河内政権肯定論
つどい294号
御所市教育委員会 藤田和尊 先生
①(画面をクリックすると拡大します)
②
③
④
⑤
⑥
⑦
⑧
⑨
⑩
以下検索用テキスト文
漢字変換の制限により文字化けする場合があります。
河内政権肯定論
御所市教育委員会 藤田 和尊
一、はじめに
河内政権の存否を巡る議論(表1)の多くは、文献史学者・考古学研究者ともに、畿内中枢部における同一の事象あるいは各種状況に対する解釈の違いにより肯定論または否定論が提示される傾向を否めず、従って、いずれも決定打とはなりがたい。こうしたなか、近年、塚口義信氏は、近江の政治集団(犬上氏や建部氏の前身)が内乱に破れた香坂王・忍熊王と共に没落する様子を古墳の編年観を駆使し、高い整合性を持って論じており(塚口義信二〇一二「四・五世紀における近江の政治集団とヤマト政権」『大阪大谷大学文化財研究』第12号。同二〇一二『つどい』第二〇二・二〇三号)、注目される。
二、牽制と懐柔
表2では、四世紀末葉から五世紀前葉にかけて築造された地方の中小規模の甲冑出土古墳を二つの類型に分類している。まず「性格」として、前期からの系譜関係をたどれる伝統的な勢力と、中期に入って新興した勢力に区分する。
伝統勢力の「主体部」は竪穴式石室、粘土槨、割竹形の木棺を直葬したものなど前期以来の畿内的伝統の色濃い主体部を採用することを常とする。つまり、これら伝統勢力は、前期畿内政権の影響下で古墳の築造を始めた勢力ということができる。
一方の新興勢力の方は、周辺に前期に遡る古墳が知られない。その内部主体は、日向・木脇塚原地下式横穴A号墳は読んで字のごとくであり、また、吉敷川左岸に新興
した周防・赤妻古墳は舟形石棺と箱形石棺、阿波・恵解山二号墳は箱形石棺と、それが前期にもみられる主体部であった場合でも、それぞれ在地色の強いものを採用することを常としている。
以上を確認しておいた上で、それぞれの甲冑保有形態に注目すると、前期以来の伝統勢力では中期型甲冑三点セット(冑・頸甲・短甲)のうち、冑を欠く第Ⅵ類型(●×型)の甲冑保有形態を採るのに対し、新興勢力の方は三点セット全てを併せ持ち、しかも第Ⅰ類型(●○型)という最も優秀な甲冑保有形態を採るという、顕著な違いを認めることができる。
これは非常に奇妙な事態ではないだろうか。つまり前期の畿内政権がそのまま素直に中期の政権に移行したとすれば、前期以来影響力を与え続けた伝統勢力にこそ篤く遇して甲冑三点セットを与え、新興勢力の方にはそれより劣った甲冑保有形態で与えた方が、地方経営のあり方としては自然でかつ合理的である。にもかかわらず、それとは全く逆の事態となっている状況をどのように理解すればよいのだろうか。
また、以下でも同様のことがいえる。次に例示する筑前の老司古墳、鋤崎古墳、豊後の御陵古墳、臼塚古墳の四基の古墳は、九州地方における前期以来の首長墓系譜に乗る、中期型甲冑を出土した首長墳で、いずれも地域を代表する前方後円墳である。
老司古墳や鋤崎古墳は内部主体こそ進取の気風で初現的な横穴式石室を採用しているが、ともに前期以来の、在地に根ざした伝統的な大首長墳である。老司古墳では妙法寺二号墳、安徳大塚古墳から老司古墳、博多一号墳へ、鋤崎古墳では若八幡宮古墳から鋤崎古墳、丸隈山古墳への首長墓系譜が想定され、また、御陵古墳では亀甲山古墳から蓬莱山古墳、御陵古墳へ、臼塚古墳では上の坊古墳や野間古墳群からの首長墓系譜が想定される。
これらの古墳ではいずれも冑も頸甲も有さない、短甲のみの副葬、第Ⅶ類型(××型)であり、これは先述の新興の中小勢力の方がむしろ、最も優秀な甲冑保有形態の第Ⅰ類型(●○型)で甲冑三点セットを持っていたことを考えれば、極めて特異な状況というべきである。
とりわけ、筑前・老司古墳や鋤崎古墳の場合には、転換期に相当したためか、それぞれの古墳の中心的な被葬者自身も中期型甲冑の所有に消極的であったことが判り、興味深い。老司古墳の中心主体である三号石室からは舶載品とみるべき特殊な構造の籠手や脇当のほか、草摺と三尾鉄が単体で出土しているが、甲冑出土古墳として通常見られるべき短甲は、副次的な埋葬施設である二号石室に副葬されていた(図1)。また、鋤崎古墳の場合には短甲は追葬棺に伴う遺物であった(図2)。このことから、未だ十分には「まつろわぬ者」に対して、中期畿内政権は甲冑をセットでは与えず、一方で、かれら前期以来の在地首長も中期型甲冑に重きを置かないと言った、双方の根底にある対立した意識が見えてくる。
