« 瓢箪山古墳から心合寺山古墳へ | トップページ | 2012年春 塚口先生と「徳島」の古代を探る旅 »

考古学からみた4・5世紀のヤマト政権と北九州

つどい286号
北九州市芸術文化振興財団 学芸員 宇野 愼敏先生

①画像をクリックすると画面が大きくなります
011_3

022_2

033_2

044_2

055_2

066_2

077_2

088_2

一 はじめに
 畿内大和と朝鮮半島を結ぶルート上に位置する北・中部九州の有力首長層は、わが国の中でも早い段階からヤマト政権と緊密な関係をもっていた。それは瀬戸内海西端の周防灘沿岸から日本海側の玄界灘沿岸部には、前方後円墳や竪穴式石槨、三角縁神獣鏡など畿内型古墳文化の要素が数多く見られることからも首肯される。
 この背景には、朝鮮半島から鉄素材など最先端の物資・文化などを畿内大和へもたらすための経由地、あるいは船を安全に航行させるための役割を荷ったためと考えられる。
 このヤマト政権と北・中部九州の有力首長層は、一体いつ頃、どのような緊密な関係を結んでいったのであろうか。これまでは、包括的に北・中部九州の有力首長層とヤマト政権が緊密な関係をもったと言われている。
 しかし、北・中部九州の有力首長層墓には、畿内型古墳の三要素を全て有したものは少ない。むしろ一つ、あるいは二つが多く、周防灘沿岸部や博多湾沿岸部の古墳が古く、周縁部にやや新しい古墳が見られることなどから、畿内型古墳文化は、順次導入されたと考えられる。
 また前方後円墳であるものの、埋葬施設が、竪穴式石槨や粘土槨、木棺直葬など種類が多い。こうしたことからもヤマト政権の包括的な導入ではなく、複数の導入経路が存在したことが考えられる。
 本稿では、これまで包括的に扱われていたヤマト政権と北・中部有力首長層との関係を、埋葬施設を通して、いつ頃、どのような関係であったのかなどを考えてみたい。

二 畿内型古墳の三要素
 九州の弥生時代の墳墓形態には、方(円)形周溝墓や方(円)形墳丘墓などがある。埋葬施設には箱式石棺、甕・壺棺、組合式木棺、石蓋土坑、土坑が見られる。
 そして副葬品には、弥生時代中期頃までは鏡や鉄剣、装身具などが見られるものの、後期に入ってからは極端に少なくなる傾向がある。 箱式石棺内には刀子や鉄鏃が数点、装身具の勾玉や管玉、ガラス小玉などを少量身につけている程度である。
 古墳時代に入ると、大規模な前方後円墳、埋葬施設も大型の竪穴式石槨となり、副葬品には三角縁神獣鏡が複数枚入り、鉄刀、鉄剣、鉄鏃など武器や、装身具類が豊富に入るようになる。
 このように古墳時代に移行すると墳丘形態、埋葬施設、副葬品など三つの要素が大きく変化する。
 しかし、これら三つの要素を同時に保有するのはほとんどなく、福岡・石塚山古墳など数少ない。むしろ大半は、これら三要素のうち二つないし、一つを保有するのみである。この三つの要素のうち一つでも保有した時から、その地域では、古墳時代の開始ということになる(小田富士雄 一九七〇 「畿内型古墳の伝播」『古代の日本』3・九州 角川書店)。
 この畿内型古墳三つの要素は、畿内から北部九州の各地に同時に伝播したのではなく、随時入ってきたと考えられる。まず三世紀後半頃に、筑後・津古二号墳など前方後円墳が出現する。
 そして次の三世紀末~四世紀にかけて、筑前・筑後・豊前・肥後などに竪穴式石槨の採用と三角縁神獣鏡が副葬されるようになる。
 しかし、この段階の有力首長墓の埋葬施設は、割竹形木棺に粘土を薄く被覆する粘土槨状のものである。有力首長層の葬送儀礼としての古墳祭式に、前方後円墳、竪穴式石槨、三角縁神獣鏡の三つの要素を全て兼ね備えるといった観念はなく、まず墳丘形態に前方後円墳を採用するといった古墳祭式のみ共有したものと考えられる。
 また三角縁神獣鏡は、辻田淳一郎氏の変遷案を見ると舶載Ι段階からⅢ段階までは、周防灘沿岸の北部から玄界灘沿岸の博多湾を中心とした地域に分布する。?製Ⅰ~Ⅲ型式の段階になると周防灘南部、玄界灘西部へと広がりを見せ、各段階毎に順次、周防灘北部~博多湾を中心した地域からさらに南側へ、西側へと広まっていったことがうかがわれる (辻田淳一郎 二〇〇七『鏡と初期ヤマト政権』すいれん舎) 。
 こうした畿内型古墳三要素の伝播の状況から、北部九州の首長層は、前方後円墳の出現と同時にヤマト政権と緊密な関係をもったのではなく、まず周防灘北部から博多湾を中心とした地域が関係をもち、その次南側から西側へと順次関係が広まっていったものと考えられる。

