五世紀の宮居を探る
つどい299号
五世紀の宮居を探る
-応神天皇の大隅宮・仁徳天皇の高津宮を中心に-
皇學館大学史料編纂所教授 荊木 美行 先生
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伊賀の史跡を訪ねる
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つどい299号
-応神天皇の大隅宮・仁徳天皇の高津宮を中心に-
皇學館大学史料編纂所教授 荊木 美行
初期の難波宮
本日は、応神天皇の大隅宮(おおすみのみや)・仁徳天皇の高津宮(たかつのみや)という五世紀前半の難波の宮都についてお話しいたします。
さる九月二十四日に、奈良県桜井市の脇本(わきもと)遺蹟から、古墳時代中期(五世紀後半)に築かれた大規模な堀状の遺構と、その南端に石積みの護岸が発見されたという報道がありました。ここは、すぐ北東の台地で雄略天皇の泊(はつ)瀬(せ)朝倉宮(あさくらのみや)に関連があるとみられる大型掘立柱建物が見つかった場所で、今回された発見された遺構も宮の周濠や池だった可能性が指摘されています。こうした報道の直後で、天皇(大王)の宮に対する関心が高まっている時期に、このようなテーマの講演ができることを幸運に思います。
さて、ご承知のように、古代難波の地に
はしばしば宮が営まれています。なかでも、孝徳天皇の難波長柄豊碕(ながらとよさき)宮、天武天皇の難波宮、聖武天皇の難波宮は一般にもよく知られていますが、六世紀以前にも難波に宮が存在したことが『古事記』『日本書紀』には記録されている。応神天皇の大隅宮・仁徳天皇の高津宮などが、それです。この時代に難波に宮が造営されたのは、いわゆる「倭の五王」による中国南朝との交渉と密接な関係があるかと思いますが、その点についてはしばらく措くとして、これらの宮については、七世紀以降の難波諸宮とちがって、その遺構とおぼしきものが確認されていません。そのため、宮の所在地をめぐっては諸説が対立したままです。
大隅宮や高津宮はこんにちではほとんど話題にのぼることはありません。ただ、わずかに法(ほう)円坂(えんざか)建物群発見の際に、高津宮址ではないかとする見解が一時マスコミの注目を浴びた程度です。しかし、この問題は、河内政権論ともかかわりが深いので、よく考えておく必要があります。
応神天皇の大隅宮
まず、大隅宮ですが、応神天皇朝に難波の地に大隅宮と呼ばれる宮が存在したことは、『日本書紀』応神天皇二十二年三月五日条に「天皇、難波に幸して、大(おお)隅(すみの)宮(みや)に居す」とあることから判明します。おなじく応神天皇四十一年二月十五日条には「天皇、明(あきらの)宮(みや)に崩(ほう)ず。時に年一百一十歳。〈一(ある)に云(い)はく。大隅宮に崩ずといふ。〉」とあって、異伝ではありますが、天皇がここで崩御したことを伝えています。さらに、『日本書紀』応神天皇二十二年三月十四日条には、天皇が父母を恋しく思う兄媛(えひめ)を吉備に帰す話がみえています。ここには「大隅」の名はみえませんが、天皇が兄媛の船を望見したという「高臺」は大隅宮の宮殿を指すとみてよいでしょう。
大隅宮の所在地はいまもって不明ですが、ただ、難波に「大隅」という地名が存在したことは、『日本書紀』安閑天皇二年(五三五)九月十三日条に「丙辰、別に大連(おおむらじ)に勅(みことのり)して云はく、『牛を難(なに)破(は)の大(おお)隅(すみの)嶋(しま)と媛(ひめ)嶋(しまの)松(まつ)原(ばら)とに放て。冀(ねがは)くは名を後に垂れむ』とのたまふ」とあることや、『続日本紀』霊亀二年(七一六)二月二日条に「摂津国をして大隅・媛嶋の二の牧(うまき)を罷(や)めしめ、佰(はく)姓(せい)の佃(つく)り食(は)むことを聴(ゆる)す」とあることから疑いありません。とくに、安閑天皇紀に「大隅嶋」とあることは注目してよく、媛嶋とともに、もとは島嶼(とうしょ)状の地形であったことが知られます。牧は、牛馬を放牧する牧場のことで、その管理上島嶼に設けられることがありましたが、これなどもその例です。
大隅宮はどこか
問題は、この「大隅」がどこかという点です。
