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「神武東征」考―安芸国―

つどい293号
「神武東征」考―安芸国―
准会員 曽川 直子

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「神武東征」考―安芸国―
(准会員) 曽川 直子

『古事記』によると 神(かむ)倭(やまと)伊(い)波(は)礼(れ)?(び)古(この)命(みこと)と兄弟達は天下の政をするに適当な地を求めて、日向の高千穂宮を出発して、北方の宇佐を経由し、西方筑紫の岡(おか)田(だの)宮(みや)に一年、東行して阿(あ)岐(きの)国(くに)の多(た)祁(け)理(りの)宮に七年、吉備の高嶋宮に八年坐(いま)してやがて河内の草(くさ)香(かの)邑(むら)白(しら)肩(かた)の津に至ったとされている。

『日本書紀』には
 神(かむ)日本(やまと)磐余(いはれ)彦(びこの)天皇(すめらみこと)は日(ひ)向(むかの)国(くに)の吾(あ)田(たの)邑(むら)の吾(あ)平(ひら)津(つ)媛(ひめ)を妃(みめ)とし手(た)研(ぎし)耳(みみの)命(みこと)をもうけるが、年四十五歳の時、塩(しほ)土(つつの)老(を)翁(ぢ)が「東の方に美(よ)き地(くに)有り。青(あお)山(やま)四(よもに)周(めぐ)れり。其の中に天(あまの)磐(いわ)船(ふね)に乗って飛び降(くだ)ったのが饒(にぎ)速(はや)日(ひ)である。」というのを聞いて諸(もろもろ)の皇子連に宣言した。「我々も行こう!」
東に向かって出発した。
 案内人の椎(しい)根(ね)津(つ)彦(ひこ)と共に筑紫国の菟(う)狭(さ)、筑紫国の岡(おかの)水門(みなと)(遠賀川河口)を経て安芸(あきの)国の埃(えの)宮(みや)に至ったと伝える。
 多祁理宮も埃宮も同じ宮と考えられ「埃」はすぐれたとか優越なという意味をもつ。
 故郷広島の地に住んで私は埃宮とはどこだったのだろうと知りたかった。また「神武東征」とは一体何だったのだろうかと夢想するようになった。諸説あるのだが、私の脳裏に九州より大勢の人達が東へ東へと舟に乗って集団で移って行く姿が浮かぶようになった。それは紛れもない歴史的事実であったはずだ。
 何故東を目指したのか?
 目的地はあったのか?
 地図のようなものや道中の宿泊地の当てはあったのか?
 その全てが否であったかもしれない。
 だが、恐らく彼等には若いエネルギーがあった。仲間が大勢いた。冒険への夢があった。そして天真爛漫に、この世は頑張ってやってみれば何とか道が開けるのだろうという〝信ずる心〟があった。〝信ずる神〟がいたと言ってもよいのかもしれない。
 〝神〟なるものを一族郎党全員が信じ、心を一つにして東へと海に漕ぎ出した。その勇ましい、キッパリとした潔(いさぎよ)い心の成し得たもの、それが「神武東征」であったと私は思う。
 それは何年にもわたる旅―海を渡る日々、労働の日々、戦いの日々でもあったろう。目の前に出現する問題を瞬間瞬間に、一つ一つ皆の叡知を結集して解決して乗り越え乗り越えて辿り着いた。その旅の終着が、〝大和(ヤマト)〟であったと考えている。多くの血が流れ、倒れ涙し、再起し前進していった猛者の集団の旅を「神武東征」と後の人々は語りついだのだ。
 筑紫を出発した一行が瀬戸内海に入り、島々の間を抜けて阿岐国あたりで上陸した地点はどこだったのだろう。
 候補地(伝承地)は七か所ある。
 安芸の厳島神社(創建は縁起によると端正五年となっており、この年号は九州年号で推古元年にあたる)の祭神が宗像三女神であることを考えると、この地は九州を含む西日本の勢力圏であり、昔から幾分かの交流や情報は既にあったかと思われる。「神武東征」の案内役椎根津彦の子孫の古代海人(あま)族には海(あま)・海(あま)部(べ)・明石(あかし)国造などがあり、黛弘道氏は佐伯郡の海(あま)を廿日市に比定している。海人(あま)族の血をひく神武一行は瀬戸内でも「海(あま)」の名を残している地点では歓待され食料を供給されたに違いない。

