4・5世紀のヤマト政権と近江(下)
つどい293号
4・5世紀のヤマト政権と近江(下)
-香坂王・忍熊王の反乱伝承を手がかりとして-
堺女子短期大学名誉学長名誉教授 塚口義信先生
①画面をクリックすると拡大します
②
③
④
⑤
⑥
⑦
⑧
⑨
⑩
⑪
以下検索用テキスト文
漢字変換の制限により文字化けする場合があります。
四・五世紀のヤマト政権と近江 (下)
ー香坂王・忍熊王の反乱伝承を手がかりとしてー
堺女子短期大学名誉学長・名誉教授 塚口 義信
二、忍熊王の伝承と犬上氏
忍熊王がなぜ近江南部で敗死したと伝えられているのかという疑問を解く手がかりは、四・五世紀における犬上氏の前身の一族の動向に秘められているように思われる。
『紀』によると、神功・応神との戦争に際し、「犬上氏の祖倉見別」が忍熊王方の「将軍」となっている。この伝承に従えば、犬上氏は敗軍の将となったわけであるから、四世紀後半から末葉にかけての時期には佐紀政権主流派の支持勢力として隆盛を極めていたが、五世紀代になると主流派と共に衰頽の運命を辿らざるを得ない状況になったであろうという仮説を立てることができる。そこで、この仮説の当否を判定するため、犬上氏が本拠としていた湖東の犬上郡およびその周辺地域における四・五世紀の古墳の状況を探ってみると、興味深い現象が起こっていることに気づく。それは、四世紀末葉に大古墳が築かれているにもかかわらず、五世紀代になるとこれに続く大古墳が築かれていないことである。
かつて犬上郡と愛知郡の郡境となっていた琵琶湖岸に近い湖東平野の独立丘陵上(彦根市日夏町、清崎町、三津屋町、石寺町の境界線上)に、四世紀末と推定されている荒神山古墳が所在する。この古墳は三段築成の墳丘を持ち、墳丘長約一二四メートル、前方部長約六一メートル、同高約一〇メートル、後円部径約八〇メートル、同高約一六メートルの規模を有する定型化された畿内型の前方後円墳とされている(8)。荒神山の西麓に所在する曽根沼(図4を参照)がかつての内湖の名残をとどめていることからすると、その立地は湖の存在を強く意識している感が強い。
この古墳はその所在地からみて犬上氏の前身の一族の首長墓と考えて過誤ないと思われるが、その築造年代と墳形や埴輪、車輪石(伝荒神山出土品だが、年代が一致するので、この古墳に埋納されていたものとみられる)などの遺物の存在などから察するに、四世紀後半にヤマト政権を主導していた佐紀政権と深い関わりを有していた可能性が強い。ところが五世紀代になると、この付近にはこれに続く大古墳が築造されていないのである。
ただ、荒神山の南西端に位置する彦根市稲枝町大字塚村を描いた明治初期の絵図によると、塚村が馬蹄形に描かれ、周囲を水路が取り囲んでいることから、これを中期の大型前方後円墳(墳丘長一〇〇メートル強、図4の14を参照)と推測する説もある(9)。
しかしながら、当地区からは大古墳の存在を推測させる遺構や遺物などが全く検出されておらず、果たしてこれを中期の大型前方後円墳と考定し得るかどうか、慎重にならざるを得ない。水路に囲まれた馬蹄形を呈するような地形は決して珍しいことではないし、村名も他の小墳や墓に由来している可能性があるから、上掲のような理由だけで中期の大型前方後円墳の存在を想定することはいささか論拠薄弱である(10)。将来、中期の大型前方後円墳にふさわしい遺構や遺物等が出土すれば私も自説を修正するにやぶさかではないが、全く検出されていない状況では否定せざるを得ないのである。したがって、この付近の大型前方後円墳は荒神山古墳をもって築造を停止していると判断すべきであろう。
