雄氏は、吉備から出雲市にかけての斐伊川流域に、吉備津彦命を祭神とする神社が列をなしていて、その中間点ともいえる島根県雲南市に、同県下でも数少ない三角縁神獣鏡を副葬した、神原神社古墳が位置していることを紹介している(注8)。 それらがそのまま歴史事象を反映したものか否か、なお慎重な検討を要する。だが、あたかも吉備津彦らの北行ルートを伝えているかのようで、大変示唆的である。 おわりに 以上、吉備の首長層の動静とその背景について、一端ではあるが、簡略に論じた。 吉備のみに限らないが、現下の古墳時代の前~中期の研究においては、古代の文献上の記載との整合性の有無の検証例は、実に乏しい。特にその傾向は、雄略朝より前の段階において顕著である。その主たる要因として、文献史学において、この時期の伝承の多くは後代の創作と一蹴されてきたという、津田史学や唯物史観の強い影響を指摘せざるをえない。 今度、例示した神功皇后伝説に関しても、「四世紀末葉に日本が新羅を討ったことは、 確かに事実」としながらも、「神功皇后と武内宿禰との関係が、推古天皇と蘇我馬子との関係に似ている」などとして、伝説の成立を推古朝のころとする見解〔直木一九六四〕などは、まさにそうした代表例といえよう。 本稿で対象とした吉備はもちろん、神功皇后伝承に関しても、少なくない整合例から俯瞰する限り、各伝承の基幹をなす部分には、その多寡はともかく、史実が伝えられているのではないか、というのが実証主義的な研究を目指す筆者の結論である。 (今回も、引用文献は最小限にとどめざるをえなかった。ご了解をえたい) 注 1 正岡氏の本図が公表された後、前期古墳の編年は比定時期の遡及が著しい。 そこで、図の改変にあたっては、そうした面も考慮している。 2 なお、『先代旧事本紀』では、「亦名吉備津彦命。吉備臣等祖」とする「彦五十狭芹彦(ひこいさせりひこ)命」に続き、「彦狭嶋(ひこさしま)命」について「海直等祖」との記述があり、その点興味深い。 3 吉備氏に関する論考では、藤間生大・岩本次郎両氏の説の引用が多い。ただ、『記』『紀』等諸記述の細部の異同等に着目し、系譜の成立を推古朝、あるいは『記』『紀』完成の少し前と推定している。こうしたごく一部の相違でもって、全体を後の創出としたり、推論に推論を重ねる叙述の方法には説得力を認めがたい。藤間生大一九五八『やまと・たける』角川書店。岩本次郎一九六〇「古代吉備氏に関する一考察」『ヒストリア』第二六号。  4 同地の加古川市日岡古墳群内では、南大塚・西大塚と称される二基の大型前方後円墳で、三段築成を呈す存在を確認しうる。その点、伝承との何らかの関連性を示唆する感がある。 5 異説の多くは、わが国の広域に及ぶ遺跡実態の理解を誤るか、先行する文献上の記載を、後出の類似した事柄にかかる創作とするなど、恣意的な側面が否定しがたい。 6 コシに至る道筋では伊賀臣・阿閉臣  ・膳臣などの蟠踞が合致しよう。それ以外の後裔氏族には、九州の筑紫国造も含まれているが、『先代旧事本紀』では、「筑志国造」について「安倍臣同祖、大彦命五世孫」と記している。 福岡県八女・筑後両市にまたがる八女古墳群には、筑紫君磐井の墓とみなすことで異論を見ない岩戸山古墳が位置する。同古墳群の西端部には、岩戸山古墳より一世紀ばかり先行し、やはり大型の石人山古墳が所在する。同じ大彦命の後裔伝承につらなる他地方の古墳群の初出の古墳と並行する時期の造営であって、しかも墳丘の築成も三段をなしている。『先代旧事本紀』の記載とも併せて、まことに興味深い事例といえよう。 7 『出雲風土記』によれば、神(かむ)門(との)郡(こおり)主政として「吉備部臣(きびべのおみ)」が存在するが、岩本氏は四・五世紀の交の吉備氏の出雲地方進出を物語る、としている〔注3岩本氏文献〕。 8 なお内田氏は、神宝献上の説話によったものか、銅鏡配布説とは逆の収奪を想定するに至っている。ただたとえば、近畿から東国への関門とも言える箇所に立地する、岐阜県大垣市長塚古墳では、総数七六個という多量の石釧の出土があるが、現存品を観察する限り、数グループの同一工房品群に分けることが可能である。この種の腕輪形石製品は、三角縁神獣鏡と同様な配布説にかかる品であるだけに、こうした傾向は軽視しがたいものといえよう。 主要参考文献  宇垣匡雅一九八四「特殊器台形埴輪に関する若干の考察」『考古学研究』第三一 巻第三号。  門脇禎二一九九二『吉備の古代史』日本放送出版協会。 門脇禎二・直木孝次郎ほか一九九二『「古事記」と「日本書紀」の謎』学生社。 直木孝次郎一九六四『日本古代の氏族と天皇』塙書房。 正岡睦夫一九九五「吉備」『全国古墳編年集成』雄山閣出版。 吉田 晶一九九五『吉備古代史の展開』       塙書房。

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