①「宮(みや)内(うち)天(てん)王(のう)社」(廿日市市宮内一七〇一)
 佐伯郡に海部(あまべ)のあったことは『和名抄』より明らかなことで、廿日市市には、「アカシ」や「ハタ」など海人に関係のある地名が残り、「神武東征」の折り、当地に立ち寄られたとの伝承がある。
 『芸藩通志』は、この社はもと広田社山の麓にあったが、天正年中(一五七三~一五九二)に海潮により損なわれ、現在地に遷座したと伝える。古来、厳島神社兼帯の一社である。

②「臼(うす)山(やま)八(はち)幡(まん)神社」(広島市佐伯区五日市町
石内字臼山三四一〇)
 広島市佐伯区五日市町石内に「神武東征」の途上この地に軍船を寄せ上陸し、天皇御手ずから榊の枝を折って地に立て天神地祇に戦勝の祈願を捧げたので、後年里人がここにシメナワを張り巡らし、やがて祠を建て御着船を記念して「貴船神社」と称したとの伝承がある。その地「宮が迫」は人家から余りに遠いとして、「穴が迫山」の持ち主彦兵衛の所有地を買収して社地を移したという。今の社地の南に「宮の下」バス停がある。

③広島市草津の「八(はち)幡(まん)神社〔力箭(りきや)八幡宮〕」
 (広島市西区田方一丁目一一―一八)
 この地には「神武東征」の多(た)紀(ぎ)理(りの)宮(みや)(『記』は多祁理宮)の伝承が残っている。神社西下より御幸川の間に仮皇居が在ったという。
 この神社は推古天皇御宇(五九三~六二八)厳島神社とほぼ時を同じくして、草津古江の入江の奥に多紀理姫命を海路の守護神として祀ったのが創祀とされる。
 この地はまた、神功皇后の朝鮮出兵の折り、軍船の船揃えをし弓矢(箭)の訓練をしたことに因み「力箭(りきや)山(ざん)」と称し、草津の旧名を「軍(いくさ)津(つ)浦(うら)」という等の伝承もある。往古は深い入り江であって、宇佐の神を祀る津=宇佐津の訛ったものが「草津」となったとも言われている。

④広島市西区井口の「大(おお)歳(とし)神社」(広島市西区井口二丁目二三―二五)
 神武天皇が井口に寄られた際に船をつないだ場として、万寿元年(一〇二四)に創建された神社である。

⑤呉市宮原の「八(や)咫(た)烏(がらす)神社」(呉市宮原十一丁目一二―二五)
 「神武東征」の砌(みぎり)当地に賊ありてそれを平定せんとするに、八咫烏が先駆て休(やすみ)山(やま)(高鳥山)に翼を休め、その功力に賊は退散したと伝えている。後に人々はその地に社を造営した。昭和十五年高台に遷座している。

 一般によく知られている「安芸の埃宮」の有力候補地は次の二つである。

⑥広島市安佐北区可部町の「河戸(こうど)神社」(広
島市安佐北区亀山二丁目一八―一一)、「荒人(あらひと)神社」(同亀山南一丁目一八―一一)
可部町は太田川の流れがゆったりと湾曲した所で、近くに百をこえる古墳が存在する。またこの太田川を遡り支流の帆(ほ)待(まち)川の流れを遡れば高台に「船山」という地名を残し「天王神社」がある。かつては出雲よりの鉄製品がこの地に集まり、やがて大和へと運ばれた古代交通の要地であった。この地では豊かさと安全が確保され、その昔天皇が七年とどまったという伝承も頷(うなず)ける所である。近くの「河戸神社」は「神武東征」の際の行宮跡を祀ったのが始まりと伝えられている。
寛文四年(一六六四)安(やす)北郡を高(たか)宮(みや)郡に郡名変更の際に、可(か)部(べ)庄河戸下四日市村に惣(そう)社(じゃ)という旧宮跡があり、「安芸国可愛(えの)宮(みや)」の旧地と伝えられるより、高宮郡と号したという。また「荒人神社」は神倭伊波礼毘古命を祀り、「神武東征」の際この地に船を繋ぎ、居を定めたと伝えられ、その縁により創祀されたという。もと太田川の川岸に社があったが、文化十二年(一八一五)現在地に遷座したと伝えられている。
この地を歩くと穏やかな農村風景が今も残っており、目をひいたのは大和の三輪山に似たやさしい山容の阿武山(五八六メートル)であった。この地なら旅の人々を七年間包みこんで更なる旅への蓄えをするのに十分な地であったろうと思われた。

