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考古学からみた4・5世紀のヤマト政権と伽耶

つどい291号
池田市立歴史民俗資料館 館長 田中晋作先生

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考古学からみた4・5世紀のヤマト政権と伽耶
池田市立歴史民俗資料館 館長 田中晋作

一 はじめに
 今回与えられました「考古学からみた四、五世紀のヤマト政権と加耶諸国」というテーマについて、まず古墳時代前期半ばないし後半から中期前半までを筒形銅器を手がかりにして、つぎに古墳時代中期半ばから後半について鎹を手がかりにして、現在私が考えていることをお話しさせていただきます。前半部分の筒形銅器に関しては以前にもお話しする機会がありましましたので、ここではその概要を述べるにとどめ、今回は後半部分の鎹を中心にお話しを進めます。
 なお、少し煩雑になりますが、以下では日本列島の場合は相対年代で、朝鮮半島の場合は韓国の研究者の考えを援用しますので、その暦年代を使用します。

二 四世紀のヤマト政権と加耶諸国―筒形
    銅器を手かがりにしてー
 以前にもお話ししたように、私は、筒形銅器は朝鮮半島東南部地域、金官加耶で生産された、もしくは同地を経由して日本列島にもたらされたと考えています。
 現在筒形銅器は、日本列島では出土地不詳を含め七十四本、朝鮮半島では同様に出土地不詳を含め七十二本の存在が知られています。朝鮮半島の資料数が以前示した数と異なっているのは、最近金海市良洞里古墳群などで新たに出土した筒形銅器を加えたためです。ここ十数年間の出土数の推移からすると、朝鮮半島での出土数が日本列島での出土数を上回るのは時間の問題だと思います。さらにいえば、私は、筒形銅器は朝鮮半島で製作されたと考えていますので、日本で出土地不詳といわれているものの中に、戦前に日本にもちこまれたものが含まれているとすると、すでに朝鮮半島での出土数が日本列島での出土数を上回っているかもしれません。
 さて、筒形銅器が朝鮮半島からもたらされたと考える理由について、簡単に説明しておきます。その理由は、①分布の推移、②副葬状況、③用途の分析、から導き出しました。
①分布の推移
 まず分布状況の推移ですが、日本列島と朝鮮半島では、分布の推移に際だった違いがみられます。
 日本列島では、古墳時代前期半ばに、大阪・広島・福岡と、離れた地域で筒形銅器が出現します。ところが、朝鮮半島では、ほぼ同時期に洛東江を隔てた、大成洞古墳群と釜山市福泉洞古墳群の複数の古墳で副葬がはじまります。
 前期後半に入りますと、日本列島では筒形銅器の出土事例が急速に増加します。のちに畿内と呼ばれる地域とその周辺地域を中心に、東は埼玉県、西は熊本県までの分布がみられます。一方の朝鮮半島では、大成洞古墳群と福泉洞古墳群では継続した副葬がみられ、新たに金海市良洞里古墳群でも副葬がはじまります。
 また、日本列島では特定の地域や古墳群で筒形銅器の副葬が継続してみられず、とくに分布の中心がある畿内では前期後半に台頭する新興の中小規模古墳からの出土が主体となっていることが注目されます。これに対して、朝鮮半島では、王墓を中心に、相対的に規模の大きな墳墓から出土する傾向があります。
 このような現象は、分布の核がない日本列島と、分布の核がある朝鮮半島として理解ができます。
②副葬状況
 筒形銅器の出土状況にも、日本列島と朝鮮半島で大きな違いがみられます。鄭澄元氏らがすでに指摘されていることですが、
筒形銅器は、日本列島では単数で出土する事例が主体を占めているのに対して、朝鮮半島では複数で出土する事例が主体を占めています。
 古墳から出土する筒形銅器は、日本列島では、筒形銅器の出現する古墳時代前期半ばでは筒形銅器は一本ずつ副葬されていま
