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平安京風水論考私案

つどい290号
投稿特集(1) 平安京風水論考私案 会員 草川英昭

①(画面をクリックすると大きくなります)

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以下検索用テキスト文
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 一、はじめに
 一九七二年に高松塚古墳、一九八三年にキトラ古墳と壁画をもつ古墳が発見され、東西南北にそれぞれ青龍・白虎・朱雀・玄武の、所謂風水四神獣が描かれていたことと、こ

のころから香港や台湾での風水説による建築例が多くなったことなどから、我が国に置いても風水論が話題にされるようになった。
 参考:一九九〇年版 岩波国語辞典や一九八三年版 講談社国語辞典には「風水」という語彙の記載はない。
 一九九四年の平安遷都一二〇〇年に合わせて、平安京が風水説に基づいて建設されたとする番組がNHKによって放送されたとある(1)。二〇〇五年には日本建築学会東

京支部の研究会において、韓国での風水
論によって作られたとされる集落の例が報告されている(2)。
 風水とは、一族の繁栄を家(陽宅)、墓(陰宅)、土地の相などから見極め、(手相や人相から将来を予測するのと同じように)これによって、同族や住む集落の運勢を占うもの

であるらしい。そうして王侯貴族は、自分の家と土地、王の場合は王城の地と陵墓にも陰陽師に占いをさせたとする(3)。
 平安京を建設した五十代天皇の桓武(七三七~八〇六、在位七八一~八〇六)は怨霊信仰により、建設半ばの長岡京を捨て、平安京に遷都したことから、陰陽師による王城建

設の地の判断に頼ったと考えられる。もっとも五十一代の天皇、平城(七七四~八二四、在位八〇六~八〇九)は、重祚して都を平安京から平城京に戻そうとしたから、当時の人々にとっても、平安京の地が吉相とされて遷都したとすることがあまり当てにはならなかったのかも知れないが…。
 風水によって都城を建設する時には必ず風水の「けつ(けつよ)」が決められるはずである。ところが現在の平安京の風水説にはその「穴」についての明確な記載が観られない。
 ここでは平安京における風水の「穴」の位置を求めてみたいと思う。

二、現在の平安京風水説
 昨今、一般的に云われている風水に対応する神社と対応物は、図1(上賀茂神社で入手)に示すような、北・玄武は上賀茂神社と船岡山、南・朱雀は城南宮とおぐら(おぐらう)池(現在は干拓されて存在しない)、東・青龍は八坂神社と鴨川、西・白虎は松尾大社と、山陰道・西国街道とされている。
 図1の中央にあるのは平安神宮で、この拝殿は一八九五年(明治二十八年)に催された内国勧業博覧会のバビリオンとして、平安時代後期の様式を模して、朝堂院の中心である大極殿を六割程度の大きさで復元したと云われている。ここでは大極殿を「穴」とするのであろう。
 しかし、ここで示された風水説は中国や韓国の風水説とは異なったものである。特に韓国での風水は、図3で示すように、南を除く三方は、北の玄武とする祖宗山に連る東西に広がった山並みであり、神社・仏閣や川や池、特に西方の大路としての山陰道は風水対応物とするのは疑問だとする説がある(4)。
 なぜなら、山陰道や西国街道は、東西に伸びていて、平安京の東西に位置する青龍・白虎は南北に連なっていなければならないとする風水説に合わないからである。
 建設半ばの長岡京を捨て、平安京遷都を行った桓武は御霊信仰者であったことから、遷都にあって陰陽師の助言を受けたであろう。
 もっとも当時の陰陽師は、暦の原理をも知らず、唐の長慶宣明暦をその後八百年あまりに渉って用いたのであるから、占いの結果も「当るも八卦、当らずも八卦」であったろうが…。
 この風水説に対して異なる平安京風水説がある。それは足利健亮らによる説で(4)、図2に示すものである。ここにも「穴」の位置を明確には示していないが、太極殿と羅城門とにポイントを記している。しかし、羅城門では風水対象物として適さないから、大極殿を「穴」、すなわち、中心点としているのであろう。これらの検討は第三節で行う。
 この両者の対応は表1の様になる。
 風水説には、明確な基準はないようである。教義がまとまる以前に各地に伝わり、これに土着の信仰が混じり合い、地域の地形、気候、風俗によっていろいろな、風水説が語られるようになったのではないだろうか。
 図1風水の朱雀対応の城南宮が注目されるのは平安中期からで、元の神社のまはたき(まはたき朱)社は延喜式内社としては、特に注目されるような神社ではないからである。
 また、図2風水の北・玄武は船岡山と玄武神社を、南・朱雀は伏見の横大路朱雀と呼ばれる集落を、東は鴨川と鴨河合神社を、西・白虎は蚕ノ社と木嶋大路だとする説となる(4)。
 玄武として、船岡山の東に位置する玄武神社を挙げる人は多少いるが、祭神の惟喬親王が五十五代文徳(八二七~八五八)の子であることから、これも後付であろう。図2の風水説でも玄武神社を対応神社としている。

