« 百舌鳥古墳群(東群)を訪ねる | トップページ | 4・5世紀のヤマト政権と近江(上) »

笠井敏光氏の講演 「河内湖周辺の古墳」を聴いて

つどい292号

笠井敏光氏の講演「河内湖周辺の古墳」を聴いて
会員 阪口 孝男

Tudoi29212_2

Tudoi29213

Tudoi29214

Tudoi29215

Tudoi29216

Tudoi29217

Tudoi29218

Tudoi29219

Tudoi29220

以下検索用テキスト文
漢字変換の制限により文字化けがあります。

寄稿にあたって
 去る一月二十二日(日曜日)泉北すえむら資料館で行われた『すえむら文化財・歴史講座』を聴講して参りました。

講師は、軽妙な話術で評判の大東市立歴史民俗資料館館長の笠井敏光先生です。
 当日の演題は「河内湖周辺の古墳」となっていましたが、講演の中身は、「堂山一号墳」という殆ど知られていない古墳に重点を置いた、お話でありました。
私が、このたび、この講演を聴いて、会員の皆様に、お知らせしようと思ったのは、次の様な事情からなのです。

昨年十一月末に、当会の恒例行事で東大阪市の瓢箪山古墳から八尾市の鏡塚古墳、心合寺山(しおんじやま)古墳、西の山古墳、愛宕塚古墳の順(途中、大阪経済法科大学構内に建てられた好太王碑のレプリカも見学)で現地を訪れ、この地域の古墳に関心を寄せる様になっていた矢先、図らずも今回の笠井先生の講演に接し、
(1)    河内平野の地勢を区分して捉える。
(2)    河内平野の古墳の形成過程を探る。
(3)    中河内(八尾地区)の古墳に注目する。
(4)    堂山古墳群の立地を考える。
(5)    堂山古墳群は後世に何を伝えたか?
を骨子とした、応神政権出現前後の、中河内地域に於ける古墳成立の経緯を、時代史的視点から捉え、そこに心合寺山古墳と堂山一号墳の関係を絡ませながら、
イ 何故この地に堂山一号墳が造られたのか
ロ 堂山一号墳とは、どの様な意義を持った古墳であったのか
ハ この古墳は、後世にどの様な影響を与えたか
と云う、大変興味深いお話に、一層関心が深まったからなのです。
さて、皆様方には堂山古墳群と云うのは、何処にあるのか、ご存知でしたか?
私は講演会の後に早速、地図で調べたのですが、堂山古墳群は、大阪府大東市寺川四丁目にありました。その場所は、生駒山西麓の直ぐ傍を南北に走る東高野街道筋の大東市寺川の東側の丘陵、標高七十八㍍の台地上に位置しています。
話題の堂山一号墳は、この丘陵の一番西端、支脈端頂部の眺望の良い処に位置している様です(図1参照)。
又、別の資料に依れば、堂山古墳群は、昭和四十四年、大阪府水道部が浄水施設を建設すべく工事に入った処、古墳が発見された為、同年と同四十七年から四十八年にかけて、大阪府教育委員会によって二回の発掘調査が行われ、七基からなる古墳群であることが判明しました。
 更に驚いたことに、この古墳群からは甲冑を始めとする武具・武器・農工具・土器などが大量に出土し、しかも保存状態が良好であったことから、平成十二年に大阪府の有形文化財として指定されていました。
新しい施設で陽の目を見る出土遺物
 しかし、笠井先生のお話によりますと、現地の古墳は、その後は顧みられることもなく、出土物も府内各所に分散保存されている様な寂しい状況にありました。
大東市では、市内住道にある現在の総合文化センターのリニューアルを機に、本年三月二四日に新しくライブラリー四条としてオープンする「歴史とスポーツふれあいセンター」に、堂山一号墳の出土品を中心に、同古墳群の副葬品を一堂に集めて特別展を開催すると共に、気鋭の先生方による内容のある講演会や行事を行う計画が、着々として進められているとの事です。
また、古墳自体も大阪府から移管を受けて整備中とのことだそうです。
さて、前置きが、大変長くなって仕舞いました。笠井先生には誠に失礼とは存じますが、講演内容を、私風に要約させて頂いて、お伝えすることをお許し下さい。
「笠井敏光先生講演河内湖周辺の古墳」の要約

