考古学からみた4・5世紀のヤマト政権と吉備(前編)
-吉備の動静に言及する前に-
つどい297号
前福井県埋蔵文化財調査センター所長 中司照世 先生
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考古学から見た四・五世紀のヤマト政権と
吉備(前篇)―吉備の動静に言及する前に―
元福井県埋蔵文化財調査センター所長 中司 照世先生
はじめに
過日、筆者はある歴史同好会で、古墳時代の動静について話をする機会があった。そのさい、聴講者の一人から、「『古事記』『日本書紀』(以下『記』『紀』と略記する)の継体朝より前の部分は全て創り話なのでしょう」という質問を受けた。一般の方ならまだしも、長年古代史の勉強を続けてこられた方の発言であっただけに、いささかショックを受けた。
そうした発言は、おそらく津田左右吉氏の「記紀批判」がもととなったものか、と思える。だが、津田説に関しては、井上光貞氏が「古代史研究の資料としての『記』『紀』利用の回避という『一種の偏向』の生じたこと」を指摘し、以後その他の研究者も含め、偏向の克服をめざして多くの研究成果が公表されている〔家永三郎一九六七「四 研究・受容の遠隔」(『日本書紀上』日本古典文学大系、岩波書店)〕(注1)。平成の今日では、もはや克服されたものと考えていたが、戦後六五年余を経たにもかかわらず、依然として津田説が蔓延していることを痛感させられた。
今回は、備前・備中などを中心とする四・五世紀の吉備を取り上げる。周知のように、当地の吉備氏については、『記』『紀』では、畿外の豪族としては異例なほど度々登場している。ただし、そこに記されている始祖に関しては、単なる伝承に過ぎないとする説が学界の大勢である。いわんや、『記』の伝える崇神~応神の建国史は、七世紀後半の天武朝の創作であって、歴史事実の記録ではなく、歴史伝承でさえないとする山尾幸久氏の主張すらある〔山尾二〇〇三『古代王権の原像』学生社〕。
そうまで否定的な見かたをしないまでも、応神朝以前の記事には推古朝以降の事件にもとづく創作とみなしうる部分が多いとする論者も少なくない。だがはたしてそうであろうか。
結論から述べれば、筆者のこれまでの各地における考古学的な見地からする実地検証による限り、そうした虚構説は一概には成立しがたい。その種の見解の多くには、津田史学に依拠して資料の詳細な検討を怠ったものか、文献史学としてその当否の判断が困難な部分を、後代の類似した事象でもって、そうと特定したに過ぎない例が多く混在している。戦前の皇国史観に対する津田氏の「記紀批判」は、研究の自由を享受しえている今日では、かえって厳正な研究の視点を曇らせるという影響を及ぼしているのではないか、との懸念が消しがたい。
そこで、まず吉備の動静について言及する前に、前記のような先学による既存の研究により、いたずらな混乱が派生するのを避ける意味でも、今日の学界の動向がいかなる状況にあるのか、また、はたして古代の文献の記載と遺跡実態との整合性はどうなのか、以前『つどい』第二三九号で触れた例〔中司二〇〇八「尾張の古墳と継体・安閑・宣化天皇」〕も含めて若干の具体例を示し、参考に供したい。
一、『記』『紀』伝承の当否
仁馬山(じんまやま)古墳の存在 一九七二年前後に、筆者は山口県下の首長墳の踏査を実施した。そのさい、前期の前方後円墳とされていた下関市仁馬山古墳の存在が気になった。というのは、本古墳は長門地方(以下、各律令国域を「地方」と表記。また、適宜「地方」をも省略する)でも唯一の三段築成であることが判明したからである(注2)。ただ当時は、段築や段数の違いの意義についてさして知識は無く、長門では他に例を見ない点に疑念を抱いたに過ぎない。
それでも、異例の存在という点に関連して、『記』『紀』の仲哀天皇・神功皇后の代に、「穴門豊浦宮(あなとのとゆらのみや)」(参考までに、旧・下関市周辺は律令制下の長門国豊浦郡(とようらぐん))という本州西端域では稀な宮の伝承や、「穴門直踐立(あなとのあたいほむたち)」という豪族の水田献上譚、住吉三神にかかる長門国一宮である住吉神社の鎮座の由来譚があり、古墳の南東に現在の住吉神社が近在し、また、『紀』に「穴門の山田邑」と記されたように「山田」の地が現存する等、周辺域に古代の文献上の記載にまるで合致するかのような事例を散見しうることなど、看過しがたい思いが残った。なお、古代史学界では、仲哀天皇・神功皇后に関する伝承は、史実などではなく、後代の創作とする論者がきわめて多い(注3)。
