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5世紀のヤマト政権と北摂津

つどい246号
大阪大学教授 福永伸哉先生

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つどい246

五世紀のヤマト政権と北摂
―猪名川流域の古墳時代史と「政権交替論」―
                                   大阪大学教授 福永 伸哉

一 はじめに
 創立二〇周年を迎えられた豊中歴史同好会の今年度の「統一テーマ」は五世紀を中心とする北摂の古墳時代史ということである。この豊中台地に展開する桜塚古墳群は、現在では大石塚、小石塚、大塚、御獅子塚、南天平塚など数基が地表に墳丘を残すのみとなっているが、明治年間には三六墳を数えた北摂有数の古墳群である。そして、昭和初期に削平消滅したものも含めて、まさに五世紀の有力古墳が多く含まれているという点で、わが国の大規模な古墳群の中でも異例の存在であり、ゆえに古くから全国的に注目されてきた。当地域の五世紀史を考えるにはこの桜塚古墳群の歴史的評価がまず重要であり、またそのためには、少なくとも猪名川水系の古墳築造動向を視野に入れながら検討することが必要となる。今回は、当地域の首長クラスの有力古墳の推移を整理しながら、桜塚古墳群を含む猪名川流域の地域関係の変化を検討し、その背景について述べてみたい。
 なお時期区分については、古墳時代のうち、前方後円墳がつくられたおよそ三百年間を前期(三世紀中葉~四世紀後葉)、中期(四世紀末~五世紀後葉)、後期(六世紀前葉~中葉)に分ける三時期区分をおもに用い、地域の古墳築造の推移にくわしく言及する場合のみ三世紀中葉から六世紀中葉までを一〇期に分ける「前方後円墳集成編年」(近藤義郎編一九九二『前方後円墳集成』山川出版社)を併用することにする(表1)。

二 猪名川流域の有力古墳の展開
 北摂地域の西部には、現在大阪、兵庫の府県境をなす猪名川が南流し、沖積平野が形成されている。この地域の古墳はおもに平野部の縁辺部や、箕面川、千里川、最明寺川など支流沿いの台地上を中心に前期より展開する。
 古墳の分布状況からみると、まず猪名川左岸では、天竺川と千里川に挟まれた豊中台地(豊中市中部)、千里川と箕面川で画された待兼山丘陵(豊中市北部・箕面市西部)、箕面川と猪名川本流に挟まれた北摂山塊の縁辺部(池田市)などのエリアにそれぞれの小地域勢力が分立していたことを推定できる。
 猪名川右岸では猪名川と支流の最明寺川の間に位置する長尾山丘陵(川西市・宝塚市東部)、猪名川中流の猪名野地域(伊丹市)などに古墳が集中するようすがうかがえる(図1)。猪名川流域のこれら小地域はそれぞれの勢いのあった時期が微妙に異なっており、地域内の事情だけでは理解できない盛衰を示している。
 以下では、小地域を東から順に豊中台地、待兼山丘陵、池田、長尾山丘陵、猪名野と便宜的に呼び分けて有力古墳を中心にその推移を概観してみよう(図2)。



(1)前期の様相(三世紀中葉~四世紀後葉)
 猪名川流域では、大和盆地の箸墓古墳や黒塚古墳の被葬者と同世代になるような、1期の古墳は確認されておらず、その存否は今後の検討課題である。確実に前方後円墳が確認されるようになるのは、三世紀末以降の2期になってからである。
 猪名川左岸ではまず、池田エリアで2期に六二メートルの前方後円墳である池田茶臼山古墳が登場し、3期ごろの池田市娯三堂古墳へと系譜が続く。
 待兼山丘陵では最初の有力古墳として豊中市待兼山古墳があげられる。大正年間に墳丘がほぼ破壊され、情報はすでに失われているが、晋代の舶載鏡である唐草文縁四神四獣鏡や碧玉製腕飾類三種などの副葬品から判断して、待兼山古墳が少なくとも中規模の前方後円墳であった可能性は高い。このほかに待兼山丘陵では千里川をのぞむ南端部に倣製三角縁神獣鏡と車輪石の出土が知られている豊中市麻田御神山古墳が存在する。墳丘の構造はわからないが優秀な副葬品からみて前方後円墳であった可能性も十分ある。限られた情報からではあるが、待兼山古墳が2期、麻田御神山古墳が3期ごろの築造ととらえておこう。
 中期に全盛期を迎える桜塚古墳群が展開する豊中台地エリアでは、前期にすでに豊中市大石塚古墳、小石塚古墳が登場している。3期から4期ごろの築造である。
 猪名川右岸の長尾山丘陵エリアでは、二〇〇七年の大阪大学による調査で猪名川流域最古とわかった宝塚市長尾山古墳が2期の古い段階に築造され、これに続いて3期には宝塚市万籟山古墳が築かれている。
 猪名野エリアでは古くに削平破壊された古墳が多く、状況はさらに不明確であるが、その中で三面の舶載鏡が知られる尼崎市池田山古墳が前期古墳であった可能性が高い。竪穴式石室とされる埋葬施設や埴輪の実態もよくわかないが、3期ないし4期に比定するのが妥当ではないか。
 このように、猪名川流域では遅くとも3期ごろまでにはそれぞれの小地域で前方後円墳が現れる。しかし、規模や副葬品の点で他を圧倒するような存在は認められないことから、小地域のうちのいずれかが流域全体の覇権を握るようなありかたではなく、各小地域勢力がほぼ対等な関係で分立していた状況を推定することができる。

