『古事記』と『日本書記』-天孫降臨神話成立の背景-
つどい288号
京都府立大学名誉教授 坂元義種先生
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はじめに
『古事記』と『日本書紀』の両書は、『古事記』は神代から推古天皇、『日本書紀』は神代から持統天皇という女帝の時代で終わり、しかも両書が完成して撰上された天皇は、『古事記』は元明天皇、『日本書紀』は元正天皇という女帝であった。このことは
たんなる偶然なのであろうか?それとも女帝であることに何か意味があったのであろうか。
『古事記』は天武天皇が稗田阿礼に命じて誦習させた帝皇日継と先代旧辞を太安万侶が撰録したものであるが、『日本書紀』も天武天皇が皇族や官人に命じて「帝紀及上古諸事」を「記定」せしめたことに端を発しており、やがて舍人親王によって養老四年(七二〇)五月に奏上されたものである。ただ、『日本書紀』の編者については天武朝の編纂開始時点は多少は分かるが、その後の経緯は不明である。だが、一つだけ明白なことは編纂者の中には少なくとも表だって女性の存在は見当たらないということである。女帝が両書の区切りに存在し、女帝に両書が献上されていながら、女性が両書の編纂に関与したことを示す明確な史料はない。これは女性が政府の官人として政府の事業に参加することが出来ない仕組みの中では当然のことかも知れないが、やはり不思議なことである。だが、記紀の編纂過程にあって、政界の中枢にあって重きをなしていた天武天皇の皇后、のちの持統天皇の存在は軽視することが出来ないであろう。
一、天武皇統の行方
『古事記』は、序文によれば、太安万侶が和銅五年(七一二)正月二十八日に元明天皇に撰進されたものである。当時、すでに元明天皇の夫の生母である持統天皇はなく、さらには持統天皇が即位を待望した文武天皇も死亡し、文武天皇から皇位を託された天皇の生母である元明天皇の時代になっていた。
元明天皇は息子の文武天皇から託された孫の首皇子(後の聖武天皇)に皇位を継承させることが出来ず、次の次を期待して娘の元正天皇に皇位を譲り、この天皇の時に『日本書紀』が献上された。
さきにも指摘したように二人の女性天皇の時に『古事記』と『日本書紀』が成立したことになる。
彼女たちが託されていた首皇子の皇位継承とは、持統天皇に端を発する皇統の継承であり、その歴史は古く、そこには執念の物語が秘められていたのである。
そもそもの発端は壬申の乱に遡る。天智天皇(中大兄皇子)は蘇我氏の魔の手を払いのけるために「窮鼠猫を噛む」のコトワザを実践し、蘇我氏の本宗を滅ぼし、やがて即位し、自ら作り上げた皇権を息子の大友皇子に譲り渡そうとした。ところが大友皇子には叔父の大海人皇子という競争相手があり、その処遇をめぐって皇子は決断しかねていた。結局、皇位継承をめぐって壬申の乱が勃発し、近江朝廷は破れ、大友皇子は殺されてしまった。
叛乱を勝利に導いたのは大海人皇子の長子の高市であったが、高市皇子の生母は地方豪族の胸形君であり、その身分の卑しさから皇太子の地位に就くことは出来なかった。天武天皇の後継者となったのは、生母が天智天皇の娘である?(う)野(のの)皇女(ひめみこ)が生んだ草壁皇子であった。もっとも天武天皇の後宮には、複数の天智天皇の皇女が入っており、複数の皇子が誕生していた。中でももっとも有力であったのは、?野皇女の姉、大田皇女の生んだ大津皇子であった。大田皇女は?野皇女に先だって大海人皇子の後宮にはいっており、壬申の乱当時、彼女が生存して、大海人皇子の叛乱に尽力していれば、彼女が皇后になった可能性が濃い。しかも大津皇子は文武両道に秀で、祖父の天智天皇の寵愛も受けていた。草壁皇子は大津皇子に比較すると見劣りしていたものと思われる。しかし、壬申の乱をともに戦い抜いた盟友の位置にある?野皇女は皇后になると、息子の草壁皇子を皇太子の地位につけ、天武天皇の死後、早速、大津皇子を皇太子に対する謀反の罪で即刻自殺に追い込んでしまった。だが、姉の愛児を自殺までさせたのに、草壁皇子はその後まもなく病死してしまった。皇太子の地位は?野皇后の姉妹にあたる天智天皇の皇女の生んだ皇子達に継承される危険性があった。そこでおそらく?野皇后は策略をめぐらして、生母の卑しい高市皇子を担ぎ出し、これを太政大臣の地位に付けた。じつは大友皇子も太政大臣に就任しており、政治の実権は太政大臣に委ねられていたのである。?野皇后としては自分と同列の女性の息子を選ぶか、高市皇子を選ぶかの決断に迫られ、高市皇子を選択したのである。
