卑弥呼の神獣鏡?奈良県上牧町久渡古墳群で発見
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つどい296号
卑弥呼の神獣鏡?奈良県上牧町久渡古墳群で発見
(会員) 津島 隆治
二〇一二(平成二四)年八月二日、各新聞に、奈良県上牧町の丘陵で、三世紀後半の古墳が見つかり、卑弥呼が中国から贈られたとされる画文帯神獣鏡一面が出土した(読売新聞)と報じています。
八月五日に上牧町文化センターで銅鏡の一般公開がありましたが、わずか五時間という短い公開で、しかも会場が交通の不便な場所にあり、見逃された方も多いと思いますので概要をレポートいたします。
久渡古墳群の立地
奈良盆地西部には巣山古墳、新木山古墳、ナガレ山古墳、佐味宝塚古墳など大型の前方後円墳が分布する馬見丘陵地が南北に伸びています。神獣鏡が出土した久渡古墳群は馬見丘陵地の西端に位置し、眼下に大和川の支流葛下川を望む標高約七〇メートル前後の丘陵上に位置します。
丘陵上に前方後円墳の久渡1号墳(全長約六〇メートル)の存在は以前から知られていました。二〇一一年に宅地開発の計画が持ち上がり、上牧町教委、奈良県教委、橿原考古学研究所が現地調査を行なった結果、2号墳(円墳・径約一六メートル)の存在が確認されました。同年十一月から上牧町教委によって1号墳から北に連なる尾根の試掘調査が実施され、3号墳、4号墳、5号墳が確認され、最終的に丘陵上には7基の古墳の存在が明らかになり「久渡古墳群」と命名されました。
古墳群がある丘陵の北側には、小さな谷をはさんで通称「サネ山」という小丘があります。この山から江戸時代に四区袈裟襷文銅鐸(高さ約三〇センチメートル)が発見されたと伝えられています。
試掘でのミス
上牧町教委の試掘は重機で表面の堆積層を削り取る作業から始めましたが、この掘り出した土の中から二つに割れた銅鏡がみつかったのです。この作業で、3~5号墳の埋葬施設の一部が損壊し、鏡などの副葬品の埋納状況の情報が失われてしまいました。
久渡3号墳
3号墳は尾根の北端に位置します。墳丘の西側が地崩れで崩落しているため確認ができませんが、一辺一五メートルほどの方墳または前方後方墳とみられています。最大幅約五・二メートル、深さ約〇・六メートルの区画溝があり、埋葬施設は三基の組合式木棺が並列に直葬され、中央の第一埋葬施設から画文帯神獣鏡、鉄槍二点、鉄鏃三点、土師器などが見つかりました。
久渡4号墳
4号墳は3号墳の一部を削平して築造された古墳時代後期の直径約一八メートルの円墳と考えられ、木棺直葬で埋葬施設から須恵器や臼玉が発見されました。
画文帯環状乳神獣鏡
3号墳から出土した銅鏡は直径一四・二センチメートル、重さ約五一一グラムで、内区に、神獣と神仙像、八つの乳が配されています。外区画文帯と内区の間には「吾作明竟」で始まる四八文字の吉祥句が刻まれていました。銅鏡の遺存状況は非常に良好で、精緻な文様がほぼ明確に判別できます。また一部に朱の痕跡が在りました。銅鏡がふたつに割れた原因は重機によるもので、発見時には、割れた断面が銀色に輝いていたそうです。
古墳時代前期の遺跡から出土した画文帯環状乳神獣鏡は全国では三〇例目(上牧町教委資料)で、大阪府の和泉黄金塚古墳の東側埋葬施設から出土した銅鏡と同型であることが判明しました。黄金塚古墳の中央埋葬施設からは「景初三年(二三九)銘画文帯同向式神獣鏡」が出土しています。
「青龍三年(二三五)銘方格規矩四獣鏡」が出土した丹後半島の太田南5号墳に隣接する太田南2号墳からも乳が六つの画文帯環状乳神獣鏡が発見されています。
『魏志倭人伝』には景初三年(二三九)に魏の皇帝から銅鏡百枚が邪馬台国の女王卑弥呼に贈られたと記録されています。画文帯神獣鏡はこの百枚の銅鏡の一部ではないかという説があります。
久渡3号墳は古墳時代前期初頭
久渡3号墳は副葬品から古墳時代前期初頭の古墳と判明しました。これまで、前期初頭の古墳は奈良盆地東南部の纏向遺跡周辺に集中して築造され、奈良盆地のほかの地域には存在しないと想定されていました。
3号墳の発見は新山古墳(前期後半)、佐味宝塚古墳(前期末)などの大型古墳出現以前の奈良盆地北西部の様相を知る貴重な資料となりました。
久渡2号墳は高市皇子の墓?
2号墳は直径約一六メートル、墳丘の背後に東西に三〇メートル、高さ三メートルの背面カットがあり、埋葬部に盗掘坑があり、凝灰岩片も採取されていることから、終末期の古墳とみられています。
壬申の乱で活躍した天武天皇の皇子の高市皇子の墓は『延喜式』に広瀬郡にあると記載されていますが正確な場所は不明です。上牧町教委の資料では、2号墳は高市皇子墓の有力候補としています。
まとめ
ひとつの丘陵に古墳時代前期初頭から終末期までの前方後円墳、方墳、円墳と多彩な古墳が密集し、古い古墳を破壊して新しい古墳を構築するという現象も見られます。
仮に3号墳が前方後方墳とすると、同じ馬見古墳群に立地し、画文帯環状乳神獣鏡が出土した前方後方墳の新山古墳との関連が注目されます。
一部には今回の発見を、重機によって遺構や遺物を破損した記事に重点を置いた報道もみられます。上牧町のような小さな地方町村はいずれも財政難に苦しんでおり、文化事業に多くのスタッフを割けないのが実情なのです。
ともあれ久渡古墳群の発見は、初期ヤマト政権の構造を知る重要な手がかりとなりました。今後も久渡古墳群の調査は継続される予定です。多くの新しい発見があることを期待します。
桜井谷窯跡群23号窯跡を探して
(会員) 古髙 邦子
猛暑の中、八月の例会で中久保辰夫先生がお話になっていた「桜井谷窯跡群23号窯跡」のことを記事にしようと、パソコンで場所を検索して、バイクで探しに出かけました。住宅地の中をグルグルと回りましたが、なかなか見つかりません。やっと見つけた住宅に囲まれたその場所は、真っ青な空の下、緑の草におおわれた傾斜地でした。残念ながら、金網のフェンスがあり中には入ることができませんでした。
桜井谷窯跡群23号窯跡
桜井谷窯跡群23号窯跡は千里川右岸の段丘斜面で見つかった須恵器の窯跡です。窯本体は全長約十三メートル、幅一・二~二・五メートル、天井までの高さは一・二~二メートル以上の半地下式構造の登り窯で、大阪府下で最大級の窯跡であることが分かりました。六世紀始め頃に操業していましたが、焼成途中で天井が崩れてしまい、土器とともに捨て去られたようです。窯の内部には、土器が窯詰めされたままで残っていて、当時の窯詰め方法や一窯あたりの生産量など、古代の窯業生産の実態を解明するうえで貴重な遺跡です。
平成十四(二〇〇二)年に豊中市の指定文化財になりました。