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考古学から見た4・5世紀の播磨とヤマト政権

つどい298号
大阪大学埋蔵文化財調査室 中久保 辰夫 先生

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はじめに 本論では播磨地域に軸足をおいて、次に述べる三つの点から四・五世紀における当地域の動向について考えたい。 第一の論点は播磨における古墳の築造動態である。播磨では四・五世紀に様々な古墳が築造された。そして、継続的な発掘調査と地域に根ざした着実な研究から当該時期における政治勢力の動向が明らかとなっている(岸本二〇〇一など)。そこで先行研究にみちびかれつつ、隣接地域の特徴にも目を配りながら、当地域における古墳の展開を最初にまとめておきたい。 二つ目の論点として、土器に反映する渡来人の動向に着目する。古墳時代には東アジア情勢が大きく変化し、対外交流が非常に重要な意味を持ったことはよくしられている。とくに五世紀は韓半島との交流が活性化し、多くの渡来人が先進的な文物や技術、知識をもたらしたことは周知のとおりである。ただし、こうした渡来人の受容にヤマト政権の意向がどのように反映していたのかといった点は、現在、考古学研究の中で論争となっている。 問題をいささか複雑にしているところは、渡来人の存否を抽出する考古資料の認定が、考古学の研究者の中でも意見がわかれている研究現状である。そこで本稿では、今一度土器資料から渡来人を抽出する方法に関して詳述し、その上で播磨における渡来系集団の動向について地域的な特徴を考えたい。 最後に三点目として、古墳の築造動向や 渡来人の出現契機といった観点から四世紀と五世紀のあいだで播磨地域にどのような変化があり、それがヤマト政権との関係性、あるいは東アジア情勢のなかで如何にして理解できるのかといった点について、まだまだ不十分な部分があるものの、その見通しを述べることとしたい。 一. 四・五世紀の古墳と集落 まずは、これまでの発掘調査成果、研究成果をまとめながら播磨地域における代表的な古墳について、通時的にみておきたい(表1)。 古墳の築造動向 大和東南部に箸墓古墳が築造された三世紀半ば、播磨地域西部においては小地域単位で前方後円(方)墳が林立するように築造される。千種川流域では中山13号墳(前方後円墳、四〇メートル)、相生市域では大避山(おおさけやま)1号墳(前方後円墳、五七メートル)、旧新宮町域では吉島(よしま)古墳(前方後円墳、三〇メートル)、揖保川北部の養(や)久山(くやま)1号墳(前方後円墳、三二メートル)、旧御津町域の権現山51号墳(前方後方墳、四三メートル)、大津茂川流域の丁(よろ)瓢(ひさご)塚(づか)古墳(前方後円墳、九八メートル)など、丁瓢塚古墳を除いては小規模な古墳が多いものの、播磨西部のほぼすべての小地域に古墳が造営されている。同時期、加古川流域を中心とする播磨東部においては古墳数が少ない。それゆえ西高東低の古墳築造状況をしめすといえよう。 しかし、このような古墳築造状況は、四世紀前葉から中葉にかけて一変する。千種川流域や龍野西部などの小地域では、龍子三ッ塚1号墳(前方後円墳、三八メートル)などを代表として継続的な築造がみられるが、四世紀中葉になると古墳築造の断絶が目立つようになる。 一方、加古川流域を中心とする西条・日岡地域では、詳細不明な古墳が多いものの、日岡1号墳(前方後円墳、八〇メートル)、聖(せい)陵山(りょうざん)古墳(前方後円墳、七〇メートル)、勅使(ちょくし)塚(づか)古墳(前方後円墳、五五メートル)、南大塚古墳(前方後円墳、九〇メートル)、西大塚古墳(前方後円墳、七四メートル)、北大塚古墳(前方後円墳、五三メートル)が連綿と築造されている。