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銅鐸を見つけました

つどい290号

投稿特集(2) 銅鐸をみつけました 会員 津島隆治

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 銅鐸をみつけました。といっても土の中から掘り出したわけではありません。書籍の中から見つけたのです。それも奈良県内のどこの図書館にでも置いてある『奈良県史』という本です。全18巻からなり、1巻が薄くて五百頁、厚いものですと千頁を超える書物です。その第14巻は「地名」編(昭和60年発刊)となっています。その中の御所市くじ(くじ))ら(らじ)の項目に銅鐸の記事があったのです。そこに銅鐸の絵図と発見のいきさつが簡単に書かれています。「御所市大字櫛羅小字高間田」「昭和二十五年 地下一尺 横になって出土」「青銅 高四十センチメートル~五十センチメートル」、そして発見者が「御所大正郵便局長 田中幸弘」と書かれています。この銅鐸は保管されていた御所高校が火災に遭い焼失したとあります。
 十数年前、私は五條市に所用で出かけました。いつもは一般の県道を走るのですが、その日に限って葛城古道と呼ばれる細い旧道に車を乗り入れたのです。尿意をもよおしたとき「葛城の道歴史文化館」という建物が目に入りました。どうやら葛城古道をハイキングする人たちのための休憩施設のようです。中にはパネルやわずかばかりの土器などが展示してありましたが、あまり興味はわきませんでした。建物を出ると背後に池があり、その向こうの小高い丘に、大きな森を背にして赤い柵に囲まれた神社の建物が見えます。文化館の脇に朱塗りの鳥居が立ち、「高鴨神社」と額が掲げられていて池に沿うように参道が続いています。
 ついでにと言ったら神さまに怒られるかもしれませんが、私は境内に入り神社に参拝しました。境内に入った時、私は不思議な空気を味わいました。安らぎとか癒されたという気分です。あとで知ったのですが、高鴨神社の地下には鉱脈が通っていて、そこから気が発せられているので夏でも涼しいのだそうです。いわゆるパワースポットです。
 参拝を終えて境内に掲げられている神社の由緒を読んでみました。そこに「本社は古代豪族、鴨族が奉斎し、鴨族は全国各地に開拓移住してカモの地名を伝え、多数のカモ神社を祀った。本社はそれらの総社である」という意味のことが書かれていました。この時から私はカモ族に興味をもち、古代史の世界に入り込んだのです。そうした訳で私は神社の分布や地名の調査の探索を始めました。その過程で櫛羅の銅鐸の記事を目にしたのですが、銅鐸の世界まで目を広げられませんでした。
 カモ族のことを調べているうちにカモのつく地名の近くから銅鐸の発見例が多いことに気づきました。神戸市の「鴨子ヶ原」の近くからは桜ヶ丘銅鐸、滋賀県蒲生郡の近くからは大岩山銅鐸が発見されています。司馬遼太郎さんは、蒲生はカモの転訛したものと書いています。徳島市の眉山の麓に古代に「賀茂郷」と呼ばれていた地域がありますが、その周辺の名東や矢野などの弥生遺跡からは発掘調査によって銅鐸が発見されています。御所市櫛羅は『和名抄』の大和国葛上郡かみつ(かみつ葛)かも(かもつ)ごう(ごうつ)があったとされています。カモと銅鐸の間にはつながりがあると感じ、ようやく銅鐸の勉強を始めました。藤森栄一さんの『銅鐸』という著書を読んだら、カモと銅鐸の関係を大場磐雄博士が昭和二十四年に「銅鐸私考」として発表していることを知りました。
 私は銅鐸の形状や文様、素材などにあまり関心はありません。そうしたことは学者や専門家が調べつくしています。私が知りたいのは銅鐸が発見された土地の風土や環境で。そこから弥生時代の人々の銅鐸への信仰心を知りたかったのです。
 私はみちのくの果てにある高校の出身です。同じ高校の出身で、関西に暮らす者が集まった同窓会があります。年に一度、同窓生が集まって、史跡めぐりの会を開催しています。ある年の秋、大津市の山中にある崇福寺跡の見学に連れていってもらいました。大津京に都を遷した天智天皇の七年(六六八)に比叡山から派生するいくつかの尾根の先端を平にして崇福寺が建立されます。このお寺の工事中に銅鐸が発見された話が『扶桑略記』という文献に載っています。『扶桑略記』は平安時代の一〇九四年以降に編纂された私撰の歴史書で、発見から四百年以上もたってからの記録です。
 私は銅鐸出土の分布を調べるために、銅鐸関連書籍に掲載されている出土地表を参考にしています。インターネットには、もっとも最新の情報を集めた「銅鐸出土地名表」があります。『奈良県史』の第3巻は考古編となっており、奈良県内の考古遺跡の一覧が載っています。二〇〇九年に橿原考古学研究所博物館で銅鐸展が開かれ、図録が発刊され、奈良県内の銅鐸出土地の一覧があります。これらを含め、どの遺跡一覧表にも「櫛羅」発見の銅鐸についてまったく触れられていません。
 不思議なことです。発見から四百年も経て記録され、現物も行方不明の崇福寺の銅鐸が一覧表に載っているのに、なぜ、櫛羅の銅鐸は認知されないのでしょうか。この心のモヤモヤを抱えたまま数年が過ぎました。

