佐紀盾列古墳群の謎をさぐる
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風光明媚な奈良盆地北部の添の地には、巨大な前方後円墳が多数存在する。この古墳群は一般に佐紀盾列(さきたたなみ)古墳群と称され、三輪山周辺に営まれている大和(おおやまと)・柳本(やなぎもと)・纒向(まきむく)古墳群(オオヤマト古墳集団)、および葛城北部に営まれている馬見古墳群と並んで、大和の三大古墳群の一つとして知られている。
佐紀盾列古墳群は西群と東群に分かれ、前者には佐紀陵山(みささぎやま)古墳(日葉酢媛(ひばすひめ)陵古墳)
・佐紀石塚山古墳(成務(せいむ)陵古墳)・五社神(ごさし)古墳(神功(じんぐう)陵古墳)などの前方後円墳が、また後者には市庭(いちにわ)古墳(平城(へいぜい)陵古墳)・コナベ古墳・ウワナベ古墳・ヒシアゲ古墳(磐之媛(いわのひめ)陵古墳)などの前方後円墳が存在する(宝莱山(ほうらいさん)古墳〈垂仁(すいにん)陵古墳〉については保留)。前者は四世紀後半を中心とした時期に、また後者は五世紀代を中心とした時期にそれぞれ造営されたと考えられているが、これらは一体、どのような政治勢力によって築かれたのであろうか。
一、ヤマト政権の成立と王権の推移
周知のとおり、ヤマト政権の成立とその構造および王権の推移の問題については、今日、さまざまな仮説が提起されている((1))。そこでまず、この点についての私の考えを明らかにしておきたい。
私見
現在の考古学が明らかにしたところによると、三世紀代のある時期に、前方後円墳に代表される巨大な墳墓が突如として登場
する。これらのいわゆる古墳は、出現当初より墳形・内部構造・副葬品などの点において全国的に画一的な様相をもって現れるが、その中心地域は畿内(きない)大和(やまと)(奈良県)にあるとされている。このことは、古墳時代前期(三世紀~四世紀後半)にはすでに、九州から東北地方に至る地域的政治集団の
首長間に、大和の首長を中心とした緊密な政治的結合体、もしくは政治的連合体が存在していたことをうかがわせる。
この時期の大和の首長とその傘下にあった地域首長との関係はもちろん一様ではなかったと考えられるが、概していえば、その関係は専制的なものではなく、前者を核とした従属的な同盟関係ないしは連合関係に近いものであったろう。さらにいえば、この時期における両者の関係は、あくまでも共同体支配層の意思を体現した首長相互間における支配・従属の関係であって、地方の政権は大和の政権に対して相対的に独立性を保っていたと考えられる。
一方、大和の首長の基盤は巨大古墳の密集する盆地東南部の三輪山周辺の地域にあったと考えられるが、それはあくまでも首長によって直接的に把握されていた地域であって、首長を推戴していた政治勢力の基盤はさらに広大なものであったろう。それはおそらくのちの畿内にも匹敵するほどの範囲であったと思量され、複数の地域的政治集団の首長がこれまた大和の首長と従属的な同盟関係もしくは連合関係を結ぶことによって、より高次な政治集団を形成していたと考えられる。こうした政治集団の権力体を仮に私は「ヤマト政権」と呼んでいるが、ヤマト政権はしたがって「畿内政権」という言葉に置き換えてもよい。大和の首長、すなわちヤマト政権の最高首長(のちの大王・天皇)が全国的な政治的結合体の軸となりえたのも、ひっきょう、この点に起因するのであって、それは畿内の政治勢力が他の地域的政治集団のそれと比べ、はるかにぬきんでていたからにほかならない。
このようにヤマト政権とは、畿内に本拠をもついくつかの政治集団の結合体であったと考えられるのであるが、四、五世紀代における巨大古墳の存在形態や、『古事記』『日本書紀』(以下、『記』『紀』と略称)の批判的研究などによって得られた歴史学の研究成果によると、その王権は四、五世紀代に少なくとも二回は動いている。すなわち三世紀代以來盆地東南部の政治集団によって掌握されていたそれは、四世紀後半のある時期に盆地北部に所在する佐紀盾列古墳群(西群)の被葬者たちのもとに移動し、さらに五世紀代になると、四世紀末に勃発した佐紀西群の政治集団の内部分裂を契機として、古市・百舌鳥古墳群を築造した河内の政治集団のもとに移動したと考えられる。換言すれば、王権は「三輪の王者」から「佐紀の王者」のもとへ、そして、そこからさらに「河内の王者」のもとへと移動していったことが推測されるのである((2))。
