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柏原市内の史跡を訪ねる

塚口、中司両先生の案内にて柏原市内の史跡を探訪しました

9時50分 JR高井田駅=高井田横穴=柏原市立歴史資料館=高井田山古墳=鳥坂寺(トサカテラ)跡=昼食(サンヒル柏原)=津積駅家(ツツミノウマヤ)跡=知識寺南行宮推定地・知識寺跡=石(イワ)神社=河内大橋跡=大和川付け替えの記念碑(築留)=JR柏原駅 15時30分 解散

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            本日の参加者(サンヒル柏原)

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              高井田横穴公園入口
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高井田駅北側の丘陵に横穴墓が群集している。27基の横穴で壁画が発見され、そのなかで二か所ほどわざわざ扉を開けて見学させていただきました。
下の写真は最も有名なゴンドラ形の船にのる人物の壁画のある墓室。これらの壁画は死者の霊をあの世に送るために描かれたと考えられ、1300年前の人々の死に対する考えを教えてくれる。
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高井田山古墳は近畿地方で最も古い横穴式石室を主体部とした古墳。築造時期は5世紀後半から末にかけてと考えられ、石室の形態や熨斗などの副葬品から朝鮮半島特に百済との強い関係があるとされる。
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古墳の見学の後柏原市立歴史資料館にて安村俊史館長からさらに詳しい説明をしていただきました。
高井田山古墳被葬者について
『日本書紀』「雄略紀」五年(四六一)七月条に、百済の蓋鹵王の弟、昆支が倭国の都に入ったとある。 安村先生昆支説(クリックすると音声が出ます)
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葡萄畑から鳥坂寺の銘が入った椀が出土した。
近鉄大阪線が鳥坂寺の敷地跡を横切っている。
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             鳥坂寺金堂北階段

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               サンヒル柏原からの景観
二上山、玉手山、古市古墳群を一望することができる。
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古代の幹線道路には駅馬が置かれたが、この津積駅家(つつみのうまや)は大和と難波宮を結ぶ要衝の地であった。
『延喜式』諸国駅伝馬
河内-楠葉、槻本、津積 とあります。

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祭神 石姫皇女(宣化天皇の皇女、欽明天皇の皇后)、石長姫命、熊野権現。境内のクスノキは、周囲約6メートル・高さ約16メートル以上、樹齢700~800年、大阪府指定天然記念物。
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五重塔(七重の可能性もある)礎石
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河内六寺創建当時の堂塔が並び立つ壮麗な景観をご想像ください。
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知識とは、仏教を信仰し、寺や仏像を造ることに協力した人々のこと

塚口先生「知識に驚いた聖武」 (クリックすると音声が出ます)
柏原の地を訪れた聖武天皇は知識寺にあった大毘盧遮那仏に感銘し奈良東大寺の大仏を造るきっかけとなりました。「知識」とは、仏教を信仰し、寺や仏像を造ることに協力した人々のことであり、知識寺や東大寺はこれらの「知識」の人々の財や知や労働力の施によって建立されました。この伝統は現在に至るまで連綿と受け継がれています。

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P1070301_panorama                                                新大和川(左から右へ流れる)

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                    上の写真と反対(北)側の旧大和川

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JR大和路線は旧大和川跡に線路が敷設された。大和路線柏原駅西側には旧大和川の堤防跡(手前の道路より一段高くなっている)が残る。
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これをもって本日の現地見学は終了しました。
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お疲れ様でした。
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柏原市の気温 35.8℃
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        7月28日午後3時の天気図

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以下検索用テキスト文(漢字変換の制限により文字化けする場合があります。)

