大東市堂山古墳・野崎観音へ
4月28日(土)
大東市 笠井先生 の御好意で、新設された“大東市立文化とスポーツふれあいセンター”にて先生にご講演戴きました。その後 館内併設の歴史民俗資料館の展示品を見学し、午後からは、市学芸員の案内によって、飯盛山の中腹に展開する堂山古墳群を見学、野崎観音に至るコースを歩きました。
集合場所
8時50分 阪急梅田駅神戸線側売店前
JR大阪駅より 京橋駅経由 野崎駅まで 290円
9時23分 学研都市線京橋駅発
9時43分 野崎駅着大東市立 文化とスポーツふれあいセンター へ
10時 笠井敏光先生の講演
その後 12時頃まで 館内の展示室を見学
12時頃 食事
13時10分 大東市学芸員に引率戴き 堂山古墳群から野崎観音へ
帰途 野崎駅より京橋駅経由 大阪駅へ
■大東市立歴史とスポーツふれあいセンター
小学校を改築してオープンしたばかりの施設。3階、4階が大東市立歴史民俗資料館となっている
笠井敏光先生より野崎参りについての軽妙なお話に続いて堂山古墳について講義していただきました
大東市野崎は河内湖に生駒山系が迫り東高野街道と河内湖の最奥部の結節地として重要な拠点であった
講義のあと資料館を見学
河内湖の湖底をイメージした展示室
須恵器
装身具
堂山古墳全体模型
食事のあと古墳へと向かう
センター前にて
センターを出るとすぐに宮谷1号墳の横穴式石室の移設復元展示あった
宮谷1号墳の石室
この水道設備の上部が堂山古墳群となる
1号墳が5世紀初頭、2~7号墳は6世紀末から7世紀中頃に築造された
応神陵古墳=心合寺山古墳=堂山古墳1号墳が5世紀初頭の階層性をもった首長墳系列との説明がなされた。
市民学芸員 松井健一様のガイド
堂山4号墳(T字型石室)
1号墳(柵のあたりが埴輪列となっていた)
1号墳出土物
■堂山古墳群の立地について
平成24年度特別展『堂山古墳群のひみつ』より笠井先生の論を引用させていただきます。
笠井敏光
1、河内の首長系譜
河内は、河川によって三つの地域に分けることがてきます。北河内は、淀川左岸から生駒西麓にかけての地域て、大東市・枚方市・寝屋川市などが含まれ、標高が低く、湿潤なところてす。この地域では、交野て前期から続く森古墳群の系譜をたどることがてきます。
中河内は、河内湖に流れ込む河川の流域にあたり、東大阪市・八尾市・柏原市などが該当し、洪水に悩まされますが、農耕に適しています。この地域においては、八尾市の北部て前期から中期の心合寺山古墳に至る系譜を追うことが可能てす。
南河内は、付け替えされた大和川以南て、松原市・羽曳野市・河内長野市などにあたりますが、段丘上の硬い地盤てあることから農耕には適していません。ここては、前期の玉手山古墳群、中・後期の古市古墳群が顕著てす。
2、堂山1号墳の出現
堂山1号墳は5世紀初め、北河内南部にある大東市の丘陵端部に突如築かれ、それが古墳群の端緒となります。なぜ、この場所が選ばれ、だれが葬られているのかを知りたいところてす。
古墳時代中期の北河内には、大きな古墳はほとんどありません。その中て小規模ながらも大きな役割を果たしていたのが堂山1号墳てす。4世紀末から5世紀初めの応神大王の頃、兵庫県五色塚古墳や京都府神明山古墳などの人きな古墳が顔戸内海や日本海沿岸に築かれました。これらの古墳の披葬者は、海から見える外港において、水上交通の要として活躍したと考えられます。堂山1号墳の主も、同様に河内湖の港津として、また東西水運と南北陸運の交点としての役割を担っていました。
3、三古墳の比較
河内に所在する五世紀初めの三古墳を比較することによって、堂山一号墳の被葬者像を考えてみましょう。その当時、最大の古墳が応神陵古墳て南河内の古市古墳群の盟主として、心意寺山古墳は中河内最大の古墳として、堂山1号墳は北河内の数少ない古墳として立地しています。
