記紀と考古学からみた4・5世紀のヤマト政権
つどい287号
大阪大学 准教授 高橋 照彦先生
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記紀と考古学からみた四・五世紀のヤマト政権
大阪大学 准教授 高橋 照彦
はじめに
四・五世紀のヤマト政権にかかわる研究の上で、政権が大和から河内に移ったのかどうか、という議論は重要な論点の一つである。この課題は、研究の数もあまりに膨大であり、文献史学と考古学の二つの領域にまたがっているため、なかなか手に負えない難物でもある。以下では、あまりに単純化した議論かもしれないが、文献史学と考古学の双方を視野に入れつつ、私見を述べることにしたい。
なお、以下の主要な内容は拙稿(高橋二〇一一)の繰り返しである。また、本来は摂津についての話をするように指示されていたが、内容に沿ってタイトルも変更した。当日には摂津の古墳や長尾山古墳の発掘についても少し触れたが、その点は以下では省略する。ただし、せっかくの機会であるので、当初に話すつもりであったが十分に触れることができなかった点も、文章化に当たり補足した。ご了解願いたい。
一 河内政権論をめぐる研究
河内政権(王権)論は、五世紀代の王権が応神を開祖とする河内王朝(応神王朝)だと主張するもので、それ以前の崇神王朝(三輪王朝)、それ以降の継体王朝と対比しつつ分析が深められた。また、この河内政権論の論拠の一つは、百舌鳥・古市古墳群の存在でもあったため、考古学としてもこの議論の一端を担うことになった。その後、文献史学などから河内政権論への反論がなされ、河内政権論者も再反論をしているが、いまだ一致した結論が得られているわけではない。
現状の諸説を改めて整理すれば、大きく二つの見解に分かれている。その一つは大和勢力継続支配説とも呼びうるものである。例えば河内の巨大古墳も、大和に基盤を置く倭王勢力が墓のみを河内に営んだとみる。近年の文献史学では、この説を採る論者が多いようである。
もう一つは、河内勢力勃興説で、河内勢力が新たに政権の中心を占めたとみる、いわゆる河内政権論に当たる。かつての河内勢力勃興説では、大和と河内が対立し、河内が政権を奪取するものと想定されることが多かった。しかし、近年では同じ政権の内部で河内勢力が盟主権を握ったとみる、政権内部盟主権移動説を採る場合も少なくない。先に結論を言うと、筆者は新たな勢力への盟主権移動の考えに賛成の立場である。以下、その点を述べていきたい。
二 河内政権論と三輪山の問題
墳墓や宮の所在地からの河内政権論の評価は分かれていて、現状ではなかなか解決が付きそうにない。そこで、まずは三輪山にかかわる問題を取り上げてみたい。
記紀には景行などの宮が纒向にあり、陵が山辺にあると記されている。考古学的にみれば、桜井市の纏向遺跡や天理市の渋谷向山古墳をはじめとする柳本古墳群など、古墳時代前期頃の遺跡の状況と非常に整合的である。そして、四世紀以前のヤマト政権にとって、考古学的な遺跡立地から考えれば、三輪山は不可欠の存在であったと考えざるを得ない。
五世紀の宮の伝承地としては、磐余・石上・泊瀬などがあり、一見すると四世紀以前と変わらない。ただよくみると、そこには三輪山の山麓の纒向地域を含んでおらず、むしろそれを避けるような位置にある。遺跡からみても、弥生終末期からの政治的中枢とみられる纒向遺跡は古墳時代の前期後半には衰退していく。そして、大和東南部の古墳も、大和の北部、さらには河内での巨大古墳群の盛行と入れ替わるような現象がみられる。
つまり、三輪山麓の地域は、古墳前期以来の王権の勢力基盤として、四世紀初めと同じ形で後まで維持されていたわけではなかったと考えたほうが良い。文献史学では、三輪山西麓が一貫して大王家の本拠地だと想定されることが多いものの、時期的な変化を考慮せざるをえない。
その点で注意すべきは、三輪山西麓域にある段階から本拠地として蟠居しているとみられる三輪君である。三輪氏の登場は、他の氏の成立とも呼応する六世紀以降と一般的には考えられている。しかし、考古学からすれば、必ずしもそれが妥当とは言えない。