有力なのは、東淀川区大道町(だいどうちょう)附近とする説です。大道町附近にもとめる説は、享保二十年(一七三五)刊行の地誌『日本(にほん)輿地通(よちつう)志(し)』(いわゆる『摂津志』)にはじまるものです。同書の畿内部第五十二、摂津国之四には、西大道村の旧名が「大隅」であったとみえています。同郡の「古蹟」の項の「大隅宮」でも「西大道村に在り」としていますが、この附近は、三国川(現在の神崎川)と長柄(ながら)川(吾君川。現在の淀川筋)に挟まれた土地で、もとは、これらの河川が上流から運ぶ土砂の堆積した島であったと考えられます。
もっとも、この大道町説に対しては異論もあります。吉田(よしだ)東伍(とうご)先生の『大日本地名辞書』上巻には、
按(あんずる)に大隅宮は難波大津の上にして津頭発船の状を望視し得べき地なるに似たり、蓋(けだし)高津宮などの地勢と同じかるべき所とす、而(しかし)て之を大道村とすれば大津と相間隔するのみならず、海船の発ち出づるを望み得ん理なし、大隅宮址は必定(ひつじょう)大道(だいどう)などの辺ではあらで、大坂の中なるべし。(四一五頁)
とのべられています。
大隅宮の所在地の確定は、難波津がどこにあったかという問題とも密接にかかわります。たとえば、田中卓(たかし)先生などは、『住吉大社神代記(じんだいき)』「長柄船瀬本記」に、
四至(しいし) 東を限る、高瀬。大(おほ)庭(ば)。南を限る、大江。西を限る、鞆(ともが)淵(ぶち)。 北を限る、川卮。
右の船(ふな)瀬(せの)泊(とまり)は、遣唐貢調使の調物(みつぎ)を積む船舫(ふね)の泊(とまり)を造らむ欲(もの)と、天皇の念行(おもほ)へる時に、大神の訓(をし)へ賜(たま)はく、「我、長柄(ながらの)船(ふな)瀬(せ)を造りて進(たてまつ)らむ」と造り□なり。
とみえるのをよりどころに、住吉大神が港を築いたという「長柄船瀬」が、現在の都島区・旭区・守口市西部のあたり、つまり上町台地の東側に位置したとみておられます。そして、『日本書紀』允恭天皇四十二年正月条の「難波津」や仁賢天皇六年秋条の「難波御津(みつ)」をこのあたりにもとめることができるとすれば、高台に立てば、大道町附近からでも海船の出入が眼下(南方)に一望できるとしています(『住吉大社史』中巻、三五五~三七〇頁)。
大道町説と上町台地説
田中先生のように考えれば、大道町説の難点も解消されますが、それでも問題がないわけではありません。
まず、難波津を上町台地東方にあてる点です。地理学者の日下(くさか)雅義(まさよし)先生の研究によりますと、河内潟に出入りする船は、上町台地の北に延びる天満砂洲(さす)北側の狭い水路を通っていたのですが、この水路は、砂洲から飛ばされてきた砂や淀川デルタの前進によりしだいに浅くなり、航行不可能になったといいます。しかも、その時期は、四世紀末から五世紀末にかけての時期が一つの目安となるそうですから(『古代景観の復原』二一二~二二三頁)、応神天皇朝の難波津を上町台地東方に想定するのは難があります。
また、『摂津志』は大道町附近の旧名が「大隅」だと書いていますが、これもあまりあてにはなりません。「大隅」は、古地図などの古い文献に出てくるというわけではありませんから、それほど古いものではないようです。
さらに、いま一つ大道町附近説の障碍となるのが、仁徳天皇の高津宮以降、難波に営まれたおもな宮はおおむね上町台地上に存したと考えられる点です。摂津地方に営まれた古代の宮としては、ここで取り上げた応神天皇朝の大隅宮、仁徳天皇朝の高津宮のほか、欽明天皇朝の祝津宮や継体天皇の樟(くず)葉宮(はのみや)などがあり、孝徳天皇朝には長柄豊碕宮以下、子代(こしろ)離宮・蝦蟇(かわず)行宮・小郡(おごおり)宮・難波碕(なにわさき)宮・味(あじ)経(ふ)宮(みや)・大郡(おおごおり)宮といった、複数の離宮や行宮(あんぐう)が登場し、さらに時代がくだると、天武天皇朝の難波宮や聖武天皇朝の難波宮があります。なかには所在のはっきりしないものもありますが、全体として、上町台地上に比定されるものが断然多いのです。ですから、大道町説を採れば、大隅宮だけが上町台地とは離れた場所にあったことになり、いささか不自然です。げんに、山根徳太郎先生なども、大隅宮を天神橋の東南方附近と考えておられます。