(2)中期の様相(四世紀末~五世紀後葉)
 それぞれ前方後円墳を築造する首長が輩出するいわば横並びの関係であった前期とは対照的に、中期になると各小地域の盛衰が明瞭になる。猪名川左岸の豊中台地に展開する豊中市桜塚古墳群と右岸の伊丹市から尼崎市にまたがる猪名野古墳群が中期を通じて数世代にわたって有力古墳を築造し続けるのに対して、その他の小地域では前方後円墳などの顕著な古墳が全く認められなくなる。副葬品などの実態がよくわからない猪名野古墳群の評価はなお難しいが、桜塚古墳群は、豊中大塚古墳(円墳)、御獅子塚古墳(前方後円墳)、狐塚古墳(前方後円墳?)、北天平塚古墳(前方後円墳?)、南天平塚古墳(造出し付円墳)など有力な古墳の築造が相次ぎ、五世紀に他を圧倒する存在となる。この時期の桜塚古墳群は、どの古墳でも最新式の甲冑類を伴っていることが特徴で、全国的にみてもきわめて有力な集団に成長していることがうかがえる。
 いっぽうで、前方後円墳がみられなくなる待兼山丘陵、池田、長尾山丘陵などのエリアの勢力が、中央政権の政治的枠組みから離れて独自に自律的な歩みをはじめたと解釈することも難しい。待兼山丘陵では中期には円筒埴輪を持つ小規模古墳が少なくとも三基以上は築造されているし、長尾山丘陵エリアでも川西市栄根遺跡で中期の円筒埴輪が出土していることからみると、前方後円墳は不在ながら政権の主導する古墳の葬送儀礼自体を拒絶したわけではないことがわかる。それぞれの小地域首長の前方後円墳築造が行われていた前期段階とは異なって、特定の勢力を優遇することにより格差構造を生み出しながら地域支配を強化しようとする中央政権の政治的意図が、古墳築造動向に反映していると理解すべきであろう。

(3)後期の様相(六世紀前葉~中葉)
 後期初頭の9期になると、新たな状況が生まれる。すなわち、猪名川流域で盟主的地位にあったと思われる豊中台地の桜塚古墳群の築造が急速に下火に向かういっぽうで、中期の間に前方後円墳築造が途絶えていた長尾山丘陵で勝福寺古墳が復活し、池田エリアの二子塚古墳がこれに続く。六世紀前葉にいたって豊中台地エリアから猪名川本流に近い北西部の長尾山丘陵、池田エリアへと盟主的首長の地位が移動したと理解できるのである。