注目したいのは、大和・柳本古墳群の衰退以降に、三輪山のごく近接域で連続的に古墳が築かれていることである。四世紀前半までの古墳では、箸墓古墳などが三輪山に比較的近接するが、その後の大型古墳は三輪山からやや離れて立地する。ところが、六・七世紀の古墳は、三輪山にごく近接した纒向川と初瀬川に挟まれた範囲などに営まれるようになる。その造営主体は三輪氏と考えるべきであろう。そして、そのような三輪山近接域の古墳の築造は、五世紀以前にまで連続して辿れるのである。三輪氏がたとえ史料から五世紀以前に確実な系譜を辿りにくく、氏姓としての「三輪君」の成立も六世紀に下るとしても、三輪氏となる勢力の系譜は五世紀にまで遡ることがほぼ間違いないように思う。
そのような三輪山山麓の古墳の中で最も古い時期のものは、四世紀末から五世紀初め頃の築造とみられる茅原大墓古墳である。その墳形は、帆立貝式と呼びうる範疇であり、全長八六メートル程度であることからも、それほど大規模な古墳とは言えない。茅原大墓古墳はこの三輪の勢力が百舌鳥・古市古墳群を造営する王権と直結せず、大和の諸勢力の中でも劣位に位置付けられていたものということになろう。
三輪氏が後のこととしても君姓を与えられていることからすれば、上記の点は、応神以降の王権に直属するような豪族とは言えないことと整合的である。また、三輪の祭神である大物主神が国津神とみなされるのも、三輪氏の信仰と王権の祭祀との差が反映しているはずであり、遺跡の様相とも呼応するであろう。それらは、茅原大墓古墳の築造様相や三輪山直近を避けるかのような王宮の分布などとも矛盾しない。
ただし、三輪山には崇神代頃に王権に直結する日の神も祭られていた可能性が指摘されている(塚口二〇〇三ほか)。鏡作坐天照御霊神社などからも窺われる通り、日の神の依代としての鏡の重要性からすれば、古墳への鏡の副葬が顕著な三・四世紀に、王宮などでの祭りとして、太陽神が重要であった可能性は十分にある。しかし、三輪山への鏡の奉納などが顕著でないことなどからも、それが三輪山そのものの神として後まで継続して奉祭されていたとはみなせない。六世紀後半の敏達代に太陽神信仰が高揚するとすれば、むしろその寵臣であった三輪君逆などの存在が、王権の祭神たる太陽神と三輪山との再度の結び付きを深めたことも考えておくべきではないだろうか。三輪氏にとって三輪山信仰の客体的な存在だからこそ、後に伊勢に日の神の信仰が遷ることにもなったのだと考えている。
ここで、三輪山をめぐる記紀の二つの伝承に言及しておきたい。まずは、『日本書紀』雄略七年七月条である。雄略天皇が少子部連??(すがる)に三諸山(三輪山)の大蛇を捕ってこさせたが、雷のような音や眼の光に恐れて放してしまうという説話である。雄略が三輪山の神を服従させようとして失敗したことになる。神話的であって史実とは程遠い内容になっており、雄略朝段階かは確言できないにしても、五世紀頃の三輪と王権とが対立するような伝承を生んだことも、上記のような古墳の築造状況などとも矛盾はない。
もう一つは、『日本書紀』崇神七年八月己酉条において、三輪山の大物主神を祭るのに、茅渟県陶邑において神の子である大田田根子を見つけ出すという伝承である。ここにみえる陶邑は須恵器の大生産地として著名な地であり、崇神代として伝承されているものの、その時期に遡る史実によるのではなく、五世紀代以降に大物主神を祭るために須恵器などを用いた新しい祭祀が始められたことと連関するものとみられる。
三輪山祭祀遺跡では陶邑産の須恵器が多く用いられているが、現状の考古資料からみる限り、その須恵器の使用は、陶邑で須恵器の生産が開始された四世紀末や五世紀初め頃ではなく、やや遅れた五世紀中頃以降である。そもそも五世紀前半までの陶邑で作られた須恵器は、あまり大和には入ってこない。その段階の陶邑は、大和に基盤をもつ諸勢力が生産を掌握していたとは言えない。百舌鳥古墳群が陶邑ともそれほど離れておらず、河内(和泉)地域の勢力が須恵器生産の背後に位置していたと考えるのが自然である。
ところが、五世紀中頃になると大和にも須恵器の流入量が増え、三輪山でも須恵器を用いた祭祀が行われるようになる。ようやく允恭あるいは雄略朝頃に、崇神紀にもみえるような和泉(河内)とこの三輪付近の勢力とが結び付いたことを示しているだろう。
しかも、崇神陵あるいは景行陵にそれぞれ比定されている行燈山古墳・渋谷向山古墳においては、五世紀中頃から後半の須恵器が出土している。古墳時代では、一般に築造後の古墳において継続的な祭祀が行われていないことからすると、特異な現象である。おそらく、三輪氏とみられる勢力が河内(和泉)と関係を結んで須恵器を用いた新しい祭祀を取り入れた段階で、崇神陵などへの須恵器の供献が行われたのだろう。記紀において三輪氏の系譜を崇神代に求めていることも、三輪氏が崇神陵に比定しうる古墳において須恵器を用いた新たな祭祀が執り行われたという史実を核に、伝承が形作られた可能性が高い。