もっとも、仁徳天皇以降の難波の宮都が上町台地に造営されたことは、仁徳天皇朝に堀江の開鑿(かいさく)がおこなわれ、ここに難波大津がおかれたことと無関係ではないと思います。
淀川の河口に発達した港のことを古くから「難波津」と呼びましたが、船の着く津は各所にあり、難波津は一箇所に限らなかったようです。そのなかで、朝廷の管理するもっとも重要な津を「難波大津」・「難波御津」と称し、のちに難波津といえば難波御津を指すようになったといわれています(『大阪府史』第二巻八八頁)。
この難波津の位置については、①中央区三津(みつ)寺(てら)町附近説、②天満・天神橋附近説、③上町台地東方説、④中央区高麗(こうらい)橋(ばし)附近説、などの諸説があり帰趨(きすう)をみませんが、なかでも注目されるのは、日下先生の説です。先生は、難波堀江の開鑿は、仁徳天皇紀がいうような、東の水を西の海に排除するためだけではなく、「「宮」の近くに、安全で便利な津を開くとともに、遠く大和・山城国にも通ずる水路を掘り、新しい交通システムを確立させる必要」からだとしています。さらに、先生は、『日本書紀』に「難波津」という名称が出てくるのは、堀江の開鑿がおこなわれたとされる仁徳天皇十一年以降であることに注目します。そして、難波津の成立を堀江の開鑿とのかかわりでとらえつつ、五~六世紀の地形環境の復原から、難波津は、大川から堀江にはいった場所、すなわち④説がもっとも相応しいとするのです(『古代景観の復原』二〇八~二三四頁)。
日下先生は、堀江は「五世紀中葉から六世紀のはじめにかけて開かれた可能性が大きい」(前掲書、二二一頁)としておられますが、これが事実なら、五世紀前半と推定される仁徳天皇朝の実年代とはずれがあります。この時間的なずれをいかに解釈するかが今後の課題となりますが、淀川・大和川水系との連絡という点を考慮すると、④説はかなり有力といえます。
堀江の開鑿の絶対年代はしばらく措くとして、『日本書紀』の所伝のとおり仁徳天皇朝のことだとすれば、宮に近いところを選んであらたな水路や港が開かれたであろうことは、容易に想像できます。そう考えると、上町台地上、とりわけ高津宮周辺の開発が進むのは、それ以降のこととなりますから、堀江や難波津がなかった応神天皇朝においては、宮を上町台地上にもとめなければならない理由はどこにもありません。
ちなみに、『日本書紀』白(はく)雉(ち)元年(六五〇)正月一日条・白雉二年(六五一)十二月晦条には、味経宮という行宮のことがみえています。この宮の所在地についても諸説ありますが、味(あじ)原牧(はらのまき)のあった三島郡味生村附近(現在の摂津市別府(べふ)・一津屋(ひとつや)・新在家(しんざいけ))にあてる説が有力です。だとすれば、上町台地からかなり隔たった淀川北岸の地に宮が営まれることもあったわけで、これは大隅宮の所在地を考えるうえで参考になると思います。
媛嶋はどこか
さて、このようにみていきますと、大道町説もなんだか心もとない気がしますが、一つヒントがあります。それは、史料に大隅嶋とともに登場する媛嶋の位置です。両者については単純に同一視できない部分もありますが、瀧川(たきかわ)政(まさ)次郎(じろう)先生がいわれるように(「難波の比売許曾神社鎮座地考」『神道史研究』六―五)、『日本書紀』安閑天皇二年九月条と『続日本紀』霊亀二年二月条、二度までも大隅島・媛島を並記していることは、二島が同じような島であり、両者の距離が近かったことを示唆しています。
そこで、媛嶋が確定できれば、大隅の位置もその附近としてある程度絞り込むことができるはずです。
媛嶋の所在地については文字通り諸説紛々ですが、西淀川区姫島附近に比定する説が有力です。しかし、『新修大阪市史』第一巻の服部(はっとり)昌之(まさゆき)氏執筆の「古代における景観構成とその変化」によりますと、このあたりは、いわゆる天満砂堆(上町台地北端から北々西方向に難波砂堆の延長上に延びていた砂洲)のかなり西にあって、五~六世紀ごろにここまでデルタが進展していたと考えるのは困難だそうです。そのとおりなら、大正区三軒家(さんげんや)附近に比定する説なども成立しません。
