秦氏と宇佐八幡宮
つどい291号
秦氏と宇佐八幡宮 会員 金谷健一
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秦氏と宇佐八幡宮 会員 金谷健一
はじめに
秦氏の分布は、大和・山背・伊予・播磨・備前・豊前などに及ぶ。擬制氏族と呼ばれて血の繋がりによるものでなく、地域性とか、実際の性質の異なった者でも同一と見な
す集団で、漢氏に比べて政治的な関与は少なく聖徳太子の時代に少し見られるだけである。主に土地を拓き、農業・鉱業・灌漑などに主力をおいた殖産的な性格を持った氏族で、鮎貝房之進(戦中、朝鮮総督府顧問)説によると、慶尚北道のウルチン地方に四十七の秦氏一族の部落があるとされる。
年代に幅があるが『日本古代人名事典』(吉川弘文館)から現在に遺された一族の氏名を調べてみた。摂津の国では八名が確認できたが、特筆すべきは御野国加毛郡半布里(美濃国加茂郡羽生村)の三七八名と、豊国(豊前・豊後)の二八一名が検索でき
たことである。これは、この両国の大宝律令(七○一)の戸籍が正倉院に保存されているためである。
*辰(秦)一族の南下(倭国への渡来)については、『騎馬民族国家』(江上波夫)を一読されたい。
秦氏についての概説
応神天皇十四年(二八三→修正紀年四〇三)朝鮮半島から弓月君が、一二○県の民を率いて渡来、弓月君は帰化後、大和の朝津間腋上(御所市)に居住して「大蔵長官」となる。
雄略天皇十五年(四七一)に秦酒君が「一八○種の勝(種族)」を集めて朝廷に絹織物を献上したとみられる。秦氏宗家が全国の秦部・秦人・秦人部などを組織して、氏として成立したのもこの頃で、宗家は山背国葛野に移り「禹豆麻佐」の別称を賜っている。
推古天皇(五九二~六二八)の世に秦河勝が蜂岡寺(広隆寺)を建て、聖徳太子のブレーンとなって加茂川・桂川の水田開発や養蚕事業を行う。河勝は壬申の乱では功があり、「忌寸」(八色の姓で四番)の姓を受けている。天平勝宝四年(七五二)の大仏開眼や、延暦十三年(七九四)の平安遷都は秦氏の財政によるところが大きいとされる。
元慶七年(八八三)になると、秦氏の宗家は惟宗と改姓されて、明法道(律令学)を家業とするようになり、惟宗直本の『律集解』や、惟宗公方の『本朝月令』(平安時代の有職故実書)はよく知られている。
惟宗家も九世紀の末頃から衰退をはじめ、十一世紀には検非違使の下級官吏にその姓を見るに過ぎなくなる。
摂津国の秦氏
一、秦乙満呂
川辺郡 鋳物師 天平宝字六年
二、秦美止保利
川辺郡 天平勝宝年間
三、秦伊美吉継手
嶋上郡 絵師 天平勝宝年間
四、秦人広立
西成郡 神護景雲年間
五、秦下麻呂
豊嶋郡 天平年間
六、秦忌寸豊穂
豊嶋郡 写経師 神護景雲年間
七、秦井手小足
豊嶋郡
池田市穴織町の石田家が子孫を名乗っておられる。「井手」の直訳は「井戸」であり、桂川から分水して広隆寺付近を流れる水路を「広隆寺井手」と呼ばれていることや、東山区井手町の地名由来を見ると「加茂川の流域広大にして堰あり、俗に井手と云ふ、水路監理者を井手守と称す」とあることから、豊嶋郡の井手は猪名川から水を引いて灌漑池でも造ったのだろうか。『続日本紀』では正七位・忌寸姓を享けている。
八、秦下嶋麻呂
豊嶋郡 天平年間