 柏原市の史跡を訪ねて (一)(会員) 石塚 一郎
七月二十八日、総勢三十一名JR高井田駅に集合した。今日のご案内は地元とあって塚口先生。それにいつものように中司先生、後でお訪ねする予定の柏原市立歴史資料館の安村敏史館長まで加わって下さって、早速、駅側の高井田横穴公園に向かう。好天に恵まれ(?)焼け付くような暑さだ。 高井田横穴公園 入り口を入ると早速に横穴がある。安村先生のご説明では、高井田横穴群は六世紀半ばから七世紀初頭までの墓(盛り土のないものは、古墳とはいわない)で、平均で三体が埋葬されており、家族墓と思われる。殆どが木棺であるが、中には玄室を掘削するに併せて石棺を造り付けている例もある。丘陵全体では今までに一六二基が確認され、国史跡となっている。この丘陵は凝灰岩の岩盤に薄く土壌が覆っているような地質なので、横穴の掘削は容易である。二個所ほど入り口の扉を開けて頂いて内部を見学する。入り口上部に立派な文字が彫り込まれていたが、当時のものかどうかは分からないとのことであった。内部は意外に広かった。天井・壁面は剥落もあり、もろそうであった。この横穴群には、二十七基で線刻壁画が発見されている。第3支群5号横穴が最も有名である。その入り口は階段上にあるが、壁画保護のため閉鎖されており、壁画は入り口のガラス越しにか見ることができない。階段下にはその壁画面のレプリカが展示されていた。 公園の周囲は住宅地になっているが、塚口先生は、かつてその開発時に地下水の流れに影響が現れて史跡の保存上問題になるだろうと、指摘していたが、今やそれが現実問題になってきていると嘆いておられた。 高井田山古墳 横穴群のある丘陵を登っていくと、頂上に高井田山古墳がある。石室は屋根で覆われガラス窓越しに内部を見ることが出来る。五世紀後半の近畿で三番目に古い横穴式石室をもつ古墳(中司先生によれば、墳形は恐らく帆立貝形であろうとのことである)である。石室の壁は安山岩の板石を積み上げ、天井は持ち送り式でドーム状に造られた。 二体の木棺(クギが発見されている)が納められており、副葬品から右が女性、左が男性と思われる。 神人龍虎画像鏡という大きい立派な鏡が副葬されていた。この鏡には同型鏡が五面知られている。さらに注目すべき副葬品に銅製の熨斗がある。日本では他に新沢千塚一二六号墳の例しか知られていないが、朝鮮半島では、百済の武寧王陵、新羅の天馬塚・皇南大塚北から出土している。 このようなことから、被葬者は百済の王族であろう考えられている。安村先生は副葬されていた須恵器の年代を四五〇~四七〇年遅くとも四八〇年とみて、自分は武寧王の親の昆支(こんき)説に賛成しているが、応神記にみえる韓(から)鍜(かぬち)の卓素(たくそ)という説もあると述べられた。中司先生は羨道の幅・玄室への取り付け角度などの知見を合わせ考えて古墳の年代を五〇〇年頃とみて、武烈紀に「高田丘の上に葬る」との記載のある百済の意(お)多(た)郎(ら)とする説が有力だと考えておられる。柏原市立歴史資料館 あまりの暑さに現地での説明はそこそこにして丘陵下の資料館に移動した。資料館では、開館二十周年・鳥坂寺跡国史跡指定を記念して「鳥坂寺再興」と題する企画展を行っている。 安村先生は一般展示はぜひ資料館を再訪してゆっくり見て頂きたいが、今日は企画展だけは是非しっかりと、見ていって頂きたいと述べられて、河内六寺についてご説明を頂いた。 河内六寺の名称は文献には現れてこない。『続日本紀』天平勝宝八歳二月の条に、孝謙天皇が難波宮行幸の際に「智識・山下・大里・三宅・家原・鳥坂等六寺」を巡拝されと記述されている寺の総称である。巡拝はこの記述の順に行われたと考えられている。これらの寺は、後の東高野街道東側の生駒山地西麓に北から三宅・大里・山下・智識・家原・鳥坂の順に並んでいた。このうち三宅寺の位置が未だ知られていないが、その他の寺の位置はほぼ特定できている。六寺なかでは智識寺が最も大きかったと思われる。ここで、知識とは仏教を篤く信仰し、造仏・造寺のために自分たちの財産を寄付した俗人の集団をいう。そのような人々の力で建てられた寺なのである。この寺の本尊は盧舎那仏で、これを礼拝した聖武天皇が東大寺の大仏の造仏を発願したことで有名である。聖武天皇は何に感動して発願に至ったのか、仏像が立派だったからか、それとも立派な仏像や寺を造った知識の力だったのか。いわゆる大仏造営の詔で広く人民の協力を呼びかけていることからみて、恐らくそれは後者であったであろう。 これまでに調査されたのは東塔跡のみだが、基壇の一辺は二十メートルと大変に大きい(元薬師寺の場合の二倍はあろう)。五重あるいは七重の塔であったと思われる。最も調査が進んでいるのは、鳥(と)坂(さか)寺(でら)である。まず、昭和四(一九二九)年に下半部がほぼ完形の鴟尾が発見され、全国的に注目されるようになった。