三、平安京風水説と朝鮮の風水説との対応
 現在の風水書(2)(3)(5)に用いられている「朝鮮の風水」モデル図の南北方向を多少引き延し、平安京を当てはめると図3の様な対応模型がえられる。この図3では朱雀門を「穴」として描いている。
 この図3から、表1の平安京風水説と、「朝鮮の風水」モデルとの相違点や欠落点が判る。
 それらを挙げると次のようなものである。
 ①先に挙げた青龍、白虎が異なる。朝鮮風水図では、これらは川や大路でなく、祖宗山から南北に連なる東西の山並みである。また、図1、図2の風水には南の案山や朝山がなく、川の合流点に当時は巨椋池があった。

 このような相違は風水には、決った原理、規則が無く、国、地域、時代によって基準が変るからであろう。
 ②風水で最も重要とされる「穴」の明確な指摘がない。
 図3における東の青龍、白虎に当る山並みを平安京について求めれば、内青龍は鴨川を越えた東山、外青龍は山科川を越えた山城と近江の国境の逢坂山となり、内白虎は天

神川と桂川の間の双ヶ岡を起点とする分水嶺、外白虎は嵐山から天王山に至る、山城、丹波の国境の西山になるのであろう。
 ②の「穴」の位置を決めないで、どのようにして平安京を建設したのであろう。ここから現在の平安京風水説の風水四神に対応するものと、これを象徴とする神社は、
その多くが後付で、遷都以後に決められたものであることになる。
 
四、風水の「穴」の求め方
 平安京が船岡山を通る朱雀大路を対称軸として作られたことはよく知られているが、南北(子午線)軸だけでは平安京の位置は決らない。当然、南北の基準線(子午線に対応させれば、東西線は卯酉線となるが)東西軸が必要であるが、平安京における東西軸は何を起点とし、何処にあるかを寡聞にして知らない。
 これは原点となる風水の「穴」が判らないことになる。平安京風水説を成り立たせるためには、先ず原点となる「穴」を求めなくてはならない。
 ここでは平安京が風水説よって作られたとして、図3から平安京の風水の「穴」を求めてみよう。
 図3の対応から「穴」は朱雀大路の上にあることが判る。次に市街地を意味する明堂は「穴」より北にはない。では「穴」は大内裏の中にあるのか。ここで参考になるのは韓国や沖縄での陰宅の風水である。すなわち墓地の風水である。人間の永久の眠り場所として作られた玄室が、生きているときの安全な眠り場所であった母親の胎内、すなわち子宮を模したものであると考えられている(3)(5)。図3の対応図からも想像できるが、風水図による墓地の様式・構造は女性の生殖器を模したものであり、一族の繁栄と墓地の維持は子孫の繁栄に懸っているからとされている。このことは、ここには図で示してはいないが、朝鮮や沖縄での風水による墓地の構造からもこのことは容易に判る(5)。
 また、韓国の学者崔昌祚はその著書(6)に於いて、母親の、乳児に対して授乳時の状態を例とし、母親が赤子を抱えた腕のなかを明堂に、乳房、乳首を「穴」としている

。穴には、その土地の「気」が凝縮されているとする。
 この様に考えると風水の「穴」は胎児の出産の出口、膣孔にあたる。そうして内裏は子宮の位置にあるとできる。すなわち平安京の場合、南北の朱雀大路と、東西の二条大路との交点朱雀門が、平安京の風水論の「穴」であるとすることが出来ると考える。
 従来の平安京風水説では、朱雀門が「穴」であるとは述べていないが、この区域が特異な場所にあることを述べたものに足利健亮ら(4)がいる。氏らはインターネットにおいて、朱雀門から船岡山までの距離と、朱雀門から鴨川までの距離とがほぼ等しいことを挙げ、また先に挙げた著書において、白虎として蚕ノ社(木嶋坐天照御魂神社)と、そこから南へ延びる木嶋大路を挙げる。ただ、木嶋大路が当時存在したかどうかは判らない。
 また『図説・風水学』の著者目崎もインターネットに大極殿を中心とする平安京風水図を描いている。氏の平安京風水図は、比較参考として図3に挿入してある。氏の風水図では東西線も大極殿を通っている。
 平安京の「穴」が朱雀門ではないかを推定させるものに、次の様な条件がある。
 ①朱雀大路 二八丈(八五メートル)、二条大路 一七丈(五一メートル)は、他の大路の道路幅より大きい。九条大路、東西大路一二丈(三六メートル)、その他の大路は一〇丈(三〇メートル)までである。
参考 四六〇丈=一三九二メートル、一丈=三・〇三メートル
 朱雀門は平安京で一番目と二番目の大路の交点にある。