すが、もっとも出土数が多い、つまり筒形銅器がもった社会的価値が最も高かった時期といってもよいと思いますが、前期後半では、三分の一の古墳で複数の筒形銅器が副葬されるようになり、筒形銅器の出土事例が減少する中期前半では、一例を除いて、また一本ずつの副葬になります。
 一方、朝鮮半島では、筒形銅器の副葬がはじまる四世紀第2四半期から、副葬が終焉を迎える五世紀第1四半期まで、出土古墳の多くで複数の筒形銅器が副葬されています。
 つまり、朝鮮半島では副葬の開始から終焉まで、副葬方法が変化していないのに対して、列島では一本ずつの副葬からはじまり、前期後半には複数の筒形銅器が副葬されている事例が増加しますが、中期後半ではふたたび一本ずつの副葬方法に戻るという変化がみられます。
③筒形銅器の用途
 筒形銅器の用途については、現在大きくふたつの説があります。ひとつはヤリの石突とする説、もうひとつは威儀具の付属品とする説です。しかし、出土状況を詳細にみてみると、日本列島では両方の使用例があったことがわかります。
 日本列島における筒形銅器の出土状況を、時期、地域に区分してみてみると、筒形銅器の副葬がはじまる前期半ばでは、対象となる三例すべてがヤリの石突として副葬されていました。ところが、副葬事例が増加する前期後半になると、畿内とその周辺地域ではヤリの石突として副葬された事例がほとんどであるのに対して、畿内とその周辺地域を除く西日本、東日本では、ともに威儀具の付属品ないしは単体で副葬されています。さらに中期前半になると、畿内を含め出土事例のほとんどが威儀具の付属具ないしは単体で副葬されています。一方の朝鮮半島では、あくまでも韓国の研究者の判断ですが、筒形銅器の出現から終焉まで、その用途が一貫してヤリや鉾の石突に限られているといわれています。
 つまり、筒形銅器の用途が、時期、地域によって変化する日本列島に対して、朝鮮半島ではその用途が終始一貫していることになります。
 このように、日本列島と朝鮮半島でみられる筒形銅器の分布の推移、出土状況、さらにその用途にみられる違いは、筒形銅器の本来の姿が朝鮮半島に求められることを示しています。以上が、私が、筒形銅器が朝鮮半島東南部で製作された、もしくは同地を経由して列島にもたらされたとする理由です。
 ただ、朝鮮半島での筒形銅器の出土状況の図面を見ていると、どうもヤリや鉾とセットにならない筒形銅器もあるように思えます。詳細な報告書が出ていない場合もあり、今後の推移を注視していきたいと思っています。
筒形銅器と共伴する鉄製短甲
 筒形銅器が朝鮮半島東南部で製作された、もしくは同地を経由して列島にもたらされたと考えることができるとすれば、両者の間に何らかの社会的関係が成立していたことになります。では、筒形銅器が副葬されていた古墳の被葬者はどのような人びとであったかを探るために、筒形銅器が出土した古墳に共通してみられる特徴を抽出してみたいと思います。ここでは、朝鮮半島の状況により近い畿内とその周辺地域の古墳を対象にします。
 まずひとつは、筒形銅器が出土する古墳は前期後半に新たに台頭する新興の中小規模古墳が主体を占めているということ、もうひとつは、日本列島ではじめて出現する鉄製短甲を含む、組成として整った武器を共伴するという、大きくふたつの特徴を抽出することができます。ここでいう組成として整った武器とは、刀や剣、またはヤリといった特定の武器に偏った多量副葬ではなく、刀や剣、ヤリや鉾、鉄鏃や銅鏃、さらに短甲といった多くの種類から構成された武器を指します。つまり、これらの古墳被葬者は具体的な軍事行動に対応できる武装形態をもった人びとであったと考えられます。
 一方朝鮮半島では、表1に示したように、筒形銅器の出現を境に副葬品の構成が、馬具を含む組成として整った武器を中心としたものに変化します。つまり、筒形銅器が出現する時期に、古墳被葬者が軍事的色彩を色濃くもつようになったことを示しています。
 筒形銅器が朝鮮半島東南部地域で製作された、もしくは同地を経由して日本列島にもたらされたという考えからすると、畿内とその周辺地域でみられる鉄製短甲を含む組成として整った武器の出現は、朝鮮半島東南部地域の影響によって生じた可能性が考えられます。
