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天武・持統・元明朝の里程について

つどい255号

天武・持統・元明朝の里程について
会員 草川英昭

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天武・持統・元明朝の里程について
(会員) 草川 英昭

一.はじめに
『日本書紀』(『紀』と略す)、『続日本紀』(『続紀』と略す)の中に里程を表わした箇所はほとんどないといってよい。管見にしてこれ以外にもあるかも知れないが、次の二例が見出される。
 一例は十代崇神六十五年紀七月条に
「任那国、蘇那曷叱知を遣して、朝貢らしむ。任那は筑紫国を去ること二千余里。北、海を阻(へだ)てて、鶏林(しらぎ)の西南に在り。」
 三国志倭人伝の島づたいの三〇〇〇余里より一〇〇〇里短いが、直線距離で二〇〇キロメートル弱である。
 また、『紀』の四十代天武天皇の十年(六八一)紀八月条には次のように書かれている。
「丙(ひのえ)戌(いぬ)の日(干支は番号を表す。二十三番の日。この八月の朔=一日は丁(ひのと)卯(う)=四番の日であるから、八月二十日に当たる。各月の朔の干支を決めるものが暦法であり、ここでは元嘉暦が用いられている)、多禰島(種子島)に遣し使の人等、多禰嶋の図(地図か、特産物を図示したものか)を貢げり。其の国、京(飛鳥藤原京)を去ること、五千余里。筑紫の南の海中に居(あ)り。」
 参考 平城京遷都は七一〇年和銅三年三月、このときの天皇は四十三代元明。
 種子島から奈良明日香までは、直線距離で約五五〇キロメートルである。ここから、一里は一〇〇メートル強の距離であるとされていることがわかる。四十三代の天皇元明朝の『紀』編者は距離をこのように理解し、また天武朝の人々も同じ認識であったろう。
 この例以外に『紀』及び『続紀』に里程を示した資料は見当たらないが、遣唐使が日本国の大きさを、里程で示して話したとする記録が、『旧唐書』日本伝、『新唐書』に見られる。
『新・旧唐書』の文体は多少異なるが、両書とも日本国は東西・南北それぞれ数千余里(方数千余里)で、西と南は海、東と北は大山であり、大山の外側には毛人(蝦夷の人々であろう) がいると記している。
 特に、『新唐書』には、これを咸亨元年(六七〇年・天智九年)に派遣された遣唐使の話しとして記録している。しかし、その年の天智紀には遣唐使派遣の記事がない。しかも咸亨元年の天皇は四十一代の天皇持統(『新唐書』では摠持と表示。『紀』に依ると天武・持統期間には遣唐使派遣がない)であるかの様に書いてある。
 ここでの西は東支那海、南は太平洋であるが、北と東の大山がどこなのかはよく判らない。奈良から見たときの感じでは、北は北陸道の伊吹山地 (愛発(あらち)関、敦賀市疋田) と東山道の不(ふ)破(わ)関 (関ヶ原)、東は鈴鹿山脈 (東海道の鈴鹿関、いずれも奈良朝以前からの関所)とするのがよいと私は考えるが、あるいは甲信越と遠江以東の東海・関東 (これらは防人を出した吾妻の国。なぜ、九州防衛のための防人を、遠い東国から出させたのだろうか。新たに占領した九州の軍隊を武装解除し、服従して来た東国に税と人員とを負担させて、九州に配置して両者の叛乱を防止するための処置だと私は思う。また、二十一代雄略天皇の時代から軍事は東国に任せていたとされている)までとして、北は出羽三山、東は阿武隈山脈なのかも知れない。
 ただ、後者の関東までの範囲とすると、東も海となり、大山とは言いがたい。ここで言う方数千余里を七千里くらいとすれば、これも一里が一〇〇メートル強になって、初期の遣唐使も紀編者と同じ里程で距離を考えていたことになる。
参考 防人による九州防衛について、私がこのように考えるのには、『続紀』卷三 慶雲四年(七〇七年)七月条の「軍器(武器、旗、幟、軍楽器など)を「狭蔵」した者、和銅元年(七〇八年)正月条の「禁書」を「狭蔵」した者は「初めの如く罪に復(もど)すと、記されていることからであるが、詳しくはまたの機会にしたい。また、中国側が倭と日本との連続性を認めたのは唐の張守節の『史記正義』によると則天武后の武周六九〇~七〇五の則天武によるとある。上田監修『古代日本と渤海』の六九頁東野治之「唐へのまなざし」