『続日本紀』天平十四年(七四二)八月五日条に、恭仁宮(相楽郡木津)造営に伴う功よって「太秦公」の姓を賜るとある(「太秦公」の称号は、後に忌寸、宿禰に改姓)。同十七年五月三日条には、正八位下から、従四位下に昇進とある。また、造宮輔から長門守となり、嶋麻呂の娘は大納言藤原朝臣・小黒麻呂の妻となって葛麻呂(後の遣唐大使)を生んでいる。延暦十年(七九一)には加美能宿禰の姓を賜っている。これらの事から長岡京(向日市)や、平安京遷都、大仏開眼などに大きな貢献があったと考えるべきであろう。
*嶋麻呂については、和田萃名誉教授(京都教育大)は河内国(寝屋川市)説を、佐伯有清教授(成城大)は豊嶋郡説を採られているが、嶋麻呂は秦下とあることから本貫地(本籍)は豊嶋郡秦下郷とみて、官位からみると日常は京での生活だったと考えたい。
*一昨年出版された『秦氏と妙見信仰』(植野加代子氏)の著書によれば、秦氏による能勢の妙見信仰が古代にあったと読み取れるが、能勢の妙見は能勢頼次が元和三年(一六一七)に日蓮宗の日乾上人を招聘して、多田満中の鎮宅霊符を法華勧請して名を妙見大菩薩と改めて菩薩像を祀ったのが能勢妙見の始まりであると見える(『能勢町史』)。
河内国の秦氏(寝屋川市うずまさ(うずまさ氏))
仁徳天皇紀十一年(三二三→修正紀年四四三)十月条に、茨田堤を秦人が造ったとされる記述があって、この秦人達が河内国茨田郡幡多郷の人といわれている。
府の浄水場に隣接して秦人の墓とされる円墳がある。また、秦河勝の墓と云われる五輪塔もある(慶安二年《一六四九》建立)。
秦造河勝
推古天皇紀十一年
十一月のつちのと(つちのと紀)い(いち)のついたち(ついたち紀)に、皇太子、諸
の大夫にかた(かたに)りて曰く「我尊き仏像たも(たもく)て
り。誰か是の像を得ていやびまつ(いやびまつ像)らむ」との
たまう。時に、秦造河勝進みて曰く、
「臣、拝みまつらむ」といふ。すで(すで拝)に仏
像を受く。よ(よ受)りて蜂岡寺を造る。
秦河勝は山背国葛野を本貫地として、用明天皇二年(五八七)の物部守屋の討伐には兵を率いて厩戸皇子を護って戦いに参加。戦勝の祝に天皇寺(四天王寺)を造り四天王像を祀る。
推古天皇十一年(六○三)には蜂岡寺(広隆寺)を造り、国宝一号の半跏惟像は特に有名である。聖徳太子歿後、妃の橘大女郎による中宮寺への天寿国繍帳奉納はよく知られているが、『上宮聖徳法王帝説』には製作者名は「椋都秦久麻」と見える。
秦酒公
雄略天皇紀十五年
十五年に、秦の民をおみ(おみに)むらじ(むらじ))など(などじ)にあか(あかじ)ちて、
各ねがい(ねがい))の随につかまつ(つかまつ))らして、秦造にゆだ(ゆだ、)にしめず。是に由りて、秦造酒、にへさ(にへさに)に以てうれへ(うれへに)として、天皇に仕へまつる。天皇、うつくし(うつくし皇)びめぐみ(めぐみし)みたまふ。詔して秦の民を聚りて、秦酒公に賜ふ。公、仍りて百八十の(の、)すぐり(すぐり酒)をひきいて(ひきいて))ゐて、ちから(ちからて)つき(つきら)のきぬ(きぬら)かとり(かとり))を奉りて、朝廷につ(つ、)む。因りてかばね(かばねて)を賜ひてう(うひ)つ(つひ)ま(まひ)さ(さひ)と日ふ。(一に云はく、う(うふ)つ(つふ)
も(もふ)り(りふ)ま(まふ)さ(さふ)といへるは、みな(みなる)みて(みてる)て積めるかたち(かたち))なり)。
十六年の秋七月に、詔して桑に宜きくに(くに六)
あがた(あがた))にして桑を殖ゑしむ。又秦の民をあか(あか桑)