現在は全体の形が復元され、東京国立博物館に展示中である。昭和三十六・三十七(一九六一・一九六二)年の調査では、塔跡 雨落溝と一辺一・二メートルの方形心礎を検出、一辺八・六六メートルの基壇が推定された。三重の塔と思われる。金堂 壇(だん)上(じょう)積(づみ)基(き)壇(だん)が見出された。北辺長一八・〇六メートル、南辺長一八・五三メートル、東辺長一四・八九メートル、高さは一・四メートルと推定された。南北の階段が残っており状態が良かったので、平城宮跡復元大極殿階段のモデルとされた。建物規模は不明。講堂 基壇は東西長三二・三一メートル。南北長二〇・三三メートル、高さ〇・五〇メートル。建物の礎石はほぼ残っており、桁行七間(二八・〇七メートル)梁行四間(一六・〇八メートル)で、桁行五間・梁行二間の身舎(もや)の四面に庇(ひさし)がつく。柱間寸法は、庇では桁行・梁行ともに三・七九メートル、身舎では桁行四・〇九メートル、梁行四・二五メートルであった。身舎の中央部には凝灰岩切石で構成された東西八・一九メートル、南北五・四六メートルの須(しゅ)弥(み)壇(だん)があった。 昭和五十八・五十九(一九八三・一九八四)年の調査では、僧坊 桁行十二間(二六メートル)以上、梁行二間(四・七メートル)の掘立柱建物である。食(じき)堂(どう) 桁行五間(一五・二メートル)、梁行四間(一〇・四メートル)の掘立柱建物で、西側に庇が付いていた。 僧坊・食堂共に長辺の向きはほぼ南北であった。食堂の約二〇メート北で見つかった井戸の中から「鳥坂寺」と墨書された土器が出土したことにより、この遺跡が鳥坂寺跡であることが、確定した。 平成二十一・二十二(二〇〇九・二〇一〇)年の調査では、金堂 基壇の南側では、大規模な盛土がされていることが判明。斜面地を平坦にして中門を建てようとしたのであろう。盛土中には、古墳時代前期とみられる円筒埴輪片や、多量の板石(石室に使用されていたものか?)、白色礫が含まれていた。講堂 講堂中央間の北側庇礎石付近から、長さ四〇~四六センチメートルの鉄釘四点と、幅七・五センチメートル長さ約四〇センチメートルの帯状の鉄製品が出土した。出土位置や形状から、扉に使用された金具とみられる。回廊 講堂の西側、東側の回廊の礎石とその抜取穴が見つかった。北面回廊の柱間寸法は桁行三・二メートル、梁行三・六メートルであった。礎石の北側一・三メートルの地点には、雨落ち溝とみられる幅約二メートルの溝があった。 このような調査結果を踏まえ、この平成二十四年一月二十四日鳥坂寺跡約一万五千平方メートルが国史跡に指定された。企画展「鳥坂寺再興」 安村先生のご案内で企画展を見る。入り口を入ると、まず目に付くのが例の墨書土器。文字の持つ圧倒的な力を思い知らされる。よくぞ出土したものだ。ないものねだりだが、古墳からもこういうものが出るといいのにという声が聞こえる。中央に、市民歴史クラブ製作の鳥坂寺1/30復元模型が展示されていた。立派な出来映えで素人集団の作品とは思えない見事なものであった。鳥坂寺跡発掘の発端となった、鴟尾はレプリカの展示。安村先生のご説明によれば、鳥坂寺の瓦と同文の瓦が智識寺や家原寺から見いだされているが、遠く離れた大山崎の山崎廃寺からも同笵の瓦が見いだされている。また鳥坂寺で見いだされた上端がゆるやかな山形を呈する火頭形三尊塼仏が山崎廃寺からも見つかっている。両寺院の地域の枠を越えた密接な繋がりを思わせる。山崎廃寺は淀川に架かる山崎橋の維持管理をしていたと考えられ、知識集団やそれらの統率者である僧侶の拠点となっていた寺院と考えられている。知識集団の統率者としては大仏の造仏に拘わった行基が知られているが、その師匠とされる人物に船氏出身の道昭がいる。彼は玄奘三蔵の弟子として有名で、帰国後、飛鳥寺の東南隅に禅院を建てたのち、全国を周遊し、井戸の掘削や、造船、架橋など各地の社会事業に力を入れた。行基同様知識集団の統率者であったと考えられる。山崎廃寺には飛鳥寺東南禅院と同笵の瓦があり、更に火頭形三尊塼仏は、道昭が唐からもたらしたと考えられているのである。この火頭形三尊塼仏は鳥坂寺や山崎廃寺のみならず近畿地方を中心に各地の寺跡から見つかっている。このことが直ちに道昭の足跡を示すとは言いがたいけれども、少なくも道昭に関わりを持つ広範囲の知識集団のネットワークの存在は明らかであろう。 鳥坂寺跡 昼間近になったので、安村先生にお別れして、昼食の場所サンヒル柏原に向かう。 まもなく鳥坂寺跡にさしかかるが、今は、一面のブドウ畑、寺域を大きく横切る近鉄の線路、その向こうの塔跡が出土した天湯川田神社の森が見えるのみ。 サンヒル柏原 昼食の場所サンヒル柏原の入り口前広場からは、大和川とその対岸の右手先に古市古墳群の允恭陵(市野山)・仲津姫陵(仲津山)・応神陵(誉田御廟山)が並んでいるのが遠望できた。