二.天武・持統・元明朝の人々は一里が約一〇〇メートルであると思っていた
 遣唐使から日本の話を聞いた唐の人々は、この方数千余里の里程を信じなかった。誇大であると思ったのである。唐時代の一里は五六〇メートルくらいとされている(角川漢和中辞典)ので、当然であろう。これでは方四~五千キロメートルくらいとなって、日本は現在の中国くらいの大きさになるからである。
 この里程以外にも遣唐使の話は唐の人々には通じなかった。日本列島に対しての唐の人々の常識に合わない事を言っていたからであろう。これについて歴史学者はあまり問題にしていない。ほとんど議論さえもされていない。不明なことが多すぎるからである。『旧唐書』には倭国伝と日本伝とがあり、読み方によっては倭国と日本国は異なる国とも読み取れる。
 この問題は大きな問題であるし、人によって意見が異なることと、ここでの本題ではないので、これ以上この小論では触れないことにする。
 ただ、遣唐使、『紀』編者を含め持統~元明朝(六八六~七一五年)の日本人は、一里は一〇〇メートルくらいの距離であると考えていたと思われる。
 参考 七二〇年養老四年に『紀』は撰上される。翌七二一年元明没。この時の天皇は四四代元正女帝

三.天武・持統・元明朝以前の中国書に一里を一〇〇メートル前後にしたものがあるのか
 では持統・元明朝の人々は一里を一〇〇メートルくらいとし、これが当時の中国(唐)にも通じると、なぜ思ったのだろうか。中国の本に一里を一〇〇メートルくらいとして書かれたものがあるのか。勿論ある。それは天文算法の書である『周髀算経』と、陳寿の『三国志』である。そして、『三国志』での倭国の位置の表示法は、その後の後漢書、宋書、隋書に受け継がれている。だから、唐時代の中国でも魏晋朝と同じ里程であると思ったのであろう。
 そうして、この両書の里程については、共に一里が四〇〇メートル強であるとする長里説と、一〇〇メートル弱であるとする短里説とがある。

四.数学・天文・暦学書『周髀算経』の里程と天皇家の入手の時期
『周髀算経』がいつ日本列島に入って来たかは判らないが、『続紀』に依ると四十五代聖武天皇の天平(七三一年)三年三月七日条に、
「今より己後、算を習ひて出身するも、『周髀』を解せざる者は、只省に留まるを許す」
とある。式部省に身分保留、すなわち、叙位されないというのである。
『周髀算経』は中国の戦国時代(BC四〇〇~BC二二〇年)から前漢の頃にまとめられ、三平方の定理や円周率の記述があり、その後多くの人の手が入り、唐時代に『周髀算経』の書名が与えられたとウィキメディアフリー百科事典にある。
 参考 谷本茂 「中国最古の天文算術書'周髀算経之事'」『数理科学』、No.177 p.52.1978
 この論文では地球の子午線の距離と三角関数を使って一里が七六~七七メートルと算出。里程については、この『周髀算経』にある「一寸千里の法則」が成り立つことが、夏至の正午に、長さ八尺の測定用の周髀を、同一子午線上の距離が判っている(周髀の長さと同じ単位で表現できる距離)二点に垂直に立て、その影の長さを測定して比較をしないと判らない。『周髀算経』には一里が何尺だか書いていなく、その尺も里も何メートルか我々が知らないからである。
『周髀算経』からメートル法による距離を求めるときには、次の様にする。この本では「一寸千里の法則」による相似形の計算をして、測定点(洛陽)から北回帰線(夏至の正午には真上に太陽がある位置)までの距離の一万六千里を求めている。これを地図から測定点の位置を北緯三四・八度と、北回帰線北緯二三・四度までの距離一二五万メートルと算出してみれば、我々に『周髀算経』の一里が七八メートルであることが判る。
 すなわち、中心角一一・四度の円弧は直線としても誤差が少なく、天と地が平行であるとしてよい。
 これらの影の測定値は訳者の橋本が云うような「一里は四〇五メートル」ではなく、この法則が成り立つときの一里は七六から七八メートルでなくてはならない。それは、北緯三四・八度の洛陽で、夏至の時に、八尺の周髀の影が一尺六寸であれば、洛陽から北へ千里(四〇五キロメートル)の位置の緯度は三八・〇度となり、そこでの影の長さは二尺一寸となって、「一寸千里の法則」による一尺七寸ではないからである。逆に南に四〇五キロメートルの位置の緯度は三一・三度、影の長さは一尺一寸であり、一尺五寸ではない。
 なお、この本では、北極星の観測による仰角の度数は三八度としている。これは洛陽の緯度が北緯三八度であることを意味するから、誤差は大きい。
  参考 川原秀城、橋本敬造、藪内清訳『中国天文学・数学集』
     「周髀算経・霊憲・渾天儀・晋書天文志体」一九八〇 朝日出版社
 各地での東西南北の方向の決定、時刻の設定、暦の計算には『周髀算経』の知識が必要であるから、藤原京の東西南北の方位の決定、あるいは、原帝紀には記録のあるはずがない、神武までの干支を求めるために、『紀』の編集当時の元明時代から、一千三百年前までの各月の月齢(月朔)を計算していることから、遅くとも持統のころには入っていたであろう。