同じく、明石川流域においても夫塚古墳(前方後円墳、七五メートル)、白水(しらみず)瓢(ひさご)塚(づか)古墳(前方後円墳、五七メートル)、そして五色塚古墳(前方後円墳、一九四メートル)が築かれており、低調であった播磨東部の古墳築造が四世紀中葉から後葉にかけて活性化する点が指摘できる。また、五色塚古墳が築造される時期になると、旧御津町輿塚古墳(前方後円墳、九九メートル)、姫路市鷲山1号墳(前方後円墳、四七メートル)など、単発的な古墳築造がみられる地域もある。ただし、これらの古墳については、時期を特定できる情報が十分ではないので、築造時期を確定するためには今後の調査に期待がかかる。 摂津・猪名川流域に目を向けてみよう。三世紀代に築造される古墳は、現状で発見されていない。続く、四世紀前葉から中葉には豊中台地に大石塚古墳(前方後円墳、七六メートル)、小石塚古墳(前方後円墳、四九メートル)、池田地域には池田茶臼山古墳(前方後円墳、六二メートル)、娯三堂(ごさんどう)古墳(円墳、三七メートル)、長尾山丘陵には長尾山古墳(前方後円墳、四三メートル)、万籟山(ばんらいさん)古墳(前方後円墳、五四メートル)、待兼山丘陵に待兼山古墳(前方後円墳?、不明)と、小地域単位で古墳の築造が認められる。しかし、四世紀後葉では古墳の築造は豊中台地の桜塚古墳群と新たに台頭した猪名(いな)野(の)古墳群に限定され、この時期に首長系譜の一つの変動期があると推測できる(福永二〇〇四)。 こうした小地域間にみられる古墳築造の盛衰は播磨・摂津と連動している。古墳築造は決して地域内で閉じた現象なのではなく、地域を超えた連動性を指摘することができよう(都出一九八八)。 五世紀初頭を前後する時期、播磨地域の代表的な古墳は、加古川市行者(ぎょうじゃ)塚(づか)古墳(前方後円墳、九九メートル)をあげることができる。行者塚古墳は巴形銅器、筒型銅器、初期馬具、鉄鋌(てってい)、帯金具に代表される大陸・半島系文物を豊富に出土した古墳であり、対韓半島交渉の活性化を読み取ることができる。 姫路市壇場山古墳(前方後円墳、一四七メートル)もまた播磨地域を代表する五世紀代の古墳である。「王者の棺」と呼ばれる長持型石棺を有するこの大型前方後円墳は、当地域の最も有力な古墳として位置づけることが可能である。しかし、壇場山古墳の築造後、大規模前方後円墳の築造は継続せず、姫路市宮山古墳(円、五五メートル)、相生市宿禰(すくね)塚(づか)古墳、加古川市尼塚など、大型円墳ないし造出し付きの中小円墳が各地域に林立するような築造様相となる。また、そもそも古墳が築造されない小地域が多いことも注意を要する点である。 このことは播磨のみならず摂津地域でも同様であり、猪名川流域に目を転じると、五世紀代に連綿と増墓がなされる豊中市桜塚古墳群や伊丹市猪名野古墳群を除くと、各地域での大規模古墳築造は衰えている。 また、伊丹市御願(ごが)塚(づか)古墳、芦屋市金津山古墳は、近年の調査によって五世紀後葉の須恵器を伴うことが判明している。どちらも造り出しを有するいわゆる帆立貝式の古墳であり、こうした古墳の出現もまた大型円墳や帆立貝式の古墳が増加する播磨地域との連動性として指摘することができる。 集落の盛衰と東アジア情勢 以上のように古墳の築造動態をまとめたうえで、当該期の集落にみられる盛衰にも目を向けておこう。集落出土土器編年と古墳の編年については、十分な論議がなされていないこともあり、現況では制約も多い。ただ、大枠的な流れは十分に把握できる。 まず、四世紀前葉から後葉にかけての時期には、播磨・摂津両地域においてそれまで地域の中核を担っていた集落が衰退する様相が指摘できる。具体的な例として兵庫県長越(ながこし)遺跡、大阪府利(と)倉西(くらにし)遺跡を挙げたい。