ちてうつ(うつて)して、ちから(ちから))つき(つきら)をたてまつら(たてまつらゑ)しむ。
織物をうず高く積んで献納したので「禹豆萬佐」の称を賜り、酒公の下に、一万八千六百七十人の秦人がいたといわれている。
御野(美濃)国の秦氏
御野国(現岐阜県南部)の戸籍「庚午年籍」(天智九年、六七○)は現存しないが、正倉院に大宝律令(文武元年、七○一)の戸籍が郡別に七巻遺されている。
あ(あ野)はち(はち))ま(まち)ぐん(ぐん))(安八郡)春部里・もと(もと郡)す(すと)ぐん(ぐん))(本巣郡)くる(くる郡)す(する)た(たる)り(りる)・かた(かた))がた(がた))ぐん(ぐん))(方県郡)肩々里・かがみ(かがみ))ぐん(ぐんみ)(各務郡)中里・山方郡(山県郡)みい(みい郡)た(たい)り(りい)・加毛郡(加茂郡)はにゅうり(はにゅうり茂)・未詳の七郡に分かれて秦氏は御野国加毛郡半布里(美濃国賀茂郡羽生村)に秦人・秦人部・勝・不破勝・各牟勝などの部族に分かれて四九七名が確認できた。一戸平均二○名、国造の大場家は九十六名、官位を持つ人十四人、奴婢、寄人(労働力)、など最小八人家族などが見られる。
半布里が埴生郡となり、現在は羽生となっているが、埴生は(ハニ→粘土)であって近くには美濃須衛古窯跡群もあり、美濃焼きは広く知られていて美濃から、土岐・瀬戸・鳴海にかけては桃山時代の瀬戸黒・志野・織部などが有名である。また、和紙の産地としても知られ、楮・三椏・雁皮などが豊富に採れて、宝亀五年(七七四)和紙を年貢として納めた記録が見られる(県社会教育課文化課 館さん)。
織物について調べると『常陸国風土記』久慈郡に崇神天皇の世に綺日女命が筑紫の国から飛来して、美濃の秦氏に美濃?の機織を伝えた始祖伝承がみられる。
こほり(こほり来)の東、太田のさと(さと太)(茨城県太田市幡)になが(なが県)はた(はた県)べ(べた)の社あり。古老のいへらく、す(すあ)め(めあ)み(みあ)まの(まの))みこと(みこと))(ニニギノ命)天より降りましし時、み(みし)けし(けし))を織らむとして、従ひて降りし神、名はかむはた(かむはた神)ひ(ひむ)めの(めの))みこと(みこと))本、筑紫の国日向のふた(ふた日)がみ(がみ日)の峯より三野国引津根(岐阜県不破郡垂井町)の丘に至りき。後、美麻貴の天皇(崇神天皇)の御世に至り、長幡部の遠祖、た(た世)ての(ての))みこと(みこと))、三野よりさ(さよ)りて久慈(岩手県久慈郡)にうつ(うつ慈)り、はた(はた慈)との(との慈)を造り立てて、初めて織りき。その織れる服は、自らみけし(みけしの)と成りて、更に裁ち縫うことなく、うつ(うつ更)はた(はた更)と謂ふ。また(また更)いへらく、あしぎぬ(あしぎぬ裁)を織る時に当たりて、たやすく(たやすく当)く人にみらるる故に、や(やに)の扉を閉じて、やみぬち(やみぬちて)にして織りき。よ(よて)りてうつ(うつ))はた(はた))と名づく。たけき兵、こわ(こわく)きやいば(やいば))も、裁ち断ることを得ず。今、年毎に、別きて神のみつぎ(みつぎ断)と為してたてまつ(たてまつ))れり。
* 県の社会教育文化課によると、この辺りでは、あしぎぬ(あしぎぬ会)と呼ばれる撚りの太い絹糸で平織りにした織物が一三○○年の昔から織られているとの事です。(?《アシギヌ・悪絹》→?《カトリ・固い織》)