さて、そうなると、媛嶋は、上町台地の東側の入海中にその候補をもとめるのがよいように思いますが、このことは、べつな史料からも裏づけられます。仙(せん)覚(かく)の『萬葉集註釈』(『萬葉集抄』とも)巻二には、「比売(ひめ)嶋(しまの)松原」の直下に「風土記の次上に長楽(ながら)〈地名〉の辺とみえたり」とあります。これは、「風土記の「比売嶋の松原」の次の項目には、長楽〔地名である〕と出てくる。比売嶋の松原はこの「長楽」の辺りと思われる」というほどの意味ですが、この記述から、『萬葉集註釈』は、『摂津国風土記』によって「比売嶋の松原」を「長楽」附近とみていたことがわかります。
ならば、「長楽」はどこでしょうか。これがわかれば、比売嶋(媛嶋)の位置も判明します。
「長楽」とは「長柄」のことですが、この「長柄」の範囲を知る恰好の史料が、さきに引用した『住吉大社神代記』の記載です。ここには住吉大神が港を築いたという長柄の船瀬(港津)の四(しい)至(し)、すなわち範囲がしるされているのですが、さきにものべたように、現在の都島区・旭区・守口市西部の地域にあたり、上町台地の東側であったと考えられます。現在、大阪市北区の北東部、淀川と天満川(大川)の分岐点に近いところに「長柄」の地名が残っていますが、これは『住吉大社神代記』のいう長柄の船瀬の西限の鞆渕と天満川を隔てて西に隣接する地域ですから、おおまかにいって、長柄はこの附近のことだと考えてよいでしょう。
媛嶋と大隅嶋
こうした比定が的を射たものだとしますと、比売嶋(媛嶋)もまた、この附近だと考えられますが、さらに参考にすべきは『古事記』下巻、仁徳天皇段の、茨田堤に関する記載です。
『古事記』下巻、仁徳天皇段に「天皇、豊(とよの)楽(あかり)したまはむと為(し)て、日女嶋に幸行でませる時、其の嶋に鴈(かり)卵(こ)生みたりき」とありますが、じつは『日本書紀』仁徳天皇五十年三月五日条では「河内の人、奏(そう)して言(まう)さく、茨田堤に鴈(かり)産(こう)めり」となっています。このことに注目した江戸後期の国学者山川正宣(やまかわまさのぶ)は、「此(この)茨田は今の茨田郡にて両岸の差別は異説なれとも、姫島は何にまれ難波の皇居より西」だと考えました。仁徳天皇がみずから雁の卵をみたとする『古事記』の伝承よりも、河内の人がそれを目賭して奏上したとする『日本書紀』の伝承のほうが真実味がありますが、いずれにしても、記紀の異同から祥瑞の確認された場所に異説があったことは事実で、それが、山川正宣のいうように、比売嶋と茨田堤(まんだのつつみ)が地理的に近い位置にあることに由来するものであれば、これをもって、比売嶋の位置を推測することが可能です。
茨田堤は、河内国茨田郡にあり、現在の門真市宮野町の堤(つつみ)根(ね)神社の境内には「史跡茨田堤」の石碑が建っています。このあたりは、『住吉大社神代記』にいう長柄の船瀬の東限とされる大庭のやや東方で、地理的にも、比売嶋(媛嶋)を長柄附近とする『萬葉集註釈』の記載によく合致しています。
さきにも申し上げたように、『日本書紀』安閑天皇二年九月条と『続日本紀』霊亀二年二月条には、大隅嶋と媛嶋の名がならんでみえます。しかも、両島に同時に牧が設置され、また時をおなじくしてそれが停廃されているところをみると、両島は、似たような地理的条件の島嶼であったことはじゅうぶんに考えられます。瀧川先生なども、そのようにみているのです。したがって、そこから、両島が位置的にも近接していたと判断することは、けっして的外れな推測ではないと思います。旧茨田郡に羝(ひえ)嶋(しま)村(むら)(現在の門真市羝嶋)の地名が残ることや、しかも、それが堤根神社の近いという点から判断して、媛嶋は上町台地東側の海上、現在の地名でいえば、守口市とその東に隣接する門真市の市域内に存在したのではないかと考えられます。そうなると、大隅嶋、ひいては大隅宮も、それに近い場所にあったことと考えてよいことになるので、その意味では、東淀川区大道町説もあながち的外れではないのです。
軽嶋明宮との関係
