4・5世紀のヤマト政権と近江(上)
-香坂王・忍熊王の反乱伝承を手がかりとして-
つどい292号
堺女子短期大学名誉学長・名誉教授 塚口義信 先生
①(画面をクリックすると大きくなります)
②
③
④
⑤
⑥
⑦
⑧
⑨
⑩
⑪
(次号につづく)
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4・5世紀のヤマト政権と近江(上)
-香坂王・忍熊王の反乱伝承を手がかりとして-
堺女子短期大学名誉学長・名誉教授 塚口義信
目次
はじめに-香坂王・忍熊王の反乱伝承の史実性-
一、神功皇后の新羅征討物語の意味するもの(以上、本号)
二、忍熊王の伝承と犬上氏(以下、次号)
三、忍熊王の伝承と建部氏
四、佐紀政権と志賀高穴穂宮の伝承
むすびにかえて
はじめに-香坂王・忍熊王の反乱伝承の史実性-
『古事記』『日本書紀』(以下、『記』『紀』と略称する(1))に、香坂王・忍熊王という帯中津日子天皇(『記』による。『紀』では足仲彦天皇とする。漢風諡号は仲哀。以下、小論では特に必要性がない限り、漢風諡号によって記すこととする。他の天皇や皇后についても同じ)の二皇子が神功皇后とその皇子(のちの応神天皇)に対して反乱を起こしたが失敗した、とする史料1のような物語が記されている。
この物語に対する先学の見解は実に区々であるが、史実性という点に限っていえば、否定論と肯定論の二つの立場がある。そこで、前者についてみてみると、たとえば大橋信弥氏は大略、次のような主張をしておられる。すなわち、この物語は○イ「祈狩」をめぐる物語と、○ロ山城・近江における戦いおよび忍熊王の敗死を語る物語、の二つの物語に分けることができるが、○イは「祈狩」の由来譚であり、○ロはその大部分を和珥氏をはじめとする諸氏の所伝に依拠していると推測されるから、両者ともに史実を核にしているものではあるまい(2)、と。
しかしながら、こうした史料批判の方法には根本的な疑問がある。仮にこの物語が大橋氏のいわれるように○イ○ロの二つの物語から構成されているとしても(念のためにいうが、私は必ずしもそのようには考えていない)、「諸氏の所伝や由来譚により構成されている」ことが、なぜ史実を核にしていないとみることの論拠となり得るのか、全く理解できないのである。かかる大橋氏の論法をもってすれば、『藤氏家伝』や『古語拾遺』をはじめとする氏族の家伝類も、それらが家伝であるがゆえにその内容もまた史実ではない、としなければならないことになる。しかしながら、こうした考え方が当を得ていないことは、ここで改めて指摘するまでもないことであって、われわれはそれらのうちのどの部分が史実に基づく記事であり、またどの部分がそうでないのかを問うているのである。少しでも疑わしい点があればそのすべてを捨て去ってしまう考え方は、湯水とともに赤児を流してしまう行為に等しい、と評されねばならない。
そこで、原点に立ち戻って考察してみると、この物語には後代に創作された部分と史実を核にしている部分とが混在していることが判明する。すなわち別稿(3)で詳述したように、香坂王・忍熊王の系譜や斗賀野における祈狩の話、空船の話、また海や川に関わる母子神信仰に由来する話など、史実とは認めにくい部分がある反面、四世紀末の史実を背景として形づくられたと推測される部分もまた存在しているのである。
ここで小論にとって重要なのは、後者であるから、以下にその考察結果の概要を述べておくこととする。
反乱の主役とされている忍熊王が実在の人物であるかどうかは定かでないが、その名が佐紀盾列古墳群(西群)のすぐ西北に位置する「忍熊里」(4)の地名に由来していることからすると、それは四世紀後半にヤマト王権を掌握していた佐紀の政治集団(以下、これを佐紀政権と呼ぶ)の後継者と認識されていた可能性が大きいこと、息長系の天皇たち(舒明・皇極[斉明]天皇など)や息長氏による後代の改変を経たのちですら、二王が応神より出自のうえで上位にあったとする伝承を残していること、伝承の時代設定が古市・百舌鳥古墳群に大王墓が移動する直前の四世紀末前後の時期と推定されること、忍熊王方の勢力基盤となっている地域(大和北部・山城南部など)と応神方のそれとが重なっていることなどから考えて、次のようなことが推測される。
すなわち、この伝承は、佐紀政権主流派の後継者(香坂王・忍熊王の名で語られている人物)に対し、神功・応神の名で語られている佐紀政権の内部にいた反主流派の政治集団が反乱を起こして王権を奪取した、という四世紀末に起こった事件を象徴的に語っている可能性が極めて大きいのである
一、神功皇后の新羅征討物語の意味するもの
以上のようにみてくると、神功皇后の新羅征討物語が担っている意味も容易に読み解くことができる。まず、『記』の物語に耳を傾けてみよう。