五.三国志の里程
 魏志倭人伝を含む『三国志』魏書烏丸・鮮卑伝・東夷伝には二十八の里程があるが、これらは全て一里一〇〇メートル弱で書かれている。しかし、邪馬台国近畿説を唱える学者はこれを取り上げない。一里一〇〇メートルメートル弱では邪馬台国が近畿にはならないからであろう。
『三国志』魏書烏丸・鮮卑、東夷伝での諸国の位置と面積の表示には、一定の規則があり、全ての国の位置と面積がその規則によって記録されている。そうして、『三国志』六十四巻呉書諸葛恪伝でも、倭人伝と同じ規則で丹楊郡の位置と面積を描いている。
 それは四方の接する国名を挙げて位置を示し、その後に面積を示すのである。この表示法には例外がない。当然、卑弥呼を盟主とする邪馬台国連合・倭人国の面積も『三国志』魏書倭人伝に記録されている。ただ、ここに書かれている「周旋すること五千余里なる可」が女王国の面積を表わしているのだと気がつかなかった(今も気付いていない)。魏の使者は船で九州島(女王国)を一周(周旋)して、面積を求めていたのである。
『三国志』魏書烏丸・鮮卑伝での鮮卑の位置と面積は、「南は中国漢辺を鈔(か)すめ、北に丁令を拒み、東は扶余を卻(しり)ぞけ、西に烏孫を撃ち、匈奴の故地を尽く拠(し)める」と書かれている。その面積は「東西万二千余里、南北七千余里」とある。丁度、現在の内蒙古の範囲である。これらの里程が、一里を約一〇〇メートルであるとしていることがわかる。そして、東西の一万二千余里は倭人伝に書かれた、帯方郡から邪馬台国までと同じ距離、南北の七千余里は倭人国の一つである狗邪韓国 (釜山) までの距離と同じである。ソウルから釜山までの七千余里が約七〇〇キロメートルであることは直ぐわかる。残りの五千余里のうち、三千余里は海である。九州に上陸してからは、卑弥呼のいる場所まで一五〇キロメートルくらいしかない。その場所は直線距離で、唐津を中心に半径約一〇〇キロメートルの範囲にあることになる。邪馬台国は九州の中にあり、近畿ではない。