長越遺跡は弥生時代終末期に集落規模を拡大し、播磨地域のなかで多量の庄内式甕を出土したことで知られている。搬入土器は庄内甕にとどまらず、山陰系、吉備系、讃岐系、西部瀬戸内系など西日本各地に及ぶ。しかし、四世紀前葉には集落の遺構数が減少し、衰退しているようにみえる。豊中市利倉西遺跡は弥生時代後期から弥生時代終末期まで当地域の中核的な集落であると考えられている。弥生時代終末期には吉備系、讃岐系、山陰系など各地の土器が認められる。四世紀前半にも集落は存続するが、遺物量は減少傾向にあり、四世紀後半の衰退を経て、ふたたび活性化するのは初期須恵器を伴う五世紀中葉である。穂積(ほづみ)遺跡、栄(さか)根(ね)遺跡、玉津田中遺跡なども同様の盛衰がみられ、四世紀に弥生時代終末期以降発展していた集落が停滞する点は、播磨・摂津の両地域に連動する。 山田隆一氏は、弥生時代終末期、地域内において傑出した量の外来系土器を出土した遺跡を結びつけ、大和東南部・纏向遺跡を頂点に交易ネットワークが形成していたと論じた(山田一九九四)。この議論をふまえれば、四世紀後半に認められる集落の衰退は、交易ネットワークが機能不全に陥ったという可能性も指摘できるのではないだろうか。 その要因については、今後多角的な検討が必要となると考えられる。外的な側面に目を向ければ、楽浪郡・帯方郡の滅亡(三一三年)、新たに台頭した韓半島南東部の金官加耶の地に新たな交易・交流拠点が形成されるなど、東アジア世界は大動乱の時代に突入する。おそらくはこうした東アジア情勢の変化とその余波としての交易網の再編が、地域社会にも大きなインパクトを与え、拠点的な集落の変動にもつながっているのではないだろうか。当該期における中央での政治変動や古墳築造動態の変動も、勢力基盤となった集落の動態から見直すことも必要となるだろう。 二. 渡来人の招来と播磨地域 四世紀の衰退期を経て、五世紀を前後する時期には、息を吹き返したように集落遺跡数は増加する。そして、五世紀前半の近畿地域は、集落数の増加とともに韓式系軟質土器の出土遺跡が顕著に認められるようになる(図1)。たつの市竹(ちく)万(ま)遺跡など、韓半島系の渡来人が住み着いた遺跡やその周辺からは、鉄(てっ)滓(さい)など鍛冶の痕跡を示す遺物の出土が認められる。また、五世紀を前後する時期には、密閉式の窯を築いて高温で堅い土器を焼く技術が韓半島からもたらされた。渡来人に期待されたものは技術や知識であり、鍛治工房の増加(花田二〇〇二)と農工具にみられる革新(都出一九八九)によって開発が著しく進んだことが、集落の増加にあらわれているといえよう。また、摂津地域では蛍池東遺跡から五世紀初頭とみられる大型の倉庫が発見されており、その後、尼崎市若(な)王子(こうじ)遺跡、豊中市利倉西遺跡、上津島(こうづしま)遺跡など手工業生産工房を含む集落が活性化する。 渡来人の足跡を示す土器 韓式系軟質土器とは、器形や製作技法が三国時代の韓半島南部地域にみられる赤褐色軟質土器に酷似したもので、小型平底鉢、把手付鉢、平底鉢、長胴甕、羽釜、鍋、移動式カマド、甑、直口鉢(鍑(ふく))、U字形カマド枠、土製煙突など日常の調理に用いられた器種を主体とする土器群を指す。韓半島に由来する調理用の土器はカマドを利用し、長胴甕・鍋、蒸す調理に用いられる甑、地床炉やカマド前面に直置きされた小型平底鉢と、目的に応じて器形が異なる蓋然性が高い(大庭・杉山・中久保二〇〇六)。また、カマドにかけられた長胴甕と鍋は、内面にコゲが付着しない湯沸し専用器としての長胴甕、コゲが付着する鍋とでは、調理内容・方法の違いがある。 一方、在来の布留式甕は炉を用いた調理がなされる。中・大型は炊飯、中・小型は煮る、炊く、温めるなどといった種々の調理に用いられ、同形を呈する球胴甕のサイズによって調理内容が選択される傾向が看取できる。よって器形による用途の分化は著しくない。 