改めて述べよう。中期の畿内政権が、前期のそれと同じ系統の上に成り立っていたとするならば、その地方経営は、前期以来の在地の大首長や表2に掲げた中小の伝統勢力の方を軸に展開させるのが自然かつ合理的である。ところが事実はそれとは異なり、中期の政権はむしろ、新興のしかも中小の首長の方をより篤く遇しているのである。
これら一見矛盾するかにみえる事例は、「和泉・河内政権が、地方において新たな勢力を興し、甲冑の配布などを通じてむしろそれらを篤く遇することにより旧来の伝統的とも言うべき在地首長層を牽制し、ひいては、彼らをも、自らの勢力下に収めようとする政策の顕現したもの」と評価できる。
地方経営に際しての、この前期とは整合性の認められない政策の存在は、前期以来の畿内政権がそのまま中期に入っても継続して地方に対応したとするには明らかな矛盾を呈するものということができ、これは前期と中期の畿内政権の間には連続性が無いこと、すなわち、系統の違いがあることの明確な証左である。
この中期畿内政権の出自については、石部正志氏が唱えられた通り、松岳山古墳から古市古墳群への系譜を想定するのが妥当と考える。
茶臼塚古墳は、松岳山古墳の前方部にわずか数十センチメートルのほぼ接する位置に築造された長方墳で、松岳山古墳前方部と辺の方向を揃え、また、松岳山古墳の各所で検出された板石積を用いた段築と同様、板石をほぼ垂直に積み上げて墳丘端を画する。
このような占地の上での計画性と墳丘構築法の上での共通性は、両者が主墳と陪冢の関係に極めて近い意識の下で築造されたことを示している。ただし、陪冢の概念規定としたもののうち、「主墳の周堤の上に築造されるか、または、ほぼ接する位置にある」ことについては、松岳山古墳が周濠や堤を有さないために、陪冢としての条件を完全には満たしていないので、茶臼塚古墳は陪冢の祖形ともいうべきものとして位置付けておくべきである。前期には陪冢は存在しない。したがって、中期を特徴づける「陪冢制」の祖形となったものこそが、松岳山古墳と茶臼塚古墳の被葬者の主従の関係であったとすることができ、これはまた、松岳山古墳から古市古墳群への系譜関係を想定させる重要な一要素でもある。
三、大和における中期中小規模墳
古式小墳という用語があるが、これは木棺直葬を主たる内部主体とするとみられる群集墳を遺跡地図から抽出するものであるために、中期古墳のみならず、後期前葉の木棺直葬墳などもその基数にカウントされるという難点がある。
そこで、既に発掘調査がなされ、所属する時期が明らかな古墳のみを取り上げて、奈良県内における「中期中小規模墳」を抽出した(図3)。次のことが指摘できる。
1.前期畿内政権の本貫地たるべき盆地東南部を除けば、奈良県内においては、中期の中小規模墳が集中する地域は、前期古墳の存在が稀薄で、また、仮にあっても中小規模のものしか存在しない、との傾向を指摘できるほか、少なくとも、奈良県南部に集中するこれら中期中小規模墳は、前代の系譜を引かない、いわば新興の勢力によって占められていること。
2.室宮山古墳出現の背景として想定できるのは、豪壮な長持形石棺と葛城地域で唯一の陪冢「ネコ塚古墳」の存在に示唆されるごとく、中期畿内政権による極めて濃厚な政治的意図にほかならず、それは前期以来の勢力の稀薄な盆地西南部のうちでも、とりわけその傾向の強い南葛城の地に打ち込まれた、旧来の大和の勢力に対する巨大な楔ともいうべきものとみられること。
そして、その意図の行使者たる中期畿内政権が、当初、この巨大な楔を核として、前期勢力の稀薄な盆地西南部全域を、自らの大和の中での拠点としようとした姿勢こそが、現在認識できる、この地域への中期中小規模墳の異常ともいうべき集中として顕現していると考えられること。
3.中期畿内政権は旧来の前期の政権の息のかかった勢力には牽制策で、新興の勢力には 懐柔策であたり、自らの勢力の浸透を図った、との前章の理解は、奈良県域内部においても適用することができること。
