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考古学から見た4・5世紀の尾張とヤマト政権

つどい295号
愛知県埋蔵文化財センター副所長兼調査課長
赤塚 次郎 先生

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考古学からみた四・五世紀の尾張とヤマト政権
愛知県埋蔵文化財センター 赤塚 次郎

第1話 三世紀という部族社会の風景  愛知県一宮市の八王子遺跡から一つの土偶が発見されている。弥生時代前期のものであるが、顔の表現が誠に面白い。よく見ると目のまわりに放射状に線が描かれている。これは何を意味するのだろうか、実は同じような「古代人の顔」がいくつか愛知県や岐阜県から発見されている。我々はこれを「人面文」と呼んでいる。人面文が盛行する時代は三世紀である。また八王子遺跡の土偶をさらに観察すると、頭に三角形の突起のようなモノが突き出ている。横顔の観察からこの突起が、頭部から顔面にかけて表現されていることがわかる。したがって間違いなく「マゲ」の表現と思われる。
つまり濃尾平野の邪馬台国時代の人々は、黥面(顔にイレズミ)をして頭にはマゲを結っていた可能性がある。服装や色についても知りたいが、なかなかその手がかりは見つからない。だが思うに、服装は単純ではなく刺繍やデザインが見事に施された美しいものであったに違いない。街の資料館に掲げられている弥生ムラの絵がある。それはどこも同じようであり無色・無文の「貫頭衣」の風景が主体だ。その風景はかなり怪しい。  群馬県高崎市から見つかったとされる「狩猟文鏡」、そこに描かれた人物たちも同様にして、頭にはお饅頭の表現や蕨手状の表現が見られる。さらに体には奇妙な突起や蕨手表現がある。部族社会の儀式、あるいは風景を表現したものであろうが、風俗性において濃尾平野とは異なることは間違いない。
近年の発掘調査成果を概観しても、地域には地域の素材があり、イヤリング・ブレスレットなどの装身具は実に多彩でありかつデザインが優れている事が多い。どうやら二・三世紀の列島社会は地域性豊かな部族社会が存在し、地域には地域の特徴があり、伝統的な風習や風俗がしっかりと根付いた社会であったと理解できるものと考えている。  私が描く二・三世紀の邪馬台国時代の風景は、このように列島には多様な地域社会が存在し、それぞれ異なる風習や風俗をもつ個性豊かな文化が存在した。それが邪馬台国とその文化を理解する上での大前提であると考えている。  決して、全ての地域が同じモノを求め、無条件に同じ志向性をもつ地域社会だけが存在したのではない。したがって邪馬台国の風俗だけが、この列島社会を代表するものでもない。  第2話 環境変動と英雄時代  三世紀が問題ではない、むしろ二世紀が重要である。その手がかりは最新の研究成果である年輪セルロースの酸素同位体比による水環境変動にあり、その分析結果に注目する必要がある。この研究成果によると、年輪に埋め込まれた雨量を算出することができ、年間の降水量に基づき旱魃と洪水の様子が見えてくるという。
西暦一から三世紀を見て行くと、実に興味深い事実がわかってくる。すなわち二世紀になると大洪水が多発し、さらに洪水と旱魃をくりかえす周期が長くなる。長周期変動と呼ばれる恐ろしい時代に突入していた可能性が指摘されてきた。ずーと洪水が続く、そうかと思うと今度は長く旱魃が続くといった、人類を破滅に追い込む環境変動が起きていたとすれば、それまでの弥生社会のリズムやスタイルでは乗り越えられない大変な時代に人々や地域社会が遭遇したことになる。大移動がはじまる。厳しい時代を乗り越えるための新たなプロジェクトが生まれ、それを果敢に遂行する力強きリーダーが求められていた可能性が高い。  三世紀という時代、邪馬台国の女王が選び出され、狗奴国には謎の男王が登場する。地域の土器が動き、文化が流動化していく。こうした現象の原因は、あるいは環境変動という未曾有の時代がこの列島を覆っていたからではないのだろうか。  その考古学的な遺跡がいくつか確認できる。濃尾平野では岐阜県養老町に存在する象鼻山古墳群がまさにこの時代を代表する遺跡である。山頂には巨大な方形壇が築かれ、その周囲に二世紀前半期の墳丘墓群が造営される。山麓には集落が展開し、そこに洪水の痕跡が見事に残されていた。加えて象鼻山には二世紀前半期に勃発した巨大地震の跡すら認められる。