以上の比較を通じてみえてくる事実は、韓式系軟質土器と土師器はその調理方法や用途に大きな隔たりがあるということである(図2)。加えて、製作技術においても口縁部、内面調整、タタキメの有無など、様々な点で相違点が認められる。 それゆえ韓式系軟質土器はたとえ少数破片であっても、日本列島在来の生活様式とは異なる一面がうかがわれるのであり、渡来した集団のある一定期間の居住を推定する材料となると推定できる。 近畿地域では、韓式系軟質土器の事例研究が積み上げられてきており、その分布はかなり鮮明なものとなっている。 現在、筆者が把握しているだけでも約一五〇遺跡、未調査や未報告資料の存在を考慮すると、さらに多くの遺跡が増加することは、間違いない。韓式系軟質土器を一破片も出土していない遺跡は存在しないといえるほど、近畿地域では過密に分布するのである。一〇遺跡であった四世紀と比べると大きな差異と言わざるを得ない。 ただし、分布に粗密があることも重要である。河内湖周辺から生駒山西麓にかけて、韓式系軟質土器の遺跡数が密に集中しているが、大和盆地北部や淀川北岸から大阪湾北岸にかけての地域は、相対的に分布がまばらとなる。韓式系軟質土器の分布は、近畿地域にまんべんなくみられるものではなく、地域間格差を見出せるのである。 播磨地域においても文献資料によって伝えられている内容を裏付けるように、渡来人の足跡をみいだすことができる。ただし、韓式系軟質土器の出土数などから推測すると、河内湖周辺や大和盆地に比べるとその差は明瞭であり、摂津地域と比較しても韓式系軟質土器が豊富とはいえない状況にある。 韓式系軟質土器出土遺跡にみる差異 まず、遺跡単位で出土する器種が少ない。たとえば、神戸市西区玉津田中遺跡、北区淡(おう)河(ご)中村(なかむら)遺跡などはまとまった土師器の土器資料が得られているにも関わらず、韓式系軟質土器は全体からみると数点しか得られていない。このことは器種同定が困難な破片資料が多くあることが災いしているかもしれないが、総体的な出土量が少なさに起因している。そのため、この出土量、セット関係という点に関しては、一遺跡において韓式系軟質土器の器種がそろう傾向にある河内湖周辺とは大きな地域差がある。 ただし、姫路市市ノ郷遺跡、たつの市竹万遺跡、加古川市溝之口遺跡など、限られた集落には三、四器種の韓式系軟質土器が出土していることには注意したい。市ノ郷遺跡では、カマドを有する住居跡SH18から甑、鍋、小型平底鉢が出土した。時期は、土師器高杯から五世紀前半の中でも古い様相を示していると判断できる。竹万遺跡、溝之口遺跡でも、少なくとも三器種の韓式系軟質土器が出土しており、中でも長胴甕がみられる。この三遺跡では鉄滓などの鍛冶がおこなわれた痕跡が認められ、おそらくは渡来した集団の一部が鍛冶技術の伝来に関与したと考えられる。 このように播磨全体としては韓式系軟質土器の出土数は少ないものの、特定の集落では器種がそろう傾向にある。そして、この三、四器種の韓式系軟質土器がそろう集 落が限定されるというありかたは、近畿各地でも同様の傾向が見出すことができる。 播磨特有の初期須恵器について 果たして新技術を携えた渡来人の招来は、播磨という地域が主体となって独自になされたものであったのだろうか。このことを考える上で、一つの手がかりとなるのは、渡来系文物の系譜や質が近畿地域とどのように異なるのかといった点だろう。そこで、古墳に供えられた須恵器を手がかりとして、この問題に挑戦することとしたい。 播磨各地では、いまだ出現期における須恵器の窯跡は発見されていない。しかし、焼成雰囲気や独自の器種、文様などがみられることから、将来的には発見される可能性がある。一例として、特異な波状文を有する器台に着目したい(図3)。通常の波状文の場合、回転台によって、比較的速い回転が得られるために、上下の振り幅が小さくかつ波打つような文様となる。