天武天皇は正統王朝である近江朝廷を滅ぼし、その重臣も排除したので、天武天皇のもとで政治の中枢に座ったのは天武天皇の諸皇子や生き残った天智天皇の諸皇子であった。
天武天皇のもとで皇族全盛の時代を送った諸皇子は発言権も大きかったことであろう。
草壁皇太子の妃は天智天皇の娘で、?野皇后の腹違いの妹の阿(あ)閇(へ)皇女であり、皇女には三人の子供があった。女二人(氷高女王・吉備女王)、男一人(軽王、のちの文武天皇)で、この男子が草壁皇太子の忘れ形見ということになる。?野皇后と阿閇皇太子妃は、この軽王に皇位を継承させたかったが、草壁皇子と同列の天武天皇の諸皇子が健在であり、それを持ち出すことはタブーだったと思われる。
?野皇后は天武天皇の死後、大津皇子を自殺させているので、さすがにすぐには草壁皇子を即位させることが出来ず、時期をまっている間に草壁が死んでしまった。
『懐風藻』によれば、文武天皇は崩御時、「年二十五」歳とあるから、草壁皇子の死亡時にはまだ七歳であり、皇位継承の対象外であった。ところが「後皇子尊」と称された高市皇子の死亡時には、十五歳になっていた。
しかし、おそらく、当時の朝廷の雰囲気は、草壁、高市と、天武天皇の諸皇子が皇位継承者として名を連ねた以上、ほかの天武天皇の諸皇子は今度こそ自分たちであろうという期待感があり、重臣達もそれぞれの思惑で、諸皇子を推挙したものと思われる。ここで再び脚光を浴びたのは、持統天皇と同列の天智天皇の娘の子供たちであったろう。その筆頭は天武後宮で?野に並んでいた大江皇女の息子の長皇子と弓削皇子であり、それに継ぐのが新田部皇女の息子の舍人皇子であった。時に長皇子は二十三歳、舍人皇子は二十一歳かと思われ、すでに皇位を継承するに十分な年齢であった。
この皇位継承を決める大事な御前会議で、皇子達の度胆を抜く爆弾発言があった。
持統天皇や皇太子妃の働きかけがあったかどうかは不明だが、大友皇子の嫡子である葛野王が発言して、流れを一挙に変えてしまったのである。皇位は兄弟相承すべきものではなく、父子相承すべきものだと発言したのである。これまでの皇位継承の伝統は兄弟相承であり、その世代が絶えた後に、その子の世代へと移っていた。
葛野王は天智天皇の直系、壬申の乱がなければ、あるいは近江朝廷が勝利すれば、大友皇子の皇太子の地位にあるべき人物である。
父子相承こそ歴史の伝統だというのであれば、天武天皇はその皇位継承を断ち切った反逆者であり、今、この朝廷で皇位継承を望んで息巻いている諸皇子はすべて逆賊の息子達である。きわめて矛盾に満ちた御前会議だった。もちろん、皇位継承の最短距離にいた弓削皇子は反対したが、年上の葛野王に一喝され、黙り込んでしまった。
会議の流れは持統天皇や皇太子妃の望んだ方向へと一気に向かった。この流れを見逃すほど愚かではない持統天皇らは、さっそく軽王を皇太子として立太子させ、その日のうちに即位させてしまった。わずか十五歳の年若い天皇の誕生である。持統天皇は皇位を継がせようと思っていた息子の草壁皇子が夭折したのを悔いていたので、もう待とうとはしなかった。
御前会議でしてやられた皇族達は猛反発したであろうが、この時点ではあとの祭りである。これをひっくり返すには武力を行使する以外に道はないが、おそらく大津皇子を自殺に追い込んだ持統天皇はその対処もしていた可能性が強い。
とはいえ、天武天皇の諸皇子に皇位継承権があるのは歴史的事実であるから、これを口封じする方策が採られていったものと思われる。
その最大の武器が、現在進行中の『古事記』と『日本書紀』の歴史改竄だったのではあるまいか。