三 九州の埋葬施設の変遷
 九州の古墳時代の埋葬施設は、時代とともに変化している。時期ごとに主な古墳の埋葬施設を見たのち、他地域とは異なる南九州のみ別途取り上げて、埋葬施設を見て行くことにする。
 三世紀末頃
 福岡・神蔵古墳は、盗掘のため一部しか残っていなかった。天井石らしき大型石材が無く、調査者は木蓋と考えているが、竪穴式石槨の側壁は、持ち送りがみられ、合掌式竪穴式石槨の可能性がある。佐賀・双水柴山二号墳は、割竹形木棺直葬である。
 三世紀末~四世紀前半頃
 佐賀・久里双水古墳は、壁面が直立し、割石積の竪穴式石槨である。熊本・迫ノ上古墳は、壁面をやや持ち送りをさせ、天井石を載せる板石積竪穴式石槨である。
 四世紀中頃
 福岡・若八幡宮古墳は、舟形木棺直葬である。宮崎・西都原一三号墳は、粘土槨である。割竹形木棺を被覆した粘土のさらに回りを、礫石で被覆している。
 四世紀後半
 福岡・一貴山銚子塚古墳は、割石積竪穴式石槨である。天井石らしきものはなく、割竹形木棺を板石で被覆したのではないかと推測されている。石槨の形態は、佐賀・谷口古墳に類似する。幅広の長方形プランを呈し、谷口古墳と同様の合掌式竪穴式石槨の可能性がある。佐賀・経塚山古墳は、直立式板石積竪穴式石槨である。大分・免ヶ平古墳も直立式板石積竪穴式石槨である。 
熊本・向野田古墳は、板石積竪穴式石槨に舟形石棺を入れる。福岡・東郷高塚古墳は、厚さ九〇センチメートルの白色粘土で割竹形木棺を被覆する畿内型の粘土槨である。
 四世紀末頃
 谷口古墳は、板石積の竪穴系横口式石室である。福岡・沖出古墳は、壁面直立の割石積竪穴式石槨に、割竹形石棺を入れる。福岡・七夕池古墳は、壁面直立の割石積竪穴式石槨である。
 南九州
 四世紀中頃の八代海沿岸部の鹿児島・阿久根市の鳥越一号墳は、板石積竪穴式石槨である。五世紀前半頃は、さらに南下して薩摩川内市の天辰寺前古墳は、下部が板石積石棺蓋で、上部が板石積の竪穴式石槨の積石技法を用い、天井部をドーム状に持ち送っている。この古墳が現在のところ西側沿岸部での畿内型古墳の南限と考えられる。

