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考古学からみた4・5世紀のヤマト政権と吉備(後篇その1)

つどい300号
考古学からみた4・5世紀のヤマト政権と吉備(後篇その1)
元福井県埋蔵文化財調査センター所長 中司 照世先生

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はじめに
前篇においては、これまでの学界の潮流と一部の問題点について述べた。後篇では、吉備の中枢域をなす備前・備中両地方の首長層の動静について述べる。 
ただ、四・五世紀とはいえ、その動静全般を対象に論じるのは、紙幅の関係上いささか困難である。そこで、本稿では言及を吉備の古墳に関する若干の特徴的な点に限定することとしたい。また、考古学的な事例と『記』『紀』等文献上の記載とは、本来異なる分野であり、叙述にあたっては別べつに取り扱うべきである。だが、一般の方がたの理解を容易にするため、前篇同様に随時双方を対照させながら論じることとする。踏査紀行の形を採る点も同じである。
さて、筆者は、一九九二年の異動で、県埋蔵文化財調査センターから当時リニューアル(展示改善)事業に着手中の県立若狭歴史民俗資料館へ赴任した。当時資料館では、併行して「若狭地方主要前方後円墳総合調査」事業をも実施していた。これは、開発の進行に対処し、主要前方後円墳の墳丘外周の保全を図るべく、本来保護すべき対象範囲の特定を行うのが目的であった。
若狭の大首長墳の大半は、コシとは異なり山麓の平地に立地していて、確認調査の結果、それらでは水田面下に埋没していた周濠とともに、墳丘の第一段目を検出し得た。新たに、大半の大首長墳は三段築成であることが、判明したわけである。
これまで筆者は、各地方における首長墳の実査の結果、学界の一般的な理解とは異なり、三段築成の古墳は畿外ではきわめて稀な存在に過ぎないことを確認していた。そして、若狭における調査結果をも併せて、膳臣など『記』『紀』に記された、いわゆる皇別氏族伝承や皇妃伝承を有する首長の墓と、築成が三段をなす例とは、あながち無関係ではないとの確信を抱くに至った。
ところで、若狭町(旧・上中町)所在の大首長墳の内、西塚古墳については、関連する諸事象からみて、被葬者は『紀』の雄略八年条に登場し、「吉備臣小梨(きびのおみおなし)」等とともに朝鮮半島への出兵の伝えられる「膳臣斑鳩(かしわでのおみいかるが)」ではないか、との推定に至っていた。なぜなら、同古墳は「膳部山(ぜんぶやま)」の山麓に所在し、吉備の地方色をもつ埴輪〔川西宏幸一九七八「円筒埴輪総論」『考古学雑誌』第六四巻第二号〕や北部九州系石室を備え、渡来品の混在が判明していたからである。
すなわち、古代の文献上の記載と地名や考古学的事実等がまさに整合している。はたして雄略紀の記載が事実であれば、単なる一地方の豪族の動静にとどまらず、広くヤマト政権の政治的動静にも関連する問題をも内包していることになる。 
なお、当古墳の埴輪では、いわゆる吉備の地方色をもつ品はごく一部に過ぎない。しかも、ほかの大半の品とは、調整以外にも胎土や色調なども明らかに異なる。これは製作技法の伝播や工人の移動とみなすより、吉備産の品の移入と見るのがふさわしい。
こうした被葬者像や埴輪観などに大過なく、もし吉備の地において同巧の埴輪を備える古墳を特定することが可能なら、吉備臣小梨の墓やその居住地を推定しうることとなる。そこで、一九九五年には吉備の主要古墳の実査に着手した。  
 
一、踏査の結果
 吉備における古墳の踏査は、この度が初めてではない。ただ、前回以後も全国各地で多くの首長墳の観察を重ねており、墳丘の識別の度合いも、いささかなりとも精度を増しているのではないか、と思えた。そこで、再検証の意味も含めて、主要例は再度実査を行った。
以下、実査・検証の基数がより少ない、備中から言及する。

(一)備中における踏査
 備中は、踏査途上で筆者が県文化課へと再異動となって、勤務地の福井市へ帰ることとなり、踏査を中断した。それでも、総社市こうもり塚古墳など、一部の後期の主要例まで、再度の実査を果たした(注1)。