柏原市の史跡見学 (二)
会員) 山口 久幸

 安堂町の丘陵上に建つ「サンヒル柏原」のレストランで昼食を終えると、程なくその場で 塚口先生より午後のスケジュールと史跡の説明が始まる。今年一番の暑さの中現場で話を聞いても「上の空だろう」と云う先生の配慮による。先生の説明が終わると、ロビーで先生方を囲んで集合写真を撮り出発。
 近鉄安堂駅の方向に向かい坂道を下り、駅が見える所まで来ると、道に沿って下にブドウ畑が現れた。ブドウ畑の向こうに小山があり、間を近鉄線が横切っている。丁度ブドウが実をつけているため、畑に入るのは遠慮したが、先生の話では、この中に鳥坂寺金堂の石段が発掘され保存されている。

鳥坂寺(とさかでら)
 寺は七世紀中頃に創建されたと伝えられ、生駒山地の南西端で舌状に張り出した丘陵上に位置する。丘陵の先は大和川に接している。寺の立地する丘陵には、広い平坦部は無く、地形的に寺院建設には不向きな場所と言える。この不向きな場所選んで、わざわざ寺を建立したのには、当時の人々の何らかの「こだわり」が感じられる。
 寺の伽藍配置は四天王寺式と言われるが、建物の配置は地形の制約を受けている。近鉄線の向こう側の小山の上に塔跡があり、その地は現在「天湯川田(あまのゆかわた)神社」の境内となっている。鳥坂寺は、天湯川田神社に鳥取氏の祖である湯川棚命(ゆかわたなのみこと)が祀られていることから、鳥取氏の氏寺とみられてきた。しかし この地は鳥取氏の本貫地である鳥取郷からは離れていることから異論もある。
鳥坂寺の存在について、次のような見方もある。
 淀川に架けられた山崎橋(京都府大山崎町)の維持・管理は山崎院が担っていた。『行基年譜』に神亀二(七二三)年船大徳と云う僧侶が、壊れた山崎橋を見て、橋の架橋を発願したと記されている。この船大徳とは、船氏の血をひく道昭とされる。このことから船大徳(道昭)が大和川に架かる河内大橋の架橋に拘わり、鳥坂寺は河内大橋の維持・管理の役を担っていたのではないかとする。
鳥坂寺跡からは、山崎院と同笵型の軒瓦が出土している。
鳥坂寺跡は、平成二四年一月、国史跡に指定され、今後周辺の整備が進められる。