4.中期中小規模墳の集中する地域と、優秀な甲冑保有形態の見られる地域または甲冑が集中的にもたらされる地域が、まさに重なり合うこと。前期の勢力の稀薄なところを選んでそうした中期群集墳や甲冑出土古墳が分布しており、盆地西南部、五條、宇陀と、盆地東南部から南や東に抜けるルートを完全に抑え込んでいること。
5.奈良県域で優秀な甲冑保有形態を採ることのできる古墳は、いずれも中期に至って新興する勢力とみられ、その甲冑は中期畿内政権から供給されるものであるから、当然、その強い影響下にあった勢力と理解できること。したがって、必ずしもかれらの全てを、大和の在地勢力と考える必要は無いこと。
6.馬見古墳群の前期の勢力はプロト葛城氏とも称するべきものであり、河内政権の成立に深く関わったとみるべきこと。
7.宇陀の勢力の著しい新興は、中期も後葉になってからであるが、それまでは、陪冢のわき塚一号墳を伴う伊賀・殿塚古墳を群形成の端緒とする美旗古墳群が、盆地東南部から東へ抜けるルートを抑え込んでいたとみられること。
8.以上によって旧来の大和の勢力、つまり佐紀盾列古墳群の勢力が畿外へと至るルートは全て断たれた、と評価できること。これは旧来の勢力に対する強力な包囲網と評価するべきであり、中期畿内政権は、このようにしての旧来の勢力の復権を抑え込もうとしたとみられること。
四、奈良県内における河内政権期の王宮の所在と性格
河内政権の存在を否定する根拠として、この時期の宮の所在が大和である場合も多いことが度々挙げられる。
しかし、奈良県内に比定される河内政権期の王宮所在地を、さきの図3の中期中小規模墳の分布に重ね合わせると、興味深いことに気づく。なお、王宮の比定地は、西宮一民氏校注の『古事記』による。まず全体としてみれば、王宮の比定地は中期中小規模墳と同様、盆地南部に集中することに注目したい。いまだ造墓活動が継続している佐紀盾列古墳群の近辺に営まれることは、決してないのである。
そしてこのうちの最初の王宮、応神の軽嶋明宮Aは前期古墳の分布が稀薄またはあっても規模の小さい地域、そして中期中小規模墳が集中して分布する一角にまず営まれる。王権発祥の地である大和東南部への王宮の造営は、続く履中の磐余若桜宮Bまで待たねばならない。その後も自らの直属の配下ともいえる中期中小規模墳が集中する盆地南部に限って王宮が営まれており、最も北に営まれた安康・石上穴穂宮D、仁賢・石上広高宮Hも、物部氏の本貫地内においてあたかも守護されているかのようである。
かつて筆者は「宮」は政治の中心というよりも、畿内各地を天皇自らがあたかも巡視するように移動して豪族たちの動きを牽制する、いわば前線基地としての機能をより多く有していた、と記したが、上記のような王宮の分布はこれを支持する。
そして、そこにいう「豪族たち」であるが、その実態は前期以来の旧来勢力のことを指しており、その代表格は、かつては正当な大王を輩出してきた佐紀盾列古墳群の被葬者集団である。そこで注目したいのは雄略の長谷朝倉宮Eであり、初瀬谷のやや奥まったところに比定されるこの王宮は、面的な防御に優れた立地にある。
それは何に対する防御であろうか。『記』『紀』によれば雄略は、円大臣を坂合黒彦皇子、眉輪王と共に焼死させ、葛城本宗家を滅亡させている。そして皇族では八釣白彦皇子、坂合黒彦皇子、眉輪王、市辺押磐皇子、御馬皇子らを次々に死に至らしめている。したがって歴代の天皇に比して、より防御を固める必要はあったかもしれないが、それならば旧来の勢力が集中する大和にあえて宮を置くのはむしろ危険であるから、何らかの積極的な意図が存在した、とみたい。
佐紀盾列古墳群では五世紀中葉のうちでも後半の築造と目される磐之媛陵古墳の後、大形古墳の系譜は途切れる。このことから、五世紀後葉には、強大化した中期畿内政権が、佐紀盾列古墳群の勢力、つまり先に名を挙げた皇子らを、ついに摧破するに至った、と捉えることが可能である。雄略の長谷朝倉宮の立地は、まさにそのための前線基地としてこそ相応しい、といえるのではないだろうか。
(以上、拙稿二〇〇九「河内政権肯定論」『一山典還暦記念論集―考古学と地域文化―』から)
=end=