以上の私見は、ヤマト政権の勢力基盤を大和(奈良県)ほどの範囲とみる説や、「三輪王朝(政権)から河内王朝(政権)へ」と王権が移動したとする説を否定した点を、一つの特徴とする。私見が当を得ているかどうかは諸賢のご叱正をまつしかないが、少なくとも今までのような理解の仕方では、考古学的事実と整合しないのである。
中枢勢力の基盤は一貫して奈良盆地南部にあったのか
しかし一方において、四世紀後半の大王墓と考えられる古墳が佐紀の地域に所在する意味を、ただ墳墓地だけを未開の原野に選定したにすぎないのであって、「大和連合勢力」の中核となった部族の基盤は一貫して盆地南部にあったとする説もある((3))。
さらに最近では、「大王墓古墳群」の移動は必ずしも王権の移動を示すものではなく、地形的立地と農業生産性の視点より考えると、巨大古墳の多くは中位・下位段丘上に築かれており、そうした地形上の制約から、より大きい古墳を造るために、大和・柳本→佐紀→古市・百舌鳥へと、大王墓古墳群造営の場所を替えたにすぎない、とする新説も提起されている((4))。
いずれも興味深い説だが、次の点において難がある。
まず前者について。この説の主たる根拠は、①盆地北部には小墳がほとんどみられず、南部に集中していること、②盆地北部に集落遺跡がほとんど検出されていないこと、の二点にある。しかし、後述するとおり、佐紀の政治集団の基盤は盆地北部だけにあったのではなく、山城南部から近江・摂津・河内北部にまで及んでいたと考えられるから、これらはあまり根拠とはなりがたいのではないか。また、②の点については、今後さらに調査が進めば、集落跡が検出されないとも限らないので、これもまた根拠としては弱いように思われる。そして何よりも、歴史学の立場からいえば、四世紀後半におけるヤマト政権の中枢勢力が盆地南部に基盤をもっていたとする文献史料が、皆無に等しいことである(ただし最高首長の地位に附属したとされる「倭(やまと)の屯田(みた)及屯倉(みやけ)」などは除く)。これはまことに不可解なことではないか。ちなみに、『記』『紀』によれば、佐紀盾列に葬られたとされる成務の宮居は「近淡海(ちかつあふみ)の志賀(しが)の高穴穂宮(たかあなほのみや)」と伝えられている。
次に後者について。この説には二つの疑点がある。その一つは、より大きな古墳を築造するために、大王墓古墳群の造営地を佐紀から古市へ移したとするが、実は、古市古墳群における巨大古墳の第一号は、墳丘長二〇八メートルの津堂城山(つどうしろやま)古墳である。しかるに、この古墳は佐紀石塚山古墳(約二一八メートル)や五社神古墳(約二七五メートル)よりも小さいのである。これは事実に反するのではないか。もっとも、津堂城山古墳には二重濠があり、これを含めると、総長四三六メートルの巨大古墳となる。しかし、佐紀の地域にも五世紀代に東群が築かれているように、巨大古墳を造営するだけの十分なスペースが存在していたことを等閑視してはならない。
二つめは、佐紀盾列・古市両古墳群の築造時期が並行していることである。研究者によって編年が異なるので確定的なことはいえないが、前者は四世紀半ばすぎから末葉にかけて、佐紀陵山古墳・佐紀石塚山古墳・五社神古墳の順で築造されたと推測される。一方、後者の津堂城山古墳は佐紀陵山古墳より新しく、五社神古墳よりは古い、すなわち佐紀石塚山古墳と相前後する時期に築造されたのではないかと思料される。してみると、四世紀後半には両地域に並行して巨大古墳が築かれていたことになり、したがって、これらの古墳群はそれぞれ異なった政治集団によって築かれたとみるのが自然であろう。