地震・洪水・寒冷化、人々を襲う凄まじい変化に対応するため、濃尾平野ではそれまでの部族社会を一つにまとめあげる必要があり、そこに叡智をもって未曾有の災害を克服する力強いリーダーが誕生した。この時期を契機にして伊勢湾沿岸部は、大部族連合という大きな枠組みへと踏み出して行ったのである。その証は、土器様式の変革と墳丘墓(前方後方墳)の普及に見られると考えている。そしてやがて三世紀初頭前後にこの東海の文化が東日本に多大な影響をあたえはじめることになる。それまで弥生社会に甘んじてきた東日本の地域社会は一気に目覚め、東海文化を受入れることにより、あらたな時代・文化へと大きく舵を切る事になった。それが邪馬台国の女王「卑弥呼」に唯一反旗を翻した幻の王国「狗奴国」であったかどうかは不明瞭だが、その最も有力な地域として東海文化が浮上してきた事には異論がないものと考えている。 特に東日本では、英雄が登場し、環境変動を乗り越える手立てを、個人的カリスマが登場した東海文化の技術力に求めたのである。  第3話 東之宮古墳と邇波縣主  四世紀、濃尾平野にも巨大古墳が造営されていく、その分布をおっていくと、美濃でもない、尾張でもない、もう一つの地域が浮かび上がってくる。  結論から述べれば、現在の岐阜県大垣市から岐阜市にかけての「西美濃」地域に一つのまとまりがあり、これが「御野」と呼ばれた領域と想定できる。一方で、名古屋台地周辺部にかたまる前方後円墳の動きからは「尾張」という領域が見えてくる。そして今ひとつが、木曽川中流域である犬山扇状地とその背後の盆地を含めた領域、そこには前方後方墳を中心とした古墳造営が見られる。「邇波(にわ)・加茂」と呼ばれる地域である。のちに「邇(に)波(わ)縣(あがた)主(ぬし)」として文献上に登場する地域でもあるが、そこに三世紀代濃尾平野最大級の前方後方墳が存在する。犬山市に所在する東(ひがし)之(の)宮(みや)古墳である。十一面の鏡が発見されており、その内の四面が人(じん)物(ぶつ)禽(きん)獣(じゅう)文(もん)鏡と呼ぶ摩訶不思議な倭鏡群であった。その仲間があと二面存在し、すべて濃尾平野に分布する。畿内や他の地域には見られない鏡なのである。さらに東之宮古墳の竪穴式石槨内の棺内には一面だけ鏡が配置されているのであるが、その鏡は中国鏡でも三角縁神獣鏡でもない、人物禽獣文鏡の最古鏡であるのだ。これは東之宮古墳の主がこの奇妙な倭鏡にこだわりをもち、その製作事態に大きく関与していた可能性が高い事になろう。邇波の世界を代表する最古級の前方後方墳に独自の倭鏡が見られる点は、この領域そのものがその前代の弥生文化からの伝統性を引き継ぎ、あらたなネットワークを築く過程でさまざまな新出の文物を整えて行った事を教えてくれる。東之宮古墳の後を次いだ二代目邇波の王は、犬山市の青塚古墳である。ここには円筒埴輪のかわりに「壺形埴輪」が巡りやはり弥生時代からの風習を基盤にして古墳文化を受入れていた事が推測できるが、前方部上の方形壇のみに円筒埴輪が採用されている点、加えて鏃形石製品が発見されている点を踏まえると、「おおやまと」地域の王たちとの何らかの関わりが見えてくる。 さて、もう一度、濃尾平野の主要古墳の編年を見て行くと、大きく二つの点が指摘できる。まず一つは、古墳時代前期を中心として墳形が前方後方墳を中心とする点である。一部をのぞき濃尾平野のほぼ全てにおいて、古墳造営は前方後方墳からはじまる地域がほとんどであり、四世紀前半期の中で前方後円墳に墳形が変化する。二つ目はおおむね四〇〇年を境にして古墳造営地域そのものが大きく変化することがわかる。