四 九州古墳時代前期の埋葬施設の分類
 先に時期別に主な古墳の埋葬施設を見てきた。前期の竪穴式石槨を合掌式と直立式に分け、直立式をさらに割石積と板石積の二つに分類し、粘土槨と合わせてA~Dの四つに分類して、時期別に並べると上の表になる。
 この表を見ると各時期に二ないし三つの埋葬施設が併存していることがわかる。併存する三世紀末~四世紀前半の久里双水古墳は、全長九〇メートル、迫ノ上古墳は、全長五六メートルで、各々の地域で最大規模である。
 四世紀後半では一貴山銚子塚古墳は全長一〇三メートル、免ヶ平古墳は全長五一メートル、向野田古墳は全長八六メートルで、竪穴式石槨の規模は免ヶ平古墳が長さ四・九五メートル~五・〇五メートルで最も大きい。径二七メートルの円墳の経塚山古墳の竪穴式石槨の長さは四・九メートルで、全長一〇三メートルの一貴山銚子塚古墳よりも大きい。
 すなわち竪穴式石槨を採用する、しない、あるいは規模の大小は、階層差でないということである。
 埋葬施設の相異が階層差でなければ地域性かというと、そうでもない。すでに三世紀末~四世紀前半頃には、北部九州から中九州の熊本まで竪穴式石槨が分布する。
 畿内中枢部の奈良盆地でも大和・柳本古墳群の中山大塚古墳は合掌式である。京都(山城)・椿井大塚山古墳は直立式割石積竪穴式石槨で、奈良・桜井茶臼山古墳は、壁面直立の板石積竪穴式石槨である。四世紀後半頃の奈良・佐紀盾列古墳群の大和六号墳や同(葛城)・島の山古墳が粘土槨(前方部)であることから、古墳時代前期の奈良盆地においても竪穴式石槨にいくつかの種類が見られ、それ以外の埋葬施設もあったことがわかる。
 すなわち奈良盆地内において、すでに古墳時代初期の段階から、同じ竪穴式石槨でも異なる形態のタイプが存在しているということである。

 ただし奈良盆地南部のメスリ山古墳は、主室が直立式板石積竪穴式石槨で、副室が
合掌式竪穴式石槨である。このメスリ山古墳では、主室と副室という時期差、あるいは用途の相異が考えられる。 伊達宗泰氏は、「メスリ山古墳の場合を考えると主室には正常の竪穴式石室、副室に簡略化された石室という構造が認められるのではないか」とされている (一九七七 『メスリ山古墳』奈良県史跡名勝天然記念物調査報告第三五冊)。
 合掌式竪穴式石槨は、メスリ山古墳を除けば、奈良・小泉大塚古墳(全長八〇メートル)、京都・元稲荷古墳(全長九四メートル)、奈良・柳本天神山古墳(全長一一三メートル)、中山大塚古墳(全長一二〇メートル)、同・黒塚古墳(全長一三〇メートル)と畿内の大型主要古墳ではなく、その大半は中・小型前方後円墳の埋葬施設と言える。