二、佐紀の政治集団の勢力基盤
四世紀の後半、奈良盆地の北部に突如として巨大な古墳群が登場する。佐紀西群の出現である。すでに述べたように、四世紀後半におけるヤマト政権の最高首長はこの古墳群を築いた政治集団の中から推戴されていたと考えられるが、ではそれは、いかなる事情で可能になったのか。
木津川・淀川水系の重要性
墓地は被葬者にとって、最も関係の深い地域に営まれるのが普通である。よほど特別な事情がない限り、今日の我々でも全く縁もゆかりもないような場所を選定することはまずありえない。それは墓域が、最も伝統を重んずべき性格のものであると認識されているからである。してみると、佐紀西群の政治集団の基盤が大和北部にあったことは、まず動かしがたい事実であるといえる。しかしながら、大和北部という狭隘な地域を基盤としている政治集団が、なぜ王権を掌握できるほどの巨大な政治集団に成長することができたのか、という素朴な疑問がわいてくる。
けれども、この疑問は、大和国から山城国に眼を転じるだけでただちに氷解するであろう。というのは、大和北部はほかならぬ、山城南部の地に隣接しているという事実である。佐紀の地から小さな丘陵(平城山(ならやま))を一つ越えただけで、そこはもう山城(木津町〈現・木津川市〉)である。
ところが、この山城南部の地は水陸交通上の要衝にあたり、初期ヤマト政権にとってはすこぶる重要な地域であった。多数の同笵(型)鏡が出土したことで有名な椿井(つばい)大塚山古墳が木津川を扼する山城町(現・木津川市)の地に営まれているのも、決して故なしとしない。とすると、ヤマト政権を構成する大和北部の首長が木津川水系の確保という目的をもって山城南部に進出し、その地域の首長たちと特別の関係をもつに至ったであろうことは、察するに難くない。おそらく大和北部から山城南部にかけての地域に盤踞していた諸集団は、木津川水系の掌握という共通の利害関係を通じて、たがいに緊密な政治的関係によって結ばれていたことが推察されるのである。
日子坐王系譜の意味するもの
そのことを象徴的に語っているのが、『記』開化の段にみえる日子坐王(ひこいますのみこ)系譜である。もちろん、この系譜も『記』『紀』に採録されている他の伝承と同じように、段階的に形成されてきたものであるから、そこには後代的な要素が少なからず含まれている。
しかし、この系譜に祖先名の現れる和珥(わに)氏や丹波の一族は四世紀代後半にはすでに大古墳を築造しており、後代に潤色を受ける以前の核となった原系譜の内容が、かなり古い時期に遡りうることを示唆している。また、〔B流〕系譜の有力な伝承荷担者であった山城南部の一族が、後代にほとんど目立った活躍をしていないことも、その傍証となる。この系譜は後代に近江の坂田郡の息長氏によって机上で造作された、とみる説もあるが、論拠薄弱であり、簡単には成立し難い。そうではなく、坂田郡の息長氏は後代にこの系譜を自家の家伝の中に取り込んだのであって、それは坂田郡の息長氏が有力になる六世紀以前から、山城南部の一族によって伝承されてきたものであるとみるのが妥当である。
さて、この日子坐王系譜で注目されるのは、大和北部と山城南部の地名に由来する人名が集中的にみられることである。
まず、〔A流〕系譜には、春日建国勝戸売(かすがのたけくにかつとめ)・沙本之大闇見戸売(さほのおおくらみとめ)・沙本毘古王(さほびこのみこ)・袁邪本王(おぎほのみこ)(すなわち小沙本)・沙本毘売命(さほびめのみこと)などの名が見える。春日は「倭名類聚鈔(わみょうるいじゅうしょう)」にいう大和国添上郡(そうのかみぐん)春日郷(かすがごう)付近の地で御蓋山(みかさやま)(春日山)や春日大社のある地域を指し、サホは添上郡佐保の地にほかならない。