造山・作山両古墳の存在について 当地の首長墳と言えば、何よりもまず畿外では異例の大きさを誇る前方後円墳で、五世紀前半に属す岡山市造山・総社市作山の両古墳(図2・3)がつとに知られている。造山古墳は墳丘長約三六〇メートル、作山古墳は同二八六メートルを誇る。ともに段築(三段)・葺石・埴輪を兼備する。特に造山古墳については、その傑出した規模から伝履中陵古墳(墳丘長三六五メートル)に比肩するとみなされるなど、同時期の大王陵と対比されがちである。墳丘規模は被葬者の勢力を示すとする見解に立つなら、この超大型の二基は備中の一地方にとどまらず、吉備全域への支配体制の確立を達成したものとみなす説こそ妥当と思える。 
ただ、それにとどまらず、両古墳を倭の大王陵に擬する説〔出宮徳尚二〇〇五「吉備の首長伝承の形成」『古代を考える吉備』吉川弘文館〕まで提起されている。確かにその規模の巨大さは注目に値する。だが、両者はともに周濠を欠き、あまつさえ墳丘は自然丘を大幅に利用したものであり、造営に伴う土木工事量の大王陵との懸隔は必ずしも小さくない。よって、両古墳と大王陵とを同列に論じるのは、余りに単純な議論と言わざるをえない。前編で指摘したが、墳丘の外部設備の整備度の如何は、格式を端的に表したものであると考える。

造山・作山両古墳の被葬者 ところで、両古墳の被葬者に関しては、門脇禎二氏の論究がある〔門脇一九九二「記・紀にみる吉備の首長たち」『「古事記」と「日本書紀」の謎』学生社〕。同氏は、造営の先行する造山古墳を「御友別(みともわけ)」、後出する作山古墳をその子の「稲(いな)速(はや)別(わけ)」と推定している。
この御友別には妹の「兄媛(えひめ)」がおり、彼女は応神妃となっている(図4)。前述のように、各地における首長墳の実態に関する調査の結果、筆者は三段築成の古墳の被葬者は天皇家関係者かその姻戚に連なる豪族ではないかという帰結に至っている。前出の二基は、まさにそれと合致する。ゆえに、単なる伝承に過ぎないとするのは躊躇される。そうした点でも門脇説は誠に興味深く、それなりの説得力をもつものと考えざるを得ない。 
後にもふれるが、御友別・兄媛の兄弟には、ほかに「浦凝別(うらこりわけ)」「鴨別(かもわけ)」がいる。中でも、鴨別は神功皇后に随行する形の九州征討伝承を有する。造山古墳の前方部頂には、周辺の古墳から移設されたともいわれる阿蘇石製の石棺が現存する(図5)。『紀』が伝えるように、吉備氏一族が九州征討に関わっていたとすれば、後にこうした阿蘇石製の石棺や造山古墳の陪冢とされている千足(せんぞく)古墳にみられる肥後系横穴式石室が当地へ登場するに至った歴史的背景を探る場合に、推論の幅を広げることに繋がり、あながち無碍にはしがたい。

(二)備前における踏査
 備前では、山陽町の盆地、邑久(おく)平野、牛窓湾岸などにおいて主要古墳の実査を行った。ただ、瀬戸内市新庄天神山古墳や同・黒島一号墳など、以前から墳丘の検証に強い関心を抱きながら、未踏査のままとなった古墳も点在する。

両宮山(りょうぐうさん)古墳について 中期後半の両宮山古墳は、備前所在の超大型古墳として知られている(図6)。周濠を巡らし、段築を備えるが、なぜか葺石・埴輪は確認されていない。最近の調査で、墳丘長約二〇六メートルを測ることが明らかになっている。
当地は、雄略紀に登場する吉備上道の中心地であり、反乱伝承を有する「吉備上道臣田狭(きびかみつみちのおみたさ)」の墓ではないかとみなされている。
実査では、一部の研究者がいわゆる「腰高」と称するような急傾斜の墳丘であり、墳丘規模の巨大さに対して段築間の平坦面がごく幅狭なことや、葺石の見られぬことなど、通例とは異なり違和感を抱いた。なお、近在する小山古墳にも阿蘇石製の 石棺が存在する。
 