名張市での踏査と琴平山(ことひらやま)古墳 その後、一九九六年には、初頭から三重県の伊賀の踏査を実施した。その折、仲哀紀に天皇が船で西下のさい、「挾杪者(かじとり)倭国(やまとのくに)の菟田(うだ)の人伊賀彦(いがひこ)」という記述が存在するのが念頭を掠めた。というのも、大和の宇陀地域に東接する伊賀南部の名張市では、市内を宇陀川が流下しており、かつ、『紀』の大化二年条には「名墾(なばり)の横河(よこかわ)(名張川)より以(この)来(かた)は畿内」とされており、さながら前述の登場人物名を連想させる環境を備えていたからである。
はたして、まさに大和との国境域の同市西部で、後期という点に問題は残るが、前方後円墳の琴平山古墳において、後円部上で横穴式石室の閉塞石ではないかと思える板状立石の露呈を確認した。その後の発掘では、本古墳の後円部の横穴式石室が、板石で閉塞されていることが明らかになっている。同時に、副葬品類中には、甲冑や陶質土器等の存在が判明している〔門田了三ほか二〇一〇『名張市史』資料編考古〕。
前記のように、本古墳は六世紀に下る後代の存在に過ぎず、今後同地域において、関連を有する対象物の存在が時期的にどの程度まで遡れるか未詳である。だが、北部九州(ないしは朝鮮半島)との交流を窺わせ、文献上の記述に関連する疑いのある兆候が認められることは注目に値する(注4)。
石山古墳の実態 一方、この伊賀での踏査では、古墳研究では最も有名な存在の一つである伊賀市石山古墳において、既往の報告内容とはいささか異なり、看過しがたい問題が存在することに気付いた。従来、本古墳は二段築成で、墳丘に外接する東方外区を備える、墳丘長約一二〇メートルの前方後円墳と公称されてきた。だが、墳丘は丘陵上の立地のため、樹木の繁茂で視野が遮られがちであり、基底線の特定に多少の障害が伴うが、前方部・後円部とも明確な三段築成である。また、東方外区とは、後円部南接の造出しにほかならない。こうした見方が妥当なら、墳丘長は一三〇メートル前後を略測しうる。
このような実査のさいには、普通筆者は、並行して古代の文献などで関連する諸事項の有無をも検索している。はたして当地では、『令集解』に、伊賀比自支和気(いがのひじきわけ)の娘が垂仁天皇の皇子である円目王(つぶらめのおお)の妃となったという伝承があるのを確認しえた。古墳の所在地は比自岐盆地であり、近隣の比自岐集落内には伊賀比自岐和気の祖を祀る式内・比自岐神社が鎮座している。すなわち、本古墳は、時期的にも合致する大型古墳であり、仮に『令集解』の記載が事実なら、古墳の主は比自岐和気であり、異例に豊富な石製品を副葬する西槨の被葬者こそ、まさに円目王妃となったその娘ではないか、と考えてみたくなる〔中司前掲論文〕(注5)。
島の山古墳に関する諸説 おりしも同年、奈良県川西町所在の島の山古墳の前方部の発掘で、粘土槨が確認され、五月中旬にその成果が大々的にマスコミで報道された。それは、総数一四〇個という異常に多くの腕輪形石製品などの副葬が判明したことによっている。その折の新聞各紙に掲載されたコメントをまとめると、概ね次のとおりである。
棺内で検出された手玉の存在から、被葬者は祭祀を掌った巫女的な女性であり、一方、古く破壊され詳細不明だが、後円部の埋葬設備の被葬者は、政治を執り行った男性首長であろうという。また、本来双方は対をなす存在であり、当時の首長制の実態を端的に示す典型例とされている。こうした所見は、古墳の調査機関である橿原考古学研究所を初め、学界をリードする複数の研究者のほぼ共通したものであった。 重要な発掘は、出来うる限り自らの目で確認し、その如何を判断するのが肝要と考える筆者は、早速遠路現地見学会に参加した。幸い同研究所員の方のご厚意で、研究者としてまじかで観察させていただいた。
実は、この時筆者は、被葬者に関する報道内容にはいささか疑問を抱いていた。それは、前記のように、石山古墳の実査で、同様に豊富な石製品の副葬例と被葬者との間の関係をほぼ推察しうる、既知の事例が存在していたからである。