ところで、大隅宮について留意しておきたいのは、応神天皇の宮としては、これとはべつに軽嶋(かるしまの)明宮(あきらのみや)が存したことです。応神天皇については、『古事記』中巻、応神天皇段に「品(ほむ)陀(だ)和(わ)気(けの)命(みこと)、軽(かる)嶋(しま)の明(あきらの)宮(みや)に坐(ま)しまして、天(あめの)下(した)治めたまひき。」とあるのをはじめとして、いろいろな記録から、後世、軽嶋明宮で天下を治めた天皇という認識が強かったことがわかります。
この軽嶋明宮は、大和国高市郡(たけちぐん)にあったと考えられます。高市郡には軽という地名が残っており(現在の橿原市大軽(おおがる)町(ちょう)附近)、『日本書紀』応神天皇十九年十月一日条に、吉野川上流の国樔(くず)の地が「京の東南」にあたるとみえていることから、この附近と考えてまちがいないでしょう(『新修大阪市史』第一巻の直木孝次郎執筆「河内政権の成立」五〇八頁。)。
ただ、『新修大阪市史』第一巻は、「応神天皇自身に結び付く物語で、軽周辺の地に関係することはほとんどない。筑紫で誕生したという応神が、崇神以降の歴代天皇の誰も宮を置いた伝承のない高市郡の地に宮居するというのも不自然である」として、「応神の皇居を軽嶋明宮とするのは、後代おそらくは藤原宮の時代前後に考えられたことで、難波大隅宮とする伝承の方がより古い」(五〇八頁)とのべています。
しかし、古くは懿徳天皇や孝元天皇がそれぞれ軽の曲峡(まがり)・軽の境(さかい)原(はら)に宮を営んだとする伝承があります。また、『日本書紀』神功皇后摂政三年正月三日条には「誉田(ほむだ)別(わけの)皇子(みこ)を立てて皇太子と為す。因て磐余(いはれ)に都つくる。〈是を若(わか)桜(さくらの)宮(みや)と謂ふ。〉」とあって応神天皇生母の神功皇后が磐余に、さらに、応神天皇の孫にあたる履中天皇についても、『日本書紀』履中天皇元年二月一日条に「皇太子、磐(いは)余(れの)稚(わか)桜(さくらの)宮(みや)に即位す」とあって、磐余稚桜宮にいたとする伝承をしるしています。
これらを参考にすると、かならずしも軽嶋明宮が、後代に考えられたものとは断言できません。なかでも、理解に苦しむのは、藤原宮の時代前後に、なぜ、突如として軽嶋明宮が案出されたのかという点です。あるいは、藤原宮からの連想かも知れませんが、それなら、なぜ応神天皇の宮にだけ藤原宮のイメージが投影されているのか、その点がうまく説明できないと思います。しかも、応神天皇と軽嶋明宮の結びつきが、七世紀末から八世紀初頭のような、『日本書紀』完成の時期からみてきわめて近い時代に考え出されたものならば、「軽島豊阿伎(とよあき)羅(ら)宮御宇天皇世」(『摂津国風土記』逸文)といった呼び方が定着しているのも不審です。大隅宮を宮居とする伝承のほうが古いのならば、「難波大隅宮御宇天皇世」などと称する史料があってもよさそうなものだが、そうした例はないのです。
なお、この点に関連して注目されるのが、塚口義信先生の研究です(たとえば、「〈神武天皇伝説〉成立の背景」『東アジアの古代文化』一二二)。先生によれば、記紀がしるす?(かご)坂(さか)・忍(おし)熊(くま)王の叛乱は、四世紀末にヤマト政権内部で勃発した内乱を描いたもので、神功皇后・応神天皇に象徴される政治勢力が、ヤマト政権の最高首長権を保持していた政治集団の正統な後継者である忍熊王の軍勢を打倒した事実を、勝者の側から伝えたものだそうです。そして、応神天皇は大和の軽嶋明宮で即位し、河内大王家の基礎を築くのですが、先生は、内乱によって王権を奪取した応神天皇が、みずからの正統性を保証するため、それまで語られていた神武天皇の建国神話を改変したのであり、記紀の神武天皇伝説は、四世紀末の内乱とそれによって河内大王家が誕生したという史実を念頭において形成されたものだといわれます。
こうした先生の構想は、応神天皇の宮を考える際にも有効です。塚口先生のご指摘のとおり、神武天皇が畝傍山(うねびやま)の白檮(しらかし)橿原宮で即位したことが、応神天皇がおなじ地の軽嶋明宮で即位した事実の投影だとすると、応神天皇の宮は、やはり軽嶋明宮だったのであり、大隅宮のほうはあくまで行宮と考えるべきでしょう。応神天皇二十二年三月五日条に「天皇、難波に幸(いでま)して、大隅宮に居(ま)します」とあるのも、大隅宮への移動が行幸的なものであることを示唆しています。難波への移動の意味は、べつに考える必要がありますが、いずれにしても、どちらの宮を主とみるかという認識は、宮の規模や建築物を推測する際にもたいせつな要素となるので、あえて注意を喚起しておきます。