邑久平野の各首長墳 前期の鶴山丸山古墳は、以前から造出付円墳と報じられていた。しかし、丘陵上立地の古墳の通例として、不整形ではあるが、ごく一般的な円墳である。ただし、円墳とはいえ規模が大きく(南北略測径約六八メートル)、段築・葺石・埴輪の三種の外部設備を兼備する点は、優に他の地方の大首長墳に比肩している。その点、装飾文を施した華やかな石棺の内蔵や三〇面を超える銅鏡の副葬など充実した内容とも、まさにふさわしい感がある。
新庄天神山古墳も前期に属している。墳形については、前方後円墳(墳丘長約一二五メートル)説と円墳(径約四〇メートル)説との二説がある。埋葬設備に関しては、詳細な様相が不明であるが、竪穴式石槨内に蓋石のない刳抜式石棺が安置されているという。石棺の内底面の一方の小口には、施文を有する別造りの石枕(図9)が設置されている。石棺材は讃岐の火山(ひやま)石製、石枕材は肥前の松浦砂岩製と同定〔間壁忠彦一九九四『石棺から古墳時代を考える』同朋社出版〕されている。とりわけ石枕は、遠隔地の佐賀県からの移動で、注目に値する。
ちなみに、本古墳の墳形に関しては、近年後円部に対する前方部としては不自然さが看取されるとして、円墳説が優勢のようである。とはいえ、丘陵上に立地する古墳では、整美さに欠ける点が有力な根拠とはなりがたく、なお説得力に乏しい。

新庄天神山古墳の石枕と『記』『紀』伝承 ところで、改めて新庄天神山古墳の石枕を取り上げるなら、『記』『紀』の神功皇后伝承に興味深い話が記載されていることが想起される。
『紀』の仲哀紀九年四月条(神功皇后摂政前紀、以下同じ)には、「火前国の松浦縣(ひのみちのくちのくにまつらのあがた)に到りて、玉嶋里(たましまのさと)の小河(おがわ)に進食(みおし)す。是に、皇后、針を勾(ま)げて鉤(ち)を爲(つく)り(中略)因(よ)りて竿を挙げて、乃ち細鱗魚(あゆ)を獲(え)つ」と記す。皇后が肥前国松浦の玉嶋里で鮎を釣ったという伝承地は、現・佐賀県唐津市(旧・東松浦郡)浜玉町南山周辺であろう(図7)。
平野を流下する玉島川の北岸丘陵上には、墳丘長約七七メートル余の大型前方後円墳である中期初めの谷口古墳(図8)が所在する。同古墳は、二基の石室を内蔵し、各おの内底面の一方の小口に枕を彫り込んだ長持形石棺を安置している。特に東石室の石棺の枕は、新庄天神山古墳の石枕との類似が指摘〔間壁前出文献〕されている(図9)。
 前記したが、その前月の仲哀紀九年三月条では、神功皇后伝承に関連して、「吉備臣の祖(おや)鴨別(かものわけ)を遣(つかわ)して、熊襲国(くまそのくに)を撃(う)たしむ」との記載がみられる。 
 すなわち、(1)神功皇后の玉嶋里滞留、(2)随行する鴨別(を将とする吉備軍)の九州征討、(3)肥前の大首長墳である谷口古墳の松浦所在、(4)新庄天神山古墳における松浦砂岩製の石枕の存在等、文献上の記載と考古学的・地理学的な事象とに看過しがたい面が存在する。それらの記載の全てまでが歴史的事実とはみなしがたいとしても、単に偶然の符合に過ぎないと黙過することは困難で、検討に値する事例といえよう(注2)。 

牛窓湾岸の古墳群 大型古墳が目立つ吉備でも、牛窓湾に面する丘陵上には、顕著な存在の前方後円墳五基が散在している(図10)。この牛窓湾岸の首長墳の被葬者について、吉田晶氏は『記』『紀』に登場する「吉備海部直(きびのあまのあたい)」の一族と想定している〔吉田一九九五『吉備古代史の展開』塙書房〕。また、亀田修一氏も同様な見解を述べている〔亀田一九九七「Ⅱ古墳時代」(『牛窓町史』資料編Ⅱ〕。これらの古墳の中でも、とりわけ注目すべきものが黒島一号墳・鹿(か)歩(ぶ)山(さん)古墳の二基である。 
両古墳に関する特徴については、報告により若干の見解の差がある。そこで、代表的な記述によって、実査済の鹿歩山古墳から言及する。
 