すなわち、前期から中期にかけては美濃・邇波・加茂という濃尾平野山麓から北部域に多くの前方後円(方)墳が造成されるのだが、五世紀中頃から六世紀にかけては一変して、名古屋台地・庄内川水系に大型の前方後円墳造営が集中する。そして他の地域ではほとんど造営を停止するかのような動きが見られる。こうした顕著な動向をどのように理解したらよいかが、尾張地域の古墳文化を理解する上で大変重要な視点になる。  第4話 尾治という領域、尾張連氏の登場濃尾平野の古墳造営から見えてくる特徴、その最大の変化ともいうべきものが五・六世紀の名古屋台地周辺部での大型前方後円墳の造営ラッシュともいうべき現象である。それは何故か、結論を急ぐと、この動きを「尾張連氏」という一族の趨勢と重なる動きであると理解している。また同時にそれは濃尾平野という領域から、今まさに庄内川水系・名古屋台地周辺部を中心として「尾治」というあたらしい領域が誕生した瞬間でもある。  濃尾平野最大規模の前方後円墳は、名古屋熱田に所在する「断(だん)夫(ぷ)山(さん)古墳」である。この六世紀前葉という時代を中心として、名古屋台地周辺部に大型の前方後円墳が次々に造営されていく。そしてその多くには「尾張型埴輪」と呼ぶ須恵器技法・須恵器生産法を組み込ませた新出の技術による独自の埴輪が見られ、それを生み出して行った。実はこの時代、尾張地域にはさまざまな技術やデザインが誕生することがわかってきた。まずは新しい須恵器生産技術であるが、これはいち早く名古屋市内の山崎川上流域に窯生産を開始する。東山窯の開闢である。またアユチ潟南部には海水から塩を生産する専用の道具が生み出される。「知多式製塩土器」と呼ばれるものであり、その生産と様式の確立は断夫山古墳の時代と見て間違いない。加えて鳥の形を加えた須恵器の器である鳥鈕装飾壺や鏡・馬具などに鈴を付ける道具など、さまざまな新しいデザインが生み出された。これらの現象は個々個別の現象ではなく、ある一族による尾張経営戦略にあると理解している。その中心人物こそ、断夫山古墳に眠る王であり、「尾張連草香」という人物であったと考えている。  尾(お)張(わりの)連(むらじ)草(くさ)香(か)はヲホド王(継体大王)の最初の妃である「目子媛」の父である人物であり、当時の尾張・美濃地域は継体大王擁立基盤の一つであるとともに最大の支持基盤であったと考えてよい。  まさに歴史的な出来事性と尾張の前方後円墳の動向、さらには生産活動を含めて尾張の歴史を考える上で一つの画期となった時代である。  次なるミッション、古代観光地を探せ  二・三世紀の邪馬台国・狗奴国時代における東海地域が果たした歴史的使命、それは東海系文化の凄まじい動きであり、東日本への分布域の拡大に代表される。そしてその延長上に位置づける事ができる、前期古墳時代の前方後方墳の造営とその分布を、二・三世紀の東海系文化の動きから再評価する必要があろう。また五・六世紀になり再び動き出す尾張地域の熱き動きの中に、尾張連氏の活躍という歴史的出来事性を読み取り、その人物とその仲間たちの志向性を古墳や遺物から考えて行くことが必要と考えている。  最後に、古代人は何も日々の生産活動や食料確保に汲々としていただけではない。風土記に記載されているような「酒宴」「歌」「舟遊び」等の遊び場が各地に存在し、風光明媚な観光地が存在したはずである。人々はそこに集い、歌い遊び、地域社会の絆を深めて行った。あるいは遠くからの旅人をもてなした。そうした古代観光地を見つけて、復活してみたいと考えている。そこには面白き空域と古代の夢が眠っているに違いない。そして新たな視点での古代地域史が見えてくるものと信じている。各地に残る生き生きした人々の風景を蘇らせ、そうした個性豊かな地域の歴史を踏まえた上で、地域からも倭王権を再評価し直しても決して遅くはないと考えたい。

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