豊国(豊前・豊後)の秦氏
豊国の秦氏については、大宝律令の戸籍(西海道戸籍)から五七八名が確認出来た。
『隋書』倭国伝(本文を要約)
明(翌)年(推古十六年《六○八》)煬帝は、裴世清を遣わして倭国に使いさせた。百済を渡り、竹島に行き、南にたん(たん百)ら(らん)こく(こく))(済州島)を望み、つ(つ州)し(し州)ま(ま州)国(対馬)を経て、また東へ一支国(壱岐)に至り、また、東に行って、しん(しん、)(はた(はた、))王国に至る。その住民は、か(かに)か(かに)(中国)に同じく、夷州(台湾)ともするが、疑わしく明らかに出来ない。また、十余国を経て、海岸に達する。竹斯国(筑紫)から以東は、みな倭にふ(ふか)よ(よか)する。
右の文章は推古女帝(五九二~六二八)の世に三回遣隋使を派遣(中国側の記録では四回)しているが、推古十七年に隋の煬帝が、小野妹子の帰国に裴世清を随伴させた時の記録で文中に「辰(秦)王国」と見られる。秦王国の位置については、松下見林(江戸中期の国文学者)は豊国(豊前・豊後)とし、江上波夫(東大名誉教授)は周防とされ、梅原猛(哲学者)は確認出来ないという。
だが、用明天皇の(五八五~五八七)世に、天皇の病気平癒の為、豊国の豊国法師が天皇の招聘を請けて病気祈願のため大和まで赴いていることが『日本書記』に見られることは、秦河勝との関連が考えられることや、半田康夫教授(大分大学)・田村円澄名誉教授(九大)・中野幡能教授(大分県立短大)らの研究からも「秦王国」を豊前・豊後と考えたい。
次の表は半田教授によって纏められた豊前国の戸籍を示すが、教授は秦部も秦河勝も秦一族で、北九州の嘉穂郡から、田川郡・京都郡にかけて大きな秦一族の存在を認めて、渡来人の技術をもって鹿春岳の銅を採掘していたと結論づけておられる。
*『隋書』には、小野妹子を隋名で「そ(そ隋)いん(いん))こう(こう))」と見られ、隋書に「天皇」と云う名称は見られず「倭王・姓はあ(あ、)め(め、)、字はた(たは)り(りは)し(しは)ひ(ひは)こ(こは)、あ(あは)は(はは)き(きは)み(みは)と号す」とあって、「倭王・姓はあめ(あめ」)、字はたらし(たらし))ひこ(ひこし)、おう(おうし)きみ(きみし)」と一般に訳されている。
また、「太子の名は、わ(わ、)か(か、)み(み、)た(た、)ふ(ふ、)り(り、)となす」と書かれている。これは後の『源氏物語』に見られる「わかんどおり」(国王の嫡子→光源氏)の出典から、聖徳太子を指すとも考えられる。
裴世清は難波の江口に上陸して大和至り、天皇に拝謁したとあるが、当時の中国では女帝など考えられず、はたして推古女帝に会ったのか、それとも厩戸皇子(聖徳太子)に会ったのであろうか。
豊国の秦氏と宇佐八幡宮
新羅国の神渡来伝承『豊前国風土記』(鹿春郷)より
風土記に曰く、田河のこほり(こほり記)。か(かほ)はる(はる))のさと(さと))郡のうしとら(うしとら))の方にあり。此のさと(さとり)の中に河あり。其の源は、郡の東北の方、杉坂山より出でて、すが(すがで)にま(まが)西を指して流れ下りて、ま(ま、)ろ(ろ、)がは(がは))につど(つど))ひ会へり。此の瀬水清し。よ(よ。)りてきよ(きよ))か(かよ)はら(はら))の村となづけ(なづけ))けき。今、か(か。)はる(はる))の郷とい(いと)ふは訛れるなり。むかし(むかしる)、しらぎ(しらぎる)の国の神、自ら渡りきた(きた神)りて、此の河原に住みき。名づけて鹿春の神と云ふ。又さと(さと又)の北に峯あり。頂に沼あり。