ところが、その後まもなく、皇学館大学の田中卓名誉教授による、本古墳の被葬者に関する異見が雑誌『アサヒグラフ』に掲載された。それは、
① 『記』には、「嶋垂根(しまたりね)」の女(むすめ)「糸井比賣(いといひめ)」が応神妃となったという伝承があり、「嶋垂根」の名が古墳の旧称である「島根山(しまねやま)」に符合する、
②「糸井比賣」の名が近在の「式内・糸井神社」に符合する、
ので、後円部の被葬者は嶋垂根であり、前方部(粘土槨)の被葬者こそ、妃となった糸井比賣ではないかとする推定である〔朝日新聞社一九九六『アサヒグラフ 古代史発掘総まくり』〕。
しかしながら、この説には異議も出たようで、同時にこの説が広く紹介されるに至らなかったためか、その後田中説に言及する論考などは見られなかった(注6)。むしろ、石山古墳の例も含めて、「彦姫制」の実態を示す好例と解釈され、さらには「聖俗二重首長制」が提起〔白石太一郎二〇〇三「考古学からみた聖俗二重首長制」『国立歴史民俗博物館研究報告』第一〇八集〕されるに至った。
ちなみに、高群逸枝氏による「彦姫制」や「男女複式酋長制」〔高群一九七二『女性の歴史 上』講談社〕については、多くの点で実証性に欠けるという、比較的早い段階での批判がある〔鷲見等曜一九八三『前近代日本家族の構造―高群逸枝批判―』〕。
筆者は、考古学界の大勢をなす認識より、やはり田中説こそ正鵠を射ていると考える。
なぜなら、石山・島の山両古墳とも、古代の文献上の記載や所在地の地名、式内社の近在など諸条件が整合し、くわえて、これまでの筆者の各地における実査・検証の帰結である、三段築成の古墳は大王家ないしはそれと姻戚関係が成立するなど、特別な関係を有する首長の墓ではないかという、推察とも背反しないからである。はたして田中説が正しいなら、さらに次のような仁徳天皇段の伝承に関しても、実に合理的に説明しうることにり、その点でも誠に興味深い。
二、『記』『紀』記載との整合性から派生
すること
仁徳天皇段に伝える「手玉」 『記』によれば、妃の「糸井比賣」と応神天皇との間には「速総別命(はやぶさわけのみこと)」が生まれたことになっている。この速総別命に関しては後日談がある。
以下『記』によって概要を記す。
仁徳天皇は、弟の速総別命を仲立ちとして女鳥王(めどりのおおきみ)を妃に望んだ。だが、彼女は皇后磐之媛命(いわのひめみこと)の嫉妬深さを憚って断り、むしろ速総別命の妃となることを選んだ。ただ、夫の速総別命に対して、天皇の位を望む歌を詠んだことが天皇に聞こえ、逃げる二人に山部大楯連(やまべのおおたてのむらじ)を将とする追討軍が派遣された。結局二人は殺されたが、そのさい女鳥王の手首の玉釧が剥ぎ取られ、大楯連はそれを妻に与えた。後日宮中参内の折、皇后が大楯連の妻の手首の玉釧の存在に気付き、その由来が糾問され、遺体からの略奪が判明した。結局、大楯連は死刑となった。
実は、島の山古墳の前方部粘土槨内で検出された左手首の手玉は、弧状に屈曲した管玉と扁平気味の丸玉の二連からなり、考古学的にもきわめて稀な品にほかならない。はたして、この手玉を装着した被葬者が糸井比賣であり、応神・仁徳両天皇段に伝える速総別命らに関する伝承が事実なら、こうした悲劇は考古学的な事実ともまさに整合していることになろう。
想像をたくましくすれば、女鳥王や速総別命に関する伝承がまさしく事実であり、女鳥王が速総別命の妻となったのであれば、女鳥王は義母である糸井比賣から同様な手玉を譲り受けていたのではないか、とも推量しうる。
もちろん、これはあくまでも伝承に過ぎない。だが、仮にこの伝承が事実の一端を伝えているなら、一瞥しその存在をほかから容易に判別しえるような玉釧とは如何なる品であろうか、その点で前方部粘土槨から出土した左手首の手玉は、まさしく相応しい品にほかならない。よって、この悲惨な話を彩る玉釧こそ、前記の通り前方部の粘土槨で検出された手玉と同様な品であったのではなかろうか、と想起される。
四道将軍の派遣と首長墳の拡散 ついでながら、今回の対象が吉備だけに今一つ言及しておきたい。初期ヤマト政権の勢力の伸張を示すものに、『紀』の崇神十年条の記述にみられる、いわゆる「四道将軍の派遣」がある。この箇所についても、単なる伝承に過ぎず事実ではないとする否定説が見られる。