仁徳天皇の高津宮
つぎに、仁徳天皇朝の高津宮について考えます。
高津宮のことは、『日本書紀』仁徳天皇元年正月三日条に、「大(おほ)鷦(さ)鷯(ざきの)尊(みこと)、即天皇位(あまつひつぎしろしめ)す。皇后を尊(たふと)びて皇太后と曰(まう)す。難波に都つくる。是を高津宮と謂ふ」云々とみえています。この記事には、高津宮の宮殿が質素であったことが詳しく描かれていますが、記紀は、仁徳天皇のことを有徳の君主として描いていますから(塚口義信「 "原帝紀 "成立の思想的背景」『ヒストリア』一三三所収)、こうした描写も割引いて考える必要があります。
『日本書紀』仁徳天皇四年二月六日条には、仁徳天皇が群臣に、「朕、高(たか)臺(どの)に登りて、遠(はるか)に望むに、烟気(けぶり)、域(くに)の中に起たず。以為(おも)ふに、百(ひゃく)姓(せい)既に貧しくして、家に炊く者(ひと)無きか」云々と語ったという、有名な話がみえています。これが事実ならば、それはとりもなおさず高津宮の楼閣ということになりますが、記紀における仁徳天皇の扱いかたを考慮すると、この史料も鵜呑みにすることは危険です。
ちなみに、延喜六年(九〇六)の「日本紀竟宴和歌」に「たかどのにのぼりてみれば天の下四方に煙りて今ぞ富みぬる」とあるのは、記紀にみえる、この逸話にちなんだ歌です。
高津宮の所在地はどこか
ところで、高津宮の所在地はいずこにもとめることができるのでしょうか。
この点に関しては、『日本書紀』仁徳天皇十一年十月条に「宮の北の郊原(の)を掘りて、南の水(かは)を引きて西の海に入る。因りて其の水を号(なづ)けて堀江と曰(い)ふ。(後略)」とあるのが、参考になります。
これは、高津宮の北の郊原を開鑿して水路を通したことをのべたものですが、ここにいう「堀江」は、こんにち大阪のひとが「大川」と呼ぶ天満川のことです。堀江は、その後の側方侵食によって上流側は南に、下流側は北に、流心を少しづつ移した結果、現在みられるような逆S字型の流路を示すようになったのですが、当初はほぼ東西方向に掘られていたと考えられます(日下氏『古代景観の復原』二一五~二二一頁)。開鑿当初のルートは、大川右岸(北岸)の堤附近で、その後左岸へと侵食が進んだとみられますから、堀江の南に位置したという高津宮は、大川右岸(北岸)の堤以南にもとめることができます。
さらに、『日本書紀』仁徳天皇三十八年七月条には、
天皇と皇后と、高(たか)臺(どの)に居(ま)しまして避暑(あつきことをさ)りたまふ。時に毎夜(よなよな)、菟(と)餓(が)野(の)より、鹿(か)の鳴(ね)聞ゆること有り。其の声、寥亮(さやか)にして悲し。共に可怜(あはれ)とおもほす情を起したまふ。月尽(つごもり)に及(いた)りて、鹿の鳴(ね)聆(きこ)えず。(後略)
とみえており、高台にいた仁徳天皇が、菟餓野で鳴く鹿の声を聞いたとあります。菟餓野については、大阪市北区兎我野町附近とする説が有力ですが、だとすると、鹿の声が聞こえるぐらいですから、宮はここから遠からぬところに位置したはずです。この点でも、上町台地上説は有利です。
以上のことから、高津宮を上町台地上にもとめてよいと思いますが、こまかい比定地となると諸説紛々で、なかなか定まりません。
中央区高津説
そうした諸説のなかで一般に滲透しているのが、中央区高津(こうづ)周辺説です。明治三十二年(一八八九)の仁徳天皇千五百年祭には、天王寺区餌差町(えさしまち)に「高津宮址」の石碑が建てられたほどです(この碑はいまでは東高津町の高津高校の校庭に移されている)。