(1)河内平野を地勢から三区分する
 河内平野は、大きく捉えると、南河内、中河内、北河内に三分される。
南河内は、大和川以南の地で、現在の行政区画から云えば、富田林・河内長野・羽曳野・藤井寺・大阪狭山の各市などであるが、古代この地は、段丘礫からなる台地と丘陵の地で農耕には不適な未開の原野であった。
このことは、この地には豊かな王権の基盤が生まれる訳が無い事を如実に示しているのであり、羽曳野丘陵に古市古墳群が生まれたのは、未開の原野であったればこその話である。
中河内は、現在の、八尾市・柏原市・東大阪市であるが、古代は氾濫原であった。
大和川が南から河内湖に流れ込み、繰り返す氾濫により流域の人々を苦しめたが、一方で肥沃な土壌を堆積させて豊穣の地を築き集落が集積した。それが証拠に、この地には亀井遺跡・瓜破(うりわり)遺跡・瓜生堂(うりゅうどう)遺跡など弥生時代の遺跡が多数存在する。河内の中の河内たる所以である。
北河内は、現在の、大東市・寝屋川市・守口市・門真市にあたるが、ここは低地で水位が高く排水の問題が常に付き纏う湿田地帯であり、農耕には適さない土地であったが、河内湖の豊かな水産資源に恵まれた場所でもあった。
この様に南・中・北河内の三地区の地勢が、それぞれに全く異なっていることを的確に捉えておくことが、河内湖周辺の古墳形成に対する重要な視点となる。

(2)河内平野の古墳の形成過程を考える。
 次に、河内平野に於ける古墳の在り様を、前方後円墳集成(10期区分)によって概観したい(表1 河内の古墳編年表参照)。
 先ず、この表を見るにあたって最も重要
な視点は、系譜を持つ古墳群は何処か?である。この表には、系譜を持たない地域や古墳も無い地域が数々見られるが、そこには権力の母体となるべきものが無かったことを示しているのである。
系譜を持つ古墳群があるということは、安定的で中心的な地域であったと云うことが出来るからであるが、河内平野広しと雖も系譜を持つ古墳群は、北河内では交野地域であり、中河内では八尾地域、南河内では、古墳時代前期で築造が終わった玉手山丘陵周辺・石川谷周辺と、ごく限られた場所にしか存在しないのである。
中でも時期区分の3期までは、何もなかった羽曳野に、四世紀後半になって突然、古市古墳群が出現する。古墳が突如として現れたと云うことは、中央政権の政策によって造られたことを表している。
翻って、古墳を何処に造るか?を考察する場合、一つは、出自、即ち被葬者の生まれ育った処にのみ造られるとする考え方と、もう一つの考え方として、政策的な意図によって造られるとする場合の二つが考えられるが、筆者(笠井)は、出自にだけ依るのではなく、後者を併せて考えなければならないとする立場である。
つまり、古墳があって、大王墓があれば権力があったと考えるのか、どうかということであり、要は、権力が何処にあるのかが重要なのであり、具体的に云えば権力の母体である宮居(みやい)が何処にあったか、である。
古墳の築造原理を大王と同じ視点で考えることは誤りである。大王は、何処にでも奥津城(古墳)を造ることが可能であるが、地方の首長は己の勢力範囲内でしか造ることが出来ないのである。

(3)中河内の古墳に注目する。
先程、河内三地域の中で最も豊かな地域(権力の母体が生まれ、且つ継続する地)は、中河内であったと申上げたが、表1に見る通り、その中でも八尾地域北群の向山・西の山・花岡山・中の谷山・心合寺山と系譜で繋がる五基の古墳のある楽音寺・大竹古墳群周辺が、古代に最も栄えた地域であったことが容易に理解出来るし、この地に大古墳を築いた心合寺山古墳の被葬者こそが、中河内全体を抑えた首長であった事は間違いない(図2楽音寺・大竹古墳群参照)。