けれども、北陸道を進んだ大彦命の後裔と伝えられる諸豪族の内、大和盆地東南部に阿倍臣が、伊賀南部では伊賀臣が、同北部では阿閉臣(あへのおみ)が、若狭では膳臣が、それぞれ蟠踞するなど、大和から若狭にかけての北進ルート上への後裔豪族の散在の事実は軽視しがたい(なお後代にも、とりわけ阿倍臣や膳臣はコシや東国との関係が濃厚で、同地方に勢力を及ぼしていることも特筆される)。こうした動きは、倭国の統一を何時と捉えるかという解釈にもつながる。
そもそも、皇国史観から脱した昭和三二年、小林行雄氏は三角縁神獣鏡や腕輪形石製品の分布から、初期ヤマト政権の勢力の伸張を論証した〔小林「初期大和政権の勢力圏」『史林』第四〇巻第四号〕。今日では、その一部に修正すべき点もあるが、実にすぐれた学説である。ただ、このような実証的研究に対しても、それらの品は政権による配布ではなく、集積とみなすべきとする批判も提起されている。紙幅の関係上結論のみ記すと、筆者は説得力を欠いた反論に過ぎないと考える。
しかも、従来太平洋側では、茨城県大洗町常陸鏡塚古墳出土の石釧が確かな北端の例とされてきた。だが、福島県郡山市大安場(おおやすば)古墳の発掘で車輪石が出土し、一挙に北方へ伸びた。一方、日本海側では、新潟県佐渡市鹿伏山(かぶせやま)出土の品が、北限例として周知されていた。斉明紀六年条に記す阿倍臣・能登臣の粛慎征伐のように、能登の鹿島津(かしまづ)(七尾市)からの出航など、海路による北進を示唆する品といえる。
その後、一九九六年の石川県中能登町雨の宮一号墳という能登の前期大首長墳の発掘で、計一九個という車輪石・石釧からなる、コシでは異例に豊富な石製品類が出土し、ヤマト政権による北陸道域の橋頭堡としての、能登の重要性を余すことなく示すものとして、研究者の注目を集めた。すなわち、小林説が、一層有利な状況になりつつあるのが実態といえよう。
「吉備王国」説は成立するか それでもなお、列島における大和を中心とする古墳の拡散を、ヤマト政権による政治的・支配的な体制の広がりと見るか否かに関しては、研究者の間でも議論が分かれるところである。現状は、文献史学・考古学両分野とも、それらを文化的・宗教的な拡散とみる論者が多い。つまり、倭国の統一を前期のこととみる研究者はきわめて少なく、大部分は後期以降のこととしている。
他方、考古学では都出比呂志氏が、「政治的統合の実現」とみなして、「初期国家」の成立としている〔都出一九八九「古墳が造られた時代」『古墳時代の王と民衆』古代史復元6〕。また、文献史学では熊谷公男氏が、「ヤマトを中心とした勢力が、古墳時代の初期に列島の政治的統合を、一応、実現した」と考え、都出氏説に対しても肯定的である〔熊谷二〇〇一「大王から天皇へ」『日本の歴史』〇三〕。
実際に、列島各地の首長墳を逐一精査すると、その規模や外部設備の整備状況に関して、畿内を中心として、いずれも各々の地方ごとに一定の枠内に納まっており、枠を外れる例はまず存在しない。ごく稀な存在に過ぎない枠を超えた例では、古代の文献の記載等、種々な状況から大王家の関係者などである可能性が濃厚である。
参考までに、古墳に顕在する要素について簡略に述べると、規模は被葬者の勢力を、周濠・段築・葺石・埴輪のいわゆる外部諸設備の整備状況如何は、格式を端的に表していると考える。東北から九州に及ぶ古墳の拡散が、畿内を中心とするまさに整序的な実態と見なしうるなら、それらを文化的・宗教的な広がりと主張するのはきわめて不合理である。すなわち、全国的な傾向から帰納する限り、都出・熊谷両氏の理解こそ妥当といわざるをえない(注7)。
まとめにかえて
以上、吉備の動静について考古学的に論究する前に、現下の学界の諸研究に対して、再検討すべき『記』『紀』の記載に関する若干例を紹介した。
最後に再度神功皇后伝承について述.べると、それを荒唐無稽な説話と主張する論者が多い。しかし、後編でも若干触れるが、仮に伝承が事実とすれば、今回述べた以外に、ほかにも実に合理的に説明しうる考古学的な事例も散見される。つまり、学界の現状は、きわめて乱暴な論断による主張に満ちている、と言わざるをえない。