このような三輪山周辺の遺跡動向や三輪山にかかわる伝承を考え合わせると、応神以降の王権が、大和東南部に拠点を置いていた崇神以来の王権の根拠地や祭祀形態などを直接的には継承していなかったとみるのがふさわしい。応神以降の王権は崇神系の王権と断絶していたと考えるべきであろう。
三 皇子や后妃の伝承と古墳の動向
次に、話は変わって、記紀の王統譜にかかわる問題を取り上げたい。以下に挙げる応神の三人の皇子については、記紀において詳しい一連の伝承をとどめており、注目に値する存在である。直木孝次郎氏の近年の研究(直木二〇〇六)では、この三皇子について血統上の系譜を復元している。
まず、直木氏は、皇子のうちの大山守(オホヤマモリ)命は応神と高木之入日売(高城入姫、タカギノイリビメ)の子であるが、この妃はイリの称を持つことから、崇神系の子女と推測している。また、応神の皇子の宇遅能和紀郎子(菟道稚郎子、ウジノワキイラツコ)は、丸邇(和珥、ワニ)氏系の宮主矢河枝比売(ミヤヌシノヤカハエヒメ、宮主宅媛、ミヤヌシヤカヒメ)の子であることが記紀にも記されているが、造作の可能性を指摘する。そして、残る皇子の大雀(大鷦鷯、オオサザキ)命、すなわち仁徳は、中比売(仲姫、ナカツヒメ)の子であるが、この中比売の父は品陀真若王とされるものの、品陀真若王の実在性を疑い、系譜が不明とする。さらに詳細な復元案と造作過程を直木氏は推測するが、解釈が加わるので、これ以上は直木説を詳述しないでおく。
さて、この三人が皇位関係を争うことになるのだが、直接的にはそれを考古学的に実証するのは困難である。しかし、古墳の動向からは興味深い側面も見えてくる。まず、当該期における王陵級の大型古墳の動向をおおづかみに整理しておくと、先行する大和東南部の柳本古墳群等に対して、四世紀には大和北部の佐紀古墳群が拮抗しつつ勢力を伸ばしていく。さらにその後、四世紀末頃には、津堂城山古墳など河内の古市古墳群でも大型古墳が出現し、その一方で大和西部にも馬見古墳群が築造を継続する様子が知られている。
それをふまえて、先に挙げた応神の皇子の伝承に戻れば、古墳の動向にも十分に呼応している可能性が出てくる。まず、宇遅能和紀郎子が奈良盆地東北部から山城・近江にかけて勢力があったという和珥氏の系譜に位置付けられている点について、和珥氏がこの時期の氏族として存在したのではないのかもしれないが、四世紀頃の大和北部の勢力が後に和珥の先祖として伝承されたことなどは十分に考慮しておいてよいだろう。また、品陀真若王が河内の品陀という地名を有する点を重視すると、中比売が河内の勢力の娘であることを史的背景にしていたことも十分に考えられる。その点を考慮すれば、崇神系の高木之入日売―大山守命、丸邇(和珥)系の宮主矢河枝比売―宇遅能和紀郎子、さらに品陀真若王系(系譜不明)の中比売―大雀命が、それぞれ大和東南部の柳本古墳群、大和北部の佐紀古墳群、河内の古市古墳群とも重なりうるだろう。
また、記紀では大山守命は応神の命に背いて挙兵して敗れるのに対し、宇遅能和紀郎子と大雀命は王位を譲り合うという伝承になっているが、四世紀末以降の段階に大和・柳本古墳群における大型墳の築造が継続していかないのに対し、大和北部では大型墳の築造が継続する点とも一致を見せる。そして、最終的にはこれまでの王族とは離れた仁徳の王統が政権の中心を占めるようになったという道筋が描かれるとすれば、佐紀で王陵と呼ぶべき当該期の最大の古墳の築造が継続せず、河内の古墳が隆盛することに呼応するであろう。
ここで、応神の次代である仁徳の后妃もみてみれば、葛城之曾都毘古(葛城襲津彦、カヅラキノソツビコ)の娘である石之比売(磐之媛、イワノヒメ)、日向の諸県君の女、髪長比売(媛)、そして丸邇(和珥)系の宇遅能和紀郎子の妹である八田若郎女(ヤタノワカイラツメ、矢田皇女)などが挙げられている。
このうち、記紀の伝承において、応神に召され仁徳の妃となる髪長媛やその父の諸県君牛諸井は、宮崎県の古墳、例えば西都市の女狭穂塚古墳などとの対応が指摘されている(北郷二〇〇五ほか)。女狭穂塚古墳は九州最大の前方後円墳であり、その墳形も古市古墳群に属する藤井寺市仲津山古墳と類似している。しかも、女狭穂塚古墳では、古市古墳群でみられる畿内で定型的な埴輪を用いている。応神・仁徳段階頃の河内の古墳と日向とにつながりがあることから、髪長媛の説話も記紀や帝紀・旧辞段階の後世の造作とみなすことはできず、その伝承の背後に史実を含んでいたことを明示している。