 吉田晶氏が指摘されているように、泰和四年(三六九)につくられた七支刀が倭と百済の軍事同盟の成立を示すものとすると、また、三六九年に軍事衝突に発展する百済と高句麗との厳しい軍事的対峙を考えると、畿内とその周辺地域の新興中小規模古墳の台頭や、朝鮮半島東南部地域でみられる副葬品の構成の変化は、朝鮮半島における社会的緊張によって生じた現象といってよいと思います。
 紙面の関係もあり、ここで詳しく述べることができませんが、このような軍事的色彩の濃い新興中小勢力は、古墳時代前期以来、畿内政権の主導権を握っていた大和盆地東南部の勢力に取って替わった佐紀・馬見古墳群の勢力のもとで台頭した勢力で、朝鮮半島での軍事的な役割を担った人びとであったと考えています。つまり、筒形銅器によって、古墳時代前期後半のヤマト政権と金官加耶の中心である大成洞古墳群の勢力との関係の成立を示すことができ、その関係が軍事を主眼としたものであったことを明らかにすることができます。山尾幸久氏や田中俊明氏らが想定されている、百済―加耶―倭間の社会的関係の成立を考古学的な視点からも示すことができます。筒形銅器の出現は、大和盆地東南部の勢力に替わって、新たに朝鮮半島東南部地域の勢力との関係を基軸にした、佐紀・馬見古墳群の勢力の台頭を反映した現象のひとつであると考えます。

三 五世紀のヤマト政権と加耶諸国
 ところが、筒形銅器は、古墳時代中期前半に副葬が中断してしまいます。この現象は、申敬澈氏が示された、高句麗軍の南侵によって金官加耶の勢力が後退したという説に結びつけて考えることができるかもしれません。古墳時代前期半ばないしは後半からの朝鮮半島との社会的関係を、筒形銅器を手がかりにして探ってきましたが、中期半ば以降では筒形銅器が使えなくなります。 
 では、筒形銅器の副葬が終わる中期前半以降、日本列島と朝鮮半島との関係を探るにはどのような資料を使えばよいのか、筒形銅器に関する小論を書き終えたあと考えあぐねていました。ここで、亀田修一氏が書かれた「日本の初期の釘・鎹が語るもの」という論文に出会いました。亀田さんは、五世紀前半(亀田論文の記載)から古墳の埋葬施設である木棺や木槨に鎹が使用されていることに注目し、朝鮮半島での事例と比較することによって、これらの鎹が加耶地域の影響を受けて出現することを指摘されました。亀田さんの研究目的は、加耶地域と日本列島との関係を、鎹を手がかりにして明らかにすることにありました。
 これからのお話しは、亀田さんの指摘にもとづき、鎹を使用した埋葬施設をもつ古墳の被葬者はどのような人びとであったかを、鎹が出土している古墳が共通してもつ特徴をとおして明らかにしようとするものです。これは、手かがりにする資料は異なりますが、先ほどお話しした筒形銅器と同様の方法を鎹に適用したものです。
 ところで、古墳時代中期に入り、とくに中期半ば以降、鉄器生産が本格化し、須恵器の生産もはじまります。馬具がもたらされ、馬匹生産がはじまるなど、日本ははじめて経験する大規模な技術革新の時代を迎えます。また、朝鮮半島で製作された、ないしは同地を経由して高度な技術を駆使したさまざまな器物も、それまで以上に数多く日本列島にもたらされるようになりました。
 このような中にあって、なぜ鎹に注目したかについて説明しておきます。まずひとつは、鎹は製品として朝鮮半島からもちこまれなくても、鉄素材と一定の技術があれば容易に製作できるということ。つぎに、鎹はそれ自体がもつ社会的価値が、他の高度な製作技術を要する希少性の高い器物と比較するときわめて低いものであり、こうしたことから二次的な移動が起こりにくいものであること。さらに、現代的な感覚かもしれませんが、保守性の強い墓制のなかにあって、鎹を古墳の埋葬施設に使用することは、あえて使用しようとする強い意識の存在を反映したものであるといえることです。鎹の使用には、どうしても鎹を使用するという強い意識が働いていた、つまり朝鮮半島との強い社会的関係の存在を背景にもっていたことを示すものだと考えました。