 鹿歩山古墳とその被葬者 鹿歩山古墳(図11)は、湾北岸の丘頂に所在する。墳丘長八十三、四メートルを測り、前方部は三段であるが、後円部の段築は不明とされている。また、墳丘外周には周溝を巡らし、葺石・埴輪を備えるといわれる。埋葬設備は未調査のため不明であるが、鋲留の甲冑片が採集されている。墳丘の形状や埴輪からみて、黒島一号墳に後続する五世紀末~六世紀初頭の造営とみなされている。
 実査の結果、墳丘長は約九六メートルを略測し(注3)、前方部・後円部とも二段築成で、左くびれ部には造出部の存在を確認するなど、既往の報告とはやや異なる所見を得た。墳丘外周には、後円部後方を除き、その他の部分のみ掘割が巡る。
牛窓湾岸の首長墳の主を吉備海部直一族とする説には異論を見ない。だが、そうであればなおさら、雄略紀七年是歳条の朝鮮半島への渡航など、対外的な活躍が伝えられる「吉備海部直赤尾(きびのあまのあたいあかお)」との関連の当否の検討は、見逃しがたいのではなかろうか。もし仮に伝承が事実なら、牛窓湾岸の一連の首長墳の内、時期的にみて鹿歩山古墳の被葬者こそ吉備海部直赤尾である蓋然性が高いのではないか、と考えざるをえない。

黒島一号墳とその被葬者 一方、黒島一号墳(図12)は、湾内に浮かぶ黒島の丘頂に位置する。長さ八一メートルを測り、葺石・埴輪を備えるといわれる〔亀田前出文献〕。詳細な調査は実施されていないが、後円部で二基、前方部で一基の埋葬設備の内蔵が判明している。採集品には、Ⅳ期でも古相を呈する埴輪やTK七三型式に属す須恵器などがある。また、陪冢とみなされている円墳一基(二号墳)が北接している。
黒島一号墳の墳丘に関して、亀田氏は慎重に断定を避け「段築ははっきりしないが二段築成のようである」と述べている。ただ、測量図を今少し仔細に検討すると、いささか不審な点が存在する。後円頂部から 一・二五~一・三五メートル下位の間にも、帯状に巡る等高線の粗い箇所の存在を看取うる。すなわち、実査・検証こそ経ていないが、むしろ三段築成の蓋然性が高いのではないか、と推定せざるを得ない。

『記』の仁徳天皇段には、容姿端麗として天皇が「吉備海部の女、黒日賣(くろひめ)」を召し上げて使っていたけれども、皇后の嫉妬により黒日賣は吉備に帰郷、その後を追って西下したという伝承がある。岡山県下では、一時こうもり塚古墳にまつわる話とされていたことがあるという。だが、時期的な懸隔があり、該当しないことは明白である。今一度黒島一号墳の特色を列挙すれば、(1)海部一族の首長にふさわしい立地であること、(2)島の名が「黒島」で大王妃名と近似すること、(3)他の地方の大首長墳に相当する大型前方後円墳であること、(4)大王妃の墓ではないかと推定される他の諸例と同様に三段築成の可能性が濃厚で、また複数の埋葬設備の存在が判明していること、(5)造営時期が仁徳妃としてふさわしい五世紀前半と推定されることなど、伝承と考古学的事実とがまさに整合している。
 はたして『記』の黒日賣伝承が事実なら、黒日賣その人も黒島一号墳に埋葬されているのではないか、との疑いが捨てがたい。

まとめ(小結)にかえて
以上、筆者が注目した特徴的な例の一部について述べた。
改めて門脇氏による造山・作山両古墳の被葬者説に関して述べると、それぞれの被葬者を御友別・稲速別とする氏の主張について、新説である旨指摘されたという〔門脇前出文献〕。今回論究した黒島一号・鹿歩山両古墳の被葬者像に関する私見がはたして正鵠を射ているか否かはともかく、管見の限り岡山県下におけるこの種の言及例は寡聞にして知らない。