この点をふまえると、仁徳の后妃のうち、葛城氏については、襲津彦の実在性やそのモデルになる人物の生存時期などについては議論が分かれるにしても、そのような勢力の存在と大和西部を本拠としていたとみることは穏当であろう。そして、その勢力の奥都城として、従来からも、奈良西部の馬見古墳群が指摘されているところである。そして、先に触れたように、日向の諸県君の女、髪長媛は、宮崎の西都原古墳群との関係が窺われ、和珥氏に関しても奈良北部の佐紀古墳群と対応関係を見せている。
馬見・佐紀両古墳群は、この時期以降も古市・百舌鳥古墳群と併存して大型古墳の築造を継続する点で、まさにその仁徳の后妃としての関係にふさわしい。逆に、この後に日向からの妃が継続せず、髪長媛の皇子らも事件に巻き込まれて殺害の憂き目にあうことなども、西都原古墳群が継続しない点と呼応するものであろう。
このようにみてくると、記紀の后妃・皇子の伝承などは、古墳群の動向の大枠とかなり整合するものと評価できる。改めて整理すれば、応神の後継として特に記紀に明確に掲げられた三皇子とその出自については、柳本・佐紀・古市の三大古墳群に反映される勢力を史的背景に持つとみなす方が理解しやすい。そこには、応神が大和などの既存の王権主勢力と婚姻関係を結びながら勢力を高めたことが示されているだろう。それとともに、大和東南部勢力とは決別する形で仁徳の王系が成立し、百舌鳥の古墳群を築いた可能性も指摘できる。古墳の盛衰に政治的動向を読み取ることが多い考古学的解釈は、多分に先験的な判断を含むが、記紀との吟味によって、むしろその史料性が深まるものと言える。
また、五世紀より以降の王宮の所在地としても大和の東南部がみえるが、上記の点をふまえれば、そこに拠点をもちえた背景としても、大山守命の死後の大和東南部への進出を読み取りうるように思う。例えば近年の古市晃氏による王宮の研究(古市二〇一一)では、大和南部の倭王権中枢部王宮群と河内・山背など防御拠点の周縁部王宮群に二分しており、仁徳・履中・反正なども河内出自ではなくて、磐余・泊瀬など倭王権の中枢部に帰属するとみている。ここでは詳細な検討はできないが、周辺地域を防御拠点と一括できるかは問題のように思われ、一貫した中枢部の存在についても、先の三輪山周辺で検討した通り、静態的にとらえ過ぎではないだろうか。仁徳が磐余・泊瀬に拠点を持ったとすれば、それは大山守命のような勢力を抑え込んで倭王に即位したためであったと捉えるのがふさわしいと考えている。
おわりに
以上、河内政権論を中心に、大胆ながらも若干の私見を示した。
王統の問題については、三輪山山麓の動向やそれにかかわる伝承などから、直接的に前代(崇神・景行など)の系譜と繋がらない可能性を指摘した。そして応神の三皇子をめぐる伝承は大型古墳群の動向とも対応し、応神が婚姻という形で伝統的な大和勢力と結び付く一方で、大和東南部勢力を抑圧する形で河内側に拠点を有する仁徳の王系が成立したものと推測した。仁徳以降の王統が大和東南部に勢力を伸張できたのも、旧勢力の抑圧の結果と考える。考古学的にみても河内や大和などはすでに一体の政権下にあったとみられるので、河内政権と呼ぶと誤解を受けるかもしれないが、大和北部などと関係を結びつつ河内を主な基盤とする勢力が大和東南部の旧勢力とは画した存在として勃興し、五世紀の王権を担ったものとみるのが、記紀ならびに現状の考古資料からは穏当であると判断したい。
参考文献
高橋照彦 二〇一一「古墳時代政権交替論をめぐる二、三の論点―河内政権論を中心に―」『古墳時代政権交替論の考古学的再検討』(科学研究費補助金報告書)、大阪大学大学院文学研究科
橋本輝彦 一九九六「今年の調査結果から見た三輪山祭祀・三輪氏について」『大美和』九一号
塚口義信 二〇〇三「敏達天皇と三輪山信仰」『三輪山の神々』学生社
北郷泰道 二〇〇五『西都原古墳群』〈日本の遺跡一〉、同成社
直木孝次郎 二〇〇六「応神天皇の皇子大山守命について―その死の意味するもの―」『応神大王の時代―河内政権の幕開け―』大阪府立近つ飛鳥博物館
古市 晃 二〇一一「五・六世紀における王宮の存在形態―王名と叛逆伝承―」『日本史研究』五八七号