 このように考えることができる現象として、これはすでに亀田氏が指摘されていることですが、鎹は後述するように、朝鮮半島東南部地域を起点にして、隣接地域に段階的に分布域が広がるものではないことがあげられます。つまり、朝鮮半島に近い壱岐・対馬や北部九州地方から中国・四国地方に、さらに畿内へというように、時期を追って分布域が広がるものではないのです。この現象は、鎹を木棺や木槨に使用するという強い意識が働いていた人たちが存在したことを示しています。
鎹の分布の推移と共通する副葬品
 では、具体的にお話しを進めていきます。
 まず鎹の分布の推移ですが、現在のところもっとも古い鎹の使用事例は、古墳時代中期半ばの豊中市御獅子塚古墳を考えています。これに遅れて、姫路市宮山古墳や小野市小野王塚古墳などが続くと思います。これらの古墳に共通してとみられる特徴は、古墳時代中期に入って新たに台頭する中小規模勢力であることです。
 一方、これらの古墳では、すでに和田晴吾氏や亀田氏らが指摘されているように、前期以来の伝統的な竪穴式石室や粘土槨を使用した埋葬施設の木棺に鎹が使用されている御獅子塚古墳や小野王塚古墳と、宮山古墳などのように、埋葬施設全体が半島の影響を受けていたとみられるものが併存しています。使用されている鎹の形状をみてみると、御獅子塚古墳(第1主体部)のように割竹形木棺に使用された鎹は厚みが薄いのにくらべ、箱形木棺を使う宮山古墳などは厚みのある鎹が使用されています。
 ところが、鎹を使用する古墳は、表2に示したように、馬具や甲冑を中心とした組成として整った重厚な武器をもつという共通点がみられます。
 中期後半になると、この段階で新たに鎹を使用する古墳が出現する場合と、中期半ばから継続して鎹が使用される場合があることがわかります。この段階になって新たに出現する古墳として、高槻市土保山古墳や橿原市新沢一一五号墳、また福岡県番塚古墳や群馬県鶴山古墳などがあります。このような古墳は、中期後半に新たに台頭する中小規模古墳が主体を占めていますが、番塚古墳や鶴山古墳のように地域首長墳に使用される場合もあります。一方、継続する古墳としては、御獅子塚古墳を含む桜塚古墳群東群や宮山古墳に継続して築造される奥山1号墳・同2号墳があります。
 このように、古墳時代中期半ばから鎹の使用が継続する地域や古墳群がある一方で、新たに出現する古墳もあります。またこれらの古墳は、あるものは地域首長墳であり、またあるものは勢力が相対的に後退する段階の古墳であり、さらに古墳群の中でその古墳だけが対象になったものもあります。
 しかし、もっとも注目すべき点は、中期半ばでもみられたように、馬具や甲冑を中心とした組成として整った重厚な武器の副葬が共通してみられることです。
 つまり、古墳時代中期に鎹を使用した古墳に葬られた人びとに共通してみられる特徴は、軍事的な性格がきわめて強いということです。さらに、この段階では出土事例自体がきわめて限られた馬具も含まれています。紙面の関係もあり、個々の古墳が存在する地域の状況を詳細に説明することができませんが、鎹が使用されている古墳がある地域では、当然のことですが、吉備地域や播磨地域に代表されるように朝鮮半島との関係を示すいろいろな資料の分布が濃厚にみられます。
 ところが、朝鮮半島との関係が深いとされている、たとえば河内潟周辺地域や葛城山東麓地域でも同じような現象がみられません。
 鎹はきわめて限られた資料ですが、鎹を使用した埋葬施設をもつ古墳に葬られた人びとは、朝鮮半島東南部地域、加耶地域と強い関係をもつ人びとであり、あわせてきわめて軍事色の濃い性格を共通してもつという特徴が指摘できます。飛躍しすぎだといわれそうですが、鎹を手がかりにして、共伴する甲冑から朝鮮半島での軍事活動といったことが想定できるとすれば、鎹が出土していない古墳でみられる甲冑についても同様に考えることができるかもしれません。