 豊中歴史同好会に参加し『つどい』を読んでいると、同好会の中に野田昌夫さんという銅鐸を熱心に研究している方がおられることを知りました。以前に博物館の銅鐸の説明パネルの間違いを指摘したという記事も読んだことがあります。
 私は『奈良県史』のその部分をコピーして野田さんに見て頂きました。数日後に野田さんから電話がありました。調べた結果、ほかに資料のない未見の銅鐸だということです。野田さんはその後も精力的に櫛羅銅鐸について調査されました。
 以下、野田昌夫さんの調査で明らかになったことです。
 発見者の田中幸弘さんはご存命ですが、ほとんど寝たきりで直接お話を聞くことができない状態です。ご子息が御所大正郵便局を継いでいます。お父さんが御所高校三年の、裏の畑を耕していたら銅鐸を発見し、高校の歴史の先生へ預けその後行方がわからなくなったと残念がっていた話を聞いたことがあるそうです。野田さんは幸弘さんの高校時代からの友人にも連絡をとってみました。ところが、永年の友人も幸弘さんから、銅鐸の話は聞いたことがないということです。
 ご子息によると絵図に「御所大正郵便局長」とあり、お父さんが局長の職にあったのはもっと後年のことだから、局長時代に思い出しながら描いたものだろうといっています。
 野田さんは御所市教育委員会文化財課の藤田和尊先生にもこの銅鐸について調べていただくようにお願いしました。
 
 昨年三月十日、野田さんは『奈良県史』「地名編」の編者の池田末則先生に電話をして、田中さんが銅鐸を預けたという歴史の先生についてお聞きしました。池田先生は「日本地名学研究所」を創設して地名の収集に当たる地名伝承学者です。うかつにも私は野田さんに教わるまで、著者の名前を確かめずに先生の著書『日本歴史地名大系・奈良県の地名』など、いくつもの著書を古代史入門の時からいつも参考にしていました。
 田中幸弘さんは池田先生の目の前で、あの銅鐸の絵を描いたそうです。なにも見ずにあれだけ正確に描くので事実と感じたそうです。幸弘さんが銅鐸を預けたという歴史の先生は、東北地方の出身で御所高校を退職されて故郷に帰られたそうです。
 昭和三十三年、御所高校(現・青翔高校)は校舎をほとんど焼く火災に遭っています。銅鐸はこの火事で焼失したのでしょうか。
 野田さんが歴史の先生の行方を知るために東北地方に連絡をとろうと考えていた矢先の三月十一日に東日本は大災害にみまわれました。
 櫛羅銅鐸の調査は頓挫しました。ところがその後、野田さんはインターネットの書き込みに次のような文面を見つけました。
 『日本@名無史さん  2000・10・13』
 「ぼくの知り合いのおじさんから聞いたんですが、岩手県花巻市の、おじさんの知り合いの人が家を増築するときに、土台の工事をしていたら、地面から銅鐸が出てきたんだそうです。申告すると、家が建てられなくなると言って内緒にしていたそうで、知っているひとはあまりいないとのこと。歴史に詳しくないのですが、銅鐸といったら、大和朝廷とかその前の話ですよね?
 こちらのほうまで銅鐸って流れてくるものでしょうか?」(原文のまま)
 もう、十年も前の書き込みですが意外な文面です。東北地方で銅鐸が出土するなど考えられません。もしかしてほかの土地から持ち込まれたもの、それが櫛羅の銅鐸ではないか、そんな推理も組み立てられます。
 銅鐸は謎の多い青銅器です。その銅鐸に新たな謎が増えました。

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