以上のようにみてくると、犬上氏の本拠地と推測される地域の古墳の存在形態は、『紀』の倉見別伝承が語っている状況(四世紀末を境とする犬上氏の前身の一族の栄枯盛衰の状況)と極めてよく一致する。犬上氏の前身の一族の首長が佐紀政権主流派に荷担していたことは、ほぼ確実とみられるのである。
三、忍熊王の伝承と建部氏
忍熊王が「瀬(せ)田(たの)済(わたり)」(大津市瀬田町付近の渡し場)で琵琶湖に入水して乱は終息するが、その瀬田済と指呼の所に膳所茶臼山古墳(大津市秋葉台)がある。この古墳は墳丘長一二〇メートル前後、前方部先端幅約四〇メートル、後円部径約七〇メートルの畿内型前方後円墳であるが、その規模は上記の荒神山古墳とほぼ同大で、形も似ており、三段築成という点でも同じである。のみならず、築造時期も同時期である。
さらに膳所地区にはこの古墳に続く同系列の大古墳がない可能性が強く、この点も荒神山古墳と状況が似ている(11)。したがってこの古墳の被葬者もまた荒神山古墳の被葬者と同様に、佐紀政権の主流派と深い関わりをもっていたのではないかと思われる。では、古墳の被葬者はどのような集団の首長が考えられるであろうか。
この問題を考える場合に見逃し得ないのは、この古墳から東南指呼の所(大津市神領一丁目)に、延喜式内社の建部神社(近江国一宮の現・建(たけ)部(べ)大社)が鎮座していることである。この神社の奉斎氏族はその社名からも知られるように、軍事氏族として有名な建(たける)部(べ)氏であったと考えられるが、ここで興味深いことは、先に荒神山古墳の被葬者ではないかと推測した犬上氏とこの建部氏とは同族関係にあったことである。
『記』景行天皇の段に「此(こ)の倭(やまと)建(たけるの)命(みこと)…(中略)…近(ちかつ)淡(あふ)海(み)の安(やすの)国(くにの)造(みやつこ)が祖(おや)、意(お)富(ほ)多(た)牟(む)和(わ)気(け)が女(むすめ)、布(ふ)多(た)遅(ぢ)比(ひ)売(め)を娶りて、生みし御子は、稲(いな)依(より)別(わけの)王(みこ)〈一柱〉。…(中略)…稲依別王は、〈犬上君・建部君等が祖(おや)ぞ〉。」、『紀』景行天皇五十一年八月の条に「其の兄(え)稲依別王は、是(これ)犬上君・武(たける)部(べの)君(きみ)、凡て二(ふたつの)族(やから)が始(はじめの)祖(おや)なり。」とある。また、『新撰姓氏録』(右京皇別)にも「建部公(きみ) 犬上朝臣(あそみ)と同じき祖。日本(やまと)武(たけるの)尊(みこと)の後なり。続日本紀に合へり。」(12)とみえている。
してみると、膳所茶臼山古墳の被葬者は建部氏の前身の一族の首長であったとみるのが妥当であり、この古墳が荒神山古墳と規模や築造時期、またこれに続く五世紀代の大古墳が造営されていないということまで等しくしているのも、決して偶然ではなかったと考えることができるであろう。これらの古墳の被葬者はともに佐紀政権主流派に属していた近江の大首長たちであり、四世紀後半には、古墳の立地からも知られるように水・陸両交通権、特に湖上の交通権を掌握して佐紀政権の軍事の一翼を担う(13)存在として活動していたが、四世紀末の内乱によって、佐紀政権の首長家とともに没落の運命を辿らざるを得なくなったものと推測される。現在、近江における三段築成の古墳は膳所茶臼山古墳、荒神山古墳、野洲大塚山古墳、田中王塚古墳(ただし推測であり、今後の検証が必要)の四基が知られているにすぎず(14)、しかも四世紀代では膳所茶臼山古墳と荒神山古墳の二基に限られているのである。このことは、この二基の古墳の被葬者たちがヤマト政権を主導していた佐紀政権の王者といかに深い関係にあったかということを示しているにほかならない。