熊襲征討のために香椎宮に滞在していた仲哀天皇に対し、天照大神と底筒男・中筒男・上筒男の三柱の大神が神功皇后を通じて、自分たちが西の方にある国(新羅国と百済国)を帰服させるので神意に従うよう託宣する。しかし仲哀天皇はこれを疑い、そのため崩御するが、神功皇后は神託を信じ、新羅国と百済国を帰服させることに成功する。
ここで重要なのは、次の二点である。
①王権の守護神の神意が仲哀天皇から神功皇后の「御腹に坐す御子(のちの応
神天皇)に替わっていること。
②仲哀天皇が熊襲征討を主張し、朝鮮半島への出兵に否定的な立場をとっているのに対して、神功皇后は全くその逆の立場をとっていること。
まず、①の点からみていこう。この話の核心は、仲哀天皇が王権の守護神から見放され、応神が仲哀天皇に替わって天皇位を継承する立場になったこと、すなわち応神天皇即位の正当性を説いているものと思われる。そして、『紀』にもこれとほぼ同じ内容の話が記されているから、これらは『記』『紀』の編述者がともに用いた「帝紀」に既に書かれていたと考えられる。してみると、応神天皇即位の正当性を説くこれらの物語は元来、「帝紀」編述者の主張であったということになる。
では、守護神の神意が仲哀天皇から神功皇后の「御腹に坐す御子」に替わったということから、われわれはいったい、どのようなことを汲み取ることができるであろうか。私は、これは一つの体制の中に二つの派閥があり、主流派の「天皇」から反主流派の応神に神意が替わったことを意味していると考える。そして応神は仲哀天皇の皇子の香坂王・忍熊王と戦い、これを武力によって打倒したのち即位するという筋書きになっているから、応神は主流派の後継者を打ち倒して天皇位を獲得したことになる。かかる状況はこれを一言でいえば、応神による〝反乱〟であり、この話はそうした応神の行為を正当化するものにほかならない。神意が替わったとするこの論理は、王朝交替の理由を「天にあって宇宙を主宰する天帝が、悪政を行った不徳の天子から有徳の天子に天命を替えられた」と説いて新王朝樹立の正当性を主張する中国の革命思想の論理に、よく似ている。『記』『紀』や「帝紀」では、この天帝の役割を王権の守護神に負わせているとみれば、この物語の本質が奈辺にあるかが浮かび上がってくるのではないか。
「帝紀」や『記』『紀』は応神天皇の後裔を主張する天皇たちによって自己の有利なように改変されていると考えられるから、応神即位の正当性を守護神の意思によるものであるとし、さらに神功を「大后」(『記』)「皇后」(『紀』)、応神を「太子」(『記』)
と位置付けることによってその即位の正当性を根拠付けたと推考されるのである(5)。したがって仲哀天皇が神の怒りにふれて死なねばならなかったのも、反乱に成功した応神天皇の正当性の主張と不可分であるといわねばならない。
しかし、それにしても、「帝紀」や『記』『紀』の編述者はなぜ神々を登場させるというかたちで応神天皇即位の正当性を主張する必要性があったのであろうか。おそらくそれは、応神を仲哀天皇の「太子」とし、その母を「大后(皇后)」に位置付けるだけでは、「諸家」を納得させるだけの説得力がなかったからであろう。そのため、神武~応神の時代は〝伝説の時代〟であるとする意識のもとに、応神即位の正当性の根拠を神聖にして絶対的権威を有する王権の守護神に求めたのである。
ところが、この話の内容には少々不可思議な点がある。「天皇」と「御腹に坐す御子」とを対立の図式で描き、「天皇」を死に追い遣ってまでその地位を応神に替えている点である。これでは応神が仲哀天皇の正当な後継者ではなかったことをみずから語っていることにもなりかねない。なぜ応神即位の正当性を示す物語がこのような「天皇」との対立の図式で描く必要性があったのか。実は、この点にこそ、応神天皇の立場を解く鍵が秘められているのである。
おそらくこのようなかたちで応神即位の正当性を語らざるを得なかったのは、当時の「諸家」の間で、応神ではなく香坂・忍熊二王の方こそ王権の正当な後継者であったとする意識が根強く残っていたからであろう。そしてこのことは、『記』『紀』において応神より香坂・忍熊二王の方が出自のうえで上位に位置付けられていることと軌を一にしているのである(図1を参照)(6)。そこで、仲哀を守護神から死の宣告を受けた愚かな天皇として描き、香坂・忍熊二王を神に見放された仲哀路線の継承者とすることによって、二王に対する「諸家」のそうした意識を払拭しようとしたと考えられるのである。
②については、王権の主流派が反熊襲・朝鮮半島出兵消極派であったのに対し、反主流派は親熊襲・朝鮮半島出兵積極派であったことを示している。では、こうした対立の図式の虚実についてはどのように考えられるであろうか。私は別稿(7)において、次のようなことを考証した。