 ところで、古墳時代の日本列島では、朝鮮半島でみられるような堅牢な山城といった防御施設がみられません。また、領域、境界線上に堡塁といった防塞施設もありません。むろん、当時の社会が領域、境界といった認識をもつ段階まで進んでいなかったという可能性も考えておく必要がありますが、このような現象は日本列島内に長期間にわたる深刻な軍事的対峙がなかったことを反映していると考えています。最近事例が増えてきた首長居館をみても、深刻な軍事的対峙に対応できる防御機能を備えていたとはいえません。
 ところが、鎹が使用されはじめる古墳時代中期半ば以降、西日本を中心にして、新興の中小規模古墳での甲冑の出土事例が飛躍的に増加していきます。このような現象は、対国内的な軍事的課題によるものではなく、朝鮮半島を対象とした対国外的な軍事的課題によって生じた現象であると考えます。つまり、百舌鳥・古市古墳群の勢力のもとで、大規模な軍事活動を可能とする体制が整えられていたと考えるわけです。
 さて朝鮮半島では、高句麗と対峙していた百済は、四七五年漢城を失うという危機的に状況に陥っています。当然のこととして、広開土王碑文に記された四〇〇年における高句麗軍の大規模な南侵以降も、両者の間に軍事的衝突が繰り返されていたと考えてよいでしょう。ここに、倭に対して、つまり百舌鳥・古市古墳群の勢力に対して、百済からの派兵という継続的な軍事的要請があったと考えられます。
 鎹を埋葬施設に使用した古墳の被葬者たちが、この軍事行動の中核を担った人びとの一部を構成していたというのが、今回のお話しの結論です。
 古墳時代前期半ばないし後半、筒形銅器を手がかりにして導き出した朝鮮半島との新たな関係は、それまでにはみられなかった軍事的関係を基軸にしたものとしてはじまり、その主体者はそれまでの畿内政権の主導権をもっていた大和盆地東南部地域の勢力ではなく、佐紀・馬見古墳群の勢力であり、さらにいえばその下で実質的な軍事役割を担った新興中小規模勢力であったと考えています。さらに、中期前半を境に、筒形銅器によって抽出できていた朝鮮半島との関係が、金官加耶の勢力の後退によって、新たに百舌鳥・古市古墳群の勢力と大加耶を中心とした勢力との関係へと移行していったことが考えられます。

四 おわりに
 筒形銅器と鎹は、ともにきわめて限られて出土事例しか知られていませんが、それぞれがもつ特性から四、五世紀の日本列島と朝鮮半島との関係を復元する上ではきわめて有効な資料のひとつであるといえます。両資料を手がかりにして導き出した内容をさらに普遍化していくために、さらに新たな資料と方法が必要になると考えています。
 しかし、今回手がかりにした筒形銅器と鎹からは、朝鮮半島東南部地域、加耶地域との関係を導き出すことができましたが、百済との関係を直接示すことができませんでした。個人的には、七支刀銘文や広開土王碑文の内容からすると、もっと早くに倭と百済との関係が考古学的な資料に反映されていてしかるべきであると考えています。今後別の方法を考えていきたいと思っています。
 また、今回は筒形銅器と鎹の違いについて、十分に説明する余裕がありませんでした。日本列島でみられる筒形銅器は、政権の中枢勢力の介在によって、つまり佐紀・馬見古墳群の勢力によって広がっていきます。ところが、鎹の場合には、当時の政権の中枢勢力が、つまり百舌鳥・古市古墳群の勢力が介在した形跡がみられません。このことは、朝鮮半島東南部地域との関係において、古墳時代前期後半の佐紀・馬見古墳群の勢力のかかわり方と、中期半ば以降の百舌鳥・古市古墳群の勢力のかかわり方に大きな違いがあったことを示していると考えています。この違いにはさらに大きな情報を秘めているようです。この点についても今後の課題としておきたいと思います。

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