これを要するに、忍熊王が瀬田済で身を投じたとする『記』『紀』の伝承の背後には、佐紀政権主流派に荷担していた建部氏や犬上氏の前身の一族が四世紀末の内乱で敗北したという史的事実が存在していると考えられるのである。
なお、永正七年(一五一〇)の成立とされる『建部大明神神縁年録写』という社記によると、建部大社は天武天皇の白鳳四年(六七五)にもとの鎮座地である近江国神(かむ)崎(さき)郡建部郷千(ち)草(くさ)嶽(だけ)から、栗太郡勢多郷大野山への遷座を経て、天平勝宝七年(七五五)、その山麓の現社地に移建されたという。
もしこの記録が事実だとすると上記の結論は修正を要することになるが、その内容には疑問な点が多く、信憑性に乏しい(15)。おそらくこの所伝は、大治三年(一一二八)に近江国司藤原宗兼が神崎郡一帯を現・建部大社に寄進して建部庄が成立、そののち
神崎郡神(かむ)埼(さき)郷が建部郷と名称変更されたが、それ以降に作られたものであろう。したがって建部神社の神は古くからこの地域で建部氏によって祀られていたとみてよく、特に上述の考察結果に支障を来すものとはならないと考える。ちなみに、天平神護二年(七六六)七月二十六日に朝臣の姓を賜った近江国志賀郡大毅・少初位上の建部公伊賀麻呂(『続日本紀』)は、この系統の建部氏の後裔と思われる。
四、佐紀政権と志賀高穴穂宮の伝承
以上の考察に大過なければ、『記』が成務天皇の宮居を「近淡海之志賀高穴穂宮」と伝えていることも見過せなくなってくる。なぜなら、『記』『紀』は成務天皇の陵墓について「御(み)陵(はか)は、沙(さ)紀(き)の多(た)他(た)那(な)美(み)に在り。」(『記』)、「倭国の狭(さ)城(きの)盾(たた)列(なみの)陵(みささぎ)に葬(はぶ)りまつる。」(『紀』)と伝えているからである。
奥津城はその被葬者の本拠地に営まれるのが通例であるから、『記』の所伝の伝承者は、佐紀の地域を含む大和北部を本拠とした成務天皇は近江の宮室で政治を執った、という認識を有していた可能性が大きいことになる。してみると、近江を基盤とする犬上氏の祖先が忍熊王方の「将軍」となって神功・応神と戦ったとされていることや、忍熊王が建部氏の前身の一族が盤踞する近江南西部の瀬田まで退却し、淡海の海に投身して死んだとされていることも、この「志賀高穴穂宮」との関わりで理解されねばならないことを示唆している。
『記』『紀』は仲哀天皇の宮居を「穴門之豊浦宮」(『記』)「穴門豊浦宮」(『紀』)と「筑紫訶志比宮」(『記』)「橿日宮」(『紀』)と伝えている。しかし、これらは九州遠征という特殊な事情により設けられた宮であって、本来の宮室は父・成務天皇が営んだ志賀高穴穂宮であったとする認識が、『記』『紀』の編述者たちの間には存在していたように思われる。『紀』が、即位して二年九ヶ月後のこととして「宮室を穴門に興(た)てて居(ま)します。是を穴門の豊浦宮と謂ふ。」と記しているのも、もちろん虚構の歳月であるに違いないが、そうした意識の表れとみることができる。