 ②遷都当時、泉の湧いていた神泉苑が直ぐ傍にある。ここから神泉苑を「穴」とする考えも無視できない。そうして、朱雀大路を北に延ばすと船岡山、南へ延ばすと巨椋池となるが、巨椋池では遠すぎて、船岡山の対には適さないという論もある(4)。
 二条大路を西に延長すると広隆寺に行き当たる。広隆寺は秦氏の氏寺であり、遷都以前から存在している。反対に東へ行くと白河地区に向かう。ここにはかって天皇家の氏寺とされた八角九重塔をもつ法勝寺(一〇七七年建立)があった。これは秦氏の氏寺広隆寺に対しての天皇家の氏寺でとして建てられたのかも知れない。
 これらから、平安京は船岡山を起点とする南北線と、広隆寺を起点とする東西線との交点に大内裏の朱雀門を置き、これに手本とした唐の都長安を模した大内裏と、その中

の配置、市街地を決めて建設されたとする。
 このように風水説による対象物は、地域や時代における人の考えによって換わる。
 西の白虎を山陰道とする論は、長安城からの西方への路、シルクロードの重要さの意味も判らずに、真似て平安京建設以後に付けたのではないかと考える。羅城で囲まれた唐の都長安に対して、羅城をもたない平安京から公式に出入する門は南の羅城門しかなく、山陰道が、山陽道や、東海・東山道より重要とされたことはないからである。

五、七世紀から八世紀における都城の変遷の時代の平安京の位置
 平安京東西線の基準となった広隆寺は、長岡京の南北の基準にもなったのではないだろうか。
 広隆寺は、長岡京の朱雀大路を北に七六〇〇メートル延長すると、一〇〇メートルほど東にズレた位置にある。これは偶然であろうか。また、北の一条大路を東に一〇四〇〇メートル延ばした線は近江宮跡の南五〇〇メートル以内の所を通る。桓武と天智との関係や、梵釈寺(8)の建設とを考慮すると、桓武は平安京と大津宮との位置関係も知

っていたのではないかと考える。
 平安京と長岡京や大津宮の位置関係は参考書の(7)(8)(9)から求めることができる。これらの参考書には相互の位置関係については触れていない。これらは平安京と、それ以前の都城の範囲をどこまでにするかにもよる。

六、おわりに
 「風水」は科学といわれるほど再現性(条件が同一であれば、いつでも、何処でも誰によっても同じ結果が得られる普遍妥当性)のあるものではない。また風水での現象の説明は気象、天文、地質などの現在の知識で解析でき、理解できると考えている。
 風水説の説明には理解出来ないことが多い。

参考書
(1)「よみがえる平安京」一九九四年六月五日、NHK総合で放映されたとある。
(2)伊藤庸一「韓国南部農村集落の空間構成と風水観」三六八、日本建築学会05年会関東支部研究報告。
 なお伊藤には日本建築学会96年会近畿支部報告にも風水関係の報告がある。
(3)宮内貴久『風水と家相の歴史』二〇〇九、吉川弘文館。
(4)足利健亮編『京都歴史アトラス』一九九四、中央公論。
(5)目崎茂和『図説・風水学』一九九六、 東京書籍株式会社。
(6)崔昌祚著、熊谷治訳『風水地理入門』一九九九、雄山閣。
(7)京都市文化財ブックス第二十四集 『飛鳥・白鳳の瓦』二〇一〇、株式会社ダイ。     
(8)吉川真司編『日本の時代史5・平安京』吉川真司「平安京」二〇〇二、吉川弘文館。

長岡京・平安京配置図参考書  
(9)奈良文化財研究所創立五〇周年記念
『日中古代都城図録』改訂版二〇〇九、株式会社クバプロ。
(10)、島方洸一外『地図でみる西日本の古代』二〇〇九、平凡社。
(11)木下良『日本古代の道と駅』二〇〇九、吉川弘文館。

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