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継体天皇の出自とその即位事情を探る(下)

つどい242号
堺女子短期大学学長 塚口義信先生

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継体天皇の出自とその即位事情を探る(下)
堺女子短期大学学長 塚口 義信
継体の出自について?―継体は応神五世の孫か―

 では、継体を応神五世の孫とする「一云」の所伝は信じられるであろうか。この疑問を解くには、「一云」『記』『紀』三者の史料系統を明らかにしておく必要がある。
 「一云」――原史料はいくつもあったようだが、それらをまとめて「一云」のかたちにしたのは、江沼(えぬまの)臣(おみ)氏であったと考えられる。そのことは、?斯王のことについてはほとんどふれず、布利比弥命がいかに美人であったか、また継体を養育するのに布利比弥命の実家の余奴(よぬの)臣(おみ)(江沼臣)がいかに尽力したか、この点だけを力説してやまないその叙述のあり方からみて、ほぼ確実と思われる(塚口義信「『釈日本紀』所載の「上宮記一云」について」(『堺女子短期大学紀要』第十八号)。
『記』――序文に明らかなとおり、天皇家もしくは諸家の保有していた「帝紀」類によっているものと考えられる。ただし、継体を近江から擁立したと伝えている点は『紀』とは異なり、典拠とした原史料が相違していることは明らかである。私見によれば、息長氏が保有していた「帝紀」に依拠したものとみられる。
『紀』――「一云」の叙述とよく似ており、「一云」もしくはそれと同系統の史料に依拠しているものと考えられる。
 以上によって三者の史料系統が明らかになったが、ここで重要なことは、依拠している原史料が、『記』と「一云」ないし『紀』とは、まったく相違していることである。とすると、この事実はわれわれに、一つの重要な示唆を与えるであろう。
 というのは、一般的にいって、別系統の史料が一致して語っている箇所は信憑性が高い、といえるからである。してみると、継体が応神五世の孫であるとする所伝は三者に共通してみられる所伝であるから、その信憑性はすこぶる高い、といってよいのではあるまいか。
 ただし、三書の依拠した原史料がいずれも、ねつ造された虚偽の所伝を採用しなかったとは断定できない。もし虚偽の所伝に基づいているのなら、こうした方法による研究はあまり意味をもたなくなるが、あくまでもそれは一つの想像であって、そのように考えねばならない史料的根拠があるわけではない。したがって現在のところ、上記のようにみておくのが穏当ではなかろうか。

 継体の本拠地はどこか
 『記』によると、継体は近江(滋賀県)より擁立されたことになっている。しかるに、『紀』では、越前の三国より迎えられたことになっており、所伝に食い違いをみせている。ここから、近江か、はたまた越前か、継体の本拠地をめぐって幾多の議論が交わされるに至ったことは、周知のとおりである。さらに最近では、その本拠地を畿内に求める、新しい仮説も提起されている(原島礼二『倭の五王とその前後』・塙書房、大橋信弥『日本古代国家の成立と息長氏』・吉川弘文館)。
 しかしながら、私は、かつて述べたように、継体は父系においては近江を、母系においては越前を本拠とする、王族の末裔ではなかったかと考える。更に父祖の代からの関係で、畿内の忍坂(桜井市忍阪(おっさか))や三島(高槻市・茨木市)の地とも深い関係を有していたと考える。
 母系の本拠地 「一云」と『紀』には、越前の高向は母、振媛の故郷であり、父の彦主人王が亡くなったので、幼い継体を養育するために帰郷したことが記されている。忍坂大中姫の妹の弟姫が允恭天皇の妃となる以前、「母とともに近江の坂田に住んでいた」という『紀』允恭七年十二月の条の伝承を参考にすると、おそらく継体は、かなりの期間、この高向の地に住し、父の死後、多くの生活を母の実家に依存させていたのであろう。『紀』が継体を越前の三国より擁立したと伝えているのは、母方の所伝に依拠しているためと考えられる。
 六世紀代になって、横山(よこやま)古墳群(坂井郡金津(かなづ)町(ちょう)中川・瓜生から丸岡(まるおか)町(ちょう)坪江(つぼえ)にかけての地域に所在)に、椀貸山(わんかしやま)古墳(墳丘長約四五メートル)や神奈備山(かんなびやま)古墳(同五八メートル)などの大型の前方後円墳が突如として出現するのも、決して偶然ではない。これらの前方後円墳は、おそらく継体の皇子の椀子(まろこ)皇子を始祖とする三国公(みくにのきみ)氏にかかわるものと推測される。
 父系の本拠地 「一云」によると、継体は若野毛二俣王(わかぬけふたまたのみこ)・大郎子(おおいらつこ)の子孫となって
いる。ところが、この一族は『記』や『紀』によると、近江の坂田郡(長浜市・米原市・彦根市付近)ときわめて深いつながりをもっていた。中臣氏の家伝に依拠して書かれたと推測される『紀』允恭七年十二月の条によると、前述したように、大郎子の妹の弟姫は母とともに、「近江の坂田」に住んでいたという。また、大郎子は、『紀』応神天皇の段によると、坂田郡を本拠とする息長君氏や坂田君氏らの始祖とされている。
 このようにみてくると、継体の父系の本拠地は近江の坂田郡にあり、姉川(あねがわ)流域に築造されている坂田古墳群(長浜・垣籠(かいごめ)古墳群)のなかのいくつかの古墳は、おそらくこの一族の奥津城(おくつき)と推定される。
 この一族はその地理的条件からいって、琵琶湖の水運と深い関係をもち、湖上交通により、対岸の湖西に盤踞する三尾(みお)氏とも交流をもっていた。高島郡に彦主人王の三尾の別業(なりどころ)(別邸)が営まれていることや、継体が三尾氏出身の女性を娶っていることが、何よりも雄弁にそのことを物語っている。『記』が継体を近江より擁立したと伝えているのは、父方の所伝に基づいていると考えてよいであろう。