たとえば、斉明天皇は朝鮮半島出兵のために筑紫に朝倉橘広庭宮を営んだが、大和の飛鳥の地にはなお後飛鳥岡本宮が存続していた(16)。『記』『紀』の編述者は宮居についてのこうした通念のもとに、志賀高穴穂宮もまた仲哀天皇の宮居の一つとしてなお存続していたであろう、と考えていた可能性が大きいのである。したがって、『記』『紀』の原史料となった「帝紀」の伝承では、忍熊王はその権力基盤の一つとしていた成務ー仲哀から伝領された近江の宮居の地に退却しようとし、その途次で敗死した、と伝えられていた蓋然性が非常に高いと私は考える。
そこで、この想定に上記の考察結果を重ねてみると、次のような推測が可能となる。
志賀高穴穂宮が実在の宮居であったかどうかは定かではないが(17)、こうした所伝が存在している背景には、佐紀政権主流派(成務・仲哀・忍熊王の名で語られている派)が北陸や東国経略を行うに当たっての交通の要衝に位置する近江、とくに西・南・東部を重要拠点と位置付け、そうした地域の政治集団の大首長をみずからの勢力に取り込むことによって権力基盤の強化を図っていたのではないか。
成務天皇の志賀高穴穂宮の所伝については今日、イリ(崇神・垂仁)系の天皇とワケ(応神)系の天皇とを直系相承にアレンジするためにタラシ(成務・仲哀・神功)系の天皇や皇后が創作されたが、そのときにこの所伝もまた創作された。そしてその時期は近江宮を造営した天智朝を遡ることはなかろう――とする説(18)が比較的有力視されている。
しかしながら、忍熊王の伝承や古墳のあり方は、こうした説を支持しているようにはみえないのである。やはり、宮居伝承形成の背景には、その名称はともかく、四世紀後半代に佐紀政権によって近江西・南・東部が極めて重視され、それゆえそこに王権の拠点としての宮居ないしそれに準ずるような建物が造営されていたといったような事実が存在した、とみるべきであろうと考える。果たして近江西・南部で四世紀代後半の建物跡が検出されるかどうか、今後もなお見守っていきたいと思う。
むすびにかえて
以上の考察結果に基づき、四世紀後半から五世紀初頭におけるヤマト政権と近江との関係について略述してみると、次のようになる。
四世紀後半における近江西・南部から東部にかけての地域は、ヤマト王権の政権担当集団である佐紀政権と深い関わりを有していた(近江北部については保留)。しかし、三九一年前後に勃発したヤマト政権(畿内政権)の内乱によって、当地域の有力な政治集団であった犬上氏や建部氏の前身の集団は佐紀政権の主流派とともに没落し、やがて五世紀代になるとそれらに替わって、佐紀政権反主流派およびその支持勢力によって新たに樹立された河内政権と繋がりをもつ在地勢力が抬頭、ここに在地の政治集団の首長層に変動が起こったと考えられる。
それは、五世紀代に、南九州において日向の諸県氏の前身の一族(西都原古墳群)が(19)、また大和葛城南部地域において葛城氏の前身の一族(室宮山古墳・掖上鑵子塚古墳・屋敷山古墳など)が(20)、ともに河内政権の樹立に伴い、旧勢力に替わって急速に抬頭してきたことと全く同樣の現象として捉えることができるのである。
五世紀代の近江におけるこうした政治集団の動向については、別の機会にあらためて論じたいと思っている。小論では主に、その前夜の四世紀後半、特に末葉におけるヤマト政権と近江との関わりに焦点をあてて考察し、一つの仮説を提示した(21)。諸賢のご批正を賜ることができれば幸甚である。
註
(8)彦根市教育委員会編『荒神山古墳』(彦根市文化財調査報告書第二集、二〇一〇年)。
(9)高橋美久二「前方後円墳の時代」(大橋信弥・小笠原好彦編『新・史跡でつづる古代の近江』所収、ミネルヴァ書房、二〇〇五年)。大橋信弥「犬上君氏について」(小笠原好彦先生退任記念論集刊行会編『考古学論究』所収、真陽社、二〇〇七年)など。