もちろん、文献の記載と考古学的事例とが整合したからといっても、即それらが全て歴史的事実とは断定しがたいことは論をまたない。いずれにしろ、今後さらに細部に亘って、種々な検証や再検証が不可欠なことは言うまでもあるまい。
後編では、本論である前・中期の吉備について言及する。当地方における古代史上の代表的な主張の一つには、故・門脇禎二氏などによる「吉備王国」説がある。以下、学問的な言及から少し離れるが、同氏との思い出で小稿を閉じたい。
二〇〇五年十二月、福井県下で開催されたシンポジウムで、筆者はパネリストとして偶然席を同じくする機会があった。同氏とはそれまで直接的には面識がなく、初めての出会いであった。前夜懇親会が催されたが、まもなくお酒を勧めるべく、筆者の前に席を移された。地方在住で後進に過ぎない筆者は、恐縮しながらも、「先生は年来『○○王国論』を主張されているが、失礼ながら私の実査による限りそれらは成立しがたい。なぜなら、全国的にみて、各地の首長墳は規模や外部設備等いずれも一定の枠内に納まっていて、枠を超える例はまず存在しない。ごく稀に点在する通例を超える大型古墳の被葬者は、古代の文献上の記述との整合性等から勘案して、単なる在地豪族ではなく皇別氏族や姻族など、大王家関係者とみなすのが穏当である」と、実例をあげて説明した。
翌々年の二〇〇七年に、同氏は逝去された。その後刊行の最後の著作である『邪馬台国と地域王国』(門脇二〇〇八、吉川弘文館)では、第Ⅰ章末に「前方後円墳論」が予定されていたというが、割愛されたまま書かれなかったといわれている。はたして、筆者の各地における実態に関する究明がその一因となったか否か、もはや定かではない。ただ、仮に筆を止めることに影響を及ぼしたのなら、誠に残念である。
まもなく亡くなられるとは夢にも思わず、しかも、学界の大御所に対して、一地方の研究者に過ぎない者の主張ではあったが、杯を手にしたまま何ら反論もされず、静かに耳を傾けておられた姿が記憶に残っている。高名な学者であるにもかかわらず、あえて自説に拘泥して反論されるでも無く、黙考される姿に、筆者が年来抱いていた予断とは異なり、真摯な学者としての姿勢が看取され、却って同氏に敬意を抱いた。
(なお、今回も紙幅の関係上、一部の基礎的文献は掲載を省略した。ご了承をえたい)注
1 ただし、たとえば井上氏でも、『記』『紀』に記された、崇神~神功にかけての政治過程に関する部分は、あくまで伝説であり、架空の述作であろう、としている。井上一九六五『日本古代国家の研究』岩波書店。
2 ただ、同一台地上の西端部に所在す る市内の若宮古墳は、三段に復原・整 備されている。それでも、調査図によ る限り、まず二段である。下関市教育委員会一九八五『綾羅木郷遺跡若宮古墳遺構確認調査概報』Ⅱ。
3 直木孝次郎氏の「神功伝説のみならず神功の実在性にも疑問が多い」に代表される。詳述の余地は無いが、仲哀天皇・神功皇后伝承については、明らかな潤色箇所はともかく、そのほか幾多の点で考古学的にも整合している感が強い。筆者は、改めての再精査が不可欠と考える。直木一九六四『日本古代の氏族と天皇』塙書房。
4 なお、今少し時期が遅れるが、大和の宇陀地域においても、北部九州系埋葬設備である竪穴系横口式室内蔵の古墳の存在が確認されている。楠元哲夫ほか一九九三『大和宇陀地域における古墳の研究』宇陀古墳文化研究会。
5 その後、同年末には穂積裕昌氏により、本古墳の存在と円目王伝承についての関連性が指摘されている。伊藤久嗣ほか一九九六『日本の古代遺跡』五二、三重。
また、近年私見に類似した和田萃氏の新説が提起されているが、古墳に関する事実認識や被葬者に関して、筆者とは見解が異なる。和田二〇一〇『ヤマト国家の成立』文英堂。
6 田中説には触れられておらず、少し異なる観点からではあるが、後年千田稔氏により同様な被葬者像が提起されている。千田二〇〇三「島の山古墳から見た三輪王権」(『三輪山の古代史』学生社)。
7 ちなみに、「古墳の階層性」の表示図や、後期には三段築成は消滅するという都出氏の理解には、賛同しがたい。
主要参考文献
三重県埋蔵文化財センター二〇〇五『石山古墳』第二十四回三重県埋蔵文化財展。
奈良県立橿原考古学研究所一九九七『島の山古墳調査概報』学生社。