⑦安芸郡府中町「多家(たけ)神社〔埃宮〕」(安芸郡府中町宮の町三丁目一―一三)
 この地は神武天皇が東征の折り立ち寄っ
た所と伝えられ、埃宮の本命の地とされている。
 多家神社は『延喜式』(九二七年完成)に安芸国の名神大社三社の一つとして名が記されている。主祭神は安芸国を開いた安芸津彦命ほか六柱の神々。今は神武天皇と安芸津彦命を祀る。社地の「誰(たれ)曽(そ)廼(の)森(もり)」は神武天皇が当地の者に「曽(そ)は誰(たれ)そ」と御尋ねになったことからこの名がついたとつたえられている。だが、この誰曽廼森は実は昔からの神社地ではない。中世になると多家神社の社運が衰え、江戸時代府中村は北氏子(総社(そうじゃ))と南氏子(松崎八幡宮)に分れ互いに埃宮は我が地であると争った歴史がある。「総社」は厳島神社の上(しょう)卿(けい)職(しき)を勤めていた田(た)所(どころ)氏の居宅もあった地で、今は田所明神という小祠が残っている。もう一つの「松崎八幡宮」は今も境内跡に残る「たけり社」が神武天皇の安芸多祁理宮だとして紛争したのであった。明治六年になって、両社を廃止し「誰曽廼森」に社殿を造営して新たに多家神社となったのである。そして今ここが埃宮ということになっているのである。
 安芸府中は貝塚などの存在により、昔は瀬戸内海の小さな一つの入江であったらしいので、東へ向かった人々がこの入江に数年間定着していたかも、とは十分考えられるであろう。

以上、七つの候補地について述べた。ではどこが「神武東征」の「埃宮」であったのか?
 今となっては不明である。不明であるが、私はどの地にも可能性があると考えている。
 紛れもなくこれら七つの地は、その昔西の方より見知らぬ人々がやって来て、幾ばくかの歳月止まっていた。そして彼等はやがて東の方に向かって出発して行ったのであった。
 彼等は何者であったのか。
 後(のち)になり今度は東より西へ征伐と称してやって来た戦う人達の集団、神功皇后の朝鮮出兵の人々に接し、その人達の話より、どうやらその昔に西より東へ向かって行った大和朝廷のご先祖がいたらしいと聞き、里人は納得する。
 「あっあの時のあの人達が神武天皇様だったのだ」と。
 お祀りせねばと甲斐甲斐しく人々は社を造り、口(くち)語(がた)りに子孫に「かの有名な神武東征の時の逸話」を、見て来たもののように語り伝える。
 幾人もの神武―その昔東へ東へと美(うる)わしき国を信じて進んで行った人々の集団―それこそが「神武東征」であったのであろうと、今の私は信じている。

参考文献
『広島県の歴史散歩』広島県の歴史散歩研究会、山川出版社
『廿日市の文化』廿日市町郷土文化研究会
『佐伯郡誌』広島県郷土史叢刊、臨川書店
『廣島縣神社誌』広島県神社庁

☆曽川さんからのお手紙
佐藤洋榮様の訃報に驚いております。二〇〇四年、奈良の当麻寺の千回目「聖衆来迎錬供養会式」のお練(ね)りの日に、荘厳な楽の音の中、本堂前で偶然お会いした日のことを思い出しています。中将姫が生身成仏した日と伝えられる五月十四日に、二十五菩薩のお錬りを見上げながら、互いに同時刻に同地に居たことの偶然と、二人共勾(まが)玉(たま)を肌身につけていること、「饒(にぎ)速(はや)日(ひ)」に興味があることを、共通のものとして語りあったことを思い出します。情熱的な方だったのに残念でなりません。それで為すべきことは為さねばと、原稿を送ることにしました。広島に興味のおありの方に、少しでも参考になればと思います。
本稿は、以前木村節子様のご依頼により神武東征時の埃宮について調べた原稿が元です。その後神武東征はなかったとか、神武の存在そのものが不明だとの諸説を考え、お渡しするのを憚っていました。けれどやがて、私は神武東征とは一人の人間の行跡ではなく、幾人もの同じ神を祀り行動を共にした人々の西より東へ移動したエネルギーであると考えるに到り、広島の神社を中心にして、伝承の中に一筋の歴史の光を見ようと考え直してお届けする次第です。

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