六.面積が「周旋すること五千余里」であれば邪馬台国は九州である
 女王国の四方は、次のように書かれている。
 東は千余里の海を隔てて多くの倭種の国 (本州と四国、これが島か大陸かは、魏使は述べていない) があり、邪馬台国から南四千余里のところに侏儒国(屋久島か、種子島かであろう。そこに背の低い人が住んでいるのを魏使は見たのである)があり、船行で一年の南東のところに裸国と黒歯国があるとし (これは倭人の話として聞いた。魏使は確かめていない)北は朝鮮(帯方郡)、西は中国(会稽郡) であることは判っているから省き、面積は周旋すると五千余里だというのである。船行一年と周旋五千余里には、断定していなく「可」と助字を付している。そして、倭人の国は島であり、北も南も島で連なっているとする。
 この「周旋すること五千余里」が九州島の大きさを示すことは、先に挙げた『三国志』呉書諸葛恪伝の丹楊郡の面積との比較から判る。
 丹楊郡は呉・会稽・新都・?(はん)陽の四郡と鄰接し、その面積は周旋すると数千里とある。丹楊は江南の太湖と?(はん)陽湖の間 (焼き物で有名な景徳鎮附近か) の範囲である。女王国の周旋五千余里と同じ書き方で、丹楊郡の面積が、ほぼ九州と同じであることは地図を観れば判る。
 一里 約一〇〇メートルの天武・持統・元明朝の里程は『周髀算経』と『三国志』の里程で、一里は一〇〇メートル弱であった。

七.日本における一里一〇〇メートル説の終焉
『三国志』の里程一里一〇〇メートル弱 の認識は、天平宝字六年 (七六二年) に建立された多賀城碑に記された里程によって、日本国においては、それまでに消滅したことが判る。この碑には多賀城が「京を去ること千五百里」とある。奈良から多賀城までは八七〇キロメートルくらいと求まり、これを千五百里としているから五八〇メートル/里となる。これは、唐時代の五六〇メートル/里に近い。
 『紀』が完成したのが養老四年七二〇年、多賀城碑が建立されたのが七六二年、この間に何があったのか。
 岩波日本史年表によれば
 七一六年(霊亀二年) 阿部仲麻呂、吉備真備、僧玄昉等遣唐使として出発、
 七三五年(天平七年) 吉備真備、僧玄昉帰国
など遣唐使の往来があったことが記されている。新しい暦の太衍暦を始めとした唐の文化が入ってきたのである。

八.おわりに
『紀』編者を含め、天武・持統・元明朝の藤原京(六七二~七一〇年)の人々は、里程として一里を一〇〇メートルくらいとして使い、これが唐にも通じるとして遣唐使もこの里程で、日本国の大きさを説明していた。それは天文算法の書、『周髀算経』の里程でもあり、陳寿の『三国志』の里程であった。しかし、この里程は唐の人々には誇大とされたことが、『新・旧唐書』日本伝に書かれている。ただ、『周髀算経』や『三国志』の里程が、寸尺(いずれの時代でも二〇~三〇センチメートル)に比して、極端に短いことが、中国や日本では理解出来なかったのであろう。
『紀』編者は勿論、天武天皇、持統天皇、元明天皇等は邪馬台国が九州に存在した国で、卑弥呼が天皇家の人物でないことを知っていたこと、彼らは、我々が伝説上の人物とする初代天皇の神武天皇や、新羅に遠征したとされる十四代天皇の仲哀天皇、その后の神功皇后 (実際は、神功は后ではなく、妃の一人である。『記』・『紀』編者が皇后と書き換えた。仲哀后は大津に残っていた大中姫であると考える豪族が近畿にいたのである。これが継体即位時に、仲哀五世の孫とされる倭彦が出現した理由であろう) などが、存在していたと信じていたことが『記』・『紀』の書き方から判ること、『三国志』の里程の多くが一里一〇〇メートル弱で記録されていること、本州か四国にある邪馬台国の勢力範囲の南に位置し、その権益を侵して邪馬台国と戦闘状態にあった倭種の国の一つである狗奴国などについては、改めて説明したい。
 参考 直木孝次郎他 訳注『続日本紀』一
~四 平凡社(東洋文庫)、上田正昭監修『古代日本と渤海』二〇〇五 大巧社を参考した。また防人については直木孝次郎「東国の政治的地位と防人」『国文学解釈と鑑賞』1956、No.10,p.54を参考にした。

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