(10)中司照世氏のご教示によるところが多い。なお、中司「考古学から見た三~五世紀の近江」(『つどい』第二七七号、豊中歴史同好会、二〇一一年)を参照。
(11)ただし逢坂山峠の北東支脈の丘陵頂先端(大津市長等一丁目)に、墳丘長約九一・五メートル・後円部径約四四・五メートル(吉永眞彦「近江湖西地域南部における古式古墳の様相」〈『滋賀考古』第六号、滋賀考古学研究会、一九九一年〉)の帆立貝形の兜稲荷古墳が存在し、この古墳と膳所茶臼山古墳との関わりが今後の課題として残る。
この古墳については不明な点が多い。まず第一に、埴輪や土器などの遺物が検出されておらず、築造時期を推定することが甚だ困難な状況にある。中期の築造と推測する説が少なくないが、五世紀の前半なのか(たとえば用田政晴氏など。同『琵琶湖をめぐる古墳と古墳群』サンライズ出版、二〇〇七年)、はたまた後半なのか(たとえば丸山竜平氏など。石野博信編『全国古墳編年集成』雄山閣出版、一九九五年)、意見が分かれている。第二に、膳所茶臼山古墳とこの古墳とは直線距離でも三キロメートル以上離れており、両古墳を同系列の首長墓とみることができるかどうか、という問題もある。ちなみに古代における両者の所在地は膳所茶臼山古墳が滋賀郡古市郷であるのに対し、兜稲荷古墳は同錦部(にしこり)郷である。第三に、仮に同系列の首長墓と理解することができたとしても、古墳が全国的に巨大化の方向を辿る五世紀代にあって、この古墳は膳所茶臼山古墳よりも小規模で、形状も帆立貝形であり、かつ三段築成ではない(二段築成か)。したがって、膳所茶臼山古墳よりも劣位の首長墓であることは明らかであり、四世紀末葉の時期に、そのような状況にならざるを得ないような事情があったと想定することも可能である。また、両者が同系列の首長墓ではないとみた場合には、膳所茶臼山古墳の南南西約一八〇メートルの所にある小茶臼山古墳(径約二八メートル?の円墳)をその後継の首長墓と考えることもできる。というより、その可能性の方が大きいであろう。したがって現在のところ私は、この地域には膳所茶臼山古墳に後続する大古墳は築かれていないとする説(近江郷土史研究会編集部「膳所茶臼山古墳」〈『近江郷土史研究』第二号、近江考古学研究会、一九七三年〉)に賛成である。以上のように、両者の関係については兜稲荷古墳の詳細が明らかになっていない現状では、いかようにも臆測することができるという難点をもっている。しかし、いずれにせよ、この古墳の存在によって私見が否定される、というようなことにはならないことを念のために附記した次第である。
(12)佐伯有清『新撰姓氏録の研究』考證篇第二(吉川弘文館、一九八二年)による。
(13)犬上氏や建部氏と軍事との関わりについては、上田正昭『日本武尊』(吉川弘文館、一九六〇年)、直木孝次郎『日本古代兵制史の研究』(吉川弘文館、一九六八年)、前川明久「古代の近江と犬上建部氏」(『日本古代氏族と王権の研究』所収、法政大学出版局、一九八六年)などを参照。
(14)中司照世「五世紀のヤマト政権と若狭」(『つどい』第二五四号、豊中歴史同好会、二〇〇九年)。
(15)式内社研究会編『式内社調査報告』第十二巻 東山道1の「建部神社」の項(宇野茂樹氏執筆、皇學館大学出版部、一九八一年)。
(16)大井重二郎『上代の帝都』(立命館出版部、一九四四年)。
(17)「穴多駅」(『延喜兵部式』)が設置されていた大津市穴太(あのう)に比定されていることが多いが、宮室の遺構が検出されているわけではないので、その実在性については不明とせざるを得ない。