三 盟主権の移動とその背景
 前期には各小地域がほぼ対等な力関係にあったが、中期になるとその中から豊中台地と猪名野の勢力が他を圧倒するほどに強大になった。しかし、その隆盛が百年ほど続いた後、中期末(五世紀末頃)には勢いは急速に衰え、後期には長らく有力な前方後円墳を築くことのできなかった長尾山丘陵や池田エリアに前方後円墳が現れるというように、地域内の力関係は大きく変わっていったのである。その背景をどのように考えたらよいだろうか。
 鍵となるのは、中期に桜塚古墳群台頭のきっかけとなった大塚古墳と、後期に長尾山丘陵エリアでおよそ一五〇年ぶりに復活した前方後円墳である勝福寺古墳という二つの古墳の性格である。
 大塚古墳は墳形こそ円墳だが、直径五六メートルをはかる大形のもので、盗掘を免れた第2主体部の東棺からは、最新式の短甲三領をはじめ多くの武器武具が出土している。とりわけ、三(さん)角(かく)板(ばん)革(かわ)綴(とじ)襟(えり)付(つき)短(たん)甲(こう)という珍しいタイプの短甲は藤井寺市野中古墳で出土したものと類似している。
 大塚古墳に続く御獅子塚、狐塚、北天平塚、南天平塚などでも甲冑類が副葬されている。これら中期古墳の甲冑が、河内平野に古市古墳群を残した政治勢力によって各地の系列首長に与えられたものとする評価はほぼ通説といってよいだろう。つまり、北摂有数の桜塚古墳群は、中期の河内平野の勢力との深い結びつきによって地域内で圧倒的な勢力を持ったのであり、その発展のエポックをなしたのが大塚古墳の被葬者の活動であったという理解が可能なのである。
  桜塚古墳群では中期末の南天平塚古墳になると墳丘長は二〇メートル台に縮小し、あきらかに勢いの減衰が認められる。そして次の代になると、猪名川流域の最有力古墳は長尾山丘陵の川西市勝福寺古墳へと移っていくのである。勝福寺古墳については、調査報告書『勝福寺古墳の研究』(二〇〇七年、大阪大学文学研究科)であきらかにしたとおり、六世紀前葉に登場した継体大王を支援する勢力の墳墓として、この地に築造されたものと考えるのがもっとも妥当であろう。
 勢いを失っていく豊中台地の桜塚古墳群に対して、六世紀前葉に新たに台頭する猪名川本流沿いの勢力という対比は鮮明である。そして、双方の古墳に認められる特徴的な要素をふまえるなら、それはたんなる地域内の勢力争いというより、倭の中央政権内で展開する激しい主導権争いが波及した結果に他ならないと思われるのである。
 

四 北摂の古墳時代史と政権交替論
 このように、猪名川流域の古墳時代史は中期初めと後期初めに大きく動く。重要なことは、地域の政治的主導権の変転を伴うような変化が、同じ時期に他の地域でも認められる事実である。
 典型的な事例として知られるのは、京都府南部の乙訓地域である。中期初頭に東部(向日市域)の首長から西部(長岡京市域)の首長へと地域の盟主権が移ったことが古墳の分布からわかるし、後期初頭には百年以上も前方後円墳がなかった東部(向日市域)にふたたび前方後円墳(物集女車塚古墳)が登場して盟主権はふたたび変動する。
 都出比呂志氏がはやくに指摘したように、こうした地域的な主導権の変動は、畿内の大王陵クラスの巨大前方後円墳築造地の移動現象と軌を一にしている。すなわち、中期初頭は巨大前方後円墳の築造地が大和盆地から河内平野へと移る時期に符合しており、また後期初頭は継体大王陵と推定される今城塚古墳が淀川流域に登場する時期にあたっている。
 畿内における巨大前方後円墳の移動現象については、中央政権の中で政治的主導権を握る勢力が変動したこと反映したものという理解があるいっぽうで、政権中枢は一貫して大和盆地内にあり墳墓の造営場所だけを他所に求めたという解釈もあって、論争が続いている。しかし、筆者はこうした巨大前方後円墳の移動に伴って、埋葬施設の構造、副葬品の種類、埴輪のスタイルなどもまた大きく変化したことを重視する。つまり、中央政権の主導権を握った勢力が、新しいスタイルの墳墓要素を創出するとともにそれを各地の連携勢力にいち早く与えることを通じて、中央と地域の政治系列を一新するような動きに出たのではないか、と思量するのである。
 このとらえ方は、一九五〇年代に文献史の水野祐氏が唱えたいわゆる「王朝交替論」にも通じるものである。水野氏の時代には古墳時代の政治動向に関する考古学的な情報はきわめて限られたものであったし、「王朝交替」の術語が適切かどうかという問題はあろう。しかし、古墳時代三〇〇余年の政治史が大和政権の右肩上がりの勢力伸長期であったかどうかは、考古資料が豊かになったいま、考古学の側が責任を持って検討すべき課題といえる。
 「古墳時代政権交替論」とも呼ぶべき立場に立てば、上述した中期初頭の変動は初期大和政権から河内政権への主導権の交替であり、後期初頭の変動は河内政権から継体政権への交替として評価できることになる。大塚古墳、勝福寺古墳に象徴される北摂猪名川流域の古墳時代史の転換点は、まさに日本史全体の流れにかかわっていたともいえるのである。さらに、そうした古墳時代史の背後には、初期大和政権と中国華北王朝、河内政権と伽耶、継体政権と百済という東アジアの国際関係の動きが読みとれる、というのが筆者の現時点での立場である。

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