(一) 四世紀後半における百済王家には辰斯王派と阿花王(阿?王)派の二つの有力な派閥が存在し、三九一年に後者が起こしたクーデターによって辰斯王が殺害され。阿花王が即位した。この内紛にはヤマト政権内部の派閥抗争が絡んでおり、辰斯王派は佐紀政権の主流派(仲哀・香坂王・忍熊王の名で語られている勢力)と、また阿花王派は反主流派(神功・応神の名で語られている勢力)とそれぞれ連携関係にあったものと思われる。
(二) それまで畿内型の前方後円墳を築いてきたにもかかわらず、四世紀後半前後の時期にのみ、「熊襲」の居住地とされる南九州一帯で、前方部が異様に長い日向独特の柄鏡式前方後円墳が築造されるという特異な現象が起こっている。かかる他の地方とは顕著に異なる個性的な墳形の発現が隆盛であることからすれば、四世紀後半前後における「熊襲」とヤマト政権との間には必ずしも親密な関係が成立していたとはいいがたい状況が生じていたのではないだろうか。いい換えれば、これらの古墳は畿内の墓制を受け入れながらもその独自性を強く主張しているという意味において、ヤマト政権に抵抗しているようにも読み取れるのである。一方、『記』『紀』によると、応神・仁徳は南九州の日向の政治集団と姻戚関係にあったと伝えられており、そこに「日下王家」とも称すべき王家が誕生している。そして、こうした関係を証するかのごとく、五世紀前半の日向には百舌鳥・古市古墳群の大王墓と深い関わりをもつ、九州最大および最大級の巨大前方後円墳(女狭穂塚古墳・男狭穂塚古墳)が築造されている。
さて、ここで、②に(一)(二)の考察結果を重ねてみると、どのようなことになるであろうか。両者はその骨格において同じことを示していることが知られるであろう。
『記』『紀』の仲哀・神功の物語については疑問な点も少なくないが、②の点については四世紀後半の史実に基づいて形成されている可能性が大きいと考えられるのである。
では、神功皇后伝説の後半部で語っている近江南部における忍熊王敗死の物語については、どのように考えられるであろうか。以下、若干の考察を試みたい。(次号に続く)
註
(1)小論では特に断らない限り、『記』は山口佳紀・神野志隆光校注・訳『古事記』(新編日本古典文学全集1、小学館、一九九七年)、『紀』は小島憲之・直木孝次郎・西宮一民・蔵中進・毛利正守校注・訳『日本書紀』(新編日本古典文学全集①②③、小学館、一九九四年・一九九六年・一九九八年)によっている。
(2)大橋信弥『日本古代国家の成立と息長氏』(吉川弘文館、一九八四年)。
(3)塚口義信「四世紀後半における王権の所在」(末永雅雄先生米寿記念会編『末永先生米壽記念獻呈論文集』坤、所収、奈良明新社、一九八五年)、同「佐紀盾列古墳群とその被葬者たち」(『ヤマト王権の謎をとく』所収、学生社、一九九三年)、同「佐紀盾列古墳群の謎を探る」(『日本古代史〔王権〕の最前線』、新人物往来社、一九九七年、のち一部修正して『つどい』第二八九号、豊中歴史同好会、二〇一二年に再掲載)、同「百済王家の内紛とヤマト政権」(『堺女子短期大学紀要』第四四号、愛泉学会、二〇〇九年)、同「四・五世紀における丹波の政治集団とヤマト政権」 (『古代学研究』第一八六号、古代学研究会、二〇一〇年)など。「海の母子神信仰」に由来する説話については、三品彰英『増補日鮮神話伝説の研究』(同論文集第四巻、平凡社、一九七二年)を参照。なお、岡田精司氏は、はやく「湖北の豪族の繁栄」(『史跡でつづる古代の近江』法律文化社、一九八二年)と題する論考の中で、忍熊王の伝承のうち、湖畔が戦場になっている点、大和の和邇氏の祖が近江の犬上氏の祖を討っている点、敵将が湖水で死んでいる点、などの要素には史実の反映が認められるようだと述べておられる。氏の見解は必ずしも十分な根拠に基づいた推論ではないが、既に別稿で述べ、また以下にも触れるとおり、私見もほぼこの見解に近い。また、荊木美行氏も別の根拠を挙げて、私見とほぼ同樣の見解を示しておられる。同「初期ヤマト政権の成立と展開」(『日本書紀』とその世界』所収、燃焼社、一九九四年)を参照。
(4)「京北班田図」(嘉元元年〈一三〇三〉に西大寺が秋篠寺との寺領争論のときに提出した絵図の一つ)による。忍熊里は現在の奈良市押熊町附近。
(5)息長帯比売命(神功)が「大后」「皇后」と位置付けられた時期は、息長系の天皇が即位した舒明・皇極朝前後の時期が可能性としては最も大きいと考えられる。塚口義信「神功皇后伝説の形成とその意義」(『神功皇后伝説の研究』所収、創元社、一九八〇年)。
(6)塚口義信「四世紀後半における王権の所在」
(前掲)。
(7)塚口義信「百済王家の内紛とヤマト政権」(前掲)、同「古代日本における聖婚と服属」(『古文化談叢』第六六集、九州古文化研究会、二〇一一年)。