註1 鳥取氏
 十一代垂仁天皇の皇子誉(ほむ)津(つ)別(わけの)命(みこと)は、三十才になっても言葉が発せなかった。或る日、空を飛ぶ鳴鵠(くぐい)(=白鳥)を見て、鳥の名を尋ねたことから、天皇は天湯河板挙命(あめのゆかわたなのみこと)に命じ、この鳥を捕えさせた。命は但馬国、出雲国でこの鳥を捕え、天皇に献上した。鳥を得て以後皇子は話すようになり、天皇は命の功績を賞し「鳥取造」の姓を与えた。
(『日本書紀』・垂仁天皇二三年十月、十一月の条)

註2 船 道昭
 河内国丹比郡 船連の出身で、白雉三(六五三)年唐に渡り、玄奘に師事し、禅を学んだと云われる。斉明六(六六〇)年に帰国し、飛鳥寺の東南隅に禅院を建て日本法相教学の初伝となった(法相宗)。晩年は諸国を廻り堀、造船、架橋等の事業に携わったとされる。我が国において最初に火葬にされた人と伝えられる。

津積駅家(つつみのうまや)
『延喜式』諸国駅伝馬に
  河内 ― 楠葉・槻本・津積
と記され、この記録から当地の何処かに、駅家の備えがあったことが知られる。

安堂町から歩をすすめ、太平寺に入る民家の密集する交差点で、塚口先生から「この付近が駅家のあった所ではないかと考えている」と話があった。その場所は古代からの道で、現在は東高野街道と呼ばれている道と交差して、山側に辿ると大和へと続く竜田道に繋がる場所である。
塚口先生の説の根拠として
1 津積郷の地名の由来は、大和川の堤に基づいており、当時の津積郷は堤のある現在の安堂町北部にまで及んでいたと考えられる。
2 駅家は交通の要衝に置かれることから、難波に向かう渋河道に続く道と、東へは大和に向かう竜田道に至る道が交差する付近一帯が考えられる。
3 この地付近に、馬場先(崎)の地籍名があり、又各地の駅家跡付近に存在する「前田」「前畑」の地名がこの近くに存在する。
以上の点をあげて説明を受けた。ただ津積駅家跡の所在については諸説ありその場所は確定していない。

註  駅家は律令制に基づき、全国の主要な道に設けられ、公用の旅・通信のための中継施設とされる。

石(いわ)神社
 東高野街道を北に歩き、太平寺地区の交差点で山側に入る。神社は西向きの小高い山麓に所在する。「延喜式神名帳」に記される式内社で、主祭神は宣化天皇の皇女石姫―欽明天皇の皇后―である。麓の境内に樹齢八〇〇年とも伝えられる楠の大木があり、幹の周囲六~七メートル高さ一八メートルと言われ、府指定天然記念物に指定されている。張り出した枝が境内を覆い木陰をつくっている。
 河内六寺の一つである智識寺は神社の北の方向にあったとされ、神社社務所横に寺の東塔の礎石と伝えられる石が残る。現在は府指定文化財となっている。石に刻まれた柱穴の大きさは一二二センチメートルあり、これから推測すると東塔の高さは四八・八メートルに達すると説明板に記されている。
 智識寺の伽藍配置は薬師寺式であったと云われ、堂内に安置されていた盧舎那仏の高さは一八メートルあったとされる。
知識とは、仏道に帰依し財物を寄進する人々を言い、当寺はこのような人々により建立されたと伝えられる。
『続日本紀』に聖武天皇が天平一二(七四〇)年に智識寺を訪れ、安置されている盧舎那仏を観て、東大寺の建立を発願したと記されている。
太平寺地区の山の中腹に観音寺(天冠山智識寺中門観音寺)があり、寺にヒノキで造られた一つの経机が残る。この経机の裏面に「拾筒之内知識寺什物」と墨書きされていることから、当寺が智識寺の流れをくむ寺であると考えられている。