(18)たとえば、八木充『古代日本の都』(講談社、一九七四年)など。
(19)塚口義信「〝神武東征伝説〟成立の背景」(『東アジアの古代文化』一二二号、大和書房、二〇〇五年)、同「古代日本における聖婚と服属」(前掲)。
(20)塚口義信「四、五世紀の葛城南部における首長系列の交替」(『東アジアの古代文化』一三七号、大和書房、二〇〇九年)など。
(21)附言するに、四・五世紀のヤマト政権の実体をどのように捉えるかについては諸説があるが、私は以下のように考えている。ヤマト政権とはのちの畿内に匹敵するほどの範囲に盤踞していた大・小さまざまな政治集団の首長連合体であり、それゆえ「畿内連合政権(畿内政権)」と称してもよいような政権であった。その最高首長は神々の世界に根ざす神聖性に保証された王権の体現者であるが、政権を構成する政治集団の中で最も強大な勢力を有する政治集団から推戴され、のちに「治天下大王」と称するようになった。そして、そのヤマト政権の最高首長を軸として結成されていた全国的規模の首長連合体が「倭国」であり、対外的にはヤマト政権の最高首長がこの倭国を代表して外国と通交し、「倭王」もしくは「倭国王」と称していた。
一方、ヤマト政権の最高首長を推戴していた政治集団は三~五世紀の間に、「(主に)三輪山周辺に奥津城を築いた政治集団(三輪政権)」→「(主に)佐紀に奥津城を築いた政治集団(佐紀政権)→「(主に)河内(古市・百舌鳥)に奥津城を築いた政治集団(河内政権)」へと交替した。この交替は、ヤマト政権の中枢部を構成し、政権の運営を担当する政治集団の交替であるから、あくまでも政権担当集団の交替、すなわち「政権交替」ともいうべきものであって、ヤマト政権全体が他の政治集団によって打倒されたわけではないので、「王朝交替」というようなものではない。小論では、こうした政権交替のうち、四世紀末に起こったと推定される「佐紀政権」から「河内政権」への交替の具体相を近江に焦点をあてて考察したのである。
なお、考古学の立場から四・五世紀における政権交替についての近年の研究動向に触れたものとして、『政権交替』(橿原考古学研究所特別展図録第五八冊、明新印刷、二〇〇二年)、藤田和尊「河内政権肯定論」(『一山典還暦記念論集 考古学と地域文化』所収、二〇〇九年)、白石太一郎「古墳から見たヤマト王権」(『考古学からみた倭国』所収、青木書店、二〇〇九年)、岸本直文「河内政権の時代」(同編『史跡で読む日本の歴史2 古墳の時代』所収、吉川弘文館、二〇一〇年)、高橋照彦「古墳時代政権交替論をめぐる二、三の論点」(福永伸哉編『古墳時代政権交替論の考古学的再検討』所収、大阪大学大学院文学研究科、二〇一一年)、宇野愼敏「古墳時代における畿内と北部九州」(由良大和古代文化研究協会『研究紀要』第一六集、二〇一一年)などがあり、有益である。
挿図出典
図2 中司照世「継体伝承地域における首長墳の動向」(『継体大王とその時代』和泉書院、二〇〇〇年)掲載図を改変。
図3 彦根市教育委員会『荒神山古墳』(二〇一〇年)掲載図を改変。
図4 高橋美久二ほか『彦根市内遺跡・遺物調査報告書』(二〇〇四年)掲載図を改変。
図5 編集部(丸山竜平)「膳所茶臼山古墳」(『近江』第2号、一九七三年)掲載図を改変。
〔附記〕
本稿を成すに当たって、中司照世氏(元・福井県埋蔵文化財調査センター所長)から古墳の臨地調査や文献史料の提供等で、一方ならぬご支援を得た。末筆ながら記して、厚く御礼を申し上げる。
⑫
⑬
⑭⑮⑯⑰⑱⑲⑳