〔B流〕系譜についてみると、山代之大筒木真若王(やましろのおおつつきまわかのみこ)が山城の綴喜(つづき)に由来する名であることはいうまでもないが、高材比売(たかきひめ)も、かつて田辺町(現・京田辺市)に存在していた高木村(たかぎむら)の地名に由来する名であろう。さらに、迦邇米雷王(かにめのいかずちのみこ)のカニメは、相楽郡(現・木津川市)山城町綺(かば)田(た)の旧名である蟹幡(かむはた)(倭名類聚鈔)や蟹満寺(かにまんじ)のカニマンと語源は同じで、やはり山城南部の地名からきているのである。幡はハタともマンとも読みうるから、カニマンは蟹幡の別の読みにほかならず、カニメはそのカニマンから転訛(てんか)した言葉とみて誤りない。
〔D流〕系譜についてはどうか。山代之荏名津比売(やましろのえなつめ)は山城国綴喜郡江津(えっつ)(田辺町〈現・京田辺市〉宮津付近)の地名に、また、その「亦(また)の名、苅幡戸弁(かりはたとべ)」は蟹幡郷の地名に、それぞれ基づくものと考えられる。
ただ、〔C流〕系譜には、大和北部や山城南部の地名にちなむ人名はみられない。だが、そのかわりに、「近淡海(ちかつあふみ)の御上(みかみ)の祝(はふり)」(野洲郡の三上山の神主)が奉斎する天之御影神の娘の息長水依比売(おきながみずよりひめ)と日子坐王との間に生まれた水穂真若王(みずほのまわかのみこ)を始祖とする「近淡海の安直」が登場し、近江南部と深い関係にあることを注意しておこう。
そうして一方、この系譜には大和東北部の和珥氏と山城南部の一族、それに丹波の一族の祖先名が散見する。要するにこの系譜は、和珥・山城・安・丹波らの諸族を中心に、大和東北部から山城南部、近江南部、丹波にかけての地域に、一つの大きな政治的なまとまりのあったことを示しているのである((5))。
このようにみてくると、佐紀西群の勢力基盤が大和北部だけでなく、山城南部からさらに近江南部、丹波の各地にまで広がっていることが知られるであろう。
佐紀と山城南部
佐紀の地が山城南部と密接な関係にあったことは、そこに葬られたと伝えられている人物の多くが山城南部と深い関係をもつって語られていることからしても明らかである。
たとえば、①息長帯比売命(おきながたらしひめのみこと)の陵墓は『記』『紀』によると「狭城盾列(さきたたなみなみ)」にあるというが、彼女は『記』によると山城南部の一族の出身とされている。②広義の佐紀の地域に属する「乃羅山(ならやま)」(平城山)に葬られたという磐之媛は、『紀』によると、山城南部の「筒城宮」で薨じたと伝えられている。③同様に、「那羅山(ならやま)」に葬られたと伝えられる応神天皇の皇子の大山守皇子(おおやまもりのみこ)は、宇治川で殺され、「考羅済(かわらのわたり)」(田辺町〈現・京田辺市〉河原付近の渡し場)でその屍が取り上げられたという。
これらはいずれも伝承上のことであって、事実かどうかは定かでない。しかし、たと
え事実でなかったとしても、こうした伝承が存在していること自体、佐紀の地域が山城南部と切り離すことのできない土地柄であったことを示しているわけであるから、やはり両者は密接な関係にあったとみるべきである。
忍熊王の勢力圏
以上のことは、忍熊王(おしくまのみこ)の反乱伝承を分析することによって、よりいっそう確かなものとなるだろう。『記』『紀』によると、香坂王・忍熊王は神功・応神に謀反を企てたが失敗した、と伝えられる。だが、こうした二王の反逆者としてのイメージは、後代に作為され結果、生まれてきたものであり、
実は二王のほうこそ本来、王権の正統な後継者であったと考えられる。神功・応神は後代の天皇たちにとっては始祖的な存在として認識されていたから、古代天皇制のイデオロギーによって、両者の立場が逆転させられてしまったのである。そのことは、二王のほうが応神よりも出自のうえで、はるかに上位に位置づけられていること、忍熊王の名が佐紀西群に接して存在した「忍熊里」(奈良市押熊町)の地名に由来していることからすると、それは四世紀後半にヤマト王権を掌握していた佐紀西群のグループの後継者を象徴化した名であった可能性が大きいこと、などの諸点からみて明らかである。
要するに、この伝承は、王権の正統な後