しかし、図3に示した波状文はそうした回転力に頼ることなく、手首を上下に動かして流水文のように描いている。 このような波状文は須恵器生産の中心地である陶邑(すえむら)窯跡群から多量に出土した器台片には類例が認められず、兵庫県内では小畑十郎殿谷遺跡(図3―2)や蟻無山1号墳(図3―3)、小谷遺跡、県外では大阪府寝屋川市讃良郡条里遺跡から出土している。韓国では池山(チサン)洞(ドン)32・34号墳合祀遺構などに近しい資料がみられるが、こうした波状文は主流となるものではない。 ここで同じ水系に属する蟻無山1号墳と竹万宮ノ前遺跡から同一文様の製品が出土していることに注目したい。両者は、胎土、焼成も類似しており、同一の窯で製作された蓋然性が高い。そして、こうした地域特有の初期須恵器が地域の首長墓に導入されていることを考えると、古墳被葬者と初期須恵器生産のつながりをうかがわせる資料として捉えることができよう。 ただし、この特異な波状文が須恵器生産の中心地である陶邑窯跡群を介さずに得た独自の文様なのか、それとも須恵器製作技術の情報不足による変容なのかといった点は解釈の幅があるだろう。そこで、全形が判明している他の資料についても検討してみたい。 まず、宿禰塚古墳出土台付壺、黒福(くろふく)1号墳から出土した把手付脚付有顎壺を取り上げたい。台付壺は集落から出土する傾向になく、類例が少ないものの、古墳に選択的に供給される傾向にある器種といえる。宿禰塚古墳は五世紀中葉、黒福1号墳もこれとほぼ同時期であると考えられる 宿禰塚古墳出土台付壺は表面採集された資料である(図4)。脚部は円形透孔が一段、その下に方形の透窓が二段に配され、壺部は肩が張る形状である。直立する頸部に、受部を有し、口縁部は内傾する。壺部下半は粗雑な格子文、組紐文が施されており、胎土から搬入品ではなく、地域での生産が想定できる。 こうした資料の類例を韓半島にあたってみたい。内傾する口縁部は、池山洞古墳群や玉田(オクチョン)古墳群など高霊(コリョン)地域に多く類例がみられる。ただし、当地域の資料は脚台を有するものが少なく、また頸部も文様帯が三段と高いものが多いため、宿禰塚例と異なっている。文様帯が一段となる低い頸部は福泉(ポクチョン)洞(ドン)10号墳にみられるが、この資料も脚部の透窓が一段と低いものであり、類例は釜山周辺では確認できない 一方、日本列島に目を向けると、陶邑ON231号窯に類似資料が見出せる。ON231号窯例は、壺部が小さいものの、脚部高が宿禰塚例とほぼ同一であること、内傾口縁が類似していることなど共通点が多い。また、ON231号窯からは低く、頸部文様帯が一段となる大型壺の口縁部も出土している(図4―4など)。そのため、宿禰塚例は韓半島より陶邑の方に類似点が多い。そして、文様の粗雑さが、地域差の表れている点として評価することができるのである。 つぎに黒福1号墳から出土した把手付脚付有顎壺を検討しよう(図5)。この資料は把手がつく壺部に方形の透窓を二段、八方向に配する低い高台を有する。壺部や脚部が施文されない粗雑なものである。この資料についても、胎土の特徴から在地生産が想定できる。 口縁部の類似した資料でいえば、有蓋臺附把手附壺が祖形の候補に挙がる。しかし、黒福1号墳例は体部が大きく、口縁部のみしか類似点はない。器形から検討していくと、時期が新しくものの、玉田95号墳から出土した資料が類似している。ただし、脚部の段構成や文様の有無などが異なり、なによりもその粗雑さが目立つ(図5―1)。 近畿地域では、大和川今池出土脚付有蓋鉢、陶邑TG231号窯から出土した脚台付鉢が挙げられる。製作技術に差異があるものの、類似例と評価することができよう。 把手付脚台付鉢については、宮山古墳第三主体部(図5―3)からも出土している。