この説の最大の根拠は、地名の一致です。しかし、高津については、『摂津志』には「東高津〈王子記作郡戸〉」とあるように、「郡戸」の音転とも考えることの可能ですし、本居宣長が指摘するように、かうづ=蝦蟇という解釈も成り立ちます。旧修『大阪市史』第一なども、「又仁徳帝の高津宮を以て今の高津に擬するは偶々(たまたま)文字の同じきより起これる説にして、タカツの音のカウヅに変じたる順序の判明せざるに於ては、縦令(たとひ)文字は同一なりとするも、タカツを今のカウヅに関係ありといふを得ず」(六頁)と、高津周辺説には懐疑的です。
地名の音転については判断がむつかしいが、高津周辺説にはべつな難点もあります。それは、高津宮を現在の高津附近にもとめれば、仁徳天皇朝に開鑿されたという難波堀江や難波津から、いささか距離があるという点です。あとでもお話ししますが、高津宮と堀江・難波津の密接な関係を考えると、高津宮はもう少し北にもとめたほうがよさそうです。その意味では、つぎに紹介します大坂城附近説は、そのような地理的条件を満たしています。
大阪城附近説
この大坂城附近説は、賀茂真淵(かものまぶち)『祝詞考(のりとこう)』にはじまります。時間の都合で詳しく解説することはできませんが、かんたんに紹介しますと、この学説は、もともと大阪城附近に鎮座していた座摩社(いかすりのやしろ)や生国(いくくに)魂社(たまのやしろ)が、宮中(きゅうちゅう)神(しん)三十六座にふくまれる点に着目したものです。つまり、これらの神が宮中神に編入されたのは、難波に高津宮がおかれた時期のことであって、だから宮の所在地は両社の旧鎮座地である大阪城附近にもとめるのが相応しいというのです。
こうした大阪城附近説は、座摩社や生国魂社が宮中神に編入された理由を高津宮とのかかわりで説明しようとした、巧みな所説です。ただし、特定の宮中神がただちに高津宮と結びつくのかどうかは、史料的な裏づけを缺きます。難波に宮が存在したのは、なにも仁徳天皇朝だけではありませんから、これらの神が宮中神に取り込まれた時期を仁徳天皇朝に決めつけてしまうのは、ちょっと躊躇されます。
法円坂町台地説
なお、山根先生は、難波堀江を、現在の大坂城二の丸外濠から、もとの陸軍射的場のあった東西にわたる低地帯を掘り開いたものとみて、その南方に広がる法円坂町の台地を高津宮のあった宮地と考えておられます(「仁徳天皇高津宮の研究」『難波宮址の研究』(研究予察報告第弐))。これだと、高津宮は、のちの孝徳天皇朝の難波長柄豊碕宮や聖武天皇の難波宮とほぼおなじ場所に造営されたことになり、七世紀の難波宮の先蹤(せんしょう)をなすものとみることができます。山根氏自身も、この点にふれ、「高津宮址は世人の記憶にも残っていたであろう。この由緒のある宮址に、長柄豊碕宮は営まれ、そのあとに、聖武天皇の難波の宮が作られたのであった」とのべておられます(『難波王朝』一二七頁)。
この山根先生の提説に関連して想起されるのが、冒頭でもちょっとふれた「法円坂建物群」の存在です。これは、昭和六十二年(一九八七)の秋から冬にかけて、中央区番場町(ばんばちょう)に隣接する大手前四丁目の大阪市立中央体育館附近で発見された遺蹟で、棟方向をほぼ東西に揃えた同一構造・規模の建物十六棟以上が、整然と計画的に配置されていました。
遺構自体は、倉庫群の可能性が大きいとされており、造営時期は五世紀前半にまでさかのぼらないのではないかと考えられています(『大阪府史』第二巻古代編Ⅱ五七~五九頁)。その点では、仁徳天皇朝の高津宮址には直接結びつかないかも知れませんが、五世紀代に溯る大規模な遺蹟がこの附近から発見されたことの意義は大きいと思います。脇本遺蹟のなどのように、今後の発掘次第では、仁徳天皇朝の高津宮に結びつくような遺構がみつかる可能性も、皆無ではないと思います。
今後の課題
さて、以上、きわめて大雑把ではありましたが、応神天皇の大隅宮と仁徳天皇の高津宮の所在地に関する諸説を俯瞰しながら、その是非を検討してきました。こうした学説の回顧を通じて思うのは、宮の所在地を絞り込むには、①関連史料の解釈と批判、②中近世にまで遡るような遺称地の有無、③当時の地理的環境との合致、④考古学的徴証、といった、多角的な角度からの検討が必要だということです。
おなじ難波の宮でも、時代の下る孝徳天皇朝の長柄豊埼宮や聖武天皇の難波宮は、こうした材料が比較的豊富で、とりわけ半世紀を超える発掘調査による知見は、これらの諸宮の具体像を描き出すうえで、多くの情報を提供してくれました。