三古墳は、共通点と相違点をもっています。共通点として埴輪・甲冑をあげることがてきます。円筒埴輪の調整技法てあるB種ヨコハケや半円形の抉りから心合寺山古墳と堂山1号墳の埴輪は同じ工房て製作された可能性があります。また、両古墳から出土した甲冑
にも共通した技法がみられることから、当時の政権から配布されたものと思われます。
相違点としては、墳丘の形態と規模、葺石の有無、主体部の構造をあげることがてきます。墳丘形態としての前方後円頂と円墳、明らかな規模の差、葺石の有無などから墳丘における相対的な格差を読み取ることが可能てす。さらに、主体部は、石槨・粘土槨・直葬
という階層差を示しています。
以上のことから、応神陵古墳は最上位てある倭国の大王墓として外交権や軍事権を掌握し、心合寺山古墳は中河内地域の首長墓として上位に、堂山1号墳は北河内南部の首長墓として中位に位置付けることがてきます。三者は、共通性と階層性をもちながら中期政権を構成していたのでしょう。
4、堂山古埴群の系譜
堂山古墳群を構成する8基のうち、発掘調査が行われた7基について、その築造順と時期を検討してみましょう。ただし、7号墳は流出が著しく不明てす。
まず、1号墳が5世紀初頭に、丘陵端部の標高78メートルに築造されます。つづく2合墳は丘陵頂部、標高99メートルのところに直径18メートルの墳丘と両袖式石室て築かれます。その後の3号墳が標高91メートル、無袖式石室に陶棺を納めています。2・3号墳は、複次葬が想定てき、6世紀末~7世紀初頭の築造を仮定することが可能です。
つづく古墳は、6号墳で直径10メートルの墳丘のまわりに外護列石を巡らせ、無袖式石室をもちます。隣接する5号墳がその後に築かれ、無袖式石室を内部主体とします。最後は4号墳て、標高97メートルのところに、T宇形石室を主体部として築かれました。6・5・4号墳は、単次葬て、7世紀中頃の築造を推定てきます。
以上から、①5世紀初頭(1号墳)→②6世紀末~7世紀初頭(2・3号墳)→③7世紀中頃(6・5・4号墳)の三時期にわけることがてきます。①と②には、約200年間の空白期間があり、築造場所も離れていることから、直接的な系譜関係を証明することは難しいです。②と③は、近接した時期と位置関係から系譜を追うことができます。
3古墳の比較表
堂山古墳の見学の後、野崎観音にお参りして本日の見学を終えた
最後の野崎駅でお別れするまで面倒をみていただきました市民学芸員松井健一様をはじめとしてボランティアガイドの皆様に感謝申しあげます。
野崎観音
特別展 堂山古墳群のひみつ
堂山古墳群は、大東市寺川4丁目にある標高80~100mの丘陵上に、5世紀前半から7世紀中頃にかけて築かれた8基の古墳群です。そのうち、7基が調査され、その内容が明らかになっています。 特に1号墳は、小さな円墳ですが、甲冑やたくさんの鉄製武器、農・工具、古式の須恵器が出土していることで知られています。
発掘調査から40周年を迎える今年は、大阪府から大東市へ古墳群が移管され、さらに市の史跡に指定されるという記念すべき年となりました。
今回の特別展では、堂山古墳群の調査成果を展示するとともに、そのひみつを8人の研究者が解き明かします。
第1回 4月8日(日)M4:OO~ 「甲冑」鹿児島大学 橋本達也
第2回 4月22日(日)M4:OO~ 「立地」大東市立歴史民俗資料館 笠井敏光
集3回 5月13日(日)M4:OO~ 「陶棺」奈良県立橿原考古学研究所 前田俊雄
第4回 5月20日(日)M4:OO~ 「埴輪」大阪府教育委員会 小浜 成
第5回 5月27日(日)M4:OO~ 「須恵器」奈良県立橿原考古学研究所 木下 亘
第6回 6月3日(日)M4:OO~ 「鉄製品」羽曳野市教育委員会 伊藤聖浩
第7回 6月17日(日)M4:OO~ 「石室」(財)向日市埋蔵文化財センター 梅本康広
第8回 6月24日(日)M4:OO~ 「武器」福島大学 菊地芳朗