五 埋葬施設に見るヤマト政権と九州
畿内の前方後円墳が採用する合掌式竪穴式石槨、直立式割石積竪穴式石槨、直立式板石積竪穴式石槨は、出現期の段階から見られ、階層差や採用する首長層が異なっていることが想定される。
 九州各地の首長層は、埋葬施設の採用に際し、畿内の各首長層と個々に密接な関係を有していたのではないだろうか。
 A合掌式竪穴式石槨の神蔵古墳には、中山大塚古墳や黒塚古墳などの大和・柳本古墳群との関わりを想定させる。このA合掌式竪穴式石槨を有する九州の古墳は、一貴山銚子塚古墳や谷口古墳(合掌式の竪穴系横口式石室)など何れも三角縁神獣鏡を保有していることからも、大和・柳本古墳群との関わりが裏付けられる。
 Bの直立式割石積竪穴式石槨は、久里双水古墳の三世紀末~四世紀前半の築造年代の割石積竪穴式石槨で、椿井大塚山古墳との関わりを想定することも可能であるが、久里双水古墳は、三角縁神獣鏡を保有しておらず、他地域の可能性もあり、現段階では可能性にとどめておきたい。
 四世紀末頃のB直立式割石積竪穴式石槨は、沖出古墳や七夕池古墳、南九州の鹿児
島・唐仁大塚古墳などがある。沖出古墳には割竹形石棺があり、大阪(河内)・安福寺の石棺など河内勢力との関係が想定される (和田晴吾 一九九四 「近畿の刳抜式石棺『古代文化』四六―六)。
南九州の西側沿岸部は四世紀中頃の鳥越一号墳がC直立式板石積竪穴式石槨で、その南に位置する天辰寺前古墳は、板石積石棺墓と竪穴式石槨の折衷形式であり、それより南側では、竪穴式石槨は現在のところ知られてない。
 東側では、畿内と日向の関係は、四世紀中頃以降、河内勢力との密接な関係があったことが指摘される。西都原古墳群の埴輪は、古市古墳群の埴輪工人との関わりを犬木努氏が指摘されていたり(犬木氏教示)、網干善教氏は、墳丘形態から畿内と日向の密接な関係を指摘されている (網干善教 一九八五 「古墳築造よりみた畿内と日向」『関西大学考古学資料室紀要』第2号)。
 そして日向から西方向へ志布志湾の唐仁大塚古墳へ畿内型古墳文化が伝播したことが推測される。
 このように、このB直立式割石積竪穴式石槨は、久里双水古墳、椿井大塚山古墳などから、四世紀末頃には河内勢力との関わりが想定できるのではないだろうか。
 C直立式板石積竪穴式石槨は、三世紀末~四世紀前半の迫ノ上古墳、四世紀後半の向野田古墳で、何れも宇土半島基部に位置し、火君宗家と考えられている地域である。この地域には城ノ越古墳から舶載三角縁神獣鏡一面が出土しており、竪穴式石槨の形状などからも桜井茶臼山古墳など、奈良盆地東南部の勢力と密接な関わりを想定させる。
 また免ヶ平古墳も、先行の大分・赤塚古墳の箱式石棺から舶載三角縁神獣鏡を五面出土しており、宇佐国造本家の累代墓と考えられている。宇土半島基部の火君宗家とともに、初期の段階から奈良盆地東南部の勢力と密接な関わりが想定される。
 経塚山古墳は、経二七メートルの円墳であるものの方格規矩鏡を一面出土しており、東南部勢力との関わりが考えられる。
 D粘土槨は、四世紀中頃の西都原一三号墳、四世紀後半の東郷高塚古墳、山口・仁馬山古墳などがある。うち東郷高塚古墳や仁馬山古墳は、佐紀盾列古墳群の佐紀陵山古墳と相似形の墳丘形態を有していることや、大和六号墳の粘土槨などから奈良盆地北部の佐紀勢力あるいは島の山古墳のある葛城勢力との密接な関わりが想定される。
 このように九州の主な古墳の埋葬施設を見ると、同時期の各々の異なる埋葬施設は、奈良盆地の各々の勢力と九州の各首長層が個々に関わりを持ったために、異なった埋葬施設を採用したことが推察される。
 三世紀後半代には、玄界灘沿岸部に大和・柳本古墳群の勢力、三世紀末~四世紀前半頃には玄界灘沿岸部に山城地域、宇土半島基部には東南部勢力、四世紀中頃には日向に佐紀勢力、四世紀後半頃には、玄界灘沿岸部に東南部勢力、大和・柳本古墳群勢力、佐紀勢力、国東半島と宇土半島基部に東南部勢力、四世紀末頃には玄界灘沿岸部に大和・柳本古墳群勢力、河内勢力、南九州に河内勢力と言ったように、九州各地に奈良盆地などの各勢力が個々に密接に関わっていると思われる。
 それは畿内五大古墳群の消長に見るように、大和・柳本古墳群の勢力は、『前方後円墳集成』編年の1期~4期まで、全期を通じて勢力を維持していることからも、先の九州での関わりを想定される。また佐紀勢力や馬見・葛城勢力は四世紀中頃以降、河内勢力は四世紀後半~末以降に勢力を隆盛にすることからも、南九州の日向・大隅での大型前方後円墳の築造の背景がうかがえるのではないだろうか。
 四世紀後半代に、東郷高塚古墳など新たな首長層が抬頭する背景には、大和六号墳や島の山古墳(前方部)など同じ粘土槨を採用している佐紀勢力や馬見・葛城勢力と新たな関係をもったことが背景にあるのではないだろうか。
 四世紀末の沖出古墳は、割竹形石棺やB直立式割石積竪穴式石槨などから河内勢力との関わりを、また唐仁大塚古墳は、河内勢力と新たな関係を築いたために宮崎・男狭穂塚古墳、女狭穂塚古墳に次ぐ全長一五四メートルの前方後円墳を築き得たのではあるまいか。
 このように九州の同時期における埋葬施設の相異の背景には、九州の各首長層が一律に畿内ヤマト政権と関係をもったのではなく、畿内の各勢力と個々に関係をもち、畿内の各勢力の盛衰ともに九州各地の首長層の盛衰がうかがえるのではないだろうか。
 反対にヤマト政権は、一丸となって九州の各首長層と関係をもったのではなく、ヤマト政権内の各勢力が個々に九州の各首長層と緊密な関係をもとうとしたことがうかがえるのではないだろうか。
               (完)

« 瓢箪山古墳から心合寺山古墳へ | トップページ | 2012年春 塚口先生と「徳島」の古代を探る旅 »