この資料については玉田70号墳出土資料(図5―6)と類似し、陶質土器に近しい。そのため、黒福1号墳のような粗雑化が著しいものと、宮山例のように精製の二者があることが、指摘できよう。ただし、宮山例も焼成は甘く、焼成温度のコントロールが陶工に不可欠な技能の一つだとすると、大和川今池例からみると技術差を認めることができる。 もちろん、宮山古墳から出土した把手付脚台付鉢例や砂部(いさべ)遺跡出土高杯、竹万宮ノ前遺跡のコンパス文を有する破片など、韓半島との技術的な類似性が高いものも出土している。そのため、直接的な技術導入や舶来を完全に否定することはできない。 しかし、おぼろげながら明らかとなってきたことは、播磨産初期須恵器は韓半島に直接系譜を追うことは難しく、その導入に近畿の中心的な生産地を介している可能性がある。先に播磨地域では韓式系軟質土器の量が少ないと述べたが、これをその背後にある渡来系陶工の数を重ね合わせると、地域の首長が須恵器生産を主導していても、情報の入手や技術にある程度の限界があることを示しているのではないだろうか。 おわりに 本稿では、古墳の築造動態と集落の盛衰、そして渡来人の動向に着目し、四・五世紀の播磨地域を考察してきた。五世紀、ヤマト政権の主導勢力は渡来人を介した技術導入を重視した。播磨地域においても近畿中央部と同様、五世紀に韓式系軟質土器の出土遺跡数が増加し、在来の集落そのものも活性化する。しかし、それは弥生時代から順調に発展したその先にあったのではなく、四世紀における集落の停滞ないし断絶を経た中央政権や地域社会の一つの解決策だったのではないだろうか。東アジア情勢の変化、交易網の変動、これに連動した近畿中央部の古墳築造動態にみえる政治主導権の争い(都出一九八八、福永二〇〇四)がこの停滞の背景であると考えられ、地域社会にも深刻な影響を及ぼしたと推定できる。 ただし、五世紀代における渡来系技術の受容は、地域独自の製品には近畿地域と比較すると見劣りするものが含まれていることから、技術力に差異があるものであった。「中央」とのあいだに格差があらわれる点は、技術導入に際し、一定の制約がかかっていることを反映しているのだろう。 参考文献大庭重信・杉山拓己・中久保辰夫二〇〇六 「スス・コゲからみた長原遺跡古墳時代五世紀の煮炊具の使用法」『大阪歴史博物館研究紀要』第5号岸本道昭二〇〇一 「前方後円墳からみた政治構造」『前方後円墳からみた播磨』 第1回播磨考古学研究会実行委員会 田中晋作一九九六 『古代国家の黎明―四世紀と五世紀の狭間で―』 池田市歴史民俗資料館平成八年度特別展図録都出比呂志一九八八 「古墳時代首長系譜の継続と断絶」『待兼山論叢』第22号 大阪大学文学部都出比呂志一九八九 『日本農耕社会の成立過程』 岩波書店花田勝広二〇〇二 『古代の鉄生産と渡来人 ―倭政権の形成と生産組織―』 雄山閣坂 靖二〇〇九 『古墳時代の遺跡学―ヤマト王権の支配構造と埴輪文化―』 雄山閣福永伸哉二〇〇四 「畿内北部地域における前方後円墳の展開と消滅過程」『西日本における前方後円墳消滅過程の比較研究』平成十三~十五年度科学研究費補助金基盤研究(B)(1)研究成果報告書 大阪大学大学院文学研究科中久保辰夫二〇一〇 「渡来文化受容の地域格差―古墳時代五世紀の播磨地域を中心に―」『待兼山考古学論叢』Ⅱ 大阪大学考古学研究室森岡秀人・吉村健一九九二 「摂津」『前方後円墳集成』近畿編 山川出版社柳本照男ほか二〇〇五 「古墳時代」『新修豊中市史』考古 豊中市史編さん委員会山田隆一一九九四 「古墳時代初頭前後の中河内地域―旧大和川流域に立地する遺跡群の枠組みについて―」『弥生文化博物館研究報告』第3集 大阪府立弥生文化博物館

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