そこで本日は、河内湖周辺の古墳の内、古代に河内湖であった時代から重要な位置を占めていた、中河内地域の大東市の堂山一号墳(第6期)と隣接する八尾市の心合寺山古墳 (第5期)の、二つの古墳に焦点を合わせ、この古墳にはどの様な謎が隠されているのか、お話したい。
その前に説明して置きたいのは、堂山古墳群と云うのは、一号から七号を有する古墳群であるが、その中でも一号墳が最も古く、二号から七号までの古墳とは凡そ二〇〇年の時期差があり、これらが系譜で繋がるとは考え難い。又、表1で分かる様に堂山古墳群の前(時期区分第5期)に峯垣内古墳があるが、この古墳とも繋がりは認められず、堂山一号墳が突然、この地に現れているのである。
 次に心合寺山古墳であるが、第2期から5期まで四代に亘って続いてきた系譜が、突然、第6期になって無くなるのを、どう見るかである。
 ここで、表1の古市古墳群欄に目を向けると、期せずして第6期に誉田御廟山古墳
が登場する。戦後の一時期に、河内王朝説が喧伝された、あの応神大王の時期と重なるのである。
 つまり心合寺山古墳の次の後継者は、没落して八尾から消えたのではなく、応神の勢力下に入ることにより、墓域となった古市古墳群に奥津城を移したと考えられるのである。
 大体において古市古墳群には大王が存在している様な錯覚を与えているが、筆者は三十年ちかくに亘って古市古墳群を掘り続けて来たが、ここには政権の本拠となる宮跡は見つかっていないし、今後も現われることは無いであろう。
このことから推して、応神の宮居は大和にあるのであって、奥津城(古墳)だけを古市に造っているのである。同様に中河内の首長も、応神の勢力下に組込まれてからは、権力の拠点は八尾に置きながらも奥津城を古市に移したと考えられる。
古市古墳群には大王墓だけではなく、多数の衛星的な中小の古墳があるが、中河内の
首長達の墓もこうした古墳の一つになっているものと考える。恐らく、これが古市古墳群の実態であろう。
この説明だけでは、読者に判り難いかも知れないが、律令期に入り、藤原京・平城京の時代には、自分の本拠を持つ多くの官人が、職務の為に、やむなく本拠地を離れ挙って都に集住するのも、又、卑近な例を挙げれば、平安末期に入って、羽曳野市の壷井の通法寺に父祖代々の本貫地を持っていた河内源氏の棟梁であった源義家が、平素は任務のために京の都に常駐するが、いざ合戦となれば、本貫地に帰って兵を募って現地に赴くと云う武家の姿を考えてみれば、その行動図式は古墳時代と少しも変わらない。
さて、ここで、堂山一号墳と心合寺山古墳の謎を解く為に、両者の要素を比較し、何が隠されているか、見てみたい。
先ず、表2をご覧になって、これは何の為の比較かと訝る方が多いと思う。
第一に、その規模である。百六十メートルの前方後円墳と僅か二十五メートルの円墳とでは、隔絶とした格差があり、比較にもならないではないか。第二に、主体部である。一方は粘土槨、片や組合式箱形木棺の直葬、これまた比較するに値しない、と思われるのも当然である。
然し、出土品に注目頂きたい。注目すべき一つは須恵器である。心合寺山古墳からは須恵器が出ていないが、堂山古墳からは最も古いとされているTK73型式の須恵器が出土しているのである。
尚、最新の研究によれば、この須恵器は泉北丘陵で焼かれたものではないのでは?という評価がされている。
二つ目は円筒埴輪(四突帯五段区画)である。古市古墳群の西墓山古墳や誉田御廟山古墳から出土する埴輪とその特徴が共通しているとされており、同時代のものとされている。
勿論、古墳の規模の差による埴輪の大きさ(埴輪の底部径に大小)の差があるが、注視すべきは二古墳出土円筒埴輪の底部下端にも、他に類例を見ない半円形抉(えぐ)りが施されていることである。更に円筒埴輪の外面二次調整によるハケ目(B種ヨコハケ)が同じであり、極論すれば、同じ埴輪工房で製作されたものであろう。その工房は、河内湖周辺が考えられる。
三つ目は、甲冑である。何れも古い時期に属する三角板革綴衝角付(しょうかくつき)冑(かぶと)と三角板革綴短甲である。この時代は地方の首長でも自ら武器・武具を製作することは許されないと云うか、出来ないのである。材料となる鉄(鉄?)や製作技術は、王権の独占下に置かれていたからである。
従って、これら甲冑や鉄製品は、中央政権の管轄の下の鍛冶工房(柏原市大県など)で作られ、支配下の首長クラスの者に支給されるものである。ただ、甲冑の工房は発見されていない。翻って武器・武具など鉄製品を有することは、取りも直さず王権との強く深い繋がりを示す証拠である。
最後に、心合寺山古墳の鏡であるが、この鏡(?(き)鳳(ほう)鏡(きょう))は、中国後漢頃の鏡であるので、時代が合わない。恐らく被葬者の先祖からの伝世鏡と考えられ、この古墳が系譜で繋がって来たことが分かるのである。