継者である佐紀西群のヒツギノミコに対し、神功・応神の名で語られている政治集団が反乱を起こして王権を奪取した、という四世紀末の史実を象徴的に語っているわけだが、ここで注目されるのは、忍熊王方の軍勢が大和北部だけでなく山城南部、摂津、近江とも深いかかわりをもっているとともに、戦闘の場面もまた上記の地域に設定されていることである。
すなわち、前者については「葛野城首(かずのきのおびとおびと)の祖(おや)熊之凝(くまのこり)」や「吉師(きし)の祖(おや)五十狭茅宿禰(いさちのすくね)(難波(なにわ)の吉師部(きしべ)の祖(おや)伊佐比(いさひの)宿禰(すくね))」「犬上君(いぬかみのきみ)の祖(おや)倉見別(くらみわけ)」などの将軍たちが登場し、また後者については「山背(やましろ)(山代)」「菟道(うぢ)」「菟道河」「菟餓野(とがの)(斗賀野)」「住吉(すみのえ)」「逢坂(あふさか)」「沙々那美(ささなみ)」「狭狭浪の栗林(くるす)」「瀬田(せた)の済(わたり)」「田上(たなかみ)」「淡海(あふみ)の海(み)」などの地名がみえる(香坂王・忍熊王の反乱伝承にみられる氏族と地名の解説を参照)。さらに『紀』は、「(忍熊王は)則ち軍(いくさ)を引(ひ)きて更(さら)に返(かへ)りて、住吉(すみのえ)に屯(いは)む」、「忍熊王、復(また)軍を引きて退(しりぞ)きて、菟道(うぢ)に到りて軍(いくさだち)す」などとしるし、忍熊王方の軍事的拠点が住吉や宇治にあったことを伝えている。
もちろん前述したように、この伝承にも後代に造作された部分が少なからず存在し、これらをそのまま事実と認めるわけにはい
かない。しかし、忍熊王方の勢力基盤が大和北部から山城南部、摂津、近江にかけての地域にあったとしている点は貴重であり、先に述べた考察結果とも一致するし、成務の宮居伝承とも符合する。この点だけは事実であったとみなければならないであろう。
これを要するに、佐紀西群の政治集団からヤマト政権の最高首長が推戴されたのは、その勢力基盤が大和北部から山城、摂津、河内北部、近江、丹波に及ぶ広大な地域にあり、他の畿内の政治集団のそれに比べ、はるかにぬきんでていたからにほかならない(ただし、この政治勢力の核になっていたのは、やはり木津川・淀川水系を押さえていた大和北部から山城南部、摂津、河内北部に至る地域の政治集団であったと考えられる)。
「佐紀の王者」が出現した四世紀後半という時期は、実は朝鮮半島への出兵が開始された時期に当たる。木津川・淀川水系のもつ意味がいちだんと重要性を帯びたことは察するに難くないが、このことと大和北部に「佐紀の王者」が出現したことは、決して偶然の一致に帰すべきではあるまい。
(注)
(1)最近の研究動向をまとめたものとして、荊木美行「初期ヤマト政権の成立と展開」(『日本書紀とその世界』所収、一九九四年、燃焼社)がある。
(2)詳細は、塚口「四世紀後半における王権の所在」(『末永先生米壽記念 獻呈論文集』坤 所収、一九八五年、奈良明新社)、「佐紀盾列古墳群とその被葬者たち」(『ヤマト王権の謎をとく』所収、一九九三年、学生社)などを参照。
(3)近藤義郎『前方後円墳の時代』(一九八三年、岩波書店)など。
(4)金原正明「自然科学からみた古代大和と河内」(『河内王権の謎』所収、一九九三年、学生社)
(5)塚口「継体天皇と息長氏」(『神功皇后伝説の研究』所収、一九八〇年、創元社)
(挿図出典一覧)
図1 塚口義信『ヤマト王権の謎をとく』学生社、一九九三年。
図2 塚口義信「椿井大塚山古墳の被葬者と初期ヤマト政権」(網干善教・石野博信・河上邦彦・菅谷文則・塚口義信・森浩一『三輪山の考古学』学生社、二〇〇三年)。
図3 塚口義信『ヤマト王権の謎をとく』学生社、一九九三年。
(附記)
一、本稿は、『日本古代史〔王権〕の最前線』(新人物往来社、一九九七年)所載の拙稿(タイトルは本稿と同じ)に、加筆・修正を行ったものである。
二、これまで息長帯比売命の父系の出自系譜に関わっていると想定される一族を「山城南部の息長一族」(息長はウヂ名ではなく地名)と称してきたが、本稿では息長の二文字を取り、「山城南部の一族」と称している。そのいきさつについて、少し述べておきたい。