なお、良く知られているように、『日本書紀』の天武天皇の紀年には大きな問題がある。つまり、天武天皇元年は壬申の年(六七二)にあたり、いわゆる壬申の乱のあった年である。ところが『日本書紀』はこの年を天武天皇元年と定めてしまった。これは正統王朝を反逆者が滅ぼしてしまったので、近江朝廷の年を立てることにためらいがあったのであろう。『日本書紀』紀年の最大の問題の一つである。天武天皇の即位は天武天皇二年の条にかけられている。これも歴史の改竄の一つであるが、今回取り上げるのは、そうした問題ではなく、草壁皇統をめぐる問題である。
二、『古事記』と『日本書紀』が伝えた天孫降臨神話
天孫降臨神話で不思議に思われることはいくつかあるが、まず、第一に問題なのは、天上界の高天原の司令神が地上の葦原中国の支配者としてニニギを降臨させるに際して、ニニギの父親を最初に降臨させようとしたという伝承が存在することである。司令神の子供ではなく、孫が降臨したことになっている。これがいわゆる天孫降臨である。つぎに高天原の司令神をめぐる問題である。
『古事記』は神話が一応、一本化されており、本文の中にとくに異伝を一説として立てることはしていないが、『日本書紀』は本書のほかに沢山の異伝を一書として採用し、いくつもの異伝が並列的にならべられている。このことは複数の伝承の存在を物語っており、神話の研究には有難いことではあるが、全体としてどのように理解すれば良いのか迷ってしまうこともまた多い。
天孫降臨神話における司令神について言えば、大きく分けて三種類ある。タカミムスヒを司令神と伝えるもの、アマテラスを司令神と伝えるもの、あいまいなかたちで両者を司令神として伝えるものである。
『日本書紀』本書はタカミムスヒを司令神として取り上げるが、『日本書紀』第一の一書はアマテラスを司令神として取り上げている。『古事記』はあいまいな形で両者を司令神として伝えている。『日本書紀』本書と『日本書紀』第一の一書はそれぞれ司令神を単独の神としているので、それなりに一貫性はある。このほかの『日本書紀』の一書は、第四の一書と第六の一書が本書と同じく、タカミムスヒを司令神として伝えている。第二の一書は一般には、両者を司令神として伝えているとするが、じつは次に見えるように、当初はタカミムスヒが降臨を命じるのだが、途中で「是時」としてアマテラスが降臨する神に宝鏡を授けている。これは本来はタカミムスヒとアマテラスをそれぞれ司令神とする二つの伝承があったのを一本化したものと見る事も出来る。
『日本書紀』巻二 神代下 第九段(天孫降臨)一書第二
高皇産靈尊因?曰。吾則起二樹天津神籬及天津磐境一。當爲二吾孫一奉レ齋矣。汝天兒屋・命。太玉命宜持二天津神籬一。降二於葦原中國一。亦爲二吾孫一奉レ齋焉。乃使二二神一陪二從天忍穂耳尊一以降之。是時天照大神手持二寶鏡一。授二天忍穂耳尊一而?之曰。吾兒?二此寶鏡一當レ猶レ?レ吾。可三與同レ床共レ殿以爲二齋鏡一。復?二天兒屋・命。太玉命一。惟爾二神亦同侍二殿内一善爲二防護一
『古事記』は両神を司令神とする異伝を一本化するに際して、非常に曖昧な態度をとっている。最初は、アマテラスが降臨を命じたが、地上が騒がしいとの報告を受けると、つぎにはタカミムスヒとアマテラスが神々を集めて会合を開き、葦原中国を平定するため神を派遣するが、この神が裏切って報告しないので、再度、タカミムスヒとアマテラスが集会を開いて、別の神を派遣するが、これもまた裏切って報告してこない。ここで『古事記』はタカミムスヒとアマテラスの順序を変えて、アマテラスとタカミムスヒが再度集会を開き、対応を協議し、キジを派遣するが、このキジが矢で射られ、その矢がアマテラスとタカミムスヒのもとに飛んできたとする。ここで『古事記』はさらにタカミムスヒをタカギの神と言い換え、以後、タカミムスヒは「高木神」の名で伝えられていくことになる。
神は依り代として高木にやどるとしても、それは「タカミムスヒ」に限られる訳ではないから、ある意味、タカミムスヒの格下げとなっている。
『古事記』は司令神をどのように位置づけて良いか迷いに迷っている感じがある。
『古事記』を見ていると、本来は司令神はタカミムスヒなのだが、これをアマテラスとする有力な異伝があるので、それも無視できず、しかもこの異伝の伝承者がきわめて有力であったために、こちらの顔を立てる必要があったかのように見える。
三、アマテラスを司令神に押し上げた有力者とは?