 以上のように考えると、心合寺山古墳と堂山一号墳とは、歴然とした格差のある古墳ではあるが、出土品から分析する限り、共に遜色のないものを有していることは、両者の関係が尋常ではない紐帯関係にあったと云って良い。
 古墳時代の階層を現すものに、前方後円墳・前方後方墳・円墳・方墳という、有名な四つの基本形(図3の通り)がある。
そこで、中河内地域古墳の墳形と規模の関係を、この図に当て嵌めるとすれば、差し詰め、誉田御廟山古墳A①→心合寺山古墳A②、→堂山古墳C③といった直系列で結ばれた階層関係が予想し得る。

(4)堂山古墳の立地を考える
ここからは、堂山古墳は何故にこの地に造られたのか?本日のメインテーマを考えてみたい。
 古代、各地から河内・大和に向かうには、河内湖の西から船で入らざるを得ないが、真っ直ぐ東に向かうと、堂山古墳群のある生駒山の西麓裾部辺りに着くのである(図4の通り)。
 この堂山の地には、古代より既に北から南に向かう、陸上の幹線道路(現在の東高野街道)が通っており、東西を結ぶ水上交通と南北を結ぶ陸上交通の結節点となる位置を占めており、河内湖の津(港)でもあった。
 現在では、この様な場所に港があったとは、想像すら出来ないが、近世には近くの野崎観音参りには、大阪市内の大川から遡って野崎まで、屋形船による水路があって頻繁に利用されていたことを思い出せば、納得して頂けるかも知れない。
 つまり、堂山古墳はこの要衝を扼する地に構えていたのである。ここからは河内平野はおろか、和泉・摂津・淡路まで大阪湾岸を一望出来る、絶好の戦略的ポジションに位置しているのである。
 当時、こうした立地は、堂山一号墳のみに止まらない。一番有名なのは明石の五色塚古墳であり、丹後の神明山古墳であろう。更に和泉の岸和田にも、こうした海岸近くに立地する古墳が見られるが、皆、同様の意図を持って造られた古墳である。
 言うなれば、これ等の古墳の被葬者は津(港)の守り人であり、その任務は直属の首長や大王から直接、命じられた可能性が強い。堂山一号墳で云えば、心合寺山古墳の被葬者であり、或いは応神大王から直接命じられた可能性もある。これは、先程から述べてきた古墳の副葬品が物語っているのである。

(5)堂山古墳は後世に何を伝えたか?
 最後に堂山古墳の立地が、後世に与えた影響についてお話したい。
皆さんは、我が国の戦国時代に活躍した阿波の戦国大名で三好長慶と云う人物をご存知でしょうか、彼は永禄三年(一五六〇年)飯盛山城に拠って河内の国を支配しました。
この飯盛山城は、堂山古墳群より高い標高三一六メートルの処にあります。ここは、生駒山脈の北西支脈ですが、そこからの眺望は素晴らしく、大阪湾岸一帯は勿論、神戸・淡路、更に北方に目を巡らせば、大山崎から京都辺りまで見渡せます。
恐らく京から西下する軍勢の動きや西国から上京する動き等も確実に捉えうる重要な戦略拠点だった訳ですが、これも堂山古墳群の立地が、後々の支配者にヒントを得させたものであったのでしょう。
(完)

河内湖の概要
(出典はフリー百科事典『ウィキペディア』)
河内湖は、河内の国・現在の大阪府東部にあった湖である。現在は、河内平野になっている。
紀元前約六千年から五千年頃の縄文海進により、海水が河内平野に進入し、現在の枚方市付近を北限、東大阪市付近を東限として、上町台地と生駒山地との間に、河内湾と呼ばれる湾が形成された。湾の北東岸には淀川が、南岸には大和川が流入し三角州を形成していた。時代が下るにつれ、次第に上町台地から北方へ砂州が伸びていき、弥生後期から古墳時代に河内湾口は、現在の梅田付近をわずかに残してほぼ塞がれ潟湖の河内湖となった。
河内湖は、淀川・大和川が運ぶ堆積物により、ゆっくりと縮小していった。紀元後も河内湖は残存しており、四、五世紀頃には草香江(くさかえ)と呼ばれていた。

« 百舌鳥古墳群(東群)を訪ねる | トップページ | 4・5世紀のヤマト政権と近江(上) »