山城南部に「息長一族」と称し得る一族が存在していたとする根拠として私は、これまで、息長帯比売命の伝承(後述)と、嘉吉元年(一四四一)の作成とされる『興福寺官務牒疏』(『大日本仏教全書』寺誌叢書・第三)に「息長山」の山号が見えることを挙げてきた。ところがその後、後者の『興福寺官務牒疏』について、中世文書と考えられてきたこの文書は実は、江戸時代中期以降に作成されたものではないかとする説が提起された(藤本孝一「近衛基通公墓と観音寺蔵絵図との関連について」〈『中世史料学叢論』所収、思文閣出版、二〇〇九年、初出一九八八年〉、馬部隆弘「偽文書からみる畿内国境地域史」〈『史敏』通巻二号、二〇〇五年〉ほか)。特に馬部氏は、この文書は山城国相楽郡椿井村(現・京都府木津川市山城町)に在住した椿井政隆(一七七〇~一八三七)なる人物によって創作された偽文書の一つであり、これを史料として用いることはできないとされた。現時点では私は、馬部氏が偽文書といわれている椿井文書全体について検討を加えているわけではないので、断定的なことは差し控えたいが、両氏の論考を中心に検討した範囲では、『興福寺官務牒疏』については江戸時代中期以降の作成である可能性が大きいように思う。
しかしながら、仮に『興福寺官務牒疏』がそのような性格の文書であったとしても、「息長山」の山号が地域の地名に基づいている可能性は依然として捨て切れないと考えている○A。もしこの推測が是とされるならば、椿井政隆はこうした地域の地名や『神名帳考證』などを参考にしながら、息長某の名前やそれに関連した文書を作成した蓋然性が高いことになる。偽文書の制作の仕方として、そのすべてを机上で捏造するのではなく、より真正文書らしく見せかけるために、その地域の地名や伝承をたくみに利用しながら作成するといった手法を用いる場合の方が、むしろ多いと思われるからである。そのことは、現・朱智神社に関連する文書がいわゆる椿井文書であると推測されるにしても、朱智神社そのものまで椿井政隆によって創作された架空の神社であるといえないことと同様である。なお念のためにいうが、朱智神社は九二七年に撰進された『延喜式』に登載されており、確実に古代に存在していた。
ただ息長山の場合は朱智神社と事情が異なり、それが古代に存在していたことを証明する他史料がないため、その存在が疑われているのである。しかしながら、証明する他史料がないことが、ただちに「捏造の証」となり得るわけでもない。息長帯比売命の祖先とされる山代之大筒木真若王や迦邇米雷王、高材比売(『記』による)などの名が山城南部の地名に由来していること、息長帯比売命の陵墓が山城南部と接している佐紀盾列に所在すると伝えられている(『記』『紀』による)こと、山城の地域が息長帯比売命の物語の舞台の一つとして登場していること、いま問題としている息長を冠する人名を除くと、いわゆる神功伝説の中に息長公氏が本拠とした湖北のことが全く見えず、近江息長氏との本来的な関係を想定しがたいこと、などからすると、息長帯比売命や息長日子王の息長もまた山城南部の地名に由来している可能性が大きいと思料されるのである。このことに上掲○Aの推測を重ねてみると、古代の山城南部に息長の地名が存在していた蓋然性はやはり高い、といわねばならない。
とはいえ、「息長山」に少しでも疑いがかけられている以上、「真理の探究はより真といえるような事柄から出発しなければならない」とするルネ・デカルト流の考え方をモットーとしている私としては、この「息長山」を研究の出発点の一つとすることは信条に反する。以上が、「山城南部の一族」と改めた理由である。諒とされたい。
ちなみに、仮に『記』にみえる息長帯比売命や息長日子王まで後代の架上ではないかと疑われるようなことがあったとしても、品陀和気命(応神)の名で語られている人物が山城南部の一族や渡来系の一族(天之日矛系の一族)と不可分の関係にあったと考えられる点については、何らこれに影響を及ぼすものではないことを念のため記しておく。