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九州島における4・5世紀の一様相(1) -肥前(1)-

つどい301号
北九州芸術文化振興財団 学芸員 宇野愼敏先生

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一、はじめに
 九州島における四・五世紀の変化と画期ついては、二〇一二年六月の第一五回九州前方後円墳研究会が「沖ノ島祭祀と九州諸勢力の対外交渉」をテーマとして開催された。ここで九州各地域ならびに集落や首長墓、鏡、武器、甲冑など各視点からのアプローチが行われ、四世紀後半以降の沖ノ島の国家祭祀の開始以来、九州諸勢力の対外交渉を通じて鏡、武器・甲冑、木製品などに同様の変化や画期が見られたことが明らかとなった。
 同研究会においては、土・日曜日の二日間にわたって発表・討論が行われ、これまでより一層のかなり突っ込んだ発表や討論が行われ、実り多い成果を得ることができた。
 今後こうして得た多くの成果をもとに、さらに細かく地域別に、また出土遺物別に詳細に見ていく必要性を感じました。
 今回本紙に執筆の機会を与えていただき、この機会に九州島における四・五世紀の変化と画期についてこれまでよりもさらに詳細に検討し、私見を述べさせていただき、多くの先学諸氏の方々に忌憚のないご批判をいただければと思う次第です。

二、四・五世紀の首長墓(図1・2)
 肥前西部、長崎県内には、前方後円墳は消滅したものを含めて現在のところ24基を数える。そのうち壱岐・対馬に所在するものが16基で、島原半島北沿岸部に2基、大村湾東沿岸部に4基、壱岐水道沿岸部に
2基が分布する。
 今回は壱岐水道沿岸部の2基の首長墓を中心に検討していきたい。
 この肥前最西北端地域には、笠(かさ)松(まつ)天(てん)神(じん)社(しゃ)古墳と岳(たけ)崎(ざき)古墳の2基の前方後円墳が営まれている。
笠松天神社古墳は、全長三四メートルで主軸はN‐四七度‐Wに振り、前方部を南東方向に向けている。後円部径約二〇メートルで、くびれ部がしまり、前方部端へややバチ形に開く。前方部端は小道で削平されているが、やや短い前方部である。後円部と前方部の比高差は約一メートルある。段築成は見られない。後円部高さ約二・五メートルである。
 主体部近辺には板石片が散乱し、竪穴式石槨もしくは箱式石棺の可能性がある。
 出土遺物は土師器片が数十片出土しているが、築造時期は断定し得ず、墳丘形態などから四世紀中~後半頃に比定される。
 岳崎古墳は、全長約五六メートルの前方後円墳である。主軸をN‐九六度‐Eに振り、前方部を西に向ける。後円部径約三三メートル、高さ六・五メートル、前方部は長さ、幅ともに約二五メートル、後円部との比高差約二メートルである。内部主体は不明である。埴輪はなく、葺石がみられる。段築成は見られず、形態などから五世紀初頭前後に比定される。
 先の首長墓の背景には、里(さと)田(だ)原(ばる)という東西約一キロメートル、南北約五〇〇メートルの小さな盆地があり、そこに里田原遺跡という縄文~弥生時代、古墳時代に至る集落跡がある。
 この遺跡からは、これまでのところ縄文時代晩期~弥生時代前・中期の土器や木製品が多量に出土している。古墳時代には前期の土器は、これまでのところ発見されていないが、五世紀前半頃の土器が出土している。
 この他周辺地域では、的山(あずち)大島という島に勝負(しょうぶ)田(た)古墳がある。墳丘形態は不明で、内部主体は箱式石棺と考えられる。出土遺物は直径一三・八センチメートルの内行花文鏡一面と硬玉製の丁字勾玉などが出土しているが、現在行方不明である。四世紀後半~末頃に比定される。
 平戸島の北端の平戸瀬戸側に田助墳墓群がある。10基以上の箱式石棺墓で、昭和三年発見の田助古墳から半肉彫式獣帯鏡、内行花文鏡片、勾玉、ガラス製小玉が数十個
出土している。その他5号石棺からはガラス製勾玉、3号石棺は滑石製勾玉、ガラス製小玉四一八個が出土している。本墳墓群は弥生時代終末期から古墳時代前期、四世紀頃に比定される。
 このように周辺地域の島々に中小首長層
が古墳を営んでおり、しかも中国製の鏡を副葬するなど、海上交易等による海を生業とする集団が存在していたことがわかる。

三、 四・五世紀に見る変化と画期と歴史的背景(図3)
 笠松天神社古墳は、年代を決める土器や埴輪が出土していないので、詳細な時期は決め難い。
しかし、くびれ部が締まり、バチ形に開く低い前方部から、時期がさかのぼる可能性もある。
 次の岳崎古墳は、全長約五六メートルと笠松天神社古墳より倍近く規模が大きくなり、墳丘
形態などから五世紀初頭前後に比定して大過ないであろう。
 その立地は、里田原遺跡の所在する盆地から、南側の一段高い台地上に築造された笠松天神社古墳は、里田原遺跡の縄文時代晩期から弥生時代前~中期、そして古墳時代と引き続き営まれている在地勢力を背景としていることは疑いない。
 次の岳崎古墳は、海を臨む台地上に立地し、しかも墳丘側面を海から展望することができるように築造されていることから、海に関わる被葬者を想定することができる。しかし内部主体や副葬品などが明らかではない以上、被葬者の性格を判断することは難しい。
 ただ、四世紀中~後半頃に在地の有力首長層が内陸の盆地を臨む台地上に首長墓を営んでいながら、五世紀初頭前後に海を臨む崖の上に前方後円墳を築いているということは、海に関わる生業を背景として新たに築かれたことを推測させる。
 このことは、玄界灘沿岸、壱岐水道を臨む沿岸部において、福岡市西区の鋤崎古墳、丸隈山古墳、唐津市の谷口古墳、伊万里市の杢路寺古墳などと同様に、四世紀後半~五世紀初頭前後における朝鮮半島との関わりを推察することができるのではないだろうか。
 墳丘規模は明らかではないが、在地中小首長層の墳墓と考えられる勝負田古墳や田助墳墓群などや、内部主体に箱式石棺を採用しながらも中国製の鏡を所有していることから、農耕を基盤とした在地中小首長層ではなく、海上交通など海に携わる中小首長層を想定させる。
 この四世紀後半~五世紀初頭前後は、古寺(こでら)墳墓群や堤(つつみ)当(とう)正(しょう)寺(じ)古墳にみるように、有明海沿岸部の筑後川流域や肥後の有力首長墓からも渡来系文物を副葬したり、初期横穴式石室を採用したりして、朝鮮半島との関わりが深い。これらの首長層たちも、有明海から東シナ海を北上して平戸瀬戸を通過し、壱岐水道を北上するコースをとる。そうした有明海沿岸部の首長層がひきいる船団を壱岐水道に先導する役割を荷ったのが、この肥前西部の首長層ではなかったろうか。
 笠松天神社古墳から岳崎古墳への飛躍は、こうした中北部九州諸勢力のヤマト政権ひきいる朝鮮半島出兵という大事業に関わったことによる飛躍ではなかっただろうか。

《参考文献》
長崎県教育委員会 一九九二 「県内古墳詳細分布調査報告書」 長崎県文化財調査報告書 第一〇六集
長崎県教育委員会 一九九七 『原始・古代の長崎県資料編Ⅱ』
長崎県教育委員会 一九九八 『原始・古代の長崎県通史編』


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