 継体の即位事情
 以上の考察を前提にして、最後に、継体の即位事情に関する私の考えを、ごく簡単にまとめておきたい。
 継体は、五世紀中葉から後半にかけてのある年に、近江の坂田郡に土着化していた王族の末裔である彦主人王と、越前の三国に本拠を置く一族の娘、振媛(ふるひめ)との間に出生した。はじめ、この家族は近江に居住していたが、彦主人王が傍系に位置する人物であったためか、彼の死後は振媛の故郷の三国に移り、幼い継体もまたそこで養育されることとなった。
 この一族が早くから近江・越前・尾張・美濃などの豪族と深い関係をもっていたことは、その地理的条件のみならず、姻戚関係や継体の后妃伝承などからも知ることができるが、おそらくこうした勢力の存在が、
継体擁立の史的前提となったのであろう。
 さて、武烈が亡くなったあと、大伴金村によって継体は擁立された。しかるに、大和や河内の豪族の一部にはこれを快く思わなかった一派があり、継体の大和入りは阻止された。継体が樟葉や筒城・弟国の地を転々としたというのも、おそらくそうした事情を語っているものと推察される。
 ただし、このことをもって、「継体はそれまでの天皇家とはまったく血のつながりをもたない新王朝を樹立した英傑であった」とみなす説もあるが、これはまったく筋違いのことで、根拠とはなり得ない。継体がそれまでの天皇家と血のつながりがあろうがなかろうが、とにかく地方からやってきて天皇になろうというのであるから、反対勢力がこれを阻止しようとするのは当然のことである。
 ともあれ、継体は、近江・越前・尾張・美濃をはじめ、山城南部から河内北部・摂津にかけての地域、つまり木津川・淀川水系を掌握していた諸豪族をもその有力な後
背勢力として、やがて大和入りを果たし、「継体大王家」を確立するのである。継体の陵墓、すなわち今城塚(いましろづか)古墳が淀川水系に位置する高槻市郡家(ぐんげ)新町(しんまち)に営まれているのも、決して偶然ではない。
 ただし、継体が名実ともに「大王」として認められるのは、前王統の血をひく手白香皇女との婚姻関係が生じてからのことであろう。
 『紀』は手白香皇女の立后を継体元年三月甲(きのえ)子(ねのひ)(五日)の条に記しているが、もちろん、このような年月日をそのまま信じるわけにはいかない。事実は、反継体派との妥協が成立してから以後のことであって、しかも継体は『記』が記しているように、手白香皇女に入り婿(いりむこ)のかたちで大王位を継承した可能性が大きいと考えられる。
 継体が擁立される直前の五世紀後半という時代は、畿内の有力豪族層を巻き込んだ王位継承をめぐる争いで、ヤマト政権(朝廷)がいちじるしく弱体化した時代であった。
 ヤマト政権の権臣によって継体が擁立された最大の理由は、その建て直しにあったと考えられ、事実、継体の登極によってヤマト政権の基盤は、一挙に畿内から近江・越前・尾張・美濃方面にまで拡大した。継体朝に筑紫政権の首長たる磐井が滅ぼされたのも、決して偶然ではなく、ヤマト政権の権力再編・強化の一つのあらわれとみることができる。この意味において継体朝は、
日本古代国家形成史上、一つの画期をなす時代であったと評してよい。
 しかし、急激な権力の再編・強化は、政権内部に新たな争いの火種をつくることとなった。継体・安閑・宣化・敏達系王統と欽明系王統との対立が、それである。しかし、この問題については、他日を期すこととしたい。

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