降臨神話が天孫降臨神話となっているのは、地上の支配者として降臨したのは、司令神の子供ではなく、孫であったという伝承である。
さきに高市皇子、後皇子尊が死亡した後、皇位継承を定める御前会議で、葛野王が「兄弟相承では乱が生じる。父子相承が日本古来の伝統だ」と発言し、草壁皇子の子、つまり、持統天皇の孫に皇位が決定したいきさつを紹介した。降臨神話が天孫降臨神話でなければならなかった理由は、まさにここにある。持統天皇の子の草壁皇子は夭折し、皇位を継承出来なかった。そこで孫の軽王が父の草壁皇子の代わりに皇位を継承することになった。
葛野王の発言を神話化したものが天孫降臨神話だったのである。
持統天皇は、孫の文武天皇の後見役として草壁皇統に皇位が継承させることに成功し、これを見守った。おそらく、アマテラスは彼女を投影したものだったのであろう。
持統天皇は大宝二年(七〇二)十二月二十二日庚寅に死亡し、翌年一周忌に際して、
大倭根子天之廣野日女尊
という謚(し)号(ごう)を贈られたが、やがて、『日本書紀』持統天皇即位前紀や『続日本紀』文武天皇即位前紀に記されているような
高天原廣野姫天皇
という謚号に変更されている。ここに見える「高天原」こそ、天孫降臨神話の舞台となった天上界の名である。
なお、せっかく無理に無理を重ねて皇位に就任させた文武天皇であるが、わずか十年で死んでしまった。その時、贈られた謚号は「倭根子豊祖父天皇」というものであった。
しかし、これもやがて『続日本紀』文武天皇即位前紀や元明天皇即位前紀に見える
天之眞宗豊祖父天皇
という謚号に変更されている。
「豊祖父」とは文武天皇の穏やかな性格を表した名だという説もあるが、これはそんな生やさしいものとは思えない。文武天皇を始祖とする、つまり、文武系の天皇の皇統の永続性を予祝した謚号だと考えるべきであろう。文武天皇の子孫が次々と天皇となり、それらの豊かな子孫から見て、文武天皇はその始祖的な「祖父」の地位を得ることが出来るという意味が込められているものと思う。
これだけでも結構欲張った謚号だと思うが、文武天皇の周辺には、これではなお不十分だとする勢力があり、文武天皇を「天之眞宗」、本来の正統な皇位継承者なのだと追加したのである。
まず、女性のアマテラスを至高神として強力に推進した勢力は、今は亡き持統太上天皇の威名と権勢の庇護を期待した草壁皇太子妃であった元明天皇とそれに次を期待している藤原不比等らであったろう。
また、持統天皇の謚号に「高天原」を加え、天孫降臨神話のアマテラス化を強化したのも元明天皇と藤原不比等らであり、同様に文武天皇の謚号に手を加えたのも、同じく元明天皇と藤原不比等らであったと思われる。
こうした天孫降臨神話や文武天皇の神聖化が必要とされるほど、当時の皇族の勢力はなお強大だったのだと思う。
おわりに
『古事記』と『日本書紀』の伝承の新古が問題になることがあるが、天孫降臨神話に限れば、司令神をタカミムスヒにするか、アマテラスにするかで迷いに迷った『古事記』がもっとも新しい内容を持っていると思う。
スサノヲ神話については、クシイナダヒメの宮主に視点を置いて考えて見ると、司祭者を男性とするか、女性とするか、両者とするかの三種類の異伝があるが、おそらく、当初は女性を司祭者とし、ついで男性も参加させ、最後に女性を排除して男性が司祭者の地位を独占するという歴史過程が考えられる。その視点から記紀の異伝を見ると、『日本書紀』第二の一書がもっとも古く、ついで男女を司祭者とする『日本書紀』本書と第三の一書、一番新しいのは男性を司祭者とした『古事記』と思われる。
国生み神話についても一言すれば、日本の国境を定めた『古事記』の所伝がもっとも新しいものと考える。
一般には、時期的に早く成立した『古事記』の方が古い伝承を伝えているのではないかと考えがちだが、どうもそうではなく、むしろ『日本書紀』の方が古い伝承を伝え、『古事記』はもっとも新しい伝承を伝えているように思われる。