智識寺南行宮推定地
 石神社から柏原市役所方面に向かう途中、安堂駅を過ぎたあたりの路上で、この近くに智識寺南行宮が在った地と説明を受けたが、民家が密集し存在を示す碑も建っていないので判らない。
 付近を眺めると「離宮」と云う名のマンションがあり、その名が行宮の存在を伺わせる。昭和六一年、この地の建設予定地から木簡が出土した。同時に大量のヒノキの木材片が出土したことから、この場所は行宮建設のための工房跡と考えられた。このあと調査が進められ、南行宮の所在は智識寺の南に位置し、家原寺の間にあったと推測されている。
『続日本紀』天平勝宝八年の条に、
「二月二十四日 天皇(孝謙)難波への行幸におもむき、この日は河内国に至り、知識寺の南の行宮に到着した」
とその存在が記され、
 「二十五日 天皇は、智識・山下・大里・三宅・家原・鳥坂などの六寺に行幸し仏像を礼拝した」
と記されている。
 しかし 十世紀に入り都が平安京に移ると、平城京から難波への道の重要性は低下し、この地域の繁栄も失われていった。
 南行宮推定地から、JR・近鉄が並行する架橋を渡り、大和川の堤防に出る。道路を挟んで大和川に向かって左手に市役所が建ち、反対側の歩道に中甚兵衛顕彰碑と説明板がある。

大和川付け替え記念碑
中 甚兵衛顕彰碑
 大和盆地から流れる大和川と、南の山間部から流れる石川がこの地点で合流し、更に幾つかの支流とに分かれ北へと流れる。流域は潤い農地として開拓され、幾つもの集落が形成された。しかしこの流れは大量の土砂を運び、やがて天井川となり、雨期には洪水をおこし頻繁に田畑や集落に被害をもたらした。これによりこの地の米の収穫高は、年々減少するようになった。
 洪水を治めるため、大和川の流れを西の堺方面から大阪湾に通す付け替え運動は、万治二(一六五九)年頃に始まったとみられる。しかし地域には付け替え賛成派、河川改修派、反対派があり、やがて付け替え派の運動の力は弱まっていった。貞亨四年には幕府より、「付け替え不要」の方針が出された。
 この状況の中で、河内郡今米村(現東大阪市今米)の庄屋の子である中甚兵衛は、大和川の付け替えを幕府に嘆願し続けたと伝えられる。
状況が一変したのは、元禄一三・一四年の続けての洪水被害により収穫高が激減したことと、治水に明るい万(まん)年(ねん)長十郎が堤奉行に就いたことである。又付け替え不要としていた河川改修派の河村瑞賢が死去したことも影響したと云われる。
付け替えの機運が高まると、新川筋にあたる人々は反対に乗り出し、付け替え反対の嘆願書を幕府に提出した。しかし幕府はこれを受理せず、元禄一六(一七〇三)年十月に正式に付け替えを決定した。
工事にあたり堤奉行万年長十郎は、中甚兵衛を普請御用として工事に参加させた。元禄十七(一七〇四)年二月に付け替え工事が始まり、その年の十月に工事は完了したといわれるが、新大和川は殆ど河底を掘らずに造られたと伝えられる。

河内大橋
 江戸時代、東高野街道を通る人は、大和川を船で渡ったと云われる。
しかし奈良時代には朱塗りの立派な大橋が架かっていたと云われ、『万葉集』巻九 にも詠まれている。その所在地については諸説あり不明であるが、河内大橋の位置は 前の大和川と石川の合流点付近とする説が最も有力である。
 藤井寺市に舟橋の地名があり、地名からこの場所に架けられていたとする説もある。
 河内大橋については、僧侶に率いられた庶民の集団が架橋したと云う伝承がある。
 碑の前を離れて近鉄安堂駅に向かう。当初は徒歩で移動する予定であったが、暑さを避け堅下駅まで電車で移動することになった。

旧大和川堤防跡
 堅下駅で下車しJR柏原駅を超えて、十番街と呼ばれる辺りまで来る。道路から建物方向を眺めると傾斜しながら少し低くなっている。これが旧堤防跡を表しているとのことであった。

 確認を終えてJR柏原駅に戻り、改札前で解散となった。照りつける暑さの中で参加された皆様御苦労様でした。
 又 塚口、中司先生には猛暑の中、熱心にお話戴き有難う御座いました。御礼申し上げます。

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