 今さら言うまでも無く、畿内諸府県や首都圏と同様、岡山県はわが国でも古墳研究の一大中心地をなしている。それは学界でも大組織をなす考古学研究会の事務局が置かれていることからもわかろう。前篇でも述べたが、わが国の古代史学界・考古学界では、依然として『記』『紀』の利用を回避する傾向が克服されたとは言い難い。

 本稿で採りあげた仲哀・神功伝承についても、創作とみなす論者がまことに多い。こうした学界の現状では、前記の仲哀紀九年三・四月条の記載との符合に関しても、単なる牽強付会に過ぎないとされる恐れが無いとはいえない。そこで、今回のテーマに直接には関連しないが、最後に今一つ神功伝承との符合例を収載し、まとめにかえたい。

『紀』の仲哀天皇九年十月―十二月条によれば、「皇后、新羅より環(かえ)りたまふ。十二月の戊戌(つちのえいぬ)の朔(ついたち)辛亥(かのとのいのひ)に、誉田天皇(ほむたのすめらみこと)を筑紫に生れたまふ。故、時(ときの)人(ひと)、其(そ)の産処(うみのところ)を號(なづ)けて宇瀰(うみ)(『記』では「宇美」)と曰ふ」と記している。現在の福岡県粕屋郡宇美町はその伝承地とされ、神功皇后・応神天皇などを祭神とする宇美八幡宮(式外社)が鎮座している(図13)。
同町と隣接する志免町の町境をなす箇所には、七夕池(たなばたいけ)古墳(径二九メートルの円墳)が所在する(図14)。同古墳は調査の結果、三段築成で葺石を備え、四世紀末~五世紀初頭の造営と報告されている。興味深いのは、埋葬設備の竪穴式石槨(図15)から検出された人骨が女性であり、出土品には陶質土器など渡来系の品(注4)が混在していることである。
 繰り返しになるが、筆者の実査では、三段築成の古墳は畿外ではきわめて稀な存在に過ぎない。それは、越前~佐渡と律令制下で六国におよぶコシでも、宮内庁治定の崇神天皇皇子の「大入杵命墓(おおいりきのみことぼ)」とされている石川県中能登町小田中親王塚古墳が、確かな唯一の例であることからもわかろう。
ただ、吉備や日向など、複数例の散在を確認しうる一部の地方も混在する。そうした地方では、皇別氏族伝承ないしは后妃伝承を有することが判明している。七夕池古墳所在の筑紫も、そうした三段築成の古墳が散在する数少ない地方の一つである(注5)。
それでも、七夕池古墳は三段築成の古墳としてはかなり小型であり、のみならず単なる一地域首長墳(小首長墳)としてもやや小規模である。にもかかわらず、三段を呈する点は、全国的な視点からしても、誠に軽視しがたい存在ではなかろうか。
(今回も、紙幅の制約上、一部の引用文献の掲載を省略せざるをえなかった。ご了承をえたい)

1 参考までに記すと、同古墳は後期では中・四国最大の規模を誇る前方後円墳と紹介されることが多い。だが、一〇〇メートルというその数値は、古墳が載る丘陵端部までの計測値と思われる。私見に過誤がなければ、略測値は約九二メートルである。これは、出雲の後期大首長墳とほぼ同規模である。
2 同地域における、前・中期の歴代の 首長墳である小山田・経塚山・横田下(よこたしも) の各古墳は、径二五~三二メートルを 測る円墳に過ぎない。そうした事実と対比するなら、大型前方後円墳である谷口古墳登場の特異性が明瞭であろう。  
ただ、学界では、横田下古墳は円墳(径約二五メートル)とされているが、果樹園造成で南面の前方部が削平された可能性が残り、今後の再検討が必要であろう。
3 参考までに記すと、(牛窓)天神山古墳の略測値も鹿歩山古墳と同様、約九六メートルである。
4 石槨側壁の石材間には、粘土が詰められていたという。そうであれば石槨構築にも、朝鮮半島系の技法が援用されていることになる。
5 筑紫における筆者の首長墳の実査はなお過半に及んでいない。ゆえに、未検証のままの概数に過ぎないが、一〇余基を数える。これは畿外の一地方としては、異例の多さにほかならない。
主要参考文献
門脇禎二ほか編二〇〇五『古代を考える吉備』吉川弘文館。
近藤義郎ほか一九八六『岡山県史』考古資料編。




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