まわり(まわりあ)りてさんじゅうろく(さんじゅうろくに)あし(あしじ)ばかりなり。つげの(つげのり)き(きげ)お(おげ)ひ、また(また))、たつの(たつの))ほね(ほねの)あり。つぎ(つぎの)の峯にはあかがね(あかがね))、なら(ならが)びに黄楊・龍骨等あり、つぎ(つぎ楊)の峯には龍骨あり。
右の文は鹿春郷に見られる『風土記』の一文で、新羅国の神の渡来(降臨)伝承であるが、現在の宇佐市には、弥生時代から宇佐津彦国造が、川辺遺跡・高森古墳群を中心に、馬城峰(御許山)の巨石を御神体として盤居していた。
五世紀頃に、朝鮮半島の新羅から女性シャーマンを中心とした祭祀集団の辛島氏(秦一族)が進出して香春岳の採銅所に辛国息長大姫大目命を祀る(『延喜式』神命帳に辛国息長大日神社がみえる)。
継体天皇二十二年(五二八)に朝鮮経営の失敗から「磐井の乱」が起きたことが大和朝廷による九州支配の糸口となった。欽明天皇の世に秦一族が香春岳の銅、二千五百斤(約一・五トン)を納めたと『延喜式』神命帳に記録が残る。
この頃になると、宇佐氏の祀っていた土俗信仰と、辛島氏の仏教・陰陽道・儒教などが融合して原始八幡信仰が出来たと考えられる。
敏達天皇(五七二~五八五)の世に、中央集権を目指した蘇我馬子が大神比義(大和の大神神社の禰宜)を豊国に派遣したため、秦一族が祀る「香春神社」の辛島氏と争いが続く。この背景には、天智二年(六六三)の白村江の敗北に、大和政権は北九州に対して政治的・宗教的な圧力をかける必要に迫られていたのであろう。だが、霊亀二年(七一六)の出雲国造新賀詞奏上に合わせて、秦一族の祀っていた八幡の神も宇佐八幡宮として官制化されて日本の守護神となった。
養老四年(七二○)の神社の記録によると、大和政権の命により、鹿児島の隼人討伐に秦一族を率いて遠征したのは禰宜の辛島勝波とみられる。
宝亀三年(七七二)になっても辛島氏と大神氏との争いが続いたため、和気清麻呂が国司となって、辛島氏・大神氏・宇佐氏の役割分担を定めた。だが、平安時代の弘仁五年(八一四)の「太政官符」には、大神氏から「清麻呂解状」なるものが提出されて、宇佐八幡宮は大神比義が最初に祀ったとして、清麻呂の条文を無視している。
鎌倉時代の建久二年(一一九一)の『託宣集』には、八幡神は宇佐氏の聖山・馬城峯(御許山)に降臨したと書かれて、秦王国の神としての「ヤハタ」の神は抹消されてしまった。
田村名誉教授は、辛島氏が祀っていた祭神について、正和二年(一三一三)の『八幡宮・宇佐宮御託宣集』に、「辛国の城に初めて八流の幡を天降して、吾は日本の神となれり」とあることから、八幡はもと韓国(三韓)の神であったと論じておられる。
参考文献
『日本書記』日本古典文学大系、昭和四十三年四月、岩波書店
『風土記』日本古典文学大系、昭和四十三年四月、岩波書店
『続日本紀』新日本古典文学大系、昭和六十三年三月、岩波書店
『日本古代人名事典』昭和四十一年三月、吉川弘文館
『日本祭祀研究集成』半田康夫、昭和五十二年六月、吉川弘文館
『宇佐宮』中野幡能、昭和六十年十月、吉川弘文館
『八幡神社』平成十五年二月、神道研究会
『秦氏の研究』大和岩雄、平成五年八月、 大和書房
『大分県の地名』日本歴史地名大系、平凡社