難波宮の発掘は、昭和二十九年(一九五四)二月、さきほどからたびたびお名前の出ております山根徳太郎先生によって開始され、現在も(財)大阪市文化財協会が継続しています。半世紀を超える発掘調査によって、大阪市中央区法円坂町一丁目附近に中軸線を共有する二つの宮殿遺蹟の存在があきらかとなったことは、みなさまもよくご承知かと存じます。これが、いわゆる前期難波宮・後期難波宮です。
後期難波宮は、蓮華(れんげ)・唐草(からくさ)文(もん)軒瓦や重圏(じゅうけん)文(もん)軒瓦を伴い、一尺二九・八センチの天平尺を用いて設計されているのが、特徴です。しかも、規模や宮殿の配置が平城宮の第二次内裏(だいり)・朝堂院(ちょうどういん)と酷似しているので、神亀三年(七二六)十月に、聖武天皇が藤原宇合に命じて造営に着手し、天平四年(七三二)ごろに完成した難波宮にあたると考えられています。出土瓦の約九十%を占める重圏文軒瓦は、長岡宮や平安宮から出土しており、かつては奈良時代末から平安時代初期の瓦だとみられていました。しかし、難波宮や長岡宮の発掘調査が進むにつれ、長岡宮の朝堂院が難波宮のそれを移築したものである可能性が大きくなり、長岡宮や平安宮の重圏文軒瓦も難波宮のものが運ばれて再利用されたと考えられるようになりました。
また、いま一つの前期難波宮は、柱穴や出土層位の重なりぐあいからみて、後期難波宮よりも古い宮殿遺蹟であると思われます。前期難波宮のほうは、瓦は使用しておらず、遺構はすべて掘立柱建物で、その設計には天平尺よりもすこし短い一尺二九・二センチという尺度が用いられています。とくに、注目されるのは、掘立柱の抜き取り穴には焼けた壁土や炭化物などが充満しており、火災に遭った痕跡が顕著な点です。そこから、この遺蹟は、『日本書紀』天武天皇朱鳥元年(六八六)正月十四日条に「乙卯。酉(とり)時(のとき)に難波の大蔵省(おほくらのつかさ)失火して、宮室悉く焚(や)けぬ。或(あるひと)曰はく『阿斗連(あとのむらじ)薬(くすり)が家の失火、引(はびこ)りて宮室に及べり』。唯し兵庫職のみは焚けず」とみえる難波宮にあたると考えられています。
こうした前期難波宮・後期難波宮にくらべると、大隅宮や高津宮は、時代が古いこともあって、その研究にはずいぶん制約があります。その結果、宮の所在地も確定できないままです。だからこそ、今後の発掘成果に期待するところが大きいのです。
ただ、地理学的・考古学的研究がもたらす新知見に対応していくためには、それに先立って文献の解釈を深めておく必要があります。さきにもお話ししたように、記紀が伝える応神・仁徳天皇朝の記事には伝承的なものが多く、とくに『古事記』下巻については、塚口先生があきらかにした、「原帝紀」のイデオロギーを念頭において読んでいく必要があります。これは、宮に関する記述を読解する際にもそのまま当て嵌まることでして、関連史料の徹底した分析こそが研究の基礎になるのです。
【質疑応答】
大道町は「おおじちょう」「だいどうちょう」、どちらが正しい読みでしょうか?
―「だいどうちょう」です。江戸時代から「西大道村」は「にしだいどうむら」です。ただ、『摂津志』には、「西大道〈旧の名は大隅、又は大内、又は三宝寺〉」とあります。それ以前に「おおすみ」や「おおうち」と称していたとすれば、「おおみち」や「おおじ」といった読みが本来のものだった可能性もあります。
地図に「江口」の記載がありますが、これは今でいうと、どのあたりでしょう?
「江口」とは、文字通り難波堀江の河口附近のことをいいます。堀江は、さきほどご説明したとおり、現在の大川(天満川)ですが、その河口がどのあたりだったかはいくつか説があります。堂島川にかかる玉江橋の北にかつて「江之口」という字名があったのは、ここが当時の河口だった名残かと思われます。あるいはこの附近でしょうか。
八十嶋祭は難波津でおこなわれたといいますが、具体的にはどのあたりなのでしょうか?
―八十嶋祭の祭場が熊河尻であったことは、『平記』長暦元年九月二十五日条の記載から疑いありませんが、はっきりした場